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第17話 やっと、きてくれた


ぽたり。


 どこかで水滴が落ちる音がした。


 氷室の中は静まり返っている。


 ついさっきまで、誰が隊長だとか、宇宙人だとか、そんな話で騒いでいたのが嘘みたいだった。


 誰も喋らない。


 誰も動かない。


 ただ、春人の手の中にあるタブレットだけが、青白い光を放っていた。


 その光が石段を照らし、五人の顔をぼんやり浮かび上がらせている。


 春人は画面から目を離せなかった。


 そこに表示されているのは、たった二行の文章だった。


 たった二行。


 それなのに。


 氷室の壁いっぱいに刻まれていたどんな記号よりも、その言葉は強く胸に残った。


『やっと』


『きてくれた』


 まるで。


 ずっと誰かを待っていたみたいな言葉だった。


 春人は小さく息を飲む。


 氷室の空気は冷たいはずなのに、胸の奥だけが妙に熱かった。


 怖いのかと言われれば、少し違う。


 もちろん怖くないわけじゃない。


 だって相手が誰なのか分からない。


 本当に人なのかどうかも分からない。


 けれど。


 その言葉からは、不思議と悪意のようなものは感じなかった。


 それよりも。


 もっと別のものが伝わってくる気がした。


 寂しさ。


 あるいは。


 長い時間、誰かを待ち続けていたような気配。


 春人は知らず知らずのうちに、タブレットを握る手へ力を込めていた。


 その時だった。


「……返事しとる」


 小さく呟いたのは陸だった。


 その一言で。


 止まっていた時間が、少しだけ動き出した。


「じゃろ!?」


 蒼太が勢いよく身を乗り出す。


「じゃから言うたんじゃ!」


「何を」


 あかりが反射的に返した。


「いや、何かおるって!」


「宇宙人って言うたじゃろ」


「宇宙人は言うてない」


「言うた」


「言うてない」


「言うた」


 いつもの言い合いだった。


 けれど。


 どこか声が上ずっている。


 たぶんみんな同じだった。


 平気な顔をしていても、本当は動揺している。


 春人もそうだった。


 みゆだけは何も言わない。


 ただ画面を見つめている。


 長いまつ毛がわずかに震えていた。


「みゆ?」


 春人が声を掛ける。


 みゆは少しだけ考えてから言った。


「……待っとったんかな」


 誰も返事をしなかった。


 その言葉が。


 妙に胸へ残ったからだった。


 待っとったんかな。


 たったそれだけの言葉なのに。


 春人も同じことを考えていた。


 この文章を書いた誰かは。


 本当に。


 ずっと待っていたんだろうか。


 春人はもう一度画面を見る。


『やっと』


『きてくれた』


 その文字は何も変わらず、そこに表示されたままだった。


 誰かのいたずらには見えなかった。


 だからといって説明もつかない。


 学校のタブレットだ。


 知らない相手から勝手にメッセージが届くなんて、本来ならあり得ない。


 けれど。


 今までだって十分あり得なかった。


 氷室でしか現れない記号。


 端末を交換しても消えなかった文字。


 そして今日の、この文章。


 あり得ないことばかりだった。


「なあ」


 陸が言う。


「これ、本当に返事なんかな」


「返事じゃろ」


 蒼太が即答する。


「だって『きてくれた』じゃぞ」


「まあそうじゃけど」


 陸は頭を掻いた。


「誰に向かって言うとるんじゃろ」


 その言葉に。


 全員の視線が自然と春人へ向いた。


「俺?」


 春人が思わず聞き返す。


「だってタブレット春人のじゃし」


 あかりが言う。


「でも俺だけじゃないだろ」


 春人は画面から目を離さず答えた。


「みんなで来とるし」


 それは本心だった。


 もし本当に誰かが待っていたのなら。


 それは自分一人ではない気がする。


 氷室を見つけたのも。


 文字を調べたのも。


 ここまで来たのも。


 全部五人一緒だった。


 みゆが小さく頷いた。


「うん」


「私もそう思う」


 その声は静かだった。


 けれど妙にしっくりきた。


 五人の間に流れる空気が少しだけ柔らかくなる。


 ぽたり。


 また水滴が落ちた。


 冷たい音だった。


 氷室の奥から吹いてくる空気も相変わらずひんやりしている。


 けれど春人は、不思議と寒く感じなかった。


「返事してみる?」


 あかりが言った。


 その瞬間。


 全員が固まる。


 言われるまで考えていなかったわけではない。


 むしろ全員考えていた。


 けれど。


 誰も先に口にできなかった。


「返事って」


 春人が呟く。


「何て?」


「知らん」


 あかりは即答した。


「知らんのかい」


 陸が突っ込む。


「だって分からんじゃん」


「まあな」


 また少しだけ笑いが起きる。


 さっきまで張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


 けれど。


 画面を見れば、すぐに現実へ引き戻される。


『やっと』


『きてくれた』


 そこにある。


 確かにある。


 誰かが送ってきた言葉。


 春人はタブレットを見つめたまま考えた。


 もし返事をしたら。


 本当に向こうから返ってくるんだろうか。


 もし返ってきたら。


 その時、自分たちは何を知ることになるんだろう。


 胸の奥が少しだけ高鳴る。


 怖い。


 でも知りたい。


 その気持ちの方が大きかった。


「……やってみる?」


 春人は小さく言った。


 その言葉に。


 四人の目が一斉に輝いた。


 まるで。


 新しい冒険の入口を見つけたみたいに。


「何て打つ?」


 真っ先に聞いたのはあかりだった。


「知らん」


 春人は正直に答える。


「知らんって」


「だって知らんじゃろ」


「それはそう」


 あかりも納得した。


 誰もこんな状況になったことがない。


 氷室の中で。


 謎の文字を送り続けてきた相手から。


 突然、日本語で返事が来るなんて。


 そんな経験をした小学生なんて、日本中探してもたぶんいない。


「こんにちは?」


 あかりが言う。


「固い」


 蒼太が即座に却下した。


「じゃあ何て打つん」


「うーん……」


 蒼太は腕を組む。


 さっきまで勢いよく喋っていたのに、いざとなると言葉が出てこないらしい。


「宇宙人ですか?」


 ぽつりと陸が言った。


 一瞬だけ静かになる。


 そして。


「それはない」


 全員の意見が一致した。


「なんでじゃ!」


 陸が抗議する。


「最初に聞くことじゃないじゃろ」


 あかりが笑う。


「もし違ったらどうするん」


「知らん」


「知らんのかい」


 また少し笑いが起きた。


 氷室の冷たい空気の中で、その笑い声だけが妙に温かく響く。


 けれど。


 みんなの目は何度も画面へ戻っていた。


『やっと』


『きてくれた』


 その言葉は相変わらずそこにある。


 まるで向こう側で誰かが待っているみたいに。


 春人はタブレットを見つめる。


 何を聞けばいいんだろう。


 何を知りたいんだろう。


 考えれば考えるほど分からなくなる。


 けれど。


 ひとつだけ確かなことがあった。


 みんなが知りたいのは同じことだった。


「……だれ?」


 小さく言ったのは、みゆだった。


 全員が振り向く。


 みゆは少しだけ恥ずかしそうに肩をすくめた。


「だって」


 長いまつ毛が伏せられる。


「それが一番聞きたいじゃろ」


 誰も何も言わなかった。


 けれど。


 その場にいた全員が思った。


 それじゃ。


 その一言で十分だと。


 春人はゆっくりとキーボードを開く。


 指先が少し汗ばんでいた。


 画面の下に文字入力欄が現れる。


 白いカーソルが点滅している。


 まるで。


 向こう側で誰かが待っているみたいだった。


 春人は一文字ずつ打ち込んだ。


『だれ?』


 短い言葉だった。


 たった三文字。


 けれど。


 その三文字を打つだけで、心臓がやけに速くなる。


 送信ボタンの上へ指を置く。


 誰も喋らない。


 氷室の中には水滴の音だけが響いていた。


 ぽたり。


 春人は四人を見た。


 陸が頷く。


 蒼太も頷く。


 あかりは少し緊張した顔で見つめている。


 みゆも静かに頷いた。


 春人は息を吸う。


 そして。


 送信ボタンを押した。


 ぴっ。


 小さな電子音が鳴る。


『だれ?』


 送信済みの表示が画面へ現れた。


 それだけだった。


 五人は固まる。


 誰も喋らない。


 ただ画面だけを見つめていた。


 ぽたり。


 どこかで水滴が落ちる。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 返事は来ない。


「……あれ?」


 あかりが小さく言った。


「すぐ来るわけじゃないんじゃろ」


 蒼太が言う。


 けれど、その声には自信がなかった。


 春人も少しだけ肩の力を抜く。


 そうだ。


 返事が来ただけでも十分だ。


 また今度かもしれない。


 そう思った、その時だった。


 ――ピコン。


 五人全員が同時に顔を上げた。


 タブレットの通知ランプが、小さく光っていた。

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