第十三章『溢れ出す、12さじ目』(1)
――岩倉美早紀。
その言葉をこの日、春日は初めて悟司の口から耳にした。
それは、売り子さんとなってくれるイラストレーターさんとの話が何事もなく終了し、歌舞伎町で遊んでいこうぜと言って聞かない鵜飼をなだめている最中の出来事であった。
三人の元に、突然彼女は現われた。
現われた、という言い方にはちょっと語弊がある。
実際彼女自身は東京に住んでいるのだし、現われたというならば、それはむしろ自分達の方なのだから。
とにかく、そんな彼女と、悟司が出会った。
以来、悟司の様子がどこかおかしいことに、春日はほんのり気付いていた。
どこか浮き足立っているというか、ぼんやりとし続けている。打てばしっかりと響くのだが、どうにも心ここにあらず、と言った風で落ち着きがない。
現に今も、夜の十二時を回り、朝は七時起きでイベント会場に向かわなくてはならないにも関わらず、悟司は布団に潜ったまま目をぱっちりと開けて天井を見つめていた。
「樫枝」
春日が声をかけると、悟司が少しだけ身体を起こしてこちらを見た。
「なんです? 先輩」
まだ少し酔いの回った頭で、春日は悟司に尋ねた。
「今日会った、あの美早紀という女性は何者だ?」
「何者って」
苦笑いしながら悟司が答える。
「先輩ですよ。高校の時の」
「もしかして、ギターを教えてもらったとかいう人か」
「ええ」
「付き合っていたのか?」
「ええっ!?」
春日が悟司の枕元にどっかり腰を下ろす。
「隠すなよ。僕とお前の仲じゃないか。幸いここには女性陣もいない。鵜飼さんも」
春日が親指を向けると、既に鵜飼は高いびきをかいて爆睡していた。
「な? ここには僕とお前だけしかいない。そして僕は口が堅い。安心して良いぞ」
悟司は少しだけ迷ったようにしてから、上半身を起こして春日を見た。
「前に千佐都達にも聞かれたんですけどね……まぁでも、先輩にはもう少し言っても良いでしょう」
「おう、なんでも言ってくれ」
「付き合ってました」
「なんだと!?」
怒りをこめて悟司を睨みながら立ち上がると、
「け、形式上のお話ですよ! 実際には何もしてません」
「なんだそうか」
その言葉にほっとして春日は腰を下ろした。
「で、どうして何もしなかったんだ?」
「なんですか、その切り替えの早さは……」
悟司はジト目で春日を見ると、淡々とした口調で言った。
「ギターを教えてもらってから、一ヶ月ほどしたくらいです。唐突に、美早紀さんから付き合ってくれないかって」
「おお」
「俺は二つ返事でオーケーしました。でも、どうしてかと尋ねてみたくなったんです。もちろん、既にずっと音楽室に通い詰めていたこともあって、既成事実的な側面はありましたが、それでも俺は確認してみたかったんです。そしたら彼女は『その方が、都合が良いから』と」
「んんん?」
よくわからない。それは一体どういう意味なのだろうかと春日が口を開く前に、
「気を張り続ける普段の彼女にとって、俺は実に都合が良い精神安定剤だったんですよ」
「精神安定剤?」
「ええ。現に、卒業するまで俺は彼女の相談相手になった。美早紀さんがバンドやってたって話、したことありましたっけ? 地元で有名だったって」
春日は首をふる。そこで悟司は春日に、簡単なバンドのいきさつを話した。
「――そんなわけで、彼女は、本来自分がやりたかった音楽と、そのバンドの方向性にずっと苦悶していたんです。だから俺は、愚痴を延々と聞かされる立場になったというか」
「いわゆる相談役ってわけか」
「そうです」
悟司が頷く。
「都合の良い男でしょ? 俺って」
「付き合っている、と言えるのか? それは」
「だから形式上って意味はそういうことなんですよ」
そこで春日はふぅんと低く唸ってみせた。
「しかしなんだって、美早紀とやらはそんなことを言い出したのだ? キスもハグも、それ以上の行為にも及んでいないわけだろ? 彼女の気持ちが全く見えてこないぞ」
「あ、キスはしました」
「なんだと!?」
再び怒りをこめた口調で春日が立ち上がる。
「ほ、ほっぺだけですって!」
「……そうならば、早くそうと言え」
ぞんざいにどすんと腰を下ろす。
「とにかく、そうして俺は都合の良いキャラを演じつつ、彼女からギターを教わり続けていたんです。そうして気付けば年が明けて、雪が多く積もっていた時期でした。俺は先輩に呼ばれて近くの繁華街に呼ばれたんです」
「雪の日にか?」
「雪の日に、です。二月くらいだったかな?」
悟司は記憶をたどるように、虚空を見つめて言った。
「会うなり……彼女は泣いてました。メンバー間でかなり険悪ないざこざがあったみたいで、俺はいつものように彼女を支える都合の良い男に成りきっていたんです」
鵜飼のいびきが止まる。
「その時から、ぼんやりとは思ってました。きっと彼女のバンドはこれ以上、そんなに長くは続かないだろうって――現に、美早紀さんが卒業してからバンドは解散しましたし」
「…………それで?」
「美早紀さんは――俺にキス以上の行為を要求してきました」
春日は茶化さずに、黙って悟司の言葉に耳を向ける。
「間違いなく自暴自棄だと思った俺は、彼女の要求を拒否しました。そんなことで得られる一時の逃避行為は、ただ余計に彼女自身の心を傷つけるだけだって思ったんです。そのようなことを彼女に話したら、『悟司くんだって、ずっとあたしとそうなりたいって思ってたくせに‼』って」
沈黙が生まれる。
「……そうですよ。事実、その通りだった。でも、俺にとっての美早紀さんは、憧れでもあり、尊敬の対象なんです。それを――こんなつまらない流れでぶち壊したくなかった」
「その――」
悟司の興奮を制するように、春日は遠慮がちに口を開いた。
「そのお前の――身勝手な幻想が、逆に彼女を傷つけたとは、思わんのか?」
「……え」
「樫枝の抱いていた、美早紀という女性に対する一方的な憧れが、彼女をまた深く傷つけていた……そうは思わないか?」
少しだけ考えてから、悟司が俯く。
「そう……かもしれないですね。俺は、きっと無意識に美早紀さんを傷つけていた。ギターを教わって、彼女の持つ楽器の表現力に圧倒されながら、俺は彼女を理想化していたのかも」
「きっと、そんなお前の思いに、美早紀先輩とやらは気付いていたかもしれんな」
「……でしょうね」
弱々しく笑みを見せる悟司。
「だから、先輩は卒業と同時に俺の前からいなくなったと。俺はそう思います。他の周囲に一切の弱みを見せなかった彼女が唯一弱みを見せられたのが、俺なんです。そんな俺からも拒絶されてしまった彼女は――」
「こうして、今東京に来て別のバンドをしているってわけか……」
ようやく繋がりがわかった春日は、そこではたと考える。
つまり、彼女――美早紀にとって、悟司とは思い出したくない過去の男なわけで。
そんな彼と偶然にも出会ってしまったことを、果たして今の彼女はどう思っているのだろうか。
他にもあった。
そうして痛い別れを経験したはずの悟司が、なぜあれだけ嬉しそうに彼女へ言葉をかけられたのだろうか?
嫌な不安が頭をよぎった。
「あのな、樫枝」
「なんです?」
まさかと思って、春日は尋ねる。
「お前まさか、彼女の力になれなかったことを今でも後悔しているんじゃないのか?」
いや、今のは言い方が悪い。
春日はすぐに手を振って、今言ったことへの修正をうながすように、今度はまっすぐ悟司を真正面に見据えて言った。
「お前まさか、今日彼女と出会ったことで、今度こそ彼女が困っている時には力を貸せるなどと、そんなバカなことを考えてたりしていないだろうな?」
「まさか」
悟司がふっと笑い飛ばすように口元を歪める。
「関係のやり直しってことですか? 過去の失敗を埋めるための? そんなことをして、美早紀先輩が喜ぶはずが――」
「では喜んだら、お前はそうするのか?」
「え……」
突如、うろたえだす悟司に向かって春日はなおも言う。
「お前、もしかして今日彼女と会って、『今度こそ自分は間違えない』とか思ったんじゃないのか。それに――お前は気付いてしまったんだろ? 過去の美早紀と交わした、多くの自己経験と照らし合わせて、『もしかしたら、彼女はまたしても困っているんじゃないか』と。彼女の表情からそのことを敏感に勘づいてしまったんじゃないのか、お前は」
悟司は、勘の鋭い男である。普段はぼーっとしているが、空気が変わると一瞬でそれに気付いてしまう人間だ。
先ほどの千佐都のおかしな態度も即座に勘づいていた。コミュ障人間の、とんだ副産物なのかどうかはわからないが、悟司は普段ぼけーっとしている割にここぞという時は何故か非常に周りをよく観察している。
周囲をよく見るという意味では、月子もそうだ。彼女は悟司よりもさらに周りをよく観察している。それこそこちらとしても、つい軽率な行動は控えてしまうほどに。
彼女ほどではないが、それでも悟司は常人よりもずっと表情を伺うのが得意だった。それが、数ヶ月ほど一緒に過ごしてきた春日の悟司に対する評価だった。
そんな彼がだ。
偶然にも街でばったりと、過去に苦い経験をしたはずの女性と出会ってしまった。
それなのに、あんな嬉しい表情をすぐに出せるのはあまりにも不自然なのではないだろうか?。 いやもちろん、単純に再会出来て嬉しかったとも受け取れる。むしろ、そういう風に見るのがこの場合ずっと自然な考え方ではある。
でも――
春日は、悟司が後者の意味で“そういうことが出来る”人間にはどうしても思えない。なぜなら悟司は、そこまで正直な感情表現を表に出せるような性格ではないから。
こいつが正直なのは、口先だけだ。
「――や、やだなぁ、先輩」
悟司がぎこちなく笑う。完全に目が泳いでいた。
「俺はテレパスじゃないんだから、そ、そんなバカなこと出来るわけが……」
ほらみろ、と春日は反応を見てすぐに思う。
こいつは基本的に嘘が下手くそなのだ。
「樫枝、問題はそこだけじゃないんだ」
これは、忠告のつもりだった。
「問題は、そんなお前の好意を、意識的にせよ無意識的にせよ美早紀という女が利用しているかもしれない、という点だ。もっといえば、僕は『都合が良い』という発言からも彼女が意識的に――」
「――先輩」
だが、その言葉は最後まで言い切ることなく、悟司によって牽制されてしまった。
「……美早紀さんのことだけは、悪く言うの、やめてもらえませんか」
悟司は、明らかに敵意の目を剥き出しにして春日を睨みつける。
「俺のことは何言っても構わないですよ。でも、彼女のことだけは、悪く言わないでください」
そこまで言うと、悟司はのそのそと布団を頭の上まで被ってしまった。
……はて。今回でこやつとは、一体何度目の衝突になるのだろう?
珍しくこの時の春日は、頭の中で冷静にそんなことを考えていた。
朝の七時。
弘緒に叩き起されるようにして、布団を出た春日達はそのまま階段を下りてリビングへと向かった。
そうしてテーブルに腰をかけるシュガー四人。
皆、一言も口を開こうとはしない。
とんでもなく気まずかった。
「ふぁ……これ食べたら、さっさと出るか」
鵜飼と、シュガー四人の前には、弘緒が用意したジャムトーストが差し出されていた。悟司と千佐都は、互いが互いに「いただきます」とか細い声でつぶやくと、黙々とそれを口に運ぶ。
春日は鵜飼をちら見した。このギスギスした状況を、持ち前の明るさで笑い飛ばしてくれないかと期待したのだが、どうもその事に気付いていないのか、そんなことをする素振りすらみせない。
仕方なく春日もトーストを手に取ると、そこで月子と目が合ってしまった。
――悟司くんと、何かあったんですか?
そんなニュアンスっぽい目線を月子が向ける。そう思うだけで、もしかしたらそんなアイコンタクトはしてないかもしれないが、一応春日も目で返事をしてみようと試みる。
――昨日の夜、ちょっと樫枝を怒らせてしまってな。
ぱちりとウインクまでしてみせる。通じるだろうか。
そんなことを思って月子を見ると、月子はトーストを咥えながら両目を交互にぱちぱちさせて春日に何かを訴えていた。どこか驚いているように見えるのは気のせいだろうか。
とりあえず解読を試みる。
――悟司くんは、そんなにジャムトーストが嫌いなんですか?
やたらと自分の咥えているジャムトーストを見つめているのでそんな風に映る。違うだろう。僕が言いたいのはこういうことだ。
春日は両目を左右に動かして否定のかぶりを振っているように合図してみた。
――違う。ジャムが原因じゃない。
対して月子。
――バタートーストが嫌いとか?
――トーストから一旦、思考を離せ。
――じゃあこのコーヒーですか?
「……何をしてるんですか」
呆れたように月子の隣で弘緒がそう言った。
「い、いや。僕はただ鷲里のヤツに昨日の夜はどんなだったかと目で聞かれたもんだから――」
「う、ウチは春日さんがウチのトーストを物欲しそうに見つめていたと思ったら、急に目を左右にぎょろぎょろさせるから、怖くて……」
アイコンタクトなど、一つも出来ていなかったことを痛烈に思い知る。
「アホですか、あなたたちは」
言い返す事もままならない弘緒の罵倒に二人がしゅんとする。
「相変わらずだなーお前ら」
くっくと可笑しそうに鵜飼が笑う。
そんなこんなで朝食を済ませた五人は、弘緒に送られるまま家を出てイベント会場へと向かうこととなった。
悟司と千佐都は、相も変わらず浮かない顔のままだった。
※ ※ ※
「――春日さん」
現在、都内某所。一人先頭を行く鵜飼の後ろを、並ぶように歩く春日と月子。その後方、約三メートルのところに千佐都、さらにその三歩後ろくらいを悟司が歩きながら、ぞろぞろとイベント会場まで歩いている。
「悟司くんと、何かあったんですね?」
朝食時の会話で、そう気付いたのだろう。
もしくは現在の悟司の様子を見て、そう察したのだろうか。
「余計なことを言ってしまった気はするね」
少しだけ反省しながら春日はそう答えた。でも悪いことを言った気はさらさらない。あくまで客観的に、思ったままを述べただけだ。
美早紀という女のことはよく知らない。しかし、自分は悟司のことを少なくとも同姓としてかなりよく知っているつもりだ。大学の先輩後輩という間柄ではあるが、友人として、音楽のパートナーとして、かけがえのない存在だと思っている。
彼の機転によって、学祭の時は特に強く励まされた。その感謝だってずっと感じている。
だからこそ、悟司が迷いそうになったときは喜んで手を貸す。相談にだって乗ってやる。自分が出来る役割は、今以てきっちりと果たしているところだとはっきり自負していた。
「どうしよう……ちさ姉も元気ないし」
「そっちの方は、一体何があったんだ?」
月子はちらりと千佐都のことを振り返ってから、こそこそと事の経緯を、かなりかいつまんで説明した。
「なるほど。つまり妙な東京人に絡んでしまい、逆に絡まれて盛大に自爆したと」
実に千佐都らしい理由だ。むしろ、手を出されなかっただけでも幸運だと言えよう。
「で、でもウチは、必ずしもその若い男の人に凄まれたことが原因じゃないって思うんです。悟司くんに話した時も、そのことが原因じゃなさそうな反応でしたし」
「樫枝には何か心当たりでもあったのか? 千佐都がこうなるような」
「……多分」
……参ったな。
春日は苦笑いしながら、後ろを歩いている悟司をのぞき見た。
そんな当の悟司は、現在春日と絶賛冷戦中なのだ。これでは本来聞き出せたはずの情報すら聞き出せないではないか。
なんとまぁ、最悪なタイミングで喧嘩してしまったものだ。そう思いながら、春日は再び前を向く。
しかし東京人に絡まれたこととは別の話となると、一体千佐都はどんな理由で沈んでいるのだろうか。
聞いた話を単純に考察すればそれ以外、全く思い当たるふしがないのだが。
「鷲里は何か、樫枝のやつから少しでも聞いていないのか?」
春日が尋ねると、月子は難しそうな顔をして顔をあげた。
「……悟司くんの言った感じだと、ちさ姉の今回のケースは、夏の頃の時と似てるって」
「夏の頃?」
「ほら、春日さんの家を飛び出していったときの」
言われて春日も思い出す。曲をネットの連中からぼろくそ言われた時のことだ。
しかし、それだけの情報ではさっぱりわからなかった。あれは単純に、歌詞を批判されてショックを受けただけじゃないのか?
その時、千佐都はどのように元気を取り戻したのだろうかと思って、そこで悟司のことが思い当たった。そういえば、あの時は悟司が千佐都を連れ戻しに来たのだ。
なるほど、と思う。
その時に悟司は、今回のケースと似たような状態になった千佐都を慰めにかかった。だから、悟司は今回の一件で何か勘づいたところがあったのだろう。
「ややこしいことになってきたな」
たまらず春日が頭をかきむしる。
この現在の状況の厄介なところは、ここでもし千佐都が普段のような明るいキャラでいてくれたのなら、目下冷戦中である悟司との関係も簡単に修復出来そうなところだ。
逆に、春日が悟司と冷戦状態にならなかったら、悟司は千佐都のことをきっと元気づけていたに違いない。
つまりどっちかが潰れていなければ、いずれは修復出来た問題。
もしかすると……これは、ユニット創設以来の大ピンチなのではないか。
「悟司くんと、ちさ姉に、いつも頼りすぎていたんでしょうか……?」
ぽつりと月子がそう漏らす。
「いつもあの二人って、互いが互いを支え合っていたじゃないですか」
「ううむ」
唸る春日に、力なく月子がうな垂れた。
「ウチはもう……こんな空気耐えられません。だからちさ姉に、思い切って聞き出してみようと思ってるんです」
「聞き出すってなにをだ?」
「どうして急に元気がなくなったのかを、です。原因がわからない以上、やっぱり直球で聞くしかないじゃないですか」
「待て。それは僕がお勧めしない」
月子がきょとんとする。
「どうしてですか?」
「もしそれが、とんでもないトラウマだったらどうするんだ。思い出したくもない最悪の過去を掘り起こすことになるんだぞ?」
「…………あ」
短く口からこぼれるように声を漏らした後、月子は再びうな垂れてしまった。
「そう……です、よね。原因がわからない以上、その可能性だって、あるんですよね」
「樫枝の話だけじゃなく、これまでの会話の中にも、なにかヒントはなかったか? そういうところから洗っていくしか、もう方法はないだろ」
「これまでの会話って――あっ」
そこで、月子がぱっと顔を上げる。
「そうだ……どうして今まで忘れていたんだろう。ありました。お台場で、ウチが尋ねたんです。あまりにも子供のあやし方が上手いもんだから、つい『兄弟がいたんですか?』って――」
「そしたら、なんて言ったんだ千佐都は?」
月子が春日の方を振り向いた。
「『うん。いたよ』って。でも考えてみれば変じゃないですか? それって」
「変って……どこも変じゃないぞ? 千佐都に兄弟がいようがいまいが、別に――」
「そうじゃないです」
かぶりをふって月子が続ける。
「変なのは『いる』じゃなくて『いた』ってところですよ!」
「……あっ」
言われて春日も声をあげる。
「普通、兄弟がいるなら、『いた』なんて言い方はおかしいですよ。過去形ですし。なんで今まで気付かなかったんだろう……ちさ姉のイントネーションがあまりにも普通で。考えてみれば、それって普通におかしいことなんですよね」
「でも……考え違いかもしれんぞ。ただ単に言い間違えただけかもしれないし」
「かもしれません。でも、そう考えるとしっくりくると言うか……一連の流れの経緯が見えてきませんか? なぜあの時のちさ姉は、あんなに男の子に優しかったのか。そして、その後でなぜ急に元気を失ったのか――過去にちさ姉には兄弟がいて、それが、なんらかの原因で今は手の届かないところにいると考えれば」
春日は自分の妹の三睦を思い浮かべる。あんなうるさい妹でも、もし過去に生き別れになったと思うと少しは――
いや、ダメだ。とてもそんな気分にはなれん。
首を振って三睦のことを頭から追い出すと、
「じゃあまぁ、仮にそれがヤツの元気を直接奪ってる原因だとしよう。それで、月子は千佐都に一体どういう処置をほどこすつもりだ?」
春日の言葉に、しばらく悩んでから月子が言った。
「何もしません――というと勘違いされそうですね……。見守り続けます」
「つまり自然回復を待つ、と」
「セラピストにはなれません……。でもウチに出来ることがあれば、なんでもしてあげたいです」
「そうだな」
優しい奴だと思う。まっすぐな月子の思いに、春日は鼻をかいて頷いた。
「着いたぞー」
くるりと鵜飼がこちらに向かって振り返ったところで、二人の会話は終了した。
千佐都と悟司が追いついてきたところで、鵜飼は唐突にこう切り出した。
「んじゃ君たちは、このまま一般会場が始まるまでここで」
「「「「は?」」」」
シュガーの四人がぽかんとする間も空けずに、鵜飼はサークル入場証を取り出して見せた。
「これ、実は四枚しかありません。オレと、他の売り子さん三人の分」
「ちょ……」
千佐都が何か言いかけるも、鵜飼は片手でそれを制する。
「実はさー、昨日言おうと思ってたの。君たちは一般入場でしか入れないから、オレよりも少し遅れてきてねってさ。でも言えなかった」
「な、なんでですか」
ようやく春日が口を開いたところで、四人をぐるりと見回しながら真面目な顔になって鵜飼が口を開いた。
「だって君らの空気、最悪だったじゃん」
そうして再び入場証をふところにしまいこむと、
「お願いして東京まで来てもらったことは、素直にありがたいと思ってるよ。でもね、オレが頼みたいのは君たちのそういうところじゃないんだよ。わがままかもしれんけどさ」
「そういう……ところ?」
「ギスギスしてると・こ・ろ!」
わけがわからないといった顔の悟司に向かって、鵜飼は厳しく言い放った。
「今日の同人イベントに来る人ってのは、そりゃあもう数ヶ月前から楽しみにして来てくれる人なわけだ。そんな人達に、オレはそんなギスギスした四人を立たせたくはないね。冷たい言い方かもしれないが『そんな状態なら来なくて良い』とすら思っちゃう。でもさ、一応オレも呼んで頼んだ側だし、そんなキツいことは言えない」
いや、言ってるじゃんと四人が全員そんな生ぬるい視線を向ける中、鵜飼はようやく固い表情を崩して春日たちに言った。
「だから、ここでしばらく仲直りのお時間を与えます。開場した時にはせめてもっといい顔でいてくれよな。お願いだから」
そこまで言うと、突然鵜飼は春日に向かって手招きをした。
なんだろうと思って近付くと、鵜飼は春日に耳打ちをしながら、
「……多分、うまいこといかない気がする」
と告げた。
「どういう意味ですか?」
春日も声を落として、鵜飼に尋ねる。
「千佐都ちゃんに関しては、オレもよくわからないからなんとも言えないけど……悟司くんは、きっと夕べの様子じゃまともにこちらの話にも耳を貸さないんじゃないかと思う」
「そんな……。それじゃ――」
春日が悟司たちの方を振り返ろうと顔をあげると、鵜飼は春日の方に腕を回して無理矢理自分の方へ向ける。
「いいんだ。それならそれで。ほら、あの子って頑固だから。オレだって、何度も悟司くんとネット通話してるんだし、それくらいはとうの昔に想定済みだ」
「じゃあ僕は……一体どうすればいいんですか?」
「春日くんは千佐都ちゃんの方を気にしながら、全員の様子を丹念に伺って自らが最良だと思う判断を取ってくれればそれでいい」
そのなんとも抽象的過ぎる発言に、春日は首を捻ると、
「頼むぜ、グループ最年長の雑用係さん」
そうして四人の前から離れると、鵜飼は一人サークル入場口の方へと向かって行った。ちょうど入り口前には、昨日の打ち合わせの際にいた売り子さんたちが立ち止まっていることに気付く。春日はそんな四人をぼんやりと眺めながら、
「どうしろって言うんだよ……」
と漏らした。
「どうかしたんですか?」
月子が不安気な顔をして春日の元に駆け寄る。
「いや、なんでもない」
そう手を振ると、そのまま春日は悟司の方へ振り返った。
相も変わらず、悟司はどこか放心状態でぽーっとよそ見をしている。
「どうすれば良いんでしょうかね……いきなり仲直りと言われましても」
そんな俯く月子の肩を、春日はぽんと叩いて言った。
「千佐都のことは……とりあえず鷲里一人に任せてもいいか?」
春日の言葉に、月子は少しだけ顔を曇らせたがすぐに首を左右に振って強く頷く。
「……悪いな。どうもそっちの方は力になれそうもない」
「いいえ。……いつも人に頼ってばかりですし、今日くらいはウチが」
そう言って、月子は千佐都の元へと歩いて行った。
そんな月子を見送りながら、春日は再び悟司の方へと向き直る。
「樫枝」
それまで、上の空で遠くを見つめていた悟司が、まっすぐ春日を見つめ返した。
「言っとくが、僕は昨晩の件に関して謝るつもりはないからな」
「先輩」
きゅっと、ほぼ視認出来ないレベルで悟司の眉間がわずかに動いた気がした。
「ただ誤解をするな。僕は、美早紀とやらを悪く言ったわけではない。お前のそのお人好しな面を利用したくなる人間など、世の中にいくらでもいると言いたいのだ」
「俺が、お人好し?」
「そうだ。美早紀だけじゃない。僕だって利用している」
春日は千佐都と月子を指さす。
「彼女らだって、きっとそうなのだ。意識的か無意識的かはわからんが、少なくとも僕はお前を意識的に利用していた。自分一人では音楽で大成出来ないとわかっていたからな」
「今は――そうじゃないんですか?」
「……そうだな。今はどちらかというと、お前の行く末を間近で見ていたい気分だ」
本心だった。
春日の言葉を聞いて、悟司が俯く。
「俺なんか……美早紀さんと比べたらたいしたことないですよ」
「それは、僕自身が彼女の曲を聴いていないから判断のしようがないことだ」
悟司の拳が強く握られるのがわかった。
「美早紀さんが……俺を利用なんてするわけがない。先輩は……何もわかってないんですよ。俺はちっともすごくない。世の中にはもっともっとすごい音楽家がいて、そのどれもに劣っているって自覚してるから、俺は――」
「樫枝、それはお前が判断することじゃない」
悟司が顔をあげる。
いつか、言おうと思っていたことだった。
春日は真正面から悟司を見据えると、一呼吸置いてゆっくりと口を開いた。
「それを判断するのは、僕や周りの人間。そして、多くのリスナー達だ」
「多くの――」
「そう。だから――」
「悟司、かすが」
いつの間にか、千佐都が二人の元にやってきていた。
そのすぐ後方で、月子が春日に向かって小さく頷く。
予想以上に早い千佐都からのリアクションに、春日が戸惑っていると、
「……その、なんていうか」
恥ずかしそうに俯いてから、千佐都はぺこりと二人に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい……。あたし、全然周りが見えてなかった」
そんな千佐都を見てつい春日もほっとする。
「鵜飼にも、ちゃんと謝らないと。それにね、悟司は知ってると思うけど、かすがにはまだ言ってなかったことがあるの。……聞いてくれるかな?」
少しだけ顔をあげながら、千佐都が春日を見た。
ちらりと視線を流すと、悟司が春日を見ていた。
「先に、千佐都の話を聞いてあげてください。俺は……もう大丈夫ですから」
まだ言いたいことの半分も言い切っていない。ポケットの中のスマートフォンを握りしめながら春日はそう思ったが、悟司にも後押しされる形で再び千佐都の方を向いた。
「……わかった。聞くよ」
そうして春日は、悟司の話を途中で切り上げてしまった。
※ ※ ※
「――そんなわけでさ……。あたしは多分、今でも弟の影をどこかで追い続けてるんだと思う。だから、ああやって可愛い子を見るとつい、ね」
「……ショタコンなのかお前?」
「ちゃうわいっ!」
場所は変わり、イベント会場の側のファミレス。
春日の言葉に、顔を真っ赤にさせながら千佐都がテーブルを叩いた。
「とにかくっ! ……あたしはそんなで――いつもどうにかしようとあがいてはいるんだけど……直せなくて」
そこまで言うと、千佐都はふんぞり返るようにして自分の席に居直った。
「ショタコンではないけど……ブラコンかもしれない。少なくとも、あたし自身は自分をそう認識してる」
目の前には、先ほど注文したミルクティーが置かれている。それをスプーンでかき混ぜながら、千佐都はゆっくりと目を伏せながら静かに――
「剛児はね……あたしの目の前で車に轢かれたの」
――そう、静かに語り始めた。




