第十三章『溢れ出す、12さじ目』(2)
「――ん」
美早紀が目を覚ますと、白石がパソコンの前で座っていた。
「起きたのか」
気配を感じたのか、白石が振りかえる。美早紀はシーツを身体に巻き付けながら、
「何してるの?」
と、思ってもないことを口にした。
自らの起こした『確信的な行為』に激しく罪悪感が襲い寄せたが、無理矢理にでもそれを振り払って気丈に構えながら白石の返答を待つ。
「何って……お前の知り合いのヤツの曲だよ。昨日一緒に見ただろうが。ここで」
「ふぅん」
そのまま着替えを取りにベッドから離れる。下着を身につけたところで、白石がぱんと膝を打って立ち上がった。
「今日、こいつらと会う予定なんだろ? “俺もその場に顔出させてくれよ”」
……来た。
美早紀が着替える手を止めて、白石に振りかえる。
「……何を言ってるの? そんなこと出来るわけが――」
「ああ?」
凄む白石に、わざとらしく言葉を止める。
「何を……するつもりなの?」
全部わかっている上で、美早紀が尋ねると、
「決まってんだろ。この作曲者を俺らのバンドに勧誘するんだよ」
何もかもが、そのままそっくり予想通りの返答だった。
昨夜、白石の家に来る前に、美早紀は悟司の曲を聴き終えていた。
探すほどのこともない。ボーカロイド専用の特設ページのトップに、彼らの曲がでかでかと紹介されていたのだ。美早紀が見た時点で再生数十八万だったのが、昨夜白石と共に動画を見たときには二十万を越えていた。
トップページに紹介されたことが集客を生んだのだろう。十万再生を記録した後から、うなぎ登りで上昇し未だ留まることを知らない勢いだ。
美早紀も驚きを隠せなかった。
あの、いつも自信のなさげにしていた後輩が、こんな場所で注目を浴びているなんて。
――利用しよう。
再び、高校の頃と同じように胸がざわついた。
――自分の目的のために、彼を利用するんだ。
その気持ちは、一度肥大すると後は押さえきれなかった。
気付けば美早紀は、このことを白石に話していた。
――今日ね、高校の頃の後輩に会ったの。あたしがギターを教えた子でね、その子がボーカロイドを使ったオリジナル曲で人気になってるみたいでさ――
……悪くない。
自分は何も悪くない。あの子だって――悟司だって絶対にそう思ってくれるはずだ。
これは彼にとってのチャンスなのだ。白石のお目にかなえば、きっと彼もこの先、自分の作った音楽をもっともっと色んな人に聴いてもらえる。
それこそ、作曲冥利に尽きるというものだ。
だから、白石を紹介するのだ。
自分と、悟司と、白石がいれば、間違いなく音楽で大成出来る。
この三人で、すっかり元気をなくしてしまった音楽業界に刺す一筋の光となるのだ。
絶対出来る。
あたしは――夢を叶えてみせる。
「――おい」
白石の声で、はっとする。
「何ぼーっとしてんだ」
「う、ううん」
軽く首を振って、着替える手を再開させる。
「しかし、こいつすげーな。全くのどアマチュアだろ? なのに、まるでプロダクションか何かが絡んだように伸びてやがる」
「曲そのものについては、どう思う?」
一応、それだけは聞いておかなければならない。
「すげーいい」
いつも全てを否定的に捉える白石が、珍しく諸手を挙げて絶賛した。
「アレンジや歌詞に関しては、正直お粗末の一言だが、とにかくメロディセンスだけは神がかってやがる。コード進行も独特だな。理論が全然わかってないみたいだが、不思議とバランスが取れてんだ、うまいことに」
そのまま白石が、他の曲の動画へと移る。
「この曲もそうだ。たった三曲しか作ってないが、それだけでも十分キャッチーなフレーズを作ってると思うぜ。この三曲がたまたま良かったってレベルじゃないな、きっと」
だからこそ勧誘したい、と彼が付け加える。
「俺のバンドをツインギタリストにする。お前と、こいつだ」
白石が美早紀に指をさして、それからパソコン画面をさす。
「こいつに関しては、加入の際に色んな記事でボカロ作曲者だって吹聴しまくるか。今のガキどもはボカロ好きのヤツが結構多いだろ? きっとウケる」
そこでようやく美早紀が浮かない顔をしていることに気付いた白石が立ち上がる。
「何心配そうな面してんだよ。俺に任せとけって」
そう言って美早紀の身体を抱き寄せると、そのまま唇を押し当てるように重ねた。美早紀は抵抗もせずに、されるがまま白石に身を預ける。やがて、一時の間を置いてゆっくりと唇を離すと、白石は不敵に笑みを見せつけながら言った。
「俺に任せておけば、全部うまくいく」
美早紀は返事もせずに、ただ一度だけこくりと頷いた。
※ ※ ※
「……剛児が轢かれたのは、幼稚園の入り口。ちょうど門を出たら目の前に道路があってね。とても見通しの悪い――とっても狭い道路」
千佐都はミルクティーを一口だけ飲むと、そのままカップの中身を見つめて淡々と語り始めた。
「いつもね、お迎えはあたしが行ってたの。両親は共働きだし、小学校の帰り道がちょうど幼稚園を通るから。あたしはいつも剛児の手を取って、手を繋ぎながら帰ってた。家に着くと、遅くなるまであたしたち二人だけだから、あたしは剛児のためにご飯を作ることだって覚えたわ」
「小学生って……お前そんな小さい時から料理出来たのか?」
春日がそう尋ねると、千佐都は軽く笑って答える。
「たいした物じゃないわよ。冷凍惣菜をチンして、あらかじめ炊飯ジャーの中に入ったお米を炊くだけ。教えてもらえば誰にだって出来る事よ」
「しっかりしたお姉さんだったんですね」
千佐都の隣で、月子が口を開く。
「ウチはそんな頃、全然何も出来ませんでした。みんな年の離れた兄ばかりで、甘やかされてましたから」
「大げさよ、本当にたいしたことなんてしてないんだから」
でもね、と千佐都は続ける。
「事故のあった日――あたしは剛児の手を繋がなかった」
千佐都が静かにカップを置いた。
「その日はね、珍しく朝っぱらから喧嘩しちゃったの……。剛児が大切に使っていたお茶碗を、あたしが割ってしまったのよ。何度ごめんねって言っても、剛児は泣くばかり。とうとう頭にきたあたしは『もうお姉ちゃんやめるから』って剛児に向かって、そう言って――でも、それでもやっぱり迎えには行かなくちゃいけない。両親はずっと仕事漬けで、迎えになんて行けないし、あたしも小学校を出る頃には、朝起こった喧嘩のことなんてどうでも良くなってた。その日もいつも通り、普通に迎えに行って帰るつもりだったのよ」
そこまで言うと、千佐都は両手で顔を覆って重々しいため息をついた。
「でも……剛児の方は違った。朝のことをちゃんと覚えてて、あたしを見るなり『お茶碗返して』って……今でもその時のことが夢に出る。結局あの日は、なんでもいいからとにかく剛児の言うことをはいはいと聞いて、無理矢理にでも手を繋いでやれば、絶対にあんな事にはならなかったのよ――」
長い、沈黙があった。
誰も何も言わなかった。ファミレスの軽快な音楽が、ちっとも場の空気を読まずに流れ続ける。その音楽が次の曲へと変わる、一瞬の短い無音の中で、千佐都は静かに言った。
「……あたしは、剛児がそう言ったとき、無視を貫き通した。だから、剛児はそのまま泣いて幼稚園を飛び出して……それで、車に――」
千佐都は顔を上げると、再びミルクティーを口にした。
春日も思い出した様に目の前に置かれたコーヒーカップを手に取った。
「これが、あたしのトラウマの原因よ。トラウマ……って言うほどのものじゃないのかもしれないけどさ。でも、思ったよりずっとちゃんと話せて、今は少しほっとしてる」
ミルクティーから口を離してそう言った。そのまま微笑する余裕さえ見せて、千佐都は三人をぐるりと見回す。
「案外さ、本当に少しずつ回復してるのかも。こんなこと家族以外に話したのも、あんた達が初めてだしね。樹里にもしてないっつーか……でもあたしとしてはぶっちゃけ、あんまり重い顔しないでほしいなーって」
「重い顔も……するだろう」
春日はそう言って少しだけコーヒーをすすると、千佐都を見つめた。
「泣きそうな顔を……してるんだからな」
その言葉で、千佐都はくすっと笑いながら、目元を覆うようにして顔を背ける。
「泣かないって! 大丈夫! あたし、もう本っ当ーに! そういうのやめようと思ってるんだからっ。剛児のことは絶対に忘れらんないし、忘れるつもりもないけど、それで周りに気を使わせてしまってる方が、あたしはずっと嫌だし……だから、」
そのまま、外の景色を眺めるようにして、千佐都はぽつりと言った。
「だから、もうあとちょっとだけ……ここでウジウジさせてもらってもいいかな?」
その言葉を聞いて、春日、悟司、月子が音もなく立ち上がった。
そんな三人に視線を合わすことなく、
「……いつもいつも、迷惑ばかりで……ごめんね」
と、そっと目尻を拭いながら千佐都が呟いた。
「気にするな」
春日もまた、千佐都の方を振り返らずにそう呟く。
「もう慣れた」
ぷっと吹き出す千佐都。
「……慣れちゃってましたか」
「そうだ。だから、気にすることなど何もないぞ、千佐都」
「うん……ありがと。かすが」
そうして三人は、静かにファミレスの外へと出ていった。
外へ出るなり、春日は時計を眺めた。
開場まで、あと一時間もない。
「とりあえず、僕たちもそろそろ入場口の前まで――げっ」
「きゃ」
そんな間抜けな声を同時に上げながら、春日と月子は思わずその場に固まってしまった。
無理もない。いつのまに入場口からずらりと長蛇の列が出来上がっていたからだ。
鵜飼と一緒にここへやってきた時点では、数える程度の人数がまばらに集まっているだけだったのに、まさかここまで集まるとは。
「こ、この人達のお目当ては、やっぱり、鵜飼さんのCDなんですかね……?」
唖然としながら月子が呟く。
「そ、そんなことあるわけないだろう。まさか……な」
他にも同人CDを配る作曲者達は大勢いる。その上、同人誌やグッズも頒布しているのだ。
ここにいる全員が鵜飼の為だけにやってくるなんて、果たしてあり得るのだろうか?
「でも……鵜飼さんって、これまでこういうCDを頒布したことってないんですよね? 動画投稿し始めた際の曲から現在までの曲を全て収録して、そのうえ未発表曲入ってるって――そうウチは、昨日弘緒ちゃんから聞きましたよ」
月子が言うとおり、鵜飼がこのように音源を形として出したのは今回が初だ。
彼が投稿した動画数は全部で十一。未発表曲も加えた全十三曲入りフルアルバムだそうで、その内十万再生を越えた曲は四曲、三十万再生を越えたのが三曲、五十万再生を越えたものは二曲もある。
いわゆる出した曲はおおむねヒットするオールラウンダーで、その分固定客も相当数いるとは踏んでいたのだが、実際に目の当たりにすると、とてもにわかには信じられない光景であった。
「嘘だろ……」
さすがに呆然とせざるを得ない。ネットで見る数字と実際に見る人数では、そのインパクトも桁違いであった。
しかも見たところ、並んでいる人々の中にはあからさまに中学生くらいの女子もちらほら見かける。ボーカロイドが十代の男女に好評なのは知っていたが、これもまた、噂で聞くのと実際に見るのとではそのインパクトが違う。
「か、春日さんっ。ウチらも早く並びましょう」
「そ、そうだな。急がないと鵜飼さんのブースが“わや”になる」
月子に急かされるようにして並ぶと、その後ろからもどんどん人が集まってきた。普段、これほどまでの人の数を見たことが無い春日には、圧倒される思いであった。
「これだけの人の数がいると、さすがに具合が悪くなってくるな……」
「う、ウチもですぅ……」
見ると、月子はふらふらと頭を揺らしている。
「月子ちゃん。大丈夫?」
悟司が声をかけると、
「へ、平気だから。大丈夫……です」
と、ちっとも大丈夫そうではないのにそう言ってぶんぶんと頭を振った。
そんな二人のやりとりを見て、春日は首をひねる。
そういえば月子は、先ほどからどことなく悟司を避けているような……。傍目から見て、微かにそう感じるだけで、悟司自身はそのことに気付いてすらいないようだが。
それに――
「樫枝、僕たちが並んだことを千佐都にメールをしておいてくれ」
「あ、はい」
力なく悟司が携帯を取り出す。
その様子を注意深く観察しながら春日は思った。
――やはり悟司は、昨日美早紀に会ってからどこか呆けている。
昨晩の自分とのこじれた関係についてもまだ完全に修復したとは言いづらいが、さすがにそれでもちょっと気後れしすぎなのではないだろうか?
……どこが「俺はもう大丈夫ですから」だ。
たまらず、心の中でそう吐き捨てる。
千佐都に関しては、さすがにあれだけの辛い過去があったのだから、何も言うことなんて出来ない。むしろいくらでも同情してやりたいほどだ。
だが、悟司は“そう”じゃないじゃないか。
そりゃあ人には色々あって、一括りには出来ない側面もある。悟司の過去は悟司にしかわからない。自分が思っている以上に、悟司には痛みのある思い出だったのかもしれない。
そんなことはわかっている。
でも……それにしても、こいつはあまりにも周りが見えてなさ過ぎだろう。
あの千佐都ですら、今こうしてはっきりとけじめをつけてここに戻ってこようと努力しているのに。
それなのに、こいつはまた――
腹立たしくなって、思わず春日は悟司を睨みつけた。
いっそ、いつもの調子で思いのままをぶつけてやろうかと思った。
だがその思いは、即座に自分の心へ押し込めた。
鵜飼のことを思うと、とてもじゃないがこれ以上喧嘩を勃発させることは出来ない。
――今日の同人イベントに来る人ってのは、そりゃあもう数ヶ月前から楽しみにして来てくれる人なわけだ。
そんな鵜飼の気持ちを、これ以上こちらの身勝手な理由で振り回したくはない。
いまだかつてないほどのストレスが、春日を襲った。
こちらが押し黙ることでうまく行くならばそれにこしたことはない。鵜飼のイベントは無事終了させる。悟司にはその後できっちりと話せば良いことだ。
わかってはいても、苛立ちは収まらなかった。
※ ※ ※
それから数十分ほどして、千佐都がやってきた。
「ちさ姉、大丈夫ですか?」
月子の言葉に、千佐都はいつもの快活な笑顔を向ける。
「うんっ。何度も言うようだけど……ホントごめん」
「もうそれ以上謝るなよ。僕たちは何も気にしてない」
春日が言うと、千佐都は照れくさそうに鼻をかいた。
「へへ……。そだねっ。わかった」
そこで、千佐都がくるりと悟司に振り返る。
「あたしらも来年、いや、半年後にはここに来るわよ――って、悟司?」
悟司は携帯画面を見ながら、かちかちとボタンを押していた。
それを見て、春日の胸が一気にざわついた。
「何してんの?」
「いや……ちょっとメールがきて」
「誰からメール?」
「いや、あの」
「――いい加減にしろよ、樫枝」
そんな春日の言葉に、悟司ばかりか、千佐都と月子も思わずぎょっとした。
明らかに、これまでのトーンとは別人のようだったからだろう。そんな自覚ははっきりとあった。
しかしこれ以上、我慢なんて出来るわけがない。
「先輩?」
悟司はわけがわからないといった顔でこちらを見る。
その面を思いっきりぶっ飛ばしてやりたい気分だった。
しかし、ぐっとこらえる。
極力控えめに、周囲の人に悟られないように春日は静かに悟司に言った。
「お前は、一体何しに東京に来たんだ……」
「一体何を――」
「もういいっ! それ以上美早紀のことばかりが気にかかるようならお前は……もうこのイベントを手伝わなくても良い……っ! 鵜飼さんには、僕からそう伝える」
その言葉に、月子ばかりか千佐都までもが息を呑んだ。
「美早紀って……あんたどうしてその子の名前を……」
「春日さんっ! どうして春日さんがその人の名前を――」
「――わかりましたよ。じゃあ、そうします」
二人の声を縫うように悟司はそう言うと、春日を睨みつけながらそのまま背を向けた。
その姿に、春日は心底呆れかえってしまった。
「本気で……僕は、本気でお前を見損なったぞ……っ! 樫枝……っ」
「……先輩がなんで怒ってるのか意味不明ですけど……そう思われたのなら、すみません」
その皮肉めいた口調に、頭に血が上りそうになった。
思いっきり怒鳴り散らしてやりたい。
でも、耐える。
そんな状況じゃないことはよくわかっていた。
これが精一杯だ。
自分の出来る、精一杯の最善策だった。
「ちょ、ちょっと悟司! かすがっ! 一体どういう……」
千佐都が後を追おうとすると、悟司は背を向けたまま手を挙げた。
「ついて来なくて良い。夜には、ちゃんと帰るから」
「あんた、なにをバカな――」
それでもそのまま駆け出そうとする千佐都を、春日が手で制した。
「かすが? ちょっと、どうして悟司を行かせちゃうのよ?」
「……いいんだ」
「いいんだって――ちっとも良くないじゃないのさっ!」
「いいんだって。鵜飼さんもそう言ってた」
出来る限り、安心させるような声を取り繕う。
「理由は……あとで聞かせてくれるんでしょうね?」
「そうだな。でも、たいしたことじゃない」
「たいしたことじゃないって……あんたの様子見てたらさすがに――」
「いいから。本当にたいしたことじゃあないんだ」
春日は――そこで、静かに笑ってみせた。
普段は滅多に笑顔など見せることはないが、この時ばかりはどうしても必要だと悟った。
――千佐都達が、安心してイベントに取り組めるように。
その裏で、心の中は怒りに充ち満ちていた。
悟司の後ろ姿を見るだけで、激昂して何もかも発散したくなる。
だが今は、そうすべきではない。
絶対にそうすべきではない。
これ以上、混乱など起こさせてたまるか。
自分は、シュガーのメンバーの中でも最年長なのだ。こういう時こそ、しっかりしないでどうする。
笑顔が、今の春日に出来る全てのことだった。
「今はとにかく鵜飼さんの売り子に徹しよう。どうせ途中で樫枝も戻ってくるさ」
……絶対戻ってなど来ない。
春日は心の中ではっきりと思った。
――樫枝、僕はお前を許さない。
一般開場の時間は、もうわずかだった。
開場して、しばらくは人の流れに逆らうことは不可能だった。それでもどうにかして鵜飼のブースまで三人がたどり着くと、先に鵜飼と一緒に入った売り子さんから、簡単なお金の流れの説明を受け、共に頒布の作業を手伝うことになった。
そうしてあれよあれよという間に、時刻は昼の二時。CDはわずか一時間もしないうちに完売してしまい、そこで三人はまたしても鵜飼の実力に舌を巻く思いをしてしまうのであった。
ほどなくして撤収の準備に入ったところで、鵜飼が千佐都達の目を盗むようにして春日を呼んだ。
春日が鵜飼に、悟司のいきさつを説明すると、
「そっか。ま、しゃーないわな」
と、実に軽い感じで息を吐いた。
「すみません……。本当に」
春日が頭を下げると、鵜飼はからから笑いながら、
「いーっていーって。それより悟司くんが言ってたメールって、やっぱ美早紀って子からなのかねー?」
「……そうとしか思えませんでした。完全に携帯画面に没頭してましたし」
「でもさ、もし本当に美早紀って子からのものじゃなかったらヤバくね? そうすると、悟司くんが言ってた通り、本当に春日くんが空回りして怒ったことになるわけだし」
「……あ」
言われて春日も、呆然とする。
確かに、いささか早とちりが過ぎたかもしれない。そうして考えれば考えるほど、どんどんそうじゃないかという気分になってくる。なんてバカなことを。
「まぁでもやっぱ、きっと美早紀って子からだろうね」
「はっ?」
鵜飼が飄々と言い放つ。
「オレさ、実は美早紀って子を最初に見た時、どこかで見たことある気がしたんだよね」
そう言って壁にもたれかかると、そのまま鵜飼は天井をぼんやりと見つめた。
「あれさ、白石アキラの息子がやってる『devil』ってバンドの女ギタリストだ」
「白石……アキラって、あのバンドブームの頃に一世風靡したバンドのボーカリストじゃないですか!」
思わず、そう大きく声を上げてあげてしまった。
周囲の人間がこちらを振りかえるのを見て、鵜飼がしーっと人差し指を口の前で立てた。
「……す、すみません。ついびっくりして。まさか、いきなり白石アキラの名前が出るなんて思わなくて……。でも、なんで鵜飼さんはそのことを?」
「深夜にやってる妙ちくりんな音楽番組で紹介されてたんだよ。ライブシーンが映っててさ、全く興味なかったけど、その時はたまたまぼんやりテレビ観てたから記憶の片隅にはうっすら残ってたんだよ」
「なるほど」
しかし、そんな繋がりがあの女にあるとは思わなかった。ついでに言えば、その女と知り合いの悟司にもびっくりなのだが。
「まぁオレも、息子がいたってことをテレビで知って、『へぇー』としか思わなかったんだけどさ。これ、下手すりゃとんでもない話になりそうだと思わない?」
「とんでもない話って?」
鵜飼が春日をちらりと横目で伺う。
「その様子だと絶対知らなさそうだねえ……実は今、動画サイトの方で君たちのユニットがでかでかと紹介されてるんだわ」
「えっ!?」
またしても春日がデカい声を上げる。
はっと口を手で押さえると、
「本当なんですか?」
「うん。さっきも一度確認したからね。もう君たちの曲の再生数、二十万再生とかなってんのよ。でさ、昨日悟司くんがあの女になんて言ったか、はっきり覚えてる?」
「しゅ、シュガーのことを、紹介してましたね……」
「そう。でもまさかねぇ……。白石アキラの息子が、悟司くんをどうにかするなんて、普通に考えればまずあり得な――」
「――あ、いたいた」
そこで、千佐都が二人の横からひょいっと顔出した。
「二人して、なに撤収の準備サボってんの。イラストレーターの子達もみんな、鵜飼のことを探してたんだから」
「悪い悪い」
へらへら笑いながら、鵜飼が千佐都の横を通り過ぎてブースへ戻ろうとした。
「そういえば、さっき悟司から電話きてさ」
鵜飼の足と、春日の足が同時にぴたりと止まる。
「なーんか、深刻そうな声で『そっちのイベントが終了したら、みんなで新宿に来てくれないか』って。ねぇかすが、あいつ美早紀って子に会いに行ってんの? どーして、終わってから行けないかなぁあいつは。いくら懐かしいからって言っても――」
「千佐都……なぁ、それ本当か?」
春日の顔を見て、千佐都はぎょっとしながら目を見開いた。
きっと自分が思っている以上に、顔が歪んでしまっているのかもしれない。
「う、うん……。つっきーもかすがも、あたしも皆で来てくれって……」
「――オレも行くわ」
鵜飼が千佐都の方を振り返りながら、そう告げる。
「悟司くんは嫌がるかもしれんけど、ちょっと黙ってられんね。この状況じゃ」
表情はいつも通りだが、鵜飼の言葉の端々には静かな憤りが見え隠れしていた。
そんな鵜飼と、春日を交互に見ながら、千佐都はぽかんと口を開ける。
「……なんなの? 二人とも」
イベント会場の外では雨が降り出していた。
※ ※ ※
イベントが閉場し、貸し出しされた机の返却やその他諸々の撤収作業を終えて全員が外に出る頃には、既に夜の八時を回っていた。
手伝ってくれていたイラストレーターの売り子さんたちにギャラの分配を済ませて別れると、コンビニで買ったビニール傘をさして鵜飼が呟く。
「――新宿に着く頃には九時を回ってそうだな」
それに対する三人が黙々と傘をさす。
皆、嫌な予感を心の中に抱いていたのかも知れない。
春日もその一人であった。
今になってあの時、悟司を行かせてしまったことを後悔し始めていた。もしあそこで、自分がもっと心を静めていればと。
だが、そんなことを今更思ったところでもう遅い。
「――あ、弘緒?」
その声で振り返ると、鵜飼が弘緒に電話をかけていた。
「悪い。今日、帰り結構遅くなりそ――いや、今日は酒じゃない。そういうんじゃない。理由はまぁ帰ったら話すわ。そんじゃ」
そう言って電話をしまい込むと、くるりと鵜飼が三人の方を向いた。
「んじゃ、行きますか」
※ ※ ※
新宿に着くと、千佐都があらかじめ聞かされていた場所まで四人で向かう。
着いた場所は、いかにも高級そうな焼肉店であった。
「……焼肉屋だってのは聞いてたけど、これって芸能人御用達の超有名店じゃない……」
「ほ、本当にここなんですか? ちさ姉」
月子に促されて、千佐都は何度も携帯の地図とメールに記載された住所を確認する。そんな千佐都の前に、さっと鵜飼が先を行く。
「多分ここで合ってるよ」
言うなり、そのまま入り口のドアを開けて中へと入っていった。
「あ、ちょっと! 鵜飼っ」
そのまま千佐都が後に続く。
「……鷲里、僕たちも入るぞ」
春日がぽんと月子の肩を優しく叩いて、ドアを引いた。
そうして全員が店の中に入ったのを確認して、鵜飼が店員に告げた。
「白石ってヤツ、ここにいませんか?」
「あ、白石さんのお連れの。お話は伺っております。どうぞこちらへ――」
そうして案内されるまま、四人が奥へと向かうと、
「――お、きたきた。こいつらだろ? 樫枝」
そんな、汚らしいガラ声が春日の耳に届いた。
見ると、右から悟司、美早紀、それにその声の主が座っている。どうやら、こいつが白石アキラの息子のようだ。見るからに高そうなシルバーアクセのごつい指輪を身につけながら、頬杖をかいてこちらを眺めている。
気になるのは、悟司の座っている席だ。
――どうして悟司が美早紀側の方へ座っているのだ?
春日がそう口を開こうとしたところで、
「――どうして……」
突然、横にいた千佐都がぽつりと呟いた。
そのさらに奥にいた月子も顔を真っ青にして席についた三人を凝視している。
「どうして……悟司が、その男と一緒にいるの……? どうして……」
さっぱりわけがわからない春日をよそに、白石の息子があっと声をあげた。
「てめぇ……お台場の時のクソ女じゃねぇか」
悟司と美早紀と、春日が一斉に千佐都を見る。
そこで千佐都の身体がふらりと揺れた。
「千佐都!!」
急いで、春日がその身体を両手で支えた。
肩が小刻みに揺れている。月子から話を聞いた時には、いつもの調子でバカをしただけだと高をくくっていたのだが、この様子を見る限りよっぽど怖かったのだろう。
「だ、大丈夫……よ。ちょっと、びっくりしただけ。へへ……」
そうは言ってみるも、完全に腰が抜けかけている。
「おいこら、てめぇあんときは――」
白石の息子が立ち上がろうとするのを、美早紀が手で制した。
「……もういいでしょう。その話は」
「よかねぇよっ! 赤っ恥かかされたんだぞ!」
そう睨みつける白石に、美早紀がきゅっと目を細めてささやく。
「せっかく話がまとまってきてるのに……ここで台無しにしたいの?」
「ぐ……っ」
美早紀の言葉にぎゅっと唇を噛むと、渋々といった様子で白石が再び席についた。
「……春日さん」
月子が千佐都と春日の元にやってくる。
「ちさ姉を外に連れて行きます……だって、このままじゃ」
「大丈夫……よ。つっきー」
「でもっ!」
千佐都が春日に向かってすっと手を挙げる。
それを見て春日は、そのまま肩を掴んでいた手をゆっくり離すと、
「意味わかんないけど……。なんで悟司が、あいつと一緒にいるのか……ぜんっぜん、これっぽっちもイミフだけど……これからその話をするってんなら、あたしはここにいる」
「千佐都」
ついそう声をかけてしまう春日に、千佐都がにっと笑ってみせる。
「ありがとね。支えてくれて」
そうして、四人は美早紀に促されるまま席についた。




