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いにしえのことのは ー空に近い町のひみつー  作者: くいたん


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第103話 あねさま


 森は静まり返っていた。


 風が吹いている。


 葉が揺れている。


 遠くではセミが鳴いている。


 それなのに。


 磐座の前だけは、別の時間が流れているようだった。


 金色の光が静かに集まり、一人の女性の姿を結んでいる。


 長い黒髪。


 左右へ垂れた細い三つ編み。


 白い衣には、金色の文様が淡く浮かび上がっていた。


 誰も動けない。


 誰も声を出せない。


 その人は、ゆっくりと五人を見渡した。


 そして。


 春人が抱えるタブレットへ、静かに目を向けた。


 ふっと微笑む。


 その笑顔は、どこまでも優しかった。


「……まあ」


 春人の胸へ、その声がそっと届く。


 耳で聞いた声ではない。


 心へ直接語りかけられたような、不思議な声だった。


「素敵な名前を、いただいたのですね」


 タブレットが、小さく震える。


氷色


『あねさま』


『あねさま!』


 文字が続けて浮かぶ。


 春人は思わず画面を見つめた。


 あねさまは、小さくうなずいた。


「ええ」


「氷色」


「とても、美しい名前です」


 その瞬間だった。


 タブレットへ、新しい文字があふれ出した。


氷色


『ぼく』


『ひいろ』


『ひいろ』


『ぼく』


『ひいろ!』


 短い文字ばかりだった。


 それなのに。


 うれしさが、画面いっぱいにあふれているようだった。


 みゆは、思わず口元を押さえた。


「……」


 声にならない。


 あの日。


 氷室で。


「名前がないのはかわいそう」


 そう言って、みんなで考えた。


 氷のように透き通っていたから。


 だから――氷色。


 あねさまは、そんなみゆへ静かに視線を向けた。


「あなたが」


「この子へ名前を」


 みゆは驚いたように目を丸くする。


「……うん」


 小さくうなずいた。


「みんなで考えました」


 あねさまは、もう一度微笑んだ。


「ありがとうございます」


「名前とは」


 少しだけ空を見上げる。


「その人を、大切に思う心が形になったものです」


 森を風が吹き抜ける。


 木漏れ日が、白い衣の上で静かに揺れた。


「この子は」


「長い間、誰にも呼ばれることがありませんでした」


 春人は、タブレットを見る。


 また一行。


氷色


『あねさま』


『うれしい』


 そのたった四文字で。


 春人の胸が熱くなった。


 あねさまは、ゆっくりと手を胸へ添える。


「氷色」


「これからは、私も『氷色』と呼びましょう」


 タブレットは、もう止まらなかった。


氷色


『あねさま!』


『ありがとう!』


『あねさま!』


 その様子を見ていたあかりが、小さく笑う。


「なんか……」


 目をこすりながら言う。


「すごいうれしそう」


「うん」


 陸もうなずいた。


「画面だけなのに分かる」


 蒼太は磐座とあねさまを見つめたまま、小さくつぶやく。


「会えたんじゃな……」


 何千年もの間。


 届かなかった歌。


 届かなかった言葉。


 そのすべてが。


 今、この場所で、静かにつながった。


 しばらく、誰も言葉を発しなかった。


 風が木々を揺らす。


 葉の隙間から差し込む光が、あねさまの白い衣へ静かに降り注いでいた。


 春人は、思い切って一歩前へ出る。


「あの……」


 声が少し震えた。


「あなたが」


「氷室で、返歌を返してくれた人なんですか」


 あねさまは春人を見つめる。


 その瞳は、どこまでも澄んでいた。


「はい」


 短い返事だった。


「あなたたちの歌は、確かに届きました」


 春人は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 あの歌は。


 届いていた。


 ただの偶然ではなかった。


 蒼太が一歩前へ出る。


「じゃあ」


「氷色が『まだ足りない』って言うとったんは」


 あねさまは静かにうなずく。


「道が、まだつながっていなかったからです」


「道?」


 陸が首をかしげる。


「石と石」


「歌と言葉」


「人と人」


「そのすべては、本来、一つの道で結ばれていました」


 春人たちは黙って聞いていた。


「けれど長い年月の中で、その道は少しずつ閉じていきました」


 あねさまは、そっと磐座へ手を添える。


「歌は届かなくなり」


「声も届かなくなりました」


 みゆがタブレットを見る。


「だから……」


「氷色は、ひとりだったの」


 あねさまは優しく微笑んだ。


「ひとりではありません」


「私も」


「待っていました」


 その言葉に、タブレットが震えた。


氷色


『うん』


『まってた』


 春人は小さく笑った。


「そうだったね」


 あの日。


 氷室で初めて会った時も。


 氷色は確かに言っていた。


ーーまってた。


 あねさまは五人を見渡した。


「あなたたちが来てくれると、信じ続けることができました」


 五人は顔を見合わせる。


「え?」


 あかりが首をかしげる。


「わたしたち?」


「はい」


 あねさまはうなずいた。


「歌は、一人では完成しません」


「だから」


「五人だったのです」


 その言葉に、春人の胸が大きく鳴った。


 ずっと疑問だった。


 なぜ五人だったのか。


 なぜ自分たちだったのか。


 その答えが、ようやく少しだけ見えた気がした。


 蒼太が、ゆっくりと口を開く。


「じゃあ……」


「ぼくらは選ばれたんですか」


 あねさまは、少しだけ首を横へ振った。


「いいえ」


「選んだのです」


「え?」


「あなたたち自身が」


 春人は息をのむ。


 意味が分からない。


 あねさまは続けた。


「人は、自分で道を選びます」


「氷室へ入ったことも」


「歌ったことも」


「石を探したことも」


「全部」


「あなたたちが、自分で選びました」


 黒崎が教えた言葉が、春人の頭に浮かぶ。


 調査は、自分の足で確かめる。


 誰にも命令されていない。


 五人は、自分たちでここまで来た。


 あねさまは穏やかに微笑む。


「だから」


「道は、開いたのです」


 森を風が吹き抜ける。


 磐座の苔が、陽の光を受けて静かに輝いた。


 春人は、あねさまを見つめる。


 胸の中には、まだ一つだけ、大きな疑問が残っていた。


「あの」


「歌は……」


「どういう意味なんですか」


 四人も、春人と同じようにあねさまを見つめる。


 ずっと、追い続けた歌。


 その答えが、今、目の前にある。


 あねさまは空を見上げた。


 木漏れ日が、金色の瞳へ静かに映る。


「その歌は」


「願いではありません」


 五人は息をのむ。


「約束です」


 その一言だけが、森の静けさの中へ、深く響いた。


「それを、これからお話ししましょう」

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