第110話 還る
森は静かだった。
沢のせせらぎ。
葉のこすれる音。
遠くで鳴く鳥の声。
まるで何事もなかったかのように、いつもの夏がそこにある。
氷色は空を見上げた。
青い空。
白い雲が、ゆっくりと流れていく。
「……きれい」
その一言は、小さな子どものようだった。
春人は、その横顔を見つめる。
氷室で初めて会った頃とは違う。
寂しそうだった瞳は、もうどこにもなかった。
代わりにあるのは、満たされたような、穏やかな笑顔だった。
あねさまが静かに歩み寄る。
「氷色」
「はい」
「時が来ました」
氷色は、小さくうなずいた。
その言葉の意味を、もう理解しているようだった。
春人は思わず一歩前へ出る。
「……還るの?」
あねさまは春人を見る。
金色の瞳が、やさしく微笑んだ。
「はい」
「けれど」
「いなくなるわけではありません」
五人は顔を上げる。
蒼太が静かに尋ねた。
「どういうことですか」
あねさまは鏡石へ目を向ける。
白い岩肌は、もう何も映していない。
「人は」
「誰かを思います」
「祈ります」
「願います」
「その思いは、消えません」
森を吹き抜けた風が、木々を揺らした。
「積み重なったその思いは」
「時に」
「わたしたちのような命として」
「姿を持つことがあります」
春人は、息をのむ。
その言葉は、どこかで聞いた気がした。
いや。
ずっと、この旅で感じ続けてきたことだった。
「わたしたちは」
あねさまは、氷色の肩へそっと手を置く。
「その思いが形になって生まれた命です」
氷色は静かにうなずく。
春人たちを見つめながら、小さく笑った。
「だから」
「還っても」
「なくならない」
みゆが、胸へノートを抱きしめた。
「じゃあ」
「忘れなかったら……」
氷色は、うれしそうにうなずく。
「うん」
「つながってる」
その一言に。
春人の胸が熱くなる。
蒼太も、小さく笑った。
「そういうことか」
「磐座は」
「石のつながりじゃない」
「思いのつながりなんじゃ」
あねさまは、静かにうなずいた。
「はい」
「石は」
「人が思いを託す場所」
「本当につながっているのは」
「人の心です」
風が吹く。
木漏れ日が、二人をやさしく包んだ。
氷色は春人たち五人を見る。
「わたし」
「ひとりじゃなかった」
春人は笑う。
「うん」
「僕たちも」
「ひとりじゃなかった」
陸もうなずく。
「これからもじゃ」
あかりが笑う。
「忘れるわけないじゃん」
みゆは胸へ手を当てた。
「ずっと」
「覚えてる」
蒼太は照れくさそうに鼻をこする。
「分からんことがあったら」
「また考える」
氷色は思わず吹き出した。
「うん」
「蒼太らしい」
みんなも笑う。
その笑い声が、森へ広がっていった。
あねさまは、静かに手を差し伸べる。
「行きましょう」
氷色は、その手を見つめる。
少しだけ。
本当に少しだけ。
春人たちの方を振り返った。
五人の笑顔があった。
泣いている者もいた。
笑っている者もいた。
その全部を見て。
氷色は、今までで一番やさしい笑顔になった。
「ありがとう」
その小さな手が。
あねさまの手へ、そっと重なる。
その瞬間だった。
二人の身体は光にならなかった。
消えもしなかった。
ただ。
夏の風の中へ、静かに溶けるように輪郭が薄れていく。
金色の光。
青白い光。
二つの光は、やがて一つになり。
森を吹き抜ける風へ乗っていった。
木々が揺れる。
沢が歌う。
鳥が飛び立つ。
そのどれもが。
二人を見送っているようだった。
春人は胸へ手を当てる。
そこには、まだ温もりが残っていた。
見えなくなっても。
聞こえなくなっても。
不思議と寂しくはなかった。
春人には分かった。
氷色は。
あねさまは。
どこか遠くへ行ってしまったのではない。
人を思う心がある限り。
言葉が受け継がれていく限り。
歌が響いていく限り。
これからも、ずっと。
つながっている。




