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いにしえのことのは ー空に近い町のひみつー  作者: くいたん


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第108話 世界へ


 誰も、動かなかった。


 鏡石は静かだった。


 白い岩肌は、さっきまで世界を映していたことなど信じられないほど穏やかで、木漏れ日だけを受け止めている。


 風が葉を揺らすたび、光と影が岩肌をゆっくりと流れていった。


 春人は、そっとタブレットを見つめた。


 黒い画面。


 何も映っていない。


 さっきまで何度も文字を浮かべていた画面は、役目を終えたように静まり返っていた。


「……終わったんかな」


 陸が、小さくつぶやく。


 その声は森へ吸い込まれ、すぐに沢のせせらぎへ溶けていった。


 その時だった。


 タブレットが、ふわりと淡い青白い光を放った。


「!」


 春人が息をのむ。


 画面いっぱいに満ちた光は、まるで朝霧が水面から立ち上るように静かにあふれ出す。


 光は画面の縁を越え、やさしく揺れながら空気へ溶け込み、五人の前でゆっくりと集まり始めた。


「春人……」


 みゆが思わず声を漏らす。


 光は少しずつ輪郭を持つ。


 小さな手。


 透き通る身体。


 風に溶けそうな銀色の髪。


 澄み切った湖のような瞳。


 何度も氷室で会ってきた、小さな命。


「氷色……」


 氷色は五人を見回した。


 その表情は、初めて会った頃のどこか寂しげな笑顔ではない。


 胸の奥から自然にこぼれたような、やわらかな笑顔だった。


「やっと」


「みんなの隣へ来られた」


 春人は思わず一歩前へ出る。


「本当に……」


「本当に出てきた」


 氷色は小さくうなずく。


「今日だけ」


「境界が、開いてる」


 その言葉と同時に。


 鏡石の向こうで、金色の光が静かに揺れた。


 木漏れ日とは違う。


 夕焼けとも違う。


 どこか懐かしく、見る者の心を静かに包み込むような光だった。


 その光の中から、一人の女性がゆっくりと歩み出てくる。


 白い衣が風に揺れる。


 長く美しい黒髪が背中を流れ、木漏れ日を受けた金色の瞳が静かに五人を見つめていた。






「あねさま……」


挿絵(By みてみん)




 五人は自然と頭を下げる。


 あねさまは穏やかに微笑んだ。


「ここまで、本当によく来ました」


 その声は、森そのものが語りかけてくるようにやさしかった。


 氷色は、あねさまの前へ歩いていく。


 そして深く頭を下げる。


「あねさま」


 あねさまは何も言わず、氷色の頭へそっと手を置いた。


 その指先は光なのに、不思議と温もりまで伝わってくるようだった。


「長い間」


「よく待っていましたね」


 氷色はゆっくりと顔を上げる。


 その瞳には、小さな涙が光っていた。


「ひとりじゃ、なかった」


「みんなが、来てくれた」


 あねさまは静かに五人へ向き直る。


「ここから先は」


「あなたたちです」


 鏡石の白い岩肌が、水面のようにゆっくりと揺らぎ始める。


 その奥から現れたのは、歌を受け継いできた人々だった。


 古代の人々。


 その次の時代。


 さらにその次の時代。


 時代を越えて重なり合う無数の人影。


 衣は違う。


 髪形も違う。


 生きた時代も違う。


 それでも、その瞳だけは同じ優しさをたたえていた。


 氷色が、胸へそっと手を当てる。


 その瞬間だった。


 鏡石の向こうにいるすべての人々が、一斉に胸へ手を当てた。


 春人たちも。


 あねさまも。


 誰に言われるでもなく、自然と胸へ手を当てていた。


 森を吹き抜ける風が止まる。


 世界が、静かに息をひそめた。


 誰も合図はしない。


 それでも。


 その時が来たことを、みんな知っていた。


「アー……」


 最初に響いたのは、五人の歌だった。


 澄んだ歌声は木々を渡り、沢を越え、白い鏡石へ届く。


 その瞬間。


 鏡石の向こうから、幾千もの歌声が重なった。


 一人の声。


 十人の声。


 百人の声。


 千年を越えて受け継がれた、数えきれない命の歌。


 今と昔。


 境界のこちらと向こう。


 すべての歌が、一つになった。


 歌う人々の胸から、小さな光が生まれる。


 春人から。


 陸から。


 あかりから。


 みゆから。


 蒼太から。


 氷色から。


 あねさまから。


 そして、鏡石の向こうにいるすべての人々から。


 無数の光は、蛍のように空へ舞い上がる。


 やがて一つひとつが細い光の糸となり、山を越え、海を越え、空の果てへと静かに広がっていった。


 まるで世界そのものを、やさしく結び直していくように。


 氷色が、小さくつぶやく。


「帰っていく……」


 あねさまは静かにうなずいた。


「歌ではありません」


「祈りです」


「人を思う心は」


「また、人へ届くのです」


 最後の歌声が、夏の空へ静かに溶けていく。


 風が、やさしく吹いた。


 木々がそっと揺れる。


 鳥が一羽、青い空へ飛び立つ。


 そして。


 鏡石は再び、何事もなかったかのような白い岩へ戻っていた。


 氷色は小さく笑う。


「終わってないよ」


 五人が顔を上げる。


「歌は終わらない」


「人がいるかぎり」


「誰かを思う心があるかぎり」


「ずっと続いていく」


 あねさまも静かに微笑んだ。


「今日、返したものは」


「人を思う心です」


「だから」


「これから先も」


「歌は、生き続けます」


 その言葉が森へ静かに溶けていく。


 誰も、すぐには動けなかった。


 沢のせせらぎだけが変わらず流れ。


 木漏れ日が、鏡石をやさしく照らしている。


 春人は、そっと氷色を見た。


 氷色は夏の空を見上げていた。


 その横顔は、ほっとしたようで。


 少しだけ、寂しそうだった。

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