第109話 待ってた
風は、もう穏やかだった。
森には、いつもの夏の音が戻っている。
沢のせせらぎ。
葉のこすれる音。
遠くで鳴く鳥の声。
何も変わっていない。
それなのに。
春人たちは、もう何もかもが変わってしまったような、不思議な感覚に包まれていた。
胸の奥に残る余韻が、まだ消えない。
さっきまで確かにそこにあったものが、静かに遠ざかっていくような、そんな感覚。
それはまるで、強く握りしめていた手をゆっくりと開いたあとに残る、じんとした温もりのようで、同時に、そこにあったはずの重みが消えてしまった空虚さでもあった。
春人の胸の内側では、何かがほどけていくような安堵と、ほどけたことでむき出しになった柔らかな部分が風に触れるような、くすぐったくも心細い感覚が入り混じっていた。
氷色は、空を見上げていた。
青く澄んだ空。
どこまでも続いていくような、広がり。
その広さは、これまで閉ざされていた時間の反動のように、胸の奥まで一気に流れ込んでくるようだった。
やがて、小さく笑う。
「終わったね」
その声は、どこかほっとしたようで、少しだけ寂しさも混じっていた。
長く張りつめていた糸がようやく緩んだときのように、氷色の肩から力が抜けているのが分かる。
けれど同時に、その糸が支えていたものが消えたことで、胸の奥にぽっかりと空いた空間に、ひんやりとした風が吹き込んでいるようでもあった。
春人は氷色の隣へ歩いていく。
一歩一歩、確かめるように。
この時間が、本当に現実なのかを確かめるように。
足裏に伝わる土の感触がやけに鮮明で、踏みしめるたびに「ここにいる」という実感がじわりと広がる。
「……氷色」
陸たちは、自然とその場へ立ち止まっていた。
誰も、春人について行こうとはしない。
言葉にはできなかった。
これはきっと。
春人と氷色が、最後に話す時間なのだと。
蒼太は静かにノートを閉じる。
あかりは胸の前で手を組み。
みゆは、小さく微笑んだ。
陸だけが照れくさそうに鼻をこすりながら、小さくつぶやく。
「……行ってこい」
名前を呼ぶだけで、胸が熱くなる。
喉の奥が少し詰まるような感覚と一緒に、その名前が体の内側を通っていく。
氷色は振り向いた。
その瞳は、以前よりもずっと柔らかくなっていた。
氷のように澄んでいたはずのその色が、今はどこか水のように揺らいで見える。
「最初に会った時さ」
春人は言葉を選びながら続ける。
胸の奥にあるものを、壊さないようにそっと取り出すように。
「あの氷室で」
「『待ってた』って言ったよね」
氷色は静かにうなずく。
「うん」
短い返事。
けれど、その一言に込められた時間の重みを、春人は感じていた。
それは、ただの言葉ではなく、長い間胸の奥に沈められていたものが、ようやく水面に浮かび上がってきたような響きだった。
「あれって」
少しだけ息を吸い込む。
肺の奥まで空気を入れて、言葉を押し出すように。
「僕たちが来ること?」
氷色は少しだけ首をかしげた。
考えるように、遠くを見る。
その視線は、今ではなく、もっと長い時間の中をたどっているようだった。
「半分」
「半分?」
春人は思わず聞き返す。
氷色はゆっくりと言葉を紡ぐ。
一つひとつ、確かめるように。
「歌も」
「待ってた」
その言葉に、春人の胸がきゅっと締めつけられる。
胸の奥を細い糸で引かれるような、痛みに近い感覚。
あの歌。
ずっと、誰にも届かずにいた歌。
閉ざされた場所で、何度も何度も繰り返されていたであろう旋律が、春人の中でかすかに響く。
「でも」
氷色は五人を順番に見つめる。
一人ひとりの顔を、確かめるように。
その視線は、とても優しかった。
触れれば壊れてしまいそうなものを、そっと包み込むような優しさ。
「みんなを」
その一言に、五人は息をのむ。
言葉にならない何かが、胸の奥で広がっていく。
それは温かく、同時に少しだけ痛い。
「ひとりじゃ」
氷色は少しだけ目を伏せる。
まぶたの裏に、これまでの時間がよぎるように。
「できなかった」
その声は、かすかに震えていた。
長く押し殺してきたものが、ようやく外に触れたときのような震え。
「歌も」
「約束も」
「世界へ返すことも」
一つひとつ、確かめるように言葉を重ねる。
そのたびに、胸の奥に積もっていたものが少しずつほどけていくようだった。
そのすべてが、どれほど重かったのか。
どれほど長い時間、抱え続けてきたのか。
春人には、完全には分からない。
けれど。
その一端だけでも、感じ取ることはできた。
それは、冷たい水の中に長く沈んでいた手を引き上げたときのような、じんとした痛みと温もりが同時に押し寄せる感覚に似ていた。
氷色は少し照れくさそうに笑う。
ほんの少しだけ、肩の力が抜けたような笑顔。
その笑顔は、長い間固く閉じていた扉が、きしむ音を立てながらゆっくりと開いたあとの、静かな光のようだった。
「だから」
小さく息を吐く。
その吐息には、これまで抱えていたものが少しだけ混じっているように感じられた。
「待ってた」
その言葉は、とても静かで。
けれど、確かに心に届いた。
春人は胸の奥が熱くなる。
じわじわと広がるその熱は、心臓の鼓動と一緒に全身へと伝わっていく。
あの日。
氷室で聞いた「待ってた」。
あの時は、ただ不思議な言葉だった。
意味も分からず、ただ耳に残っただけの言葉。
でも今は違う。
その一言の中に、どれだけの時間と想いが込められていたのか。
ようやく分かった気がした。
胸の奥で何かがほどけ、同時に何かがしっかりと結び直されるような感覚があった。
あねさまは静かに二人を見つめていた。
その視線は、どこか遠くを見ているようでもあり、すべてを見守っているようでもあった。
やがて氷色のそばへ歩み寄る。
一歩一歩、ゆっくりと。
「あなたは」
穏やかな声。
「本当によく待ちましたね」
その言葉には、労わりと、敬意と、ほんの少しの誇らしさが込められていた。
少しの沈黙が流れる。
誰も何も言わない。
けれど、その沈黙は決して重くはなかった。
むしろ、言葉では触れきれないものを、そっと包み込むような静けさだった。
夏の風が、三人の間をやさしく通り抜けた。
葉が揺れ、光がきらめく。
その風は、肌に触れるたびに、ここにいるという確かな感覚を運んでくる。
氷色は空を見上げる。
まぶしそうに目を細める。
そして、小さく笑った。
「……ううん」
首を横に振る。
「信じてた」
その言葉は、とても自然だった。
無理に言い聞かせたものではなく、長い時間の中で静かに育ってきた確信のように。
「きっと」
少しだけ間を置く。
「来てくれるって」
その声には、迷いがなかった。
ただ、まっすぐな確信だけがあった。
その確信は、暗い場所で灯し続けてきた小さな火のように、消えずに残っていたものだった。
その笑顔は、春人が初めて氷室で見た笑顔より、ずっと穏やかだった。
あの時の笑顔は、どこか張りつめていて、壊れそうで。
でも今は違う。
柔らかくて、あたたかくて。
ようやく、心から笑えているように見えた。
その変化を見ているだけで、春人の胸の奥がじんわりと満たされていく。
あねさまも、静かに微笑む。
その微笑みは、すべてを受け入れるような、深いものだった。
「そうですか」
ただ、その一言だけだった。
けれど。
その一言の中に、言葉にしきれないほどの想いが込められていた。
長い時間。
積み重ねてきたもの。
失われたもの。
そして、取り戻したもの。
二人には、それだけで十分だった。
春人は、そっと一歩下がった。
氷色は春人へ小さくうなずく。
そして今度は、蒼太の前へ歩いていった。
「蒼太」
蒼太は照れくさそうに笑う。
「なんじゃ」
氷色は少し首をかしげた。
「歌」
「分かった」
「いっしょに」
「見つけてくれて」
「ありがとう」
蒼太は鼻で小さく笑った。
「……まだ」
「分からんことは、いっぱいある」
少しだけ鏡石を見る。
「でも」
「それでええ」
氷色もうれしそうに笑った。
「うん」
次に、みゆの前へ立つ。
「みゆ」
みゆは静かに目を合わせる。
「うん」
「ことば」
「のこしてくれて」
「ありがとう」
みゆは抱えていたノートを、そっと胸へ寄せた。
「忘れない」
「みんなにも、伝える」
氷色は、ゆっくりとうなずいた。
今度は、あかりの前へ。
あかりは笑おうとした。
けれど、少しだけ声が震える。
「そんな顔したらさ」
「泣くじゃん」
氷色は不思議そうに首をかしげる。
「泣いてる?」
あかりは慌てて目をこする。
「泣いてないし」
そう言ったそばから、涙が一粒こぼれた。
氷色は小さく笑う。
「うれしい涙」
「おぼえた」
あかりも笑った。
「そう」
「それ」
「正解」
最後に、陸の前へ立つ。
陸は照れくさそうに目をそらした。
「なんじゃ」
氷色は、ただ笑う。
「陸」
「ありがとう」
陸は頭をかく。
「礼なんか言うな」
少しだけ間があく。
照れくさそうに笑って言った。
「……友達じゃろ」
氷色は、何度も何度もうなずいた。
「うん」
「友達」
そして、もう一度。
五人の前へ戻る。
一人ずつ、その顔を見つめる。
春人。
蒼太。
みゆ。
あかり。
陸。
どの顔も、初めて会った頃とは違っていた。
氷色は胸へ手を当てる。
そして、ゆっくり笑った。
「ありがとう」
「待てて」
「よかった」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
春人の目に涙がにじむ。
蒼太は照れくさそうに空を見上げる。
みゆはノートを抱きしめた。
あかりは涙をぬぐいながら笑う。
陸は鼻をすすって、小さく笑った。
「わしらもじゃ」
その一言に。
五人は、そろってうなずいた。
夏の風が。
六人の間を、やさしく吹き抜けた。




