第104話 いにしえの約束
黒崎は、何も言わなかった。
目の前には、苔むした大きな磐座がある。
木漏れ日が揺れ。
風が森を抜けていく。
それだけだった。
自分の目には、それ以外何も映っていない。
けれど。
春人たち五人は違った。
誰も同じ場所を見つめたまま動かない。
驚いた顔。
涙をこらえる顔。
息をのんだ顔。
その表情だけで分かった。
今、この子たちは。
自分たちには見えない誰かと、確かに出会っている。
杉谷が黒崎の隣へ並んだ。
「見えんの?」
黒崎は小さく首を横へ振る。
「見えん」
「聞こえもせん」
二人はしばらく黙って五人を見つめた。
杉谷が、ふっと笑う。
「ええ顔しとる」
「ああ」
黒崎もうなずく。
「見えんでも分かる」
「今は、あの子らの時間じゃ」
二人は何も言わず、一歩だけ後ろへ下がった。
それ以上、近づこうとはしない。
邪魔をしてはいけない。
そんな気がした。
◇
あねさまは静かに五人を見つめていた。
森を渡る風が、長い黒髪をゆっくり揺らしている。
春人は思わず聞いた。
「さっき……」
「約束って言いましたよね」
あねさまは、小さくうなずいた。
「はい」
「あなたたちが歌った歌は」
「願いではありません」
「約束です」
森が静まり返る。
五人は誰一人、口を開かなかった。
ずっと、追い続けてきた歌。
その意味が、ようやく明かされようとしていた。
あねさまは、ゆっくりと歌を口にした。
「アー イーラ ムー ナー」
その声は、森へ溶けるように広がっていく。
「『始まりの命が、満ちて、あなたへ広がる。』」
春人は息をのむ。
あねさまは続ける。
「命は、一人だけのものではありません」
「誰かから誰かへ」
「受け継がれ、広がっていくものです」
次の一行が歌われる。
「アー ヨーラ モー ウー」
「『始まりは、世界へ広がり、さらに、新しく生まれる。』」
蒼太が小さくつぶやく。
「世界……」
あねさまは微笑んだ。
「昔の人は」
「人も」
「山も」
「岩も」
「川も」
「海も」
「すべてを一つの世界として見ていました」
「だから、この歌は」
「誰か一人のための歌ではないのです」
みゆはノートを抱きしめる。
「だから……」
「みんなで歌う歌だったの」
「そうです」
あねさまはうなずいた。
そして三行目を歌う。
「ワー ナー ヨー ラー」
春人たちは自然と耳を澄ませた。
「『私は、あなたと、世界を結びます。』」
あかりが目を丸くする。
「わたしと……あなた」
「はい」
「ここで初めて」
「歌は、誰かへ向けられます」
最後の一行。
「エー モー ラー ウー」
風が、そっと吹いた。
「『その縁は、さらに広がり、新しい命を生み続ける。』」
歌が終わる。
森は静かだった。
葉の揺れる音だけが聞こえている。
春人はゆっくりと口を開いた。
「四行全部で……」
あねさまは微笑んだ。
「一つの約束になります」
「命は」
「あなたから誰かへ」
「そして世界へ」
「つながり続ける」
「その約束です」
誰も声を出せなかった。
歌だと思っていた。
おまじないだと思っていた。
暗号だと思っていた。
違った。
これは。
遠い昔の人が。
未来へ託した約束だった。
タブレットが静かに光る。
氷色
『つながる』
『みんな』
『うた』
春人は小さく笑った。
「そうだったんだね」
氷色は最初から知っていた。
意味は忘れても。
歌だけは、ずっと覚えていた。
あねさまは、五人を優しく見つめる。
「だから」
「あなたたちは」
「歌を完成させたのではありません」
「約束を、ここまでつないできたのです」
春人は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ずっと、追い続けた歌。
その意味は。
人と人が、命をつなぎ。
世界へ広げていくという。
何千年も前から変わらない願いだった。
いや。
願いではない。
約束だった。
春人は、もう一つだけ尋ねた。
「あねさま」
「約束は……」
「果たせたんですか」
あねさまは、少しだけ首を横へ振る。
その微笑みは、どこまでも穏やかだった。
「歌は届きました」
「けれど」
「約束は、まだ果たされていません」
「歌は」
「人から人へ伝わる約束」
「でも」
「世界へ返す約束が、まだ残っています」
春人が小さくつぶやいた。
「世界へ……返す?」
あねさまは、静かにうなずく。
「はい」
「そのために」
「鏡石があります」
五人は顔を見合わせる。
「……鏡石?」
あねさまは、磐座の向こう――森のさらに奥を見るように、静かに目を細めた。
「鏡石は」
「まだ、あなたたちを待っています」
その言葉だけが、木漏れ日の中へ静かに溶けていった。




