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いにしえのことのは ー空に近い町のひみつー  作者: くいたん


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112/114

第111話 伊勢の夜


 宿へ着いた頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。


 長い一日だった。


 朝、甘岩を出発し。


 伊勢へ来て。


 鏡石で歌い。


 氷色と、あねさまを見送り。


 そして今。


 五人は同じ部屋へ通されていた。


 畳の匂いがする。


 窓の外では、ヒグラシが一日の終わりを告げていた。


「……広」


 陸が部屋を見回す。


 畳いっぱいに布団が五組並べられている。


「ほんまに泊まるんじゃな」


「今さら?」


 あかりが笑う。


 いつもなら。


 こういう時はもっと騒ぐ。


 布団へ飛び込んだり。


 枕を投げたり。


 誰がどこで寝るかでもめたり。


 けれど今日は違った。


 誰も、大きな声を出さない。


 春人は荷物を置き、窓を開けた。


 夕暮れの風が、そっと部屋へ流れ込む。


 伊勢の森が、静かに揺れていた。


 その風は、どこか鏡石の森を思い出させた。


「……終わったんじゃな」


 陸がぽつりと言う。


 誰もすぐには返事をしない。


 蒼太は座布団へ腰を下ろし、ノートを開いた。


 ページには、今日まで書き続けてきた文字が並んでいる。


 歌。


 言葉。


 石。


 氷色。


 何ページにもわたる記録。


 蒼太は、その最後のページへ小さく書いた。


 『還る』


 それだけだった。


「終わり?」


 春人が聞く。


 蒼太は少し考えてから首を振る。


「違う」


「ここまで、じゃ」


 そう言ってノートを閉じた。


 みゆは、その言葉に静かにうなずく。


「続きは」


「わたしたち」


 春人も笑う。


「うん」


 そうなのかもしれない。


 氷色は還った。


 でも。


 物語は終わっていない。


 今度は自分たちが受け継いでいく番なのだ。


 その時。


 お腹が鳴った。


「……」


 一瞬の静寂。


 次の瞬間。


 あかりが吹き出した。


「陸!」


「違う!」


 陸が慌てて否定する。


「今のはわしじゃない!」


「絶対陸じゃ」


「違うって!」


 みゆまで笑い始める。


 春人も。


 蒼太も。


 つられて笑った。


 部屋いっぱいに笑い声が広がる。


 その笑い声を聞きながら。


 春人はふと思った。


 氷色も。


 きっと。


 どこかで笑っている。


 夕食は、宿らしい料理がずらりと並んでいた。


 焼き魚。


 茶碗蒸し。


 伊勢うどん。


 湯気の立つ味噌汁。


「いただきます」


 五人は声をそろえる。


「伊勢うどん、やわらか」


 あかりが目を丸くする。


「ほんまじゃ」


 陸も箸で持ち上げながら笑う。


「甘岩と全然違う」


 春人も一口食べて笑った。


「でも、おいしい」


 蒼太は黙々と食べていた。


 その横で、みゆが小さく笑う。


「今日は静か」


「腹減っとる」


 蒼太はそれだけ言って、また箸を動かした。


 みんなが笑う。


 さっきまで鏡石で泣いていたことが嘘みたいだった。


 人は泣いても、お腹は空くらしい。


 それが少しおかしくて。


 少し安心した。


     ◇


 部屋へ戻ると、窓の外は、すっかり夜になっている。


 昼間とは違う虫の声が、静かに響いていた。


「風呂、一番最後じゃ」


 陸が畳へ寝転ぶ。


「動けん」


「まだ寝るな」


 あかりが笑いながら座布団を投げる。


「いてっ」


「まだ八時じゃぞ」


「分かっとる」


 陸は笑いながら起き上がった。


 その様子を見て、春人も笑う。


 こんな時間を、みんなと過ごすのは初めてだった。


 修学旅行とも違う。


 林間学校とも違う。


 今日は、誰にも話せない秘密を抱えたまま迎える夜だった。


 だからなのか。


 みんなが近くにいるだけで、不思議と安心できた。


     ◇


 夜、部屋の明かりが消える。


 窓から差し込む月明かりだけが、畳を淡く照らしていた。


 誰も、すぐには眠らなかった。


「……なあ」


 陸が小さな声で言う。


「うん?」


 春人が返事をする。


「夢じゃったら、おもろいな」


 静かな笑いが漏れる。


「長すぎる夢じゃ」


 蒼太が言った。


「しかも全員同じ夢」


「それはないじゃろ」


 あかりがくすっと笑う。


 少し間が空く。


 虫の声だけが聞こえる。


 その静けさの中で、みゆがぽつりとつぶやいた。


「……でも」


「夢でも」


「会えてよかった」


 誰も返事をしなかった。


 返事はいらなかった。


 その言葉は、みんなの気持ちでもあったから。


 春人は天井を見つめる。


 氷色。


 あねさま。


 黒崎。


 杉谷。


 この夏に出会った、たくさんの人たち。


 全部が胸の中で、ゆっくりと一つにつながっていく。


 目を閉じる。


 すると。


 耳の奥で、あの歌が聞こえた気がした。


 アー……。


 思わず目を開ける。


 部屋は静かだった。


 誰も歌っていない。


 風が、窓の外の木々を揺らしただけだった。


 春人は、小さく笑う。


「……おやすみ」


 その声に。


「おやすみ」


 陸が返す。


「おやすみ」


 あかりも。


「おやすみ」


 みゆも。


「……おやすみ」


 蒼太も、小さくつぶやいた。


 夏の夜は、静かに更けていった。


     ◇


 翌朝。


 障子の向こうが、少しずつ白んでいく。


 遠くから鳥の声が聞こえた。


 春人はゆっくり目を開ける。


 知らない天井。


 ……そうだ。


 伊勢だった。


 体を起こすと、窓から朝の光が差し込んでいる。


 部屋の中はまだ静かだった。


 陸は大の字になって寝ている。


 あかりは布団を蹴飛ばしていた。


 みゆはきちんと布団をかぶったまま、小さく寝息を立てている。


 蒼太だけが、もう起きていた。


 窓際へ座り、外を見ている。


「早いな」


 春人が小さな声で言う。


 蒼太は振り返らずに答えた。


「目が覚めた」


 しばらく二人で朝の景色を眺める。


 伊勢の森は、朝霧の向こうで静かに息づいていた。


「……なあ」


 蒼太がぽつりと言う。



「氷色」


「もう会えんのかな」


 春人は少しだけ笑った。


「会い方が」


「変わっただけだよ」


 蒼太は春人を見る。


 春人は胸へ手を当てる。


「つながってる」


 蒼太は少しだけ笑った。


「じゃな」


 それだけで十分だった。


 二人はもう、それ以上は話さなかった。


 言葉にしなくても分かることが、昨日までより少し増えた気がした。


     ◇


「おーい」


 廊下から元気な声が聞こえる。


「朝飯じゃぞー」


 黒崎だった。


 陸が飛び起きる。


「飯!」


「そこだけ早い」


 あかりが笑う。


 みゆも目をこすりながら起き上がる。


 部屋は一気にいつもの空気へ戻った。


 歯を磨いて。


 顔を洗って。


 布団を片付ける。


 昨日まで世界の行く末を歌っていた五人が、今は「タオルどこ?」「それ僕の歯ブラシ!」なんて言い合っている。


 その何気ないやり取りが、おかしくて。


 春人は思わず笑った。


 あねさまが言っていた。


 人を思う心は、消えない。


 それはきっと。


 こういう、何気ない毎日の中にもあるのだ。


     ◇


 宿を出る前。


 春人は一人だけ、少し足を止めた。


 旅館の前から、伊勢の森を振り返る。


 朝の光が木々を照らしていた。


 風が吹く。


 葉がさらさらと揺れる。


 その音が、一瞬だけ。


 あの歌のように聞こえた。


 春人は小さく笑う。


「またね」


 返事はない。


 けれど。


 風がもう一度だけ、やさしく頬をなでた。


 春人は前を向く。


「春人!」


 陸が手を振っていた。


「置いていくぞー!」


「今行く!」


 春人は駆け出す。


 四人の待つ方へ。


 その背中を。


 夏の風が、いつまでもやさしく押していた。


 歌は終わった。


 けれど。


 言の葉は、これからも人の心に生き続ける。

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