第107話 祈りの記憶
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
鏡石は、再びただの白い岩へ戻っている。
さっきまでの揺らぎが、まるで夢だったかのようだった。
「……終わったん?」
陸がぽつりと言う。
春人は首を振った。
「いや」
「氷色が、『まだ足りない』って」
タブレットを見つめる。
画面は静かなままだ。
もう文字は浮かんでこない。
「何が足りんのじゃろ」
あかりが腕を組む。
蒼太は鏡石から目を離さない。
「歌は歌った」
「五人そろっとる」
「場所も合っとる」
「じゃあ、何が……」
黒崎が静かに近づいてきた。
「どうじゃ」
「何か分かったか」
春人は少し迷ってから答えた。
「鏡石は、歌を映していました」
「でも、それだけじゃ足りないみたいです」
黒崎は小さくうなずく。
「なるほどな」
それ以上は聞かなかった。
五人だけの話だと分かっているのだろう。
杉谷は鏡石を見上げながら言う。
「鏡いうもんは、不思議じゃな」
「見ようと思わんかったら、何も映らん」
その一言に、蒼太がはっと顔を上げた。
「見ようと思わんかったら……」
ぶつぶつと何かをつぶやき始める。
「おい」
陸が笑う。
「また始まった」
「静かに」
蒼太は真剣な顔のままだった。
「考えよる」
みゆはもう一度、鏡石へ目を向けた。
そこには、自分たちの姿が映っている。
今度は、いつもの自分たちの顔だった。
「さっきだけだった……」
小さくつぶやく。
春人も岩肌を見る。
もう笑顔は映っていない。
ただ、自分たちが立っているだけだ。
その時だった。
タブレットが、もう一度だけ震えた。
全員が画面を見る。
ゆっくりと、一文字ずつ浮かび上がる。
『こころ』
続いて、
『ひとつ』
そして最後に、
『もういちど』
文字は、それだけだった。
ふっと光が消える。
蒼太が息をのむ。
「そういうことか……」
「分かったん?」
あかりが聞く。
蒼太はゆっくりとうなずいた。
「さっきは」
「みんな一緒に歌った」
「でも」
「みんな、同じことを思って歌っとったわけじゃない」
春人は思い返す。
自分は、氷色のことを考えていた。
陸は楽しそうに歌っていた。
あかりは、ただ歌が届けばいいと思っていた。
みゆは静かに目を閉じていた。
そして蒼太は、歌の意味ばかり考えていた。
「五人とも」
みゆが静かに言う。
「違うことを思ってた」
蒼太は大きくうなずく。
「鏡石は」
「歌じゃない」
「心を映す」
「じゃけぇ」
「心も、一つにならんといけんのじゃ」
森を吹き抜ける風が、ふわりと五人の間を通り過ぎた。
まるで、その答えを静かに受け止めるように。
五人の間に、静かな時間が流れた。
誰も、すぐには歌い始めようとはしなかった。
さっきまでなら、すぐにもう一回歌っていたかもしれない。
けれど今は違う。
「心を、一つに……」
春人が小さくつぶやく。
「それって、どうすればええんじゃ」
陸が頭をかく。
「みんな同じこと考えるん?」
蒼太は首を横に振った。
「たぶん、違う」
「じゃあ何なん」
あかりが聞く。
蒼太は少し考え込む。
「分からん」
「でも」
「同じ気持ち、なんじゃないかな」
みゆが鏡石を見つめたまま口を開いた。
「氷色」
みんなが振り向く。
「氷色は、何を願ってた?」
春人は、あの小さな光を思い浮かべた。
初めて出会った日。
名前をもらった日。
歌を思い出した日。
そして、あねさまと再会できた日。
氷色は一度も、自分のために何かを望んではいなかった。
「……みんなに」
春人がゆっくりと言う。
「歌を届けたかった」
みゆは静かにうなずいた。
「うん」
「つながりたかった」
あかりも続ける。
「誰かに勝ちたいとか」
「有名になりたいとか」
「そういう歌じゃないもんね」
陸が照れくさそうに笑う。
「みんなが笑っとる方がええ」
ぽつりと言ったその一言に、春人は思わず陸を見た。
「わし、それで十分じゃ」
蒼太は目を閉じた。
「……そうか」
ゆっくり息を吐く。
「歌そのものじゃなかった」
「歌に込める願いじゃ」
その瞬間。
春人のリュックの中で、タブレットが小さく震えた。
全員が息をのむ。
画面には、たった一行だけ文字が浮かんでいた。
『そう』
その下へ、もう一文字ずつ続いていく。
『いのる』
『こころ』
氷色からの言葉は、それだけだった。
春人は画面を見つめながら、小さく笑った。
「分かった」
「今度は」
「ちゃんと歌える」
五人は鏡石へ向き直る。
さっきと同じ場所。
同じ歌。
けれど今度は、胸の中にあるものが少しだけ違っていた。
春人は深く息を吸った。
五人はもう一度、鏡石の前へ並ぶ。
今度は誰も歌の意味を考えなかった。
ただ一つ。
氷色が願っていたこと。
あねさまが託したこと。
その思いだけを胸に抱く。
春人がうなずく。
四人もうなずき返した。
静かな森へ、歌が響き始める。
「アー……」
五人の声が重なる。
「イーラ ムー ナー……」
風が吹いた。
沢の水が光る。
木々がやさしく揺れる。
「アー……」
「ヨーラ モー ウー……」
歌が終わる。
その瞬間。
鏡石の白い岩肌が、水面のようにゆっくりと揺らいだ。
「……!」
春人は目を見開く。
映っているのは、自分たち。
そのはずだった。
けれど。
揺らぎの向こうで、景色が少しずつ変わっていく。
木が若い。
祠はまだない。
足元には草が広がり、空は今よりもずっと大きく見えた。
「これ……」
あかりが息をのむ。
鏡石の前に、人が立っていた。
一人ではない。
二人でもない。
何十人もの人々。
子どももいる。
大人もいる。
老人もいる。
獣の毛皮や植物の繊維で作られた衣をまとい、静かに円を描いて立っている。
誰も武器は持っていない。
誰も争っていない。
ただ。
胸へ手を当てていた。
「まさか……」
蒼太の声が震える。
次の瞬間。
その人々が、一斉に歌い始めた。
「アー……」
春人たちは息をのむ。
同じだった。
今、自分たちが歌った歌。
まったく同じ旋律が、鏡石の向こうから響いてくる。
そして、不思議なことが起こった。
鏡の中の歌と。
五人の歌が。
いつの間にか重なっていた。
今と昔。
二つの歌なのに、一つの歌だった。
みゆの目に涙が浮かぶ。
「ずっと……」
小さくつぶやく。
「歌われてきたんだ」
その時だった。
円の中にいた一人の少女が、ゆっくりと顔を上げた。
春人たちを見る。
驚く様子もない。
まるで、最初から知っていたように。
少女は、そっと微笑んだ。
それに続くように。
一人。
また一人。
円の人々が穏やかな笑顔になる。
その笑顔は、五人へ向けられていた。
――ありがとう。
言葉は聞こえない。
けれど。
確かに、その思いだけは伝わってきた。
鏡石の揺らぎが、静かに消えていく。
古代の人々の姿も、夏の光へ溶けるように薄れていった。
最後まで残っていたのは。
円になって歌う、その姿だけだった。
誰も、動けなかった。
森は静かだった。
さっきまで聞こえていた歌も、もう消えている。
聞こえるのは、沢のせせらぎだけだった。
「……見た」
春人が小さくつぶやく。
「うん」
みゆが涙をぬぐいながらうなずく。
「あれ……」
陸はまだ鏡石を見つめたままだった。
「昔の人……じゃったんよな」
蒼太はすぐには答えなかった。
岩肌から目を離さず、ゆっくりとうなずく。
「たぶん」
「でも」
「幽霊じゃない」
その一言に、全員が蒼太を見る。
「鏡石が覚えとったんじゃ」
「歌を」
「人を」
「祈りを」
黒崎が静かに近づいてきた。
「どうした」
「何が見えた」
春人は鏡石を見つめたまま答える。
「……昔の人です」
「ここで」
「みんなで歌っていました」
黒崎は少し驚いた表情を見せたが、それ以上は聞かなかった。
「そうか」
ただ、それだけ言った。
杉谷は鏡石へ向き直り、そっと手を合わせる。
「長い間」
「ここで守られてきたんじゃな」
春人はタブレットを取り出した。
画面が淡く光る。
氷色だった。
『おぼえてた』
蒼太が息をのむ。
「鏡石が……」
次の文字が浮かぶ。
『うた』
『こころ』
『みんな』
文字はそこで止まった。
春人は画面を見つめる。
「みんな……」
その意味を考えようとした時だった。
鏡石を渡る風が、ふわりと強くなる。
枝葉が一斉に揺れた。
白い岩肌へ、一枚の木の葉が舞い落ちる。
その葉は岩肌へ触れた瞬間、鏡に映るように二枚になった。
そして。
一枚はその場へ落ちた。
もう一枚は、風に乗って空高く舞い上がっていく。
五人は思わず、その葉を目で追った。
青い空へ。
森の向こうへ。
見えなくなるまで。
氷色から、最後の言葉が届く。
『おもい』
『つながった』
『まだ』
それだけだった。
画面の光が静かに消える。
春人はタブレットを見つめた。
「……まだ」
蒼太が小さく笑う。
「終わっとらん」
「うん」
春人もうなずく。
鏡石は、再び静かな白い岩へ戻っていた。
けれど。
五人には分かっていた。
ここで見たものは、終わりではない。
始まりなのだと。




