第106話 鏡石
誰も、すぐには声を出さなかった。
白い巨石は、木漏れ日の中で静かにたたずんでいる。
近づくほど、その大きさが分かる。
見上げても、岩の上までは見えない。
「……大きい」
春人が思わずつぶやいた。
「ほんまじゃな」
陸も見上げたまま言う。
「写真で見るより、ずっとでかい」
あかりは岩肌へ目を向けた。
「白いね」
「他の石と全然違う」
黒崎は静かにうなずく。
「花こう岩じゃ」
「長い時間をかけて風や雨に削られて、この姿になった」
そう言いながら、カメラを構える。
鏡石。
祠。
周囲の木々。
足元の地面。
一枚撮るたびに場所を変え、角度を変える。
春人はその様子を見つめていた。
「石だけ撮るんじゃないんですね」
「場所も記録じゃ」
黒崎は答える。
「石だけ見ても分からん」
「どこにあって、どんな景色の中にあるか」
「それも大事な情報なんじゃ」
蒼太が何度もうなずく。
「なるほど……」
もうノートには、何行も文字が並び始めていた。
「始まっとる」
陸が笑う。
「蒼太の調査モードじゃ」
「静かにしとって」
蒼太は顔も上げずに返した。
みんなが笑う。
杉谷は祠の前へ歩き、一礼した。
「まずは、ごあいさつじゃな」
五人も自然と頭を下げる。
森を吹き抜ける風が、木々を揺らした。
枝葉の間から差し込む光が、鏡石の白い岩肌をゆっくりと流れていく。
「さて」
黒崎はカメラをしまった。
「近うで見てみようか」
五人はゆっくり鏡石へ近づいた。
岩肌は思っていたよりも滑らかな場所が多い。
けれど近くで見ると、小さなひびや、長い年月が刻んだ筋もあちこちに残っている。
春人は思わず手を伸ばしかけた。
「待て」
黒崎が静かに言った。
春人は手を止める。
「こういう場所では、まず見る」
「触るんは、その後じゃ」
「はい」
春人は素直にうなずいた。
黒崎は満足そうに笑う。
「ええ返事じゃ」
蒼太は鏡石の前へ立ち、しばらく黙って岩肌を見つめていた。
「……鏡」
ぽつりと言う。
「今は映らんよな」
「昔は人の姿が映るくらいじゃった、いう話が残っとる」
黒崎が答えた。
「ほんまに映っとったんか」
「それとも、昔の人にはそう見えたんか」
「今となっては分からん」
春人も岩肌を見つめる。
目の前にあるのは、ただの大きな石。
けれど、あねさまは言っていた。
――歌を映し。
――世界へ返す。
その意味は、まだ分からない。
その時だった。
「……黒崎さん」
蒼太が振り返る。
「一つ、試してもええですか」
黒崎はにやりと笑った。
「歌うんじゃろ」
蒼太も笑った。
「はい」
五人は顔を見合わせる。
ここまで来た理由は、一つだった。
黒崎は静かにうなずいた。
「やってみ」
「ただし、わしらは少し離れて見とる」
「記録もしたいけぇな」
「はい」
五人は鏡石の前へ並んだ。
春人が真ん中。
その両側に蒼太とみゆ。
少し後ろに陸とあかりが立つ。
森が静まり返る。
風まで止まったようだった。
春人は一度、深く息を吸う。
「いくよ」
四人がうなずいた。
五人は声を重ねる。
「アー……」
やわらかな歌声が森へ広がる。
「イーラ ムー ナー……」
木々が静かに揺れた。
歌は途切れない。
「アー……」
「ヨーラ モー ウー……」
その瞬間だった。
鏡石の白い岩肌へ、一筋の光が流れた。
「……!」
春人は息をのむ。
光は石の表面を走るのではない。
水面へ風が吹いた時のように、ゆっくりと揺らめいていた。
「見た?」
あかりが小さくつぶやく。
「うん……」
みゆも目を離せない。
岩肌が揺れている。
いや。
揺れて見える。
鏡石の中に映る木々も。
空も。
五人の姿も。
水面へ映った景色のように、かすかに揺れていた。
「鏡じゃ……」
蒼太が思わずつぶやく。
歌が終わる。
静寂が戻る。
けれど、鏡石だけはなお静かに揺らぎ続けていた。
「黒崎さん……」
春人が振り返る。
黒崎はカメラを下ろし、首を横へ振った。
「……何も撮れとらん」
「え?」
「普通の石しか写っとらん」
杉谷も不思議そうに首をかしげる。
「わしにも、ただの岩にしか見えんかったぞ」
五人は一斉に鏡石を見る。
揺れている。
確かに揺れている。
その時、春人のリュックの中で、タブレットが小さく震えた。
春人は慌ててリュックを開けた。
タブレットの画面が、淡く光っている。
氷色だった。
『みえた?』
春人は小さくうなずく。
「見えた」
画面へ向かって答える。
黒崎と杉谷には、その声だけが聞こえていた。
「また何か出たんか」
黒崎が尋ねる。
「はい」
春人は画面を見つめたまま答えた。
「氷色です」
続けて文字が浮かぶ。
『うつしてる』
蒼太が身を乗り出す。
「やっぱり!」
「鏡石は映しとるんじゃ!」
すぐに次の文字が現れた。
『でも』
全員が息をのむ。
『まだ』
『たりない』
「足りない?」
あかりが首をかしげる。
「何が?」
氷色から返事はない。
代わりに、新しい文字がゆっくりと並んでいく。
『みて』
春人たちは、もう一度鏡石へ目を向けた。
揺らめいていた岩肌が、少しずつ静かになっていく。
その中で。
春人は、自分たちの姿が映っていることに気づいた。
五人並んで立っている。
その姿は確かに自分たちだった。
けれど、どこか違う。
「……あ」
みゆが小さく声を上げた。
「どうした?」
春人が尋ねる。
「笑ってる」
「え?」
みゆが指差す。
「みんな」
春人はもう一度岩肌を見る。
映っている自分たちは、歌い終えたばかりのはずなのに、不思議なくらい穏やかな笑顔を浮かべていた。
陸も。
あかりも。
蒼太も。
みゆも。
そして春人自身も。
「……ほんまじゃ」
陸が目を丸くする。
「こんな顔、しとった?」
あかりは首を振った。
「分かんない」
蒼太だけは、鏡石から目を離さなかった。
「違う」
ぽつりと言う。
「鏡石は、顔を映しとるんじゃない」
その一言に、全員が蒼太を見る。
「じゃあ、何を……」
春人が聞く。
蒼太はゆっくりと息を吸った。
「歌を映しとる」
「歌に込めた、わしらの心を」
その瞬間。
鏡石の揺らぎが、すっと静まった。
けれど。
岩の奥で、何かがまだ静かに息づいているような気がした。




