第101話 神域へ
まだ夜が少しだけ残る朝だった。
東の空がうっすらと白み始め、田んぼには朝もやが漂っている。
夏とはいえ、この時間の空気は少しだけひんやりとしていた。
春人が陸の家へ着くと、納屋の前にはもうみんなが集まっていた。
「おはよう!」
あかりが元気よく手を振る。
「眠い……」
陸はそう言いながら、大きなあくびをした。
「寝たん?」
あかりが笑う。
「寝ようとはした」
「でも寝られんかった」
「わたしも」
みゆが小さく笑う。
蒼太も珍しく目をこすっている。
「三時に目が覚めた」
「早すぎじゃ」
陸が吹き出した。
春人も苦笑する。
「僕も四時には起きてた」
「みんな一緒じゃな」
その時だった。
白いステーションワゴンが納屋の前へゆっくりと入ってきた。
「おはよう!」
運転席から杉谷が笑顔で手を振る。
助手席には黒崎。
後ろの荷室には、大きめのバッグや調査道具が積まれていた。
「ほれ」
杉谷が車を降りる。
「荷物積もうや」
五人はリュックを抱えて集まる。
ノート。
水筒。
着替え。
タブレット。
黒崎が一つずつ確認していく。
「忘れもんはないな?」
「はい!」
元気な返事が重なった。
黒崎は笑う。
「よし」
「ほんなら」
「伊勢へ出発じゃ」
車はゆっくりと走り始めた。
まだ静かな甘岩の町を抜ける。
朝日に照らされた田んぼが、車窓の向こうへ流れていく。
◇
「泊まりで旅行なんて初めてじゃ」
陸が窓の外を眺めながら笑う。
「友達と行くんじゃもん」
あかりもうれしそうだった。
「修学旅行より先じゃな」
蒼太は地図を開いている。
「まだ岡山か」
「今出たばっかりじゃ」
春人が笑う。
車内には笑い声が絶えなかった。
山陽インターチェンジから高速道路へ入る。
見慣れた町が少しずつ遠ざかっていく。
朝日もだんだん高くなってきた。
「伊勢って何時間ぐらい?」
あかりが尋ねる。
「休憩入れて四時間ぐらいかな」
杉谷が答えた。
「遠っ!」
「じゃろ」
黒崎が笑う。
「調査いうんは近所ばっかりじゃできんけぇな」
◇
一時間ほど走ったころ。
「ほれ」
杉谷がウインカーを出す。
「一回休憩じゃ」
車は三木サービスエリアへ入った。
「着いた!」
「まだ着いてねぇ」
黒崎が笑う。
「休憩じゃ」
五人は一斉に車を降りた。
「広っ!」
陸が思わず声を上げる。
朝早いというのに、人は思ったより多い。
建物の中へ入ると、焼きたてパンの香りが漂ってきた。
「いい匂い」
あかりがお腹を押さえる。
「腹減った」
「朝ご飯じゃ」
杉谷が笑う。
おにぎりを選ぶ陸。
パンを選ぶあかり。
春人はサンドイッチを手に取った。
蒼太は食べながらも案内板を眺めている。
「まだ兵庫なんじゃな」
黒崎が横へ立つ。
「まだ半分も来とらん」
「えぇ……」
五人の声がそろった。
「遠いじゃろ」
杉谷が笑う。
「じゃけぇ旅行は道中も楽しむんじゃ」
朝ご飯を食べ終えると、もう一度車へ戻る。
「よし」
「あと一息じゃ」
◇
再び高速道路を走り始める。
しばらくすると。
「ふぁ……」
陸が大きなあくびをした。
「眠い?」
春人が笑う。
「昨日寝られんかった」
「わたしも」
あかりも窓にもたれる。
蒼太は地図を見たまま返事をしない。
「蒼太?」
「……」
もう眠っていた。
「あ」
あかりが吹き出す。
「寝とる」
みゆもくすっと笑う。
それから十分もしないうちに。
陸も。
あかりも。
みゆも。
春人も。
みんな静かな寝息を立て始めた。
車の中にはエンジン音だけが流れる。
黒崎が後ろを振り返る。
「全滅じゃな」
杉谷が笑った。
「昨日みんな興奮して寝られんかったんじゃろ」
「まあ」
黒崎も笑う。
「起きたら伊勢じゃ」
◇
「……着いたぞ」
杉谷の優しい声で、春人はゆっくり目を開けた。
「……ん?」
窓の外には、大きな杉の木が何本も立ち並んでいる。
時計を見る。
十時を少し回っていた。
「着いたん?」
陸が目をこする。
「着いた」
黒崎が笑う。
「伊勢神宮じゃ」
五人は慌てて車を降りた。
夏の日差しはもう高く昇っている。
それなのに。
木々の間を吹き抜ける風は驚くほど涼しかった。
「……涼しい」
みゆが思わずつぶやく。
高く伸びた杉の枝葉が日差しをやわらかく遮り、木漏れ日が地面へ揺れている。
遠くではセミが鳴いていた。
それでも、不思議なくらいうるさく感じない。
「空気が違う……」
春人は小さく息を吸い込んだ。
「なんか静かじゃな」
「人はおるのに」
「……ほんまじゃ」
どこか山の中へ来たような気がする。
けれど、甘岩の山とはまるで違う。
人はたくさん歩いている。
観光客らしい人たちもいる。
それなのに、この場所全体が静かだった。
「行こう」
黒崎がリュックを背負う。
「ここから少し歩くぞ」
五人はあとに続いた。
市営駐車場を出る。
土産物屋が並ぶ通りを歩く。
赤福の店先から甘い香りが漂い、あかりが思わず足を止めかけた。
「帰りな」
杉谷が笑う。
「まずは調査じゃ」
「はーい」
あかりも笑って歩き出す。
店が少しずつ途切れる。
木々が深くなっていく。
そして。
目の前が、ふっと開けた。
「……!」
春人は思わず立ち止まる。
大きな木の橋。
ゆるやかな弧を描き、その向こうには深い森が広がっていた。
橋の下では、五十鈴川がゆったりと流れている。
太陽の光を受けた水面が、きらきらと輝いていた。
「宇治橋じゃ」
黒崎が静かに言う。
「ここから先が神域じゃ」
誰も返事をしなかった。
目の前の景色に、ただ見入ってしまう。
橋の向こうには、大きな鳥居。
その先には、何百年も変わらない時間が流れているような森。
「行こう」
黒崎が一歩踏み出す。
五人も静かにあとへ続いた。
木の橋へ足を乗せる。
こつ。
足元で小さな音が響く。
橋の上を吹き抜ける風は心地よく、川からはひんやりとした空気が上がってくる。
「川、きれい……」
みゆが欄干からのぞき込む。
「透き通っとる」
陸も思わず身を乗り出した。
「泳ぎたい」
「だめじゃ」
あかりが笑う。
春人は橋の途中で立ち止まり、森を見上げた。
木漏れ日が葉の間から降り注ぐ。
人は行き交っている。
それでも聞こえるのは、風と川の音ばかりだった。
橋を渡り終える。
大鳥居をくぐると、玉砂利の参道がまっすぐ奥へ続いていた。
玉砂利を踏むたび、
しゃり……。
しゃり……。
静かな音が足元から返ってくる。
「黒崎さん」
春人が尋ねた。
「まず正宮へ行くんですか?」
黒崎はゆっくり首を横へ振る。
「いや」
「今日はまず、別の場所じゃ」
「え?」
蒼太が顔を上げる。
「正宮より先なん?」
「そうじゃ」
黒崎は森の奥を見つめる。
「昔からの祈りが途切れず残っとる場所は、そう多うない。前にも言うたじゃろ」
「その一つを、最初に見てもらいたい」
五人は顔を見合わせた。
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
円形列石。
陰陽石。
氷室。
それらを追いかけてきた夏。
その場所は、何千年もの間、歌が届く日を静かに待ち続けていた。




