第19話 眠れない夜
林を抜けた瞬間、むわりとした夏の空気が全身へまとわりついてきた。
氷室の中では肌に張りつくようだった冷気も、外へ出た途端にどこかへ逃げてしまったみたいだった。
木々の隙間から差し込む午後の日差しはまだ強く、葉の間ではセミたちが途切れることなく鳴き続けている。
防災無線は鳴ったはずなのに、空は思ったよりずっと明るかった。
まるで今日という日が、まだ終わる気などないと言っているみたいだった。
五人は細い林道を並んで歩く。
けれど、さっきまでみたいに誰かが騒ぎ出すことはなかった。
みんな頭の中がいっぱいだったからだ。
『わからない』
『ここ』
『うん』
たったそれだけの短いやり取りだった。
けれど、そのどれもが妙に胸へ引っ掛かって離れない。
春人は何度もリュックへ視線を向けた。
中にはタブレットが入っている。
今は静かなままだ。
けれど、ほんの少し前まで確かに誰かと話していた。
それも、姿も見えない相手と。
そう思うと、今でも少し現実味がなかった。
やがて木立が途切れ、神社の石段が見えてくる。
鳥居の向こうには、まだ明るい夏の空が広がっていた。
そこで自然と足が止まる。
「じゃあ明日な」
陸が言った。
「昼飯食ったあとくらい?」
「ええよ」
蒼太が頷く。
「絶対来いよ」
「行くわ」
あかりが即答した。
「むしろ来んやつおるん?」
その言葉に、全員が少しだけ笑った。
確かにそうだった。
今日の続きを知りたくない人なんて、一人もいない。
みゆも小さく頷く。
「私も行く」
春人も頷いた。
行かない理由なんてなかった。
むしろ今すぐ氷室へ戻りたいくらいだった。
けれど、さすがにそれは無理だ。
家へ帰れば夕飯があって、宿題があって、お風呂へ入って、またいつも通りの夜になる。
本当なら何も変わらないはずだった。
けれど。
頭の中だけは全然いつも通りじゃなかった。
鳥居の前へ出ると、軽トラックが一台止まっていた。
「あ、おじいちゃん」
みゆが小さく手を振る。
運転席の窓が開き、
「遅うなったなあ」
と、おじいちゃんが笑った。
「ごめん」
「ええよ、ええよ」
みゆは乗り込む前に振り返る。
「また明日ね」
「おう」
「またな」
「気ぃつけて」
みんなが口々に返した。
軽トラックはゆっくりと発進し、田んぼ道の向こうへ走っていく。
陸は自分の家がある方へ歩き出し、蒼太は自転車置き場へ向かった。
あかりだけは最後まで大きく手を振っている。
「明日絶対じゃけんな!」
「分かったって」
春人は思わず笑った。
けれど。
あかりに言われるまでもなかった。
たぶん今夜はみんな同じだ。
夕飯を食べていても。
テレビを見ていても。
お風呂へ入っていても。
布団へ入ったあとでさえ。
頭のどこかでは、ずっと氷室のことを考えてしまう。
あの冷たい石室のことを。
そして。
そこにいるという、見えない誰かのことを。
春人は一人になってから、もう一度だけリュックへ目を向けた。
中のタブレットは静かなままだった。
けれど、その静けさがかえって落ち着かなかった。
もし今。
また『ピコン』と鳴ったらどうしよう。
そう思った瞬間、自分でもおかしくなる。
ついさっきまで少し怖かったはずなのに。
今は、その音を少しだけ待っている自分がいた。
春人は夏の日差しの残る道を歩き出す。
頭の中では、まだあの小さな電子音が鳴り続けていた。
きっと。
今ごろみんなも同じなのだろう。
◇◇◇
その頃。
蒼太は自分の部屋へ飛び込むなり、本棚の前へしゃがみ込んでいた。
「絶対何かあるはずなんじゃ」
ぶつぶつ呟きながら、本を次々と引っ張り出していく。
古代文明。
カタカムナ。
神社。
巨石信仰。
前に興味本位で買ったまま積み上げていた本まで引っ張り出したせいで、机の上はあっという間に紙の山になった。
窓の外ではヒグラシが鳴いている。
いつの間にか西日が傾き始め、部屋の中へ差し込む光も少し赤みを帯びていた。
蒼太は次々とページをめくった。
古代文明の本も、神社の本も、石の信仰について書かれた本も。
けれど、どこを読んでも見つからない。
氷室にいる誰かのことも。
タブレットへ返事を送ってくる存在のことも。
そして――
『わからない』
あの返事の意味も。
何冊読んでも答えは見つからない。
それなのに、不思議と悔しいだけではなかった。
むしろ胸の奥は、じわじわと熱くなっていく。
もし最初から全部の答えが本に書いてあったなら。
こんなに面白くはなかったかもしれない。
蒼太は椅子へもたれながら、机いっぱいに広がった本の山を見渡した。
そして、小さく笑う。
「絶対見つけちゃるけんな」
その声には、少しだけ冒険家みたいな響きが混ざっていた。
◇◇◇
その頃。
陸は家へ帰るなりランドセルを放り出し、まっすぐ台所へ向かった。
夕飯の支度をする音が聞こえる。
鍋の蓋が鳴る音。
味噌汁の匂い。
焼き魚の香ばしい香り。
いつもの夕方だった。
いつもなら腹減ったと騒ぐ時間なのに、今日はどこか落ち着かない。
「兄ちゃん帰っとる?」
冷蔵庫から麦茶を取り出しながら聞く。
「まだじゃ」
母が振り返りもせず答えた。
「なんじゃ」
陸は少しだけ肩を落とした。
聞いてみたかったのだ。
氷室のことを。
あの文字のことを。
兄なら何か知っているかもしれないと思った。
けれど、たぶん違う。
もし聞いたとしても返ってくるのは、
「知らん」
その一言だろう。
麦茶を一気に飲み干しながら窓の外を見る。
田んぼの向こうには丸い山が見えていた。
風が吹くたびに稲が波みたいに揺れている。
生まれた時から見てきた景色だった。
氷室もきっと同じだ。
ずっと昔から、あの林の奥にあった。
けれど。
その中に誰かがいるなんて。
今まで一度も考えたことがなかった。
陸は空になったコップを流しへ置く。
そして、窓の向こうの山を見ながら小さく呟いた。
「明日じゃな」
それは誰かへの言葉というより、自分自身へ言い聞かせるための言葉だった。
◇◇◇
その頃。
軽トラックの助手席では、みゆが窓の外を眺めていた。
夕方の風に揺れる田んぼ。
細く光る用水路。
遠くで青く霞む山並み。
見慣れた景色ばかりだった。
それなのに、今日はどこか違って見える。
「何かあったんか?」
祖父がハンドルを握ったまま聞いた。
みゆは少し迷う。
氷室のことは秘密だ。
五人で決めたことだった。
「ううん」
小さく首を振る。
けれど、その返事だけで祖父は何となく察したらしい。
「考え事しとる顔じゃなあ」
楽しそうに笑った。
みゆは少しだけ頬を膨らませる。
昔からそうだった。
祖父には隠し事があまり通用しない。
窓へ額を寄せながら、みゆは昨日聞いた言葉を思い出していた。
『石にも意味がある』
その時はただの昔話だと思った。
けれど今は違う。
もし本当に石にも意味があるのなら。
あの氷室は何を伝えようとしているのだろう。
見えない誰かは、何を待っていたのだろう。
軽トラックは田んぼ道をゆっくり進んでいく。
遠くの空には大きな入道雲が浮かび、その上だけが夕日に染まり始めていた。
◇◇◇
その頃。
あかりは夕飯の最中だった。
「でな!」
身を乗り出しながら話す。
「でな!」
「箸で人を指すな」
父に注意される。
「あ」
あかりは素直に箸を下ろした。
けれど、口の方は止まらない。
今日あったことを全部話したかった。
本当なら今すぐ誰かに聞いてほしかった。
けれど氷室のことは秘密だ。
だから余計にむずむずする。
「なんか今日は機嫌ええな」
母が笑う。
「別に」
そう答えるものの、自分でも顔が緩んでいるのが分かった。
正直、少しだけ怖かった。
けれど、それ以上に面白かった。
見えない誰か。
氷室。
返事をしてくるタブレット。
全部がまるで冒険物語みたいだった。
夕飯を食べ終わり、お風呂へ入り、布団へ潜り込んでからも、そのわくわくは消えなかった。
暗い天井を見上げる。
『うん』
たった一文字。
なのに思い出すたび胸がどきどきする。
「明日まだかなあ……」
小さく呟く。
もちろん明日になるわけがない。
それでも待ち遠しくて仕方がなかった。
◇◇◇
そして。
春人もまた、自分の部屋にいた。
窓の外では、昼間のセミに代わって夏の虫たちが鳴いている。
机の横にはリュックが置かれていた。
中にはタブレットが入っている。
見なくても分かっている。
それなのに、気付けば何度もそちらへ視線が向いてしまう。
夕飯を食べている時も。
お風呂へ入っている時も。
歯を磨いている時も。
頭のどこかには、ずっと氷室のことがあった。
『わからない』
『ここ』
『うん』
たったそれだけの会話だった。
けれど。
春人には今まで見つけたどんな手掛かりよりも、その短い言葉の方がずっと重たく感じられた。
氷室の奥に広がっていた暗い石室を思い出す。
あの時は誰もいなかった。
少なくとも目には見えなかった。
それなのに。
タブレットには確かに返事が届いた。
『うん』
たった一文字。
けれど、その一文字だけで、あの石室の見え方はすっかり変わってしまっていた。
布団へ潜り込む。
窓から差し込む月明かりが、部屋の隅をぼんやりと照らしていた。
目を閉じると、すぐに氷室の景色が浮かぶ。
冷たい空気。
湿った石の匂い。
青白く光るタブレット。
そして、その向こうにいる見えない誰か。
明日の昼になれば、また話ができるかもしれない。
そう思うだけで胸の奥がそわそわして、なかなか眠気がやって来なかった。
結局。
春人が眠りについたのは、いつもより少し遅い時間だった。
明日が待ち遠しくて仕方なかった。
そしてきっと。
今ごろ眠れないのは、自分だけじゃない。




