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第21話 はじめまして


 氷室の中は静かだった。


 ぽたり。


 どこかで落ちる水滴の音だけが、小さく石壁へ反響している。


 五人は黙ったまま壁を見上げていた。


 ついさっき見つけた欠片は、確かに元の場所へ戻った。


 けれど何も起きなかった。


 光も。


 音も。


 文字の変化も。


 ただ冷たい空気だけが流れている。


「失敗じゃったんかな」


 あかりが不安そうに呟く。


 その時だった。


「違う」


 みゆが小さな声を上げた。


 全員が振り返る。


 みゆは完成したはずの文字を見つめたまま、そっと上を指差していた。


「まだ足りてない」


 春人たちは慌てて顔を近づける。


 そして気付いた。


 文字の少し上。


 石壁の別の場所にも、小さな欠け跡が残っている。


「あ……」


 春人は思わず声を漏らした。


 本当だった。


 よく見なければ分からないほど小さい。


 けれど確かに欠けている。


「まだあったんか」


 陸が頭を掻いた。


「じゃあ探すしかないな」


 蒼太はもう動き始めていた。


 石積みの隙間を覗き込み、壁際を調べ、床へしゃがみ込む。


 あかりも負けじと反対側へ走る。


「今度こそ見つける!」


 五人は再び氷室の中へ散らばった。


 石壁の根元。


 積み上げられた石の影。


 床の割れ目。


 薄暗い隅。


 今まで見落としていた場所を、一つずつ丁寧に確かめていく。


 ぽたり。


 水滴が落ちる。


 時間だけがゆっくり流れていた。


 十分。


 二十分。


 けれど見つからない。


「ないなぁ……」


 あかりが石の陰から顔を出す。


 額には汗が滲んでいた。


「氷室なのに暑い」


「お前が動き回りすぎなんじゃ」


 陸が笑う。


 けれど、その笑顔も少し引きつっていた。


 本当にあるのだろうか。


 みんな同じことを考え始めていた。


 その時だった。


「待って」


 みゆが声を上げた。


 全員が振り返る。


 みゆは壁際へしゃがみ込み、床と石壁の間にある細い溝を見つめていた。


「ここ」


 春人も駆け寄る。


 暗くてよく見えない。


 けれど。


 奥の方に何か白いものが挟まっていた。


「あった!」


 あかりが叫ぶ。


 陸が腕を突っ込む。


「届かん!」


「どけ」


 蒼太が木の枝を拾ってきた。


 慎重に隙間へ差し込む。


 ごりっ。


 小さな音が響いた。


 白い石片がゆっくり手前へ滑ってくる。


 五人は息を止めた。


 やがて石片が転がり出る。


 掌へ収まるくらいの小さな欠片だった。


 表面には見覚えのある不思議な文字が刻まれている。


 誰も言葉を発しなかった。


 けれど全員が分かっていた。


 これだ。


 きっと。


 これが最後だ。


 五人は壁の前へ集まった。


 欠けていた場所へ石片を近づける。


 形は驚くほどぴたりと一致した。


 春人は息を飲む。


 胸の奥で心臓がどくどく鳴っていた。


 ここまで来て違っていたらどうしよう。


 そんな不安が一瞬だけ頭をよぎる。


 けれど。


 石片は吸い寄せられるように元の場所へ収まろうとしていた。


 春人は両手で石片を支えながら、ゆっくりと押し込んだ。


 かちり。


 小さな音が響く。


 その瞬間だった。


 壁に刻まれた文字が、ふっと青白い光を帯びた。


「え……」


 あかりが声を失う。


 一本の線が光る。


 その隣が光る。


 さらにその先が光る。


 まるで長い眠りから目覚めた何かが、少しずつ呼吸を始めるみたいに。


 青白い光は壁を走り、床へ広がり、天井へ伸びていく。


 五人は動けなかった。


 光は、ゆっくりと集まっていた。


 氷室そのものが目を覚ましていくみたいだった。


 誰も動けない。


 誰も喋れない。


 春人はただ目の前の光景を見つめていた。


 冷たい空気が肌を撫でる。


 胸の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。


 光は氷室の一番奥へ集まっていく。


 長い年月をかけて散らばっていたものが、ようやく元の場所へ戻っていくみたいに。


 揺れる。


 集まる。


 重なる。


 そして。


 そこに輪郭が生まれた。


「……」


 あかりが小さく息を呑む。


 人影だった。


 けれど最初は、それが本当に人なのかどうかも分からない。


 淡い光の塊。


 水面へ映った影のように曖昧な姿。


 輪郭は何度も揺らぎ、そのたびに少しずつ形を整えていく。


 肩。


 腕。


 指先。


 髪。


 春人は無意識に一歩前へ出ていた。


 目が離せなかった。


 長い髪だった。


 氷の糸を束ねたみたいな白銀の髪が、重力を忘れたようにふわりと揺れている。


 その髪の隙間から、透き通るような顔が見えた。


 男の子にも見える。


 女の子にも見える。


 年齢も分からない。


 ただ。


 不思議なくらい綺麗だった。


 綺麗というより。


 透明だった。


 冬の朝、張ったばかりの氷を覗き込んだ時みたいに。


 触れたら消えてしまいそうなほど儚かった。


 やがて。


 閉じられていた瞳がゆっくり開く。


 淡い青だった。


 けれどその奥には、夏の空とも海とも違う深い色が宿っていた。


 何百年も前からそこにある泉を覗き込んだ時みたいな。


 そんな静かな色だった。


 その瞳が。


 五人を見る。


 一人ずつ。


 確かめるように。


 春人。


 蒼太。


 陸。


 みゆ。


 あかり。


 順番に。


 ゆっくりと。


「……」


 誰も喋らない。


 喋れなかった。


 だって。


 本当にいたのだ。


 タブレットの向こう側に。


 氷室の奥に。


 ずっと。


 ずっといた誰かが。


 今。


 目の前にいる。


 その存在は五人を見つめたまま動かなかった。


 まるで自分でも信じられないみたいに。


挿絵(By みてみん)


 そして。


 ほんの少しだけ目を細める。


 その表情を見た瞬間だった。


 春人は胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 笑っている。


 ちゃんと笑っている。


 けれど。


 どこか泣きそうだった。


 嬉しいから笑っているのか。


 寂しかったから笑っているのか。


 春人には分からない。


 ただ。


 ずっと一人だった人が初めて誰かに会えた時の顔なのだと、なぜだかそう思った。


 その時。


 タブレットが光る。


 ――ピコン。


 誰も触っていない。


 それなのに画面には文字が浮かんでいた。


『ありがとう』


 五人は動けなかった。


 目の前の存在からも。


 タブレットからも。


 目が離せなかった。


 そして。


 その存在はゆっくりと口を開く。


 声は不思議だった。


 風が石の隙間を通り抜ける音にも似ていた。


 遠くで鳴る鈴の音にも似ていた。


 男の子とも。


 女の子とも。


 決められない声だった。


「……ほんとうに」


 小さく呟く。


 それから。


 少しだけ笑った。


 泣きそうなくらい優しく。


 嬉しそうに。


「……来てくれた」


 その声が氷室の中へ静かに溶けていく。


 誰も動かなかった。


 いや。


 動けなかった。


 本当にいた。


 春人は何か言おうとした。


 けれど喉がうまく動かない。


 頭の中には聞きたいことが山ほどあった。


 何者なのか。


 どうしてここにいるのか。


 なぜタブレットで話せたのか。


 けれど。


 どの言葉も出てこなかった。


 そんな沈黙を破ったのは、やっぱりあかりだった。


「しゃ……」


 小さな声。


 それから。


「しゃべった!」


 氷室の中へ響き渡る。


 全員がびくりとした。


 もちろん。


 目の前の存在も。


「うわっ」


 あかりが慌てて口を押さえる。


「あ、ごめん!」


 その瞬間だった。


 目の前の存在が、びくりと肩を震わせた。


 春人は思わず目を見開く。


 驚いたのだ。


 向こうも。


 自分たちと同じように。


 その様子があまりにも人間らしくて、妙に現実味があった。


 蒼太も同じことを思ったらしい。


「……普通に驚くんじゃな」


 ぽつりと呟く。


 その言葉に、目の前の存在は少しだけ首を傾げた。


「……ふつう?」


 不思議そうな声だった。


 あかりが思わず吹き出す。


「うわ、本当にしゃべっとる!」


「お前さっきからうるさい」


 陸が肘で小突く。


 けれど自分も笑っていた。


 春人はようやく少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 怖くない。


 そう思った。


 不思議ではある。


 信じられないくらい不思議だ。


 けれど。


 怖くはなかった。


 目の前にいる存在は、まるで初めて学校へ来た転校生みたいに緊張して見えたからだ。


 しばらくして。


 みゆが一歩前へ出た。


 誰よりも静かに。


 誰よりも優しく。


「ずっと……いたの?」


 その問いに。


 存在は少しだけ目を伏せた。


 考えているようだった。


 長い時間を思い出そうとしているみたいに。


「……いた」


 小さな返事。


「ずっと?」


 みゆが重ねて聞く。


 存在はまた少し考える。


 そして。


「……たぶん」


 そう答えた。


 春人は胸の奥が少し痛くなった。


 たぶん。


 ということは。


 自分でも分からないほど長い時間だったのだ。


 季節が何回変わったのか。


 何年経ったのか。


 あるいは何十年なのか。


 そんなことさえ分からなくなるほど。


 一人だったのかもしれない。


 氷室の中へ静かな沈黙が落ちる。


 その沈黙を破ったのは、またしてもあかりだった。


「そういえば!」


 全員が振り向く。


 あかりは目の前の存在を指差した。


「名前は?」


 存在が固まる。


「……なまえ?」


「うん!」


 あかりは大きく頷いた。


「なんていうん?」


 しばらくの沈黙。


 存在は困ったように視線を彷徨わせる。


 そして。


 小さく首を振った。


「……ない」


「えっ」


 あかりが固まる。


「ないん?」


 存在はこくりと頷いた。


 春人たちは顔を見合わせた。


 名前がない。


 そんなことがあるのだろうか。


 けれど。


 目の前の存在は嘘をついているようには見えなかった。


 みゆが小さく呟く。


「じゃあ……」


 あかりの目がぱっと輝いた。


「名前つけよう!」


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