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いにしえのことのは ー空に近い町のひみつー  作者: くいたん


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第102話 祈りの地


 玉砂利を踏む音が、静かな森の中へ吸い込まれていく。


 しゃり。


 しゃり。


 宇治橋を渡ってから、春人はずっと、胸の奥が少しだけざわついていた。


 ここは山ではない。


 けれど、山よりも深い場所に入っていくような気がした。


 黒崎は正宮へ向かう人の流れから、少し外れるように歩き始めた。


「こっちなん?」


 陸が小声で聞く。


「そうじゃ」


 黒崎は振り返らずに答えた。


「今日は正宮より先に、見てもらいたい場所がある」


「正宮より先……」


 蒼太がつぶやく。


 その声は、いつもより少しだけ小さかった。


 観光客の姿が、少しずつ減っていく。


 さっきまで聞こえていた話し声も遠くなり、代わりに木々の葉が擦れる音が近くなった。


 高い杉が空を覆っている。


 木漏れ日は白く、玉砂利の上へ細い光の筋を落としていた。


 杉谷も、今日はいつものように冗談を言わなかった。


 帽子のつばを少し下げ、黒崎の後ろを静かに歩いている。


「……ほんまに静かじゃな」


 あかりが小さく言った。


「人、おらんようになった」


 みゆも辺りを見回す。


 春人は何も言わず、リュックの肩ひもを握った。


 タブレットが入っている。


 氷室から始まった、あの小さな画面。


 そこに初めて文字が現れた日のことが、ふいに頭をよぎった。


 この声が聞こえていますか。


 あの一文から、全部が始まった。


 その声を追って、ここまで来た。


 甘岩の山を越えて。


 県を越えて。


 伊勢まで。


 やがて、黒崎は細い道の前で足を止めた。


「ここからは、少しだけ道が変わる」


 五人は自然と立ち止まる。


 正面の参道とは違い、その道は森の奥へ向かっていた。


 人の気配はほとんどない。


 けれど、荒れているわけではなかった。


 長い間、誰かが大切にしてきた道。


 そんな感じがした。


「入ってええん?」


 陸がそっと聞く。


「立ち入り禁止の場所じゃない」


 黒崎は静かに言った。


「でも、遊びに来る場所でもない」


 その声で、五人の背筋が少し伸びる。


「石にも、場所にも、礼を失くしたらおえん」


 杉谷が続けた。


「いつもの調査と同じじゃ」


「はい」


 五人の返事が、小さく重なった。


 黒崎はうなずき、森の奥へ進んだ。


     ◇


 道は、ゆるやかに山の方へ続いていた。


 足元の土は少し湿っている。


 木の根があちこちに伸び、ところどころ苔が光っていた。


 セミの声は聞こえる。


 けれど、遠い。


 まるで厚い緑の壁の向こうから聞こえているようだった。


「……甘岩の山と違う」


 春人は思わずつぶやいた。


「どう違うん?」


 あかりが聞く。


「うまく言えないけど」


 春人は少し考える。


「甘岩の山は、近い感じがする」


「ここは……」


 言葉を探す。


「ずっと前から、待ってた感じがする」


 蒼太が何も言わずにうなずいた。


 みゆはノートを取り出しかけて、やめた。


 今は書くより、見ていたかった。


 しばらく歩いたところで、黒崎が足を止めた。


「着いたぞ」


 その声は、とても静かだった。


 五人は黒崎の横から、そっと前をのぞく。


 そして。


 誰も、声を出せなかった。


     ◇


 木々の間に、巨大な岩があった。


 人が置いたものではない。


 山の一部が、そのまま地上へ顔を出したような岩だった。


 表面は深い緑色の苔に覆われている。


 その隙間から、灰色の岩肌が静かにのぞいていた。


 大きい。


 けれど、ただ大きいだけではない。


 そこにあるだけで、周りの空気が変わっている。


 岩の前だけ、時間の流れが少し遅いように感じた。


「……でか」


 陸がやっと声を出した。


「これが……」


 蒼太は目を見開いたまま、岩から視線を離せない。


「伊勢の磐座じゃ」


 黒崎が言った。


「昔からの祈りが途切れず残っとる場所じゃ」


 少し間を置く。


「じゃけぇ、ここまで来たんじゃ」


 その言葉に、春人の胸が小さく鳴った。


 ここまで来た。


 その言葉が、やけに重かった。


 円形列石。


 陰陽石。


 氷室。


 山で見つけた石。


 そのどれとも違う。


 でも、どこか同じものがある。


 石。


 歌。


 言葉。


 そして、誰かの思い。


 あかりが小さく息を吸った。


「……なんか」


「うん?」


 陸が見る。


「怖くないのに、近づくの緊張する」


 みゆが静かにうなずいた。


「わたしも」


 黒崎は五人を見回した。


「無理に近づかんでええ」


「まず見る」


「触らん」


「決めつけん」


 いつもの調査の言葉だった。


 けれど、この場所で聞くと、少し違って響いた。


 春人はゆっくりとうなずく。


「はい」


 五人は少し離れた場所に並び、磐座を見つめた。


 木漏れ日が岩の表面をゆっくり移動している。


 風が吹く。


 葉が揺れる。


 その瞬間、春人はふと思った。


 この岩は、ずっと歌を待っていたのではないか。


 そんなはずはない。


 でも、そう思った。


     ◇


「春人」


 黒崎が呼んだ。


 春人は顔を上げる。


「歌ってみ」


 その言葉に、五人の空気が変わった。


 蒼太がすぐに春人を見る。


 陸も。


 あかりも。


 みゆも。


 誰も「本当に?」とは言わなかった。


 ここまで来た理由を、みんな分かっていた。


 春人はリュックを下ろす。


 タブレットを取り出そうとして、少し迷った。


 けれど、まだ開かない。


 まずは歌。


 それが今、いちばん大事なことに思えた。


「ここで……いいですか」


 春人が聞く。


 黒崎は静かにうなずいた。


「ええ」


「ただし、無理に大きな声を出さんでええ」


「届くもんは、声の大きさじゃ決まらん」


 杉谷も小さくうなずく。


「心をそろえるんじゃ」


 五人は自然と、磐座の前に並んだ。


 真正面ではない。


 少し離れた、木漏れ日の落ちる場所。


 円形列石の時と同じように。


 氷室の時と同じように。


 五人で立つ。


 春人は一度だけ、みんなを見る。


 陸は緊張した顔でうなずいた。


 あかりは唇を結んでいる。


 みゆは両手でノートを抱えていた。


 蒼太の目は、真剣だった。


「いくよ」


 春人が小さく言う。


 四人がうなずく。


 そして。


 五人の声が、伊勢の森へ広がった。


 アー……


 イーラ……


 ムー……


 ナー……


 歌声は、思ったよりも小さかった。


 けれど、森に吸い込まれていくのではなく、木々の間をゆっくり広がっていくように聞こえた。


 春人は目を閉じずに歌った。


 磐座を見つめたまま。


 二行目。


 アー……


 ヨーラ……


 モー……


 ウー……


 声が重なる。


 五人の声。


 でも、五人だけではないような気がした。


 どこか遠くで、誰かが同じ歌を覚えている。


 そんな気配が、胸の奥に触れる。


 歌が終わった。


 森は静かだった。


 風も。


 セミの声も。


 葉の音も。


 すべてが一瞬だけ遠ざかったように感じた。


「……」


 誰も動かない。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 何も起こらない。


 陸が小さく息を吐きかけた。


 その時だった。


 ――ワー……


 春人の全身が、ぴたりと止まった。


 聞こえた。


 あの歌。


 氷室の奥で聞いた、あの返歌。


 ワー……


 ナー……


 ヨー……


 ラー……


 みゆが目を見開く。


 あかりが両手で口を押さえる。


 蒼太は息をのんだまま、磐座を見つめていた。


 返歌は続く。


 エー……


 モー……


 ラー……


 ウー……


 優しい声だった。


 女の人の声のようにも聞こえる。


 でも、人の声とは少し違う。


 風が歌っているようでもあり、石の奥から響いているようでもあった。


「返って……きた」


 陸が震える声で言った。


「氷室の時と同じ」


 春人はゆっくりとうなずいた。


 その声は、森いっぱいに広がっていた。


 けれど。


「どうした」


 黒崎の声が、すぐ横から聞こえた。


 春人は振り向く。


 黒崎は不思議そうに五人を見ていた。


 杉谷も同じだった。


「今の……聞こえませんでした?」


 春人が聞く。


 黒崎は耳を澄ませるように周りを見た。


 そして、静かに首を横へ振る。


「いや」


「わしには、お前らの歌しか聞こえんかった」


 まただった。


 石の光も。


 氷室の返歌も。


 そして今も。


 大人には届かない。


 春人は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 自分たちだけに聞こえた。


 でも、気のせいではない。


 五人全員が聞いた。


 その時。


 春人のリュックの中で、何かが淡く光った。


「……!」


 春人は慌ててリュックを開ける。


 タブレットだった。


 画面がひとりでに明るくなっている。


 黒い画面の中央に、ゆっくりと文字が浮かび上がった。


氷色


あねさま……!


 春人は息をのんだ。


「あねさま?」


 あかりが小さく読む。


 蒼太が画面をのぞき込む。


「氷色が……?」


 その瞬間だった。


 磐座の前で、光が揺れた。


     ◇


 最初は、木漏れ日だと思った。


 けれど違う。


 金色の光が、一粒だけ、空中に浮かんでいた。


 それは風に流されることなく、磐座の前で静かに震えている。


 また一粒。


 また一粒。


 光は少しずつ増えていった。


 まるで、森の中に見えない花が咲き、その花びらが一枚ずつほどけていくようだった。


「……なに、あれ」


 あかりの声がかすれる。


 黒崎が顔を上げた。


「何が見えとる?」


「光」


 春人が答える。


「金色の光が……」


 黒崎は磐座の前を見つめる。


 けれど、その顔に反応はなかった。


「わしには見えん」


 静かな声だった。


 でも、その声には驚きよりも、どこか納得した響きがあった。


「続けて見ろ」


 春人はうなずくこともできなかった。


 ただ、光を見つめる。


 金色の粒は、ゆっくりと集まり始めた。


 足元。


 衣の裾。


 細い指。


 長い髪。


 光は少しずつ、人の形を描いていく。


 けれど、それは人ではなかった。


 少なくとも、春人が知っている人間ではない。


 長い黒髪が、風もないのに静かに流れている。


 左右には細い三つ編みが垂れ、その先に小さな飾りが揺れていた。


 白い衣には、金色の文様が淡く浮かんでいる。


 着物ではない。


 巫女装束でもない。


 もっと古い。


 それでいて、どこにもない衣だった。


 顔が、ゆっくりと現れる。


 春人は息を止めた。


 美しい。


 けれど、美しいという言葉だけでは足りなかった。


 年齢が分からない。


 若いようにも見える。


 はるか昔からそこにいたようにも見える。


 大きな瞳の奥には、金色の光が静かに流れていた。


 その人は、五人を見ているようで、もっと遠くを見ているようだった。


 そして。


 静かに、微笑んだ。


 誰も動けなかった。


 誰も声を出せなかった。


 森の音が戻ってくる。


 風が葉を揺らす。


 遠くでセミが鳴き始める。


 けれど、その人の周りだけは、別の時間が流れているようだった。


 春人のタブレットが、もう一度小さく震えた。


 画面に、氷色の文字が浮かぶ。


氷色


『あねさま』


『あねさま』


 同じ言葉が、二度。


 まるで、泣きそうな声のように見えた。


 金色の人は、タブレットへ視線を落とした。


 口は動かない。


 けれど、春人の耳に、静かな声が届いた気がした。


 いや。


 声ではない。


 意味が、胸の中に直接落ちてくるようだった。


 次の瞬間、タブレットに新しい文字が浮かんだ。


『ようこそ』


 春人は画面を見つめたまま、動けなかった。


 蒼太が隣で小さく息をのむ。


「……返歌の主じゃ」


 その言葉に、春人の胸が震えた。


 氷室で聞いた歌。


 氷色が「ひさしぶり」と言った声。


 「まだ足りない」とつぶやいた理由。


 全部が今、目の前の金色の光へつながっていく。


 その人は、静かに五人を見つめた。


 そして、もう一度だけ微笑んだ。


『ようやく、お会いできました』


 その一文が、タブレットの画面に静かに残った。


 春人は、磐座の前に立つその存在を見つめる。


 甘岩から始まった歌は。


 確かに、ここまで届いていた。


挿絵(By みてみん)



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