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シュガー・シュガー・シュガー(!)  作者: 助供珠樹
大学一年:9~12月まで(エピソード2)
13/90

第十章『弘緒が繋げる9さじ目』

プロフィールNo.5


名前:佐藤弘緒

年齢(誕生日):17歳(6/3)

身長(体重):158.7cm(46kg)

血液型:A(RH+)

好きな飲み物:熱い緑茶

苦手な物:孤独


(12/7~12/12更新分)

 “2011年”12月1日――竜吾


「ねぇ、弘緒ー」


 かつて弘緒が水商売女だと信じて疑わなかった女性、いずみが教科書を開いて弘緒の方へとやってきた。弘緒がその話をいずみにしたら、いずみはすごくぷりぷりして落ち着くまでにはしばらくの時間がかかった。本当はアパレル関係の仕事をしているらしい。


 弘緒の家。

 そこには、竜吾を含めた「お食事メンバー」の五人が試験勉強の為に集まっていた。


「なに?」

「ここ、二次方程式のとこ」

「前、教えたじゃないですか」


 やれやれと言った様子で弘緒がノートを広げると、


「おい、弘緒。こっちも頼むぜ」


 そう言って三井が弘緒に笑いかけた。


「あんたは後」

「おいおい! いずみばっかずりーぞぉ!」


 三井がばさっと教科書を投げ捨てて床の上へ転がると、


「転がらないで。ノミが沸く」

「俺は野良猫か!」


 弘緒の冷徹な一言に、たまらずそう突っ込んだ。


「しかし、アンタもなんだかんだでこのまま順調に単位を取ってけば、来年明けにもすぐ卒業なんだなー」


 いずみが頬杖をつきながら三井を眺める。


「なんか寂しくなるね」

「ん。まぁ俺もなんだかんだでずいぶん長かったからな。高校生活」

「あたしはまだまだ長そうだなぁ。弘緒が卒業する頃には一緒に卒業したいけどね」

「私は単位全部取るのにまだ二年はかかるから……」


 弘緒は苦笑いを浮かべると、いずみがそんな弘緒の身体をぎゅっと抱きしめる。


「ちょ、ちょっと。何!? 何、いずみさん!?」

「そういう何気ない顔がホントかーわいいんだからもう」

「や、やめてくださいよっ!」


 そんな二人のやりとりを見て俊介がいずみの袖を引っ張った。


「なに? アンタにはいっつもやってあげてるでしょ」


 そう言うと、俊介はしょんぼりしたように肩を落とす。


「でもホント、あんたの面倒だけはちゃんと最後まで見てあげなきゃねぇ……弘緒、もしあたしの方が先に卒業するようなことになったらさ、その時はこいつを頼むよ」

「わ、私がですか?」


 驚きを隠せない弘緒に向かって俊介がにかぁと邪気のない顔でほころんだ。


「ほら、シュンもまんざらでもなさそう」

「い、いやぁ……はは。でも抱きついたりするのはちょっと無理ですかね」

「弘緒ちゃん」


 竜吾が声をかける。


「弘緒ちゃんは高校卒業したら、どうするんだ?」

「私ですか?」

「ちなみに俺はそのまま金を貯めて調理師の専門に行こうと思ってんだけど」


 そう言って自慢げに鼻を鳴らす三井に弘緒が眉をひそめる。


「……あんたが? いつもコンビニ弁当ばかりなのに?」

「ほっとけ! でもまぁ……弘緒ってめちゃくちゃ頭良いしなぁ」

「そうねぇ。なんか高卒ってだけじゃもったいない気がする」

「や、やだなぁ。やめてくださいよ。いずみさん」


 弘緒が顔を赤らめながら謙遜気味に手を振ると、


「もしかして家計苦しいとか。ほら、弘緒ちゃんの家って……片親だし」


 後半をもにょもにょと口ごもらせながらいずみがそんな事を言った。


「そ、そんなことはないんです。祖父もまだ現役で仕事しているので、家庭的にはお金の不自由はありません。……ただ、あまり心配をかけさせたくないんです。ただでさえ……私は、母を心配させて学校を辞めたわけですし」

「でもそれって弘緒のせいじゃないじゃん!」

「そうだぜ、なんでお前が昔の高校の連中の為に自分を押し殺さなきゃならないんだ」


 三井も真面目な顔をしていずみの意見に乗っかる。


「でも……もうあまり負担をかけたくないっていうか。私はいいんです。ホント、皆さん気にしないでください」


 弘緒が明るくそう言うと、納得のいかない様子で二人はうなり声をあげる。


「ほらほらテスト勉強しましょう! ミッチーも今更こんなところで滑りたくないでしょ?」

「さっきと態度が違いすぎだろお前……」

「い、いいから! ホント私のことは気にしないでっ。ささっ、勉強、勉強」


 そんな三人の様子を眺めながら、竜吾は缶コーヒーをすすって思った。


 ……これがあの時、ファミレスであんな話をしていた彼女の顔なのだろうか。

 こんなにも、良い表情が出来る子だなんてあの時の竜吾には想像も出来なかった。


 本当に良かった。心からそう思う。

 竜吾の口からいつものぎこちない笑みがこぼれた。


 ここには良い仲間がいる。


「竜吾さんも、ほらほら。シャーペン持って」


 そう言って、一際良い笑顔を見せる弘緒。

 編入してきたばかりのあの荒みきった表情は、もう見る影もない。



 あの日のファミレス。

 そこでの弘緒の独白は、竜吾の頭の中で今でも鮮明に思い出せた。


“一年ほど前に、私はこの町に越してきました。中学三年の夏頃です――”


そんな独白から始まった彼女の話は、竜吾にとっても壮絶としか表現できないほど陰惨でむごたらしい過去であった――



  ※ ※ ※



「――親の都合で実家のあるこの町に突然転校する羽目になって。それ自体は別に嫌なことでもなんでもなかった。ただ、小学校の頃からずっと一緒だった友達と連絡が取れなくなったことが心残りではあります。半ば夜逃げみたいな形で出てきたものですから」


 そう言って弘緒はファミレスの窓の外を見た。竜吾も弘緒の視線を追いかけるように外を見る。

 街路樹が強くなった風に当てられて大きく揺さぶられている。

 外は相変わらず寒そうだった。


「当然、中学校では友達なんて出来ませんでした。既にクラスのみんなはそれぞれのコミュニティが確立されていたから。それでも話しかけてきてくれる人はいました。そんなに悪いクラスではなかったと思います。今思えば、ですけど」

「高校に入ってから、なのかい? その――」


 口ごもる竜吾に、弘緒はゆっくりと頷いた。


「いじめは、全日制の高校に入学してからです。入学してから数週間ほど、私はずっとひとりぼっちでした。もともとそんなに人付き合いのうまい方じゃなかったし、制服がスカートじゃなかったら男に間違われていたかもしれません。

 私、私服だとよく間違われるんですよ。男なんじゃないかって。なんかそんな造りの顔みたいらしいです。へへ……」


 弘緒は自嘲気味にそう笑うと、短い前髪を触りながらジュースを口にした。


「ある日、クラスの中の一番人数の多い女子グループから声をかけられたんです。きっかけになった話の内容は良く覚えてません、きっとテレビか何かのどうでもいい話題だったのでしょう。

 そうして私は彼女達と行動を共にすることにしました。五月に入った頃、そのグループのリーダー格の女子が突然みんなを集めて同じグループの目立つ人間の悪口を言い始めました。どれもこれもひどいものです。あることもないことも……それも彼女のいないところでちょっとずつ小出しに言うんですね」


 言いながら、彼女の息が少しだけ荒くなった。

 弘緒はたった今置いたばかりのジュースに再び口をつける。

 その仕草は果たして、動揺なのか緊張なのか。

 まずい予感がした。


「やがて、リーダー格の女子の悪意は暴発しました。表面上取り繕っていた関係が一気に崩壊していく様を私はその時、初めて見ました。

 机に油性のマジックで落書きすることから始まって、対象者がトイレに入れば個室につっかえ棒をして閉じ込め、上から洗面所の水を含ませた汚物入れの中身を投げ入れたりしていました。

 どれもこれもドラマなどでよく見るものでしたが、実際のものはそれ以上にえげつなかったです。そのくせ、エスカレートしていく一方でした。

 とにかくリーダー格の女子は徹底してました。いじめのプロみたいな奴なんです。いつだったか私は、彼女が中学の頃に気に入らないやつをどん底まで追い詰めて登校拒否させたという話を同じグループの人間から噂で聞きました。既に相当な前科ありだったんです。だからその手際も完璧だった」


「……どうして」


 竜吾は口を挟んだ。


「逆にどうして、そのリーダー格の子は標的にならないんだい? 入学してまだ日も浅い。グループ内で権力を持つにしてもいささか早すぎだし、そんな噂が立つほどの人物なら完全にグループの中では異質の存在だ。標的になる可能性は十分にあるのに」

「そう、異質なんです」

「なら、なぜ――」


「……知ってますか佐藤さん?」


 そう言った弘緒の顔を、竜吾は今でも忘れられない。



「あまりに異質すぎると人間は逆に萎縮しちゃうんです。杭もあまりに飛び出てしまえば、もう誰も打つことなんてできない……ふふ、すごいですよね」



 それは自嘲というよりももっと粗悪な、諦観からくる口元の歪みであった。目の奥は一切の光を宿さずに、竜吾を見ているようでその視線はどこか遠くの方を眺めていた。真っ白な頬もすっかり体温を感じさせないほど青ざめ、普段より一層生気を感じさせなかった。


 これは……絶望にその身を全て絡め取られた人間のする表情だ。

 およそ十代半ばの少女が、到底する顔ではない。

 竜吾は背筋をぞっとさせた。彼女が抱える心の闇の、その根底にある背景が不気味過ぎたことからやってきた、おぞまし過ぎる寒気であった。


「彼女のバックにはとんでもない不良の兄がいました。転校してまだ半年だった私は知らなかったけど、この辺りではかなり有名だそうで……下手に彼女を標的にすれば、兄からの仕返しがやってくる。

 事実、彼女に刃向かったせいで乱暴された女子も中学では数人いたらしく、噂でしか聞いていませんがそれはもう相当ひどい仕打ちだったみたいです。はっきりいって口に出すのも汚らわしいほどに……とまぁ、そんなわけで異質過ぎるんですよ彼女は。

 だから誰も怖くて標的になど出来やしなかった。グループに属しながらも彼女の存在は完全なる例外として扱われていたんです」


「…………」


 押し黙ったまま竜吾はコーヒーを飲み干した。まともに彼女の表情と向き合える自信がなかった。目を逸らすようにメニューを眺めるが、結局何も頼まずにメニューを元の位置に戻すと、


「そして、ここからが私のことなんですけど――」


 それが話の再開の合図と受け取ったように弘緒が口を開いた。

 思わずぎょっとする。その一言は、あまりにも冷徹すぎる声色だった。


「あるとき、私はいじめられていたその子がずぶ濡れの制服から体操服に着替えていた姿を目撃しました。彼女は泣いていました。そんな彼女を見て、私は無視することが出来なくなったんですそれで――」

「……その子をかばったのかい?」


 竜吾の言葉に、弘緒は首を左右に振った。


「……そんな良いモノじゃありません。ただグループの目の届かないところで私は彼女の味方になってあげたんです。休日の日に遊んだり、電話やメールで彼女の辛さを聞いてあげたり。正直怖くて、それくらいしか出来なかった」


だが、その割にはそのことをあまり後悔しているようなしゃべり方ではなく、竜吾は疑問に思いながらも無言のまま頷く。


「でも、私のそんな二足草鞋な態度は傍目から見ればあまりにも不自然だったようで、一ヶ月もしないうちにすぐにリーダー格の女子の耳に入ってしまいました。……いつしか私はグループ内で無視されはじめ、やがて完全な標的として……目をつけられるようになりました」


 竜吾はすぐに弘緒の異変を感じ取った。

 いつの間にか弘緒の身体ががたがたと震えている。


 これはまずい。


 竜吾が止めようと彼女の片手を押さえつけた。だが、弘緒はその舌をどんどん滑らせながら喋るスピードを早めていく。


「そうして気付けば、最初にいじめられていたその子への攻撃は知らないうちに完全に止んでいました。……違和感はありましたよ? でも……私はそれでもすがりたかった。

 最初にいじめられていたあの子ならば、この苦しさを少しでも取り除いてくれるかもしれないし、もしかしたらこのまま二人であのグループに対して共闘していけるかもしれないなんて淡い希望なんか抱いたりして……。

 でもそんなに甘くはなかった……。ある日、私はその子にメールをしたんです。『助けて』って。『誰か他の人にこのことを話そう』って。一人では無理でも二人ならできる事もいっぱいあるはずだってっ!」


「弘緒ちゃん」


そんな竜吾の呼びかけも聞こえないのか、彼女は唇をふるわせどんどんその忌まわしい記憶をその口で辿っていく。


「……そしたらメールはむなしく私の元へと戻ってきた。彼女のメールアドレスも電話番号も、全部ぜんぶぜーんぶっっ、知らないうちに変更されていたんです。

 そ、それどころかっ……彼女はっ。あの女はっっ!」


「弘緒ちゃん……っ」


 とうとう竜吾は腰を浮かして掴んだ彼女の手をぐいっと自らの方へ寄せた。

 弘緒はもう片方の手で胸を思いっきり掴んでいた。


 やばい。

 動悸が始まったのか。


「彼女は! ……私をいじめる側へと加担し始めてたんですっ!」


「やめろ、もういいんだ!」

「言わせてくださいっっ!」


 周りに人がいなくて良かった。その事に竜吾は心底ほっとしていた。

 店員も今はもう閉店作業中なのか、弘緒の声が店内に響いてもやってくる様子はない。 背中に嫌な汗がびっしょりと流れていた。


「あの時、びしょ濡れの制服のまま苦しそうに泣いていたあの子の姿はなんだったんだろうって……気付けば目の前にいる彼女は、自分をいじめていた連中と一緒になって笑っていました。

 私を蔑んだ目で見つめながら……他の誰よりも率先して私の鞄をカッターで切り裂いたり、上履きをトイレの水に浸して下駄箱に押し込んだりしていたんです……。

 私の頭はどうにかなりそうでした……狂ってると思った。

 ある日私は激情にかられて、何もかも彼女にぶちまけたんですっ。そしたら……あの女、なんて言ったと思います?

 『汚物は喋るな』って……たった一言。それだけ。

  私は吐き気を催して、その場で戻してしまいました。でも彼女らはそんな私を見て笑って、吐瀉物の上に私の顔を押しつけたんです。『雑巾』って私を嘲って」



 弘緒の呼吸が激しく乱れている。昨日以上に苦しそうだった。


「どうして……そんなに辛そうなのに……ここまで無理に話を」

「だって、だってもう私……頭の方が……どうにかなっちゃいそうで……心の方がもう……限界……みたいで」


 その言葉の真意は呼吸の苦しさではなく、きっと自身の重すぎる過去のことだ。

 苦しそうにうめきながら弘緒は掠れ声で竜吾の手を握り返す。


「だってどんなに……どんなに忘れようとしてもこの苦しさだけは……あの頃と一緒っっ。いじめられはじめてから二ヶ月後……登校中に途中に私はこの動悸のせいで意識を失いました……。

 それからのことは、もう……もう思い出したくもないっっ! お母さんにいじめのこと、バレて……学校に問い詰めると、彼らはそんな事実を……もみ消そうとして……っ!」


 ぼろぼろと涙をこぼしながらぜぇぜぇ息を乱して呼吸する弘緒。その両腕は今、しっかりと竜吾の頼りない片腕に巻き付いていた。

 それはまるで……今すぐにでも吹き消えてしまいそうな命の灯火のようではないか。


 激しく嗚咽を漏らして竜吾は口元を押さえた。


 涙が止まらなかった。

 助けてほしいと何度も言おうと思って――でも声が出せない少女。


 この子は人を……人を信じられなくなっているんだ。

 信じたくても、それが出来なくなっているのだ。


 そこまで追い込まれるのに、一体どれだけの負の連鎖に精神を蝕まれたのか。

 こんなか弱い、まだ十七の少女なのに。


「……私は学校を辞めました……以来、もう……怖いんです。他人の――人間の真の裏側を垣間見た気がしました……。

 あんな思いは一回だけでいい。もう、もうたくさんなんですっ! 人に関わって、あんな悔しい思いをするなら、あんな絶望的な思いしかしないなら……私はもう……もうダメです。

 これ以上、ろくでもない悪意に傷つけられたり……その悪意に呑まれ、自らもまた悪意となって他者を傷つける……そんなのが人間だというのならば……それが人生だと割り切らなければいけないのならばもう……もう……」


 そこで顔をあげて、冗談めかしたようにか弱く笑う弘緒。

 こんな状況でどうしてそんな表情が出来るんだ。

 竜吾はとうとう我慢が出来なくなって立ち上がった――



「…………んじゃいたく……なっちゃうんですよね……」



 ――その言葉を最後まで弘緒が言い切る前に、竜吾は彼女の頭をその全身ですっぽりと覆い被せてしまった。何も言わなかったように。何も聞かなかったように。


「大丈夫だ」


 気休めの言葉なのかもしれない。


「“大丈夫”だ」


 ……彼女に言える言葉なんて自分には何もないのかもしれない。


「けほっ……大丈夫なんかじゃ…………」


「大丈夫なんだっ!」


 でも、それでも。



 ――他人に騙され、自身の会社を追い込まれ、その結果、家族を失った自分にでも。

 


 誰かの救いになれれば。なれるのなら。


 竜吾は思う。自分にはもう長く会っていない一人娘がいたことを。あの子もおそらく、今のこの子と同じくらいの歳になっているはずだ。


 あの日以来、何度も死んでしまおうと思った。内面も外面も、思えばあの頃からずいぶんとくたびれてしまった。何をしてもダメな自分は価値がないものだと思いこんでいだ。


 でも……それでももう一度やり直してみたいと思った。


 その時に最初に思い浮かんだのが、過去にきちんと卒業出来なかった高校のことだ。そうして再び学校に通ってみようと思い立ったのは一つのきっかけにすぎない。


 ……今更やり直しなんてきかない人生だなんてとっくに気付いてる。無駄なあがきをしているのも承知の上だ。


 全部その手から滑り落ちてしまい、今では何も残らなくなった空っぽの両手。


 でも、そんなどうしようもない両手でも。

 わずかなりとも誰かの不安を取り除けるのならば。


 支えになれるのならば。

 救いになれるのならば。


「お願いだ……信じてくれ。弘緒ちゃん……大丈夫なんだと……」



 ……全力で、そのきっかけ役を僕に引き受けさせてくれないだろうか? 神様。




 涙を流しながら竜吾は抱えた弘緒の頭を強く抱きしめた。

 強く強く、しっかりと抱きしめて。


 彼女に輝かしい未来を、たくさんたくさん与えてやりたかった。

 それはもう、自分には叶わないことだから。


「……私は……これ以上生きてても……いいのでしょうか……?」

「……そんなの……当たり前じゃないか」


 そんな竜吾の言葉を聞いて、弘緒は再びぽろぽろと涙をこぼした。


「……めんなさい……ごめんなさい…………迷惑……かけしてごめ……さい……」

「……もういい。もう帰ろう。弘緒ちゃん」


 竜吾は弘緒の涙を優しく拭い、それから自分の涙をごしごしとこすった。

 ファミレスはまもなく閉店の時間だった。



  ※ ※ ※



 ――あの日ファミレスで今にも消えてなくなってしまいそうだった弘緒は、いまだ不安定な面を見せたりはするが、それでも以前に比べてずいぶんと柔らかい表情が出来るようになったと竜吾は感じるのだ。


 それもこれも竜吾一人の力だけではない。実際のところ、竜吾は何もしてやれなかった。


 彼女の明るさを取り戻した直接の原因は、この三人だ。

 竜吾は改めて三人の顔と、弘緒の顔を順番に見回す。


「ねぇねぇ弘緒ーこれも教えてー」

「ええ? これさっき教えたとこですよ?」

「お、俺、小便したくなってきた。弘緒、トイレどこ!」

「ちょ、ちょっと……ミッチ……ってあああ俊介くん、そこで寝ちゃだめ」


 彼女の辛さを理解して、わかちあってくれる仲間たちがこんなにもいたのだ。

 そのことを竜吾は、奇跡にも近い確率の出会いだと思ったりする。

 もしかしたらあの日、本気で願った神への思いが届いたのではないだろうか。



 そんな馬鹿馬鹿しいことすら、ついつい本気で思ってしまうのだった。



 “2011年”12月1日――弘緒




 夕方、ミッチーといずみと俊介を見送った後で弘緒は竜吾と並んで歩いていた。

 ようやく二人きりになったと思い、弘緒は以前から聞いてみたかったことを竜吾に尋ねてみる。


「竜吾さんの名前ってどうしてつけられたんですか?」


 弘緒が尋ねると、竜吾は首をひねって思い出そうとする。


「どうだったかな……。お袋からは何も聞いてない気がする。でも、多分竜のようにたくましく生きてくれってことなんじゃないかな」

「へぇー。かっこいいですねぇ」

「安直すぎるよ。ところで弘緒ちゃんは?」

「私ですか?」


 顔の前で指を合わせながら、弘緒は白い息を漏らした。


「私のへその緒ってすごく細かったんですって」

「ほう」

「しかもお母さんは妊娠中毒症で大変だったみたいで。弘って字の成り立ちは『引っ張る、頑張る』って意味があるんです。で、『へその緒』の緒。繋げて『弘緒』です」

「……こりゃ驚いたな」


 竜吾はジャケットに突っ込んでいた手を出すとニット帽の上から頭をかいた。


「すごく良い名前だ」

「ですよね! 最近それを聞いて、私もすごく気に入っちゃって」


 そう自慢げに笑う弘緒を見て、竜吾は優しい顔をする。


「頑張って、生まれてきたんだね」


 弘緒はこくりと頷き、俯いた。


「今よりも……ずっと頑張ってたようです」


 そう言ってかすかに笑った。

 その時ふと、思い出した様に弘緒が顔を上げる。


「ねぇ竜吾さん、この後お仕事がなければ私の家で一緒にご飯食べませんか?」

「いいよ、なんだか悪い」

「お母さんが会いたがってましたよ?」

「えぇ?」


 戸惑いを隠せない様子で焦る竜吾。そんな竜吾の顔を眺めながら弘緒は意地悪く笑って先を歩きながら言った。


「おかしいですよね。お父さんと同じくらいの友人の男性を呼ぶなんて、なんか変な気分」

「そう……だね」


 しばらく二人は無言だった。

「……ところで竜吾さんは、どう“想”ってますか?」

「え?」


 突然の言葉に、竜吾はびっくりしながら振り返った。


「それはどういう」


 振り返って弘緒は竜吾の表情をじっくりと観察する。驚いた様子をしているが、今初めて“そのようなこと”を考えたわけではないことを弘緒はその表情から敏感に悟る。

 しばらく間があってから、弘緒は静かに言った。


「なんでも……ありません」


 そんな弘緒の言葉に、竜吾はなにも言わずにただ黙って隣を歩いていた。


 きっと“そういうこと”なのだろう。弘緒自身もまた、自身の気持ちが無意識に倒錯してしまっていることに気付いていた。だから、それ以上話を続けることなく無理矢理にでも打ち切ってしまいたかった。


 打ち切って――しまうべきものであった。


 綺麗な夕焼け空だった。

 空気が冷えているからだろうか。


 ちょうど、夕暮れに照らされて長く伸びた二人の影が、偶然にも同じ背丈に重なった。

 それを見ていると、弘緒はなんだかちょっぴり切ない気持ちになって、


「綺麗……ですね。竜吾さん」

「……ああ、そうだね」


 同時にちょっぴりほっとした気持ちになったのであった。


 ――結局、竜吾は弘緒の家へと戻ることなく自分の家へと帰っていった。

 いつか必ず、一緒に家でご飯を食べようと。


 そんな約束をして。



  ※ ※ ※



 その日の夜、弘緒はコンビニへと立ち寄った。

 引き続き勉強するために、夜食用の軽食とジュースを探してぐるりと店内を練り歩く。 アルバイトの方も明日は午後からなので、ある程度の夜更かしなら大丈夫だ。そう思ってそのままなんとなく雑誌コーナーの方へ回ると、女性ファッション雑誌の隣にあったエンタメ系の雑誌になんとなく目を奪われた。

 緑色の髪の毛をした、ツインテールの二次元少女のイラストが表紙のPC系専門誌。


「初音ミク、か」


 その名前は弘緒も聞いたことがあった。

 家に帰ったら調べてみよう。そう思って弘緒はレジに向かうと、会計を済ませて白い息を吐いて帰路をゆっくりと歩き始めた。 



 この電子の歌姫と弘緒の出会いは、ちょうど今から一年後、約数千キロ離れた北国の田舎町で結成されたボーカロイド音楽ユニットとを結びつけることになる。




 そのユニットの名は、『シュガー・シュガー・シュガー(!)』と言った。





 “2012年”12月1日――弘緒




「ねぇ、いろいろあると思うけどまず質問に答えて」


 弘緒が月子と名乗る人物に向かってぶっきらぼうに言い放った。


「はい」

「私のアカウントをどこで知ったの?」

「あ、えーっと。それはですね……鵜飼さんって人が――あっ」

「……ひまじん、か」


 弘緒は頭を抱えた。

 やっぱりあんな奴の依頼など受けなければよかった。お喋りなヤツは本当に頭に来る。


「で。そんな月子さんは、一体どのような気まぐれを起こして私なんかとずっとオセロをし続けてたんですか? それも自分の身分すら偽って」

「偽ってって……あの、あまり話が見えませんが?」

「偽ってたじゃないですか。私に接触するために、自分らがボーカロイドをしているという事実を。私に隠していたでしょうが」

「そんなつもりはないですよ? 尋ねられたら、いつでも答えるつもりでした」

「……バカにしてるの? 私の名前とミクの名前を出しておいて、わざとらしい」


 怒気のこもった口調で静かにそう言うと、月子はびっくりしたように声を荒げた。


「はわわっ! バカになんかしてないですよぅ……。本人確認のつもりだったのです……」


 このままではまずい、と弘緒は思った。

 完全に会話のペースを相手に掴まれている。のほほんとしたしゃべり方が井上に実によく似ている。こういうタイプは苦手なのだ。本当に、苦手だ。


「鵜飼さんから言われていたんです……。そういう話は抜きにして、オセロの相手に付き合ってあげてくれないかって……だから、ウチが、そのぅ……」

「私の遊び相手に付き合ってくれた、と――とんだお節介焼きね、あいつも」

「う、鵜飼さんは悪くありませんっ」

「何言ってるの? 悪いに決まってるじゃない。ったく……何勝手なことしてくれてるんだか……」

「鵜飼さんは悪くないって言ってるじゃないですかっ!」


 今度は相手から怒気をはらんだ声が返ってきた。それにカチンとなった弘緒がムキになって叫ぶ。


「悪いわよ! どの面下げて勝手にプライベートアカウント教えてんのって話よ。はっきりいって常識を疑うわ。私はここで大人しくオセロをしていたいだけなのに!」

「やってたじゃないですか! なんでウチが素性をバラしただけでそんなに噛みつくんですか!? ちゃかぽこおかしいですよ、そんなの」

「くぅ……っ」


 なんなのだ、この女は――

 むかっ腹が立って、強制的に会話を打ち切ろうとマウスを握る。


「どうして……なにを、そんなに怖がってるんですか?」


 怖がっている?

 私が?

 なぜこんな短い会話だけでそんなことまで言い切れるのだ。


「どういう……意味?」


 弘緒はマウスの手を止めて、震える声で聞き返す。


「そのままの意味ですよ。さっきから、ウチのことを露骨に避けて。こんなのまともな会話じゃないです。オセロしてる時もそうです。わざわざ男っぽく口調まで真似たりなんかして……」


「……」

「嫌いなんですか……? 他人と会話するのが」

「違うっ!」


 また、そんな誤解だ。

 どうしていつもいつも――私は誰も嫌いになどならない。どうしてそう思われてしまうのだ。


「……ウチは別に、あなたにどうこうするつもりはないのです。だから……これからも、オセロしましょうよ。ウチ、オセロ大好きなんです」

「勝っている方は、そりゃ楽しいでしょうよ」

「次はあなたが勝ちます」

「うるさいうるさいうるさいっ!」


 再び、マウスを動かして通話終了ボタンの前で弘緒はぴたりとカーソルを止めた。


「さっきから大嘘つきなのよあなた……頼むからもう関わらないで」


 一年前くらいにも、ミッチーに対して弘緒はこんなことを言った。

 まるで、あの時の情景がフラッシュバックのように頭の中で再現される。


「私は、しばらく動画を作らない……。残り少ないみんなとの時間を、大切にしたいの。だから、邪魔しないで」

「みんな?」


 当然わからないと言った様子で月子が聞き返してきた。

 そんな普通の反応でも、イライラしている弘緒にはうっとうしいことこの上ない。


「そうよ! リアルでの友達のことよっ。だから、あなたのことが邪魔になるのよ」

「オセロするだけで、邪魔になるんですか?」


 その言葉でかぁっと頭に血が上ってしまった弘緒は、とうとう激昂して怒鳴り声をあげた。


「そうじゃないでしょっ!? あなた、本当は私に動画を作って欲しいくせに! 内心ではそう思ってるくせに、いつまでそうして猫かぶってるつもりよっ。このバカ女っ!」

「――っ」


 相手が息を呑む気配がうかがえた。

 もうその反応だけで十分だと思った弘緒は、通話終了ボタンを押そうとした。


 すると、


「――待って、切らないでください」


 相手からの声が静かに聞こえて、弘緒はクリックする指を止めた。

 対局の時も思ったが、本当にこちらの行動を全て見透かしているようなヤツである。


 それに、おっとりとしている割にはもの凄くがっついてくる。この点だけは井上とは違う気がした。


 そして、そんなことを思っている間に月子は淡々と口を開き始めた。 


「ウチが所属しているユニットは、つい最近まで色々あったのです……。navelさんに動画を作ってもらおうとしたのも、単純に有名な方だから、再生数がアップすると思ったからっていうのが……当初のユニットの総意だったのです。正直、そんな動機を惰性で続けたまま、あなたにアクセスをすることになったのは否めません」

「……ほらね? ようやく白状した――」


 鼻で笑うようにあしらうと、


「でも、それは個人の、“ウチ自身”の気持ちとは全く別の話です」


 弘緒の表情が固まる。


「ウチはね、navelさん。今すごくあなた自身のことに興味があるんです。ホントです。なんなら、今回の動画の件はなかったことにしようと、メンバーの方にお話ししても構いません」

「どうしてよ。どうして、私なんかにそこまで――」


 弘緒がそう尋ねると、途端何も考えていなかったかのように月子が焦り出す。


「わ、わかんないですけどっ! でも……今のあなたは、ものすごく寂しそうです」


 今度は弘緒が息を呑む番であった。


「その事にあまり深入りするつもりはありません。ウチはこうして今日みたいにオセロするだけで、それだけで構わないんです。ウチのことは、それだけの“友達”で構いませんから――」 


 友達?

 友達と言ったのか、この女は。

 弘緒の脳内がぐるぐると回り始める。


「――だから、それだけの時間でも取れないでしょうか? オセロなんて、ウチもすごくひさしぶりで……楽しかったから」

「これ以上……」

「え?」


 弘緒は知らず知らずの内に、月子という画面向こうの相手に口を開いていた。


「私はこれ以上……動画作成に時間ばかり取られていると――大切な時間が……みんなと過ごす時間がどんどんなくなっちゃうの……だから――」



 ――今年の五月末。

 突然、皆がよそよそしくなった理由は、弘緒の誕生会を開くというイベントを弘緒に隠していたからだった。そんなサプライズは、一瞬でも疑心暗鬼になってしまった自分がばからしく思えるほど嬉しかった。

 竜吾と母の交際も順調で、これからも自分は皆と卒業まで楽しく過ごせる。

 そう、信じ切ってやまなかった。


 きっかけは、いずみの自主退学からだった。

 郷里にいる親の具合が悪くなったと教師に言い残し、俊介を残したまま彼女は忽然とその姿を消した。

 携帯は一向に繋がらなくなり、彼女からの直接の言葉は何もないまま月日が流れてしまった。おそらく、遠くに離れていってしまった彼女の姿をこの目で見ることはもう叶わないだろう。

 ほどなくして秋がやってくると、今度は俊介の転校が決まった。両親の都合で海外に行くことになり、日本に戻ってくるのは年に数回しかないという。

 彼がいなくなるのは今月いっぱいであった。


 あれだけ幸せだった仲間達との時間が……どんどん奪われて行ってしまう。


「お願い……もう少しだけ……あと少しだけ……一緒にいたいの。まだ、夢を見させてほしいのよ……だから」


 たった一年――

 あれだけ楽しかった仲間達との日々は、たったそれだけのわずかな期間しか持たなかった。


 どうしてだろう?

 どうして神様は、そんなに私に意地悪をしようとするのだろう?

 そう考えると、涙が溢れてきて止まらなかった。


「navelさん……?」


 月子は明らかに動揺を隠せない様子だった。


「だからお願い……月子さん……。しばらく私のことは……放って置いてもらえないでしょうか……? オセロなら……付き合いますから……」


 そんな弘緒の悲痛な訴えは、パソコンの向こうにいる月子という女性にも届いたようだった。


「わかりました……。もう何も言いません。でも――」


 そう言って、チャットログにファイル受信のマークが現われた。

 一体、何を――弘緒がそう思う前に、月子が落ち着いた口調で話し始めた。


「これは、ウチのメンバーが作った楽曲です。これだけは、ぜひ聴いて欲しいんです。動画のことは抜きにして」


 弘緒がポインタを動かして受信を開始し始める。


「navelって『へそ』って意味なんですね。作曲者の方が、ちょうど次の曲のテーマを、人との繋がりというものにしたかったみたいで、そんなことを色々調べているうちにわかっちゃったんですよ」


「……今、なんて?」


 『繋がり』?

 なんだそれは。まるで――


 まるで、今の自分がその事をすごく大事にしているのって見透かしているみたいに。


「あ、ちょっと待ってください。作詞者さんからのメモがあるんです。えーっと、

 『へその緒のような繋がり、英訳では【Community like umbilical cord】が正しい文法ですが、このままだと、あたし的に非常に語呂が悪いタイトルなので、Jpopによく見受けられる間違った文法を使ってあえて、こう名付けることにします。

 その名も――」


 そこで、一度言葉を句切ってから月子は再び口を開いた。


「その名も、【Umbilical Cord Community】

 頭文字を取るとUCCだし、とっても甘くて飲みやすいコーヒーを出している、あのメーカーさんとの夢のコラボもあるかも! なんてね』

 だそうです。ぜひ、一度聞いてみてもらえないでしょうか? ウチは、この曲を聴いて泣いてしまいそうになったので……お願いします」


 弘緒は開いた口が塞がらなかった。


 なんて……。


 なんて常識ハズレで頭の悪いメモだろう。


 何歳上なのか知らないが、このバカみたいなメモ書きを渡した作詞者というのは、よほど突き抜けたヤツに違いない。

 いつも……自分のことを気にかけてくれた……皆みたいに。


「バカね……」


 弘緒は知らず知らずのうちに、そう口走っていた。


「バカ? ウチがですか?」


 しょんぼりしたような声が届くが、弘緒はそんな姿の見えない相手に対し笑いながら首を振った。


「あなたもバカよ……でも、そうじゃない……」


 みんな、バカばっかりなのだ。


 世の中は、バカばかりだ。

 もっと、もっと悩んでよ。




 そうじゃないと――私がバカみたいだ。



  ※ ※ ※



 そうして月子と名乗る女性との通話を打ち切ったあとで、今度は別の人物から再びコールがかかってきた。


「オレだ」


 通話ボタンを押すなり、見知った人物からの声が飛んできた。


「頼む。あいつらの動画を作ってやってくれ」


「勘弁してよ……」


 弘緒は頭を抱えてパソコンの前でうずくまった。


「いくら“あんた”の頼みでもさ……今回ばかりはちょっと間が悪すぎるんだってば」

「あいつらは悪いヤツじゃない。オレもリアルで何度か会ったりしてるし、曲も良い曲作るんだ。それは、前に動画のURLを教えてやった時にも感じただろ? お前だって、すっげー誉めてたじゃねぇか」

「それとこれとは別……私は今、もういっぱいいっぱいで」


「それは――初めて信頼出来るようになった仲間が、バラバラになっちまうって思ってるからか?」


 ひまじんからの言葉に、弘緒は黙り込む。


「オレからしても羨ましいくらいに仲良く過ごしてきたんだ。そんな簡単に縁が切れるような関係でもないんだろ? 何をそんなに――」

「知ったような口をきかないで」


 ばっさりとした口調で弘緒は言った。


「ファミレスが……なくなっちゃうの」

「ファミレス? なんだそりゃ」


 十二月十二日を以て、今まで弘緒とその仲間たちでずっと通っていたファミレスが、とうとう閉店してしまうことになった。大手チェーンに軒並み客を取られすぎていたことが原因なのだが、入り口前の張り紙を見た時に弘緒は、その場ががらりと崩れてしまうんじゃないかと思えるほどのショックを受けたのであった。


「……私たちの場所まで奪われちゃうのよ? もうどんどん楽しいものがなくなっちゃう」

「よくわからねぇけど……」

「わからなくていいよ……。とにかく、私はもう寝るから」


 そう言って、さっさと通話を打ち切ってしまおうと思った時だった。


 突然、暗い部屋の中で小さな音がして、弘緒は飛び上がるほど驚いた。それが、自らの枕元に置きっぱなしにしていた携帯電話からだと気付くには少々の時間を要したが。


「どうした?」


 そんなひまじんの言葉を無視して、弘緒は通話を切った。


 そして、ゆっくりと携帯のディスプレイをのぞき込む。


「――え?」


 驚きながらも、弘緒はおそるおそる通話ボタンを押して耳を近づけた。



 2012年12月1日――小倉



 月子は静かにヘッドセットを外すと、小倉に向かって力なく笑いかけた。


「……ありがとう庄ちゃん」


 小倉は、珍しくゲーム機を持たずにそんな月子の姿をまっすぐ見つめていた。


「その元気のなさから伝わるよ。……会話に失敗したんだね?」


 小倉の問いに、月子は泣き笑いのような顔をしながら頷いた。


「ウチね……時々、本当に自分の絵は皆に貢献出来てるのかなって。そう思っちゃうんだ。皆はウチにとても優しいし、絵以外でも何か、お返ししてあげたい気持ちでいっぱいだったの。だから今回の件を任された時は……絶対にどうにかしようって、そう思ってた」


「面従腹背ってヤツだね。オセロをやりたいと言いつつも、本心ではやっぱり動画のことを切り出したかった――って、あのね、月子。君は悪い意味で正直すぎる。君がそんな無理に駆け引きみたいなことをしようとしても、すぐにボロが出るに決まってるだろ」


 小倉の言葉に言い返す術を持たない月子は、うぅっとうなり声をあげて床の上へとへばりついた。


「庄ちゃん……navelちゃんね、会話して思ったんだけど、ちゃかぽこリア充っぽい」

「どうしてそう思ったんだい?」


 小倉が純粋な質問として問い返すと、月子はニングルハイツの天井を眺めながら静かに言った。


「リアルでの時間が、ウチとオセロするよりも大事だって」

「そんな風に言っていたのかい?」


 ヘッドセットで会話していたので、向こうの声は一切聞こえなかった。どうせ月子のことだから、いくらか話の内容とは食い違っているだろう。

 それも見越して、小倉は言った。


「詳しくは聞いていないからわからないけどさ、その話だけ素直に受け取ると、彼女はリアルでの友達にやたら固執しているようだね」


 そこまで言って考える。

 一体、どういう心境になればそういう風になるのか。


「そのくせ、以前はネットで著名になってしまうほど精力的に活動していたという……変だよね。ボクの憶測だけどさ、もしかしたら彼女、近々自身の周囲の環境が激変してしまうんじゃないのかな?」

「ウチにも確かそんなようなことを言っていたような……気がする。『動画を作っていると、どんどんみんなと過ごす時間が減っちゃう』って」


 ……どうして話を聞いていた本人がそれだけ曖昧なんだ。

 ため息をつきつつも、小倉は続ける。


「……そのようなことを言っていたのは確かなんだね? なら、きっと話は簡単だ。おそらく彼女は、リアルの友人と近いうちに離別してしまう。原因はわからないが、彼女はその友人のことがもの凄く大切だから、趣味に気を回すよりも一緒に過ごすことを選んだ――こういうことなんじゃないかな?」

「すごい……庄ちゃん、名探偵みたい」


 月子はこちらに顔だけ向けてそんなことを言った。

 いや、むしろこれだけ状況がわかれば、誰でも簡単に推理できそうなものだが。


「ってことはさ、もうボクらがどうにか出来る話じゃないんだよきっと。さっきの感じを見ていると、どうも説得できる雰囲気じゃなかったみたいだし」


 そうして月子の身体をまたぐと、小倉は勢いよくカーテンを引いた。


「見ろよ、月子。雪だ」


 その言葉につられて、月子も窓の外へと目をやる。幸いにも外は風がないようで、猛烈な量で降り続ける雪が吹雪いている様子はなさそうだった。


「これ以上遅くなる前に、今日はもう帰りなよ。送っていくから」


 月子はパソコンを持っていない。だからもし相手から何か連絡があるとすれば、小倉のパソコンからログインしているネット電話か、ゲームサイトのアカウントにやってくるメッセージからだろう。


 月子はむくりと身体を起こして、ゆっくりと玄関に向かう。


「navelちゃんは――」


 そこで、月子は唐突に口を開いた。


「navelちゃんは……ウチのことを嫌いになったかな?」


 とても、不安気な声色だった。


「どうだろうね? 嫌われてもおかしくないとは思うけど」

「相変わらず正直だね……庄ちゃんは」


 月子はこちらに向けて笑いながらそう呟く。


「さっきさ、庄ちゃんは言ったよね……。navelちゃんは、近いうちに友達と離別するって。ならさ、ウチが彼女の友達になってあげることって、不可能なのかな?」


 相変わらず、突拍子もないことを言いのけるヤツだと小倉は思った。

 今日の小倉はセーターを着ていた。どうせ月子を送る羽目になることは予想済みだったので、彼女が来る前に着替えておいたのだった。


 その上からセンスもへったくれもない、純粋に防寒としての機能性だけを追求したジャケットを羽織って、小倉は言った。


「不可能かどうか、なんて誰にもわからないさ。ただね、月子――」


 話しながら、小倉はパソコンの前へと近づいていく。


「友達っていうのは、もうちょっと長い時間が必要なんだよ。二、三会話を重ねたところで信頼が得られるなんていうのはフィクションでしかない。今日明日で、突然心が開かれるなんてあるわけがないんだ。だから今は、ゆっくり時が解決するのを待とう」


 そうして小倉がパソコンをシャットダウンしようとした時だった。


 突然、ポンっという音がしてチャットログが更新された。


「月子」


 画面を注視しながら、小倉は月子に呼びかける。靴を履こうとしていた月子は、そのまま再び部屋の中へと戻ると、小倉の背に向かって言った。


「どうしたの? 庄ちゃん」

「……たった今、ボクの言ってたことはなんだったのか。そんな気にさせられるよ」


 苦笑いしながら小倉は月子に向かってディスプレイを指さした。月子がそれをのぞき込むと、そこには先ほどまで会話をしていたnavelからの新しいチャットメッセージが届いていた。



『navel:楽曲聴かせていただきました。

   一度、この曲の作曲者と作詞者とお話させてください。


 その言葉の後に、さらに続けてメッセージが届く。


navel:月子さん、さきほどは色々とひどいことを言ってしまいすみませんでした』



「庄ちゃん……ウチ、ウチ……」


 感極まっている月子の横で、小倉はそっと微笑みながら言った。


「よかったな、月子」



 2012年12月5日――悟司



「三つ、条件を出してもいいですか?」


 navelこと、佐藤弘緒なる人物が、パソコン越しにいる悟司に向けて静かにそう言った。

 何よりも驚いたのは、開口一番で本人が自らの名を明かしたところだった。

 一体どんな心境でそうしたのかはまるでわからなかった。月子とのやりとりで何かあったのだろうか?


 その事を悟司が尋ねようと口を開いた矢先に、再び彼女の方から前述のような発言が飛び込んできたのだった。


 しかし声だけ聞いていると、高校生だとは思えないくらいに落ち着いた雰囲気の人物だ。どこか達観しているというか、世の中を斜に見ているような、そんな妙に理知的で偏屈な印象を受ける。


「一つ、完成時期は年明けになります。これだけは絶対に譲れません」

「えー、せっかく完成したのに」


 ぶすくれる千佐都の声をマイクはがっちり拾ってしまったようで、弘緒はそんな千佐都の声を聞くと呆れるようにため息を吐いた。


「あなたですか、月子さんにバカみたいなメモ書き残した作詞者ってのは」

「ばっ――ばか呼ばわり……っ。こちとら初対面だっていうのに……」


 顔を真っ赤にする千佐都に隠れて、春日が吹き出したのを悟司は見逃さなかった。

 どうやら鵜飼同様、こちらも相当性格に難ありらしい。

 悟司はぼんやりそんなことを思った。


「とにかく、一つ目の条件は絶対に呑んでください。じゃないと、私は動画を作れません。現在、プライベートが大変立て込んでいるので、そこだけはどうしても無理なのです」

「う、ウチからもお願いです……なんか、それだけはもう、どうしようもないみたいで」


 弘緒の言葉を後押しするように月子が皆に向かってそう告げると、あぐら状態の千佐都は不機嫌ながらもぱちんっと両太ももを叩いた。


「あーわかったわかった! 我慢しますっ。そういうもんだと思うことにします」

「ありがとう、バカ作詞者さん」

「バカバカ言うなっ!」


 悟司からマイクをひったくって千佐都が叫んだ。自分だってよく人のことをバカ呼ばわりするのに、いざ他人に言われてしまうと相当堪えるみたいである。


「二つ目です。月子さんを時々オセロにお呼びしたいです」


 その言葉に悟司、千佐都、春日が一斉に月子を見た。


「へ? う、ウチですか?」


 自らを指してそう喋る前に、既に千佐都は月子にマイクを向けていた。鵜飼といい、この弘緒といい、ネット通話をする機会が一気に増えた四人はすっかりそこのところの反応が機敏になってしまった。


「ええ、月子さん。私はあなたに一度でいいから勝ちたいんです」

「月子ちゃんってそんなオセロ強いの……?」


 悟司の問いに月子は曖昧な表情をしていると、代わって弘緒が答えた。


「無敵ですよ」


 その言葉に思わず全員が感嘆の息を吐く。


「そ、そんなことないですって……もう……弘緒ちゃん」


 顔を真っ赤にしながら俯く月子をよそに、弘緒は最後の条件を提示した。


「では、三つ目です。私は、navelという名前を、今後一切放棄します」


「「「「ええええええっっ!?」」」」


 全員が驚いて声をあげた。

 その反応は予想外だったのか、狼狽しながら弘緒が口を開いた。


「な、なんでそんなに驚くんですか……。これが一番普通のことでしょう?」

「普通じゃないさっ。ねぇなんでなんで!? こんなに名前知れてるのに……」


 千佐都がマイクを両手で握りしめながら尋ねると、


「名前が知れると、その分不都合も多いんです。私はもう、忙しさを理由にプライベートを放棄したくない。それならいっそのこと……ネット上の名前を放棄しようかなって」

「なるほどな」


 春日は弘緒の答えに深く頷きながらそう呟いた。


「僕らは、その名前と知名度を欲して君のことを買った。だが、僕らにはそれを使わせない。その上でこの話を受けてくれないか――そういうことか?」

「その通りです。そういう風にやってこられるのは、もう嫌なんです。もう少しはっきり言いますと、私はあなた達の動画以外に今後動画を作るつもりはない」

「ちょ、ちょっとま、って」


 悟司が千佐都からマイクを借りて尋ねる。


「う、鵜飼さん、は? 鵜飼さんの動画は、もう、作らないの?」


 弘緒は少しだけ黙り込んでから、ゆっくり言った。


「ひまじんには――とっくにこの事をお話しているのです。私がプライベートを優先するのでこれからはもう動画を作れない、と」

「それで、彼はなんて言っていたんだ?」


 春日の言葉に、弘緒はけろりと答えた。


「彼は私に文句など言いませんよ。仮に何か言ってきても封殺します」

「やけに自信たっぷりだな、どんな間柄なのか知らんが」

「そりゃそうですよ」


 そこまで言うと、弘緒はまたしてもとんでもない爆弾を四人に向けて投下した。


「だって、彼は私の兄ですから」



「「「「は、はあああああああああああああ!?」」」」



 これにはさすがの悟司ですら腰を抜かしそうになった。


「う、うそうそ!? ねぇ、嘘ですよね、それ」

「嘘じゃありません」


 完全にパニック状態の千佐都に弘緒は冷静に返した。


「ウチの親は離婚しています。それに、彼は自分のことを鵜飼と言っているみたいですが、籍として正しい名字は佐藤です。私たちの親権は父親ではなく、母親の方にあるので」

「じゃ、じゃあ。今あなたはどこにいるの? まさか北海道?」

「――それは、以前私が住んでいた場所で、今は母の実家の東京です。ちょっと前まで彼もここにいたんですけどね。ブラック会社を辞めるまでは」


 時系列が混乱してきた……。

 弘緒の説明によると、どうやらこういうことらしかった。


 1.鵜飼、東京の音楽大学に通うin弘緒の現在の実家。

 2.鵜飼、就職。

 3.鵜飼、辞職。北海道へ戻る。ひきこもり化in北海道の実家。

 4.佐藤家、離婚。

 5.弘緒、母と共に現在の実家へ。

 6.鵜飼、北海道の父の元で引き続き、ひきこもり生活。

 7.現在にいたる。


「なんだかんだで社会復帰しているみたいですが、東京には戻りたくないそうです。だから未だに父の元にいるみたいですけど」

「なんで、彼は僕らに対して鵜飼だなんて名乗ったんだ?」


 春日も思いっきり動揺を隠せない様子だった。執拗に煙草の場所を探して両手を動かしているが、煙草は彼の右ポケットの中である。


「さぁ? 兄は基本的にちゃらんぽらんですからね。そういや双子だって話も聞きました?」

「「「「えええええええ!?」」」」



「嘘ですよ」


 はらはらさせやがる……。

 弘緒もなんだかんだと、そんな四人の反応を楽しんでいるように思えた。


「そんなわけで、以上で私の条件は終わりです。呑んでいただけますでしょうか?」


 またしても、おもしろ人間が自分の前に現われてしまった。

 本当にこの町に来てから、どんどん世界が賑やかになってくると悟司は思う。


 そこでふと周りを見渡すと、千佐都も、春日も月子も悟司の反応を待っているようだった。リーダーは千佐都に譲ったはずなのだが、どうもこういう時の最終決定権は自分に決めて欲しいようだ。


「――皆がいいなら俺はそれで構わないよ」


 その言葉で、全員が力強く頷いた。


 千佐都は、再びマイクを取ると弘緒に向かって笑顔で言った。


「オーケーよ、弘緒ちゃん。『シュガー・シュガー・シュガー(!)』の動画、よろしくお願いね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「しかし、困ったわね。『navel』って名前が使えない以上、動画説明文にはあなたのクレジットをどう入れたらいいわけ?」

「なんでもいいですよ。今回限りのつもりですし」 


 さらりと告げる弘緒に、千佐都はしばらく長考してからぱっと顔を明るくさせて言った。


「じゃあ――『和三盆』ちゃんで!」

「なんですか……。その変な名前」


 弘緒の問いに、千佐都はあっけらかんと答える。


「知らないの? 日本の、由緒正しきお砂糖の名前よ。気に入ってくれた?」

「バカみたい」

「なんですとぉ!?」



 ……とまぁ、変わった毒舌キャラが(一時的に)仲間になりましたとさ。




 2012年12月12日――弘緒



 悟司達との会話から数日後――

 とうとう弘緒達が、ずっと通い詰めていたファミリーレストランが閉店することになった。


 弘緒、井上、俊介、ミッチー、そして竜吾がファミリー席にそれぞれ座り込んで、物思いにふけっていた。

 誰もなにも言うことなく、しばらく外の景色を眺めている。


「――なぁ、いつまでこうしてるつもりだ?」


 気付くと、店内を流れるBGMはビリージョエルの曲だと弘緒は思った。母の大好きなアーティストで、幼いころは何度もよく聴かされていたので良く覚えている。


 確か、タイトルは「ピアノマン」のはずだ。


「短い間でしたけど……ここはすごく良い店でした」


 井上がぽつりとそう漏らすと、俊介の目に涙がじわりと溜まっていく。いずみがいなくなってから、俊介は以前にも増して泣き虫になったと思う。


「弘緒ちゃん」


 竜吾が突然、そう語りかけてきた。


「そういえば最近は、ネットでやってた趣味の話をしないね?」


 その言葉に、弘緒は思わず息を詰まらせる。


「ネットでやってたって――あの前に話していた、ボーカロイドとかいうのですよね?」


 井上がドリンクバーのカップを置いて、弘緒の方を見つめた。


「確か、すごく有名になったって――」


「その話は、もういいんです」


 そっと俯きながら、小さく笑う。そんな弘緒の様子を不思議に思ったミッチーが口を開いた。


「どうしたんだよ、一体」

「いいってどういうことですか?」


 井上も一緒になって問い詰める。竜吾はいつものように黙したまま、静かに弘緒の目だけをじっと見つめていた。


 弘緒は出来る限り平静を装う調子で、言った。


「あれは、もうなかったことになったんです」

「ええ!?」

「なんだよ、兄貴とでもケンカでもしたのか? だってあれはお前の――」

「そろそろですね」


 ミッチーと井上をガン無視しながら、窓の方を見つめた時だった。


「――はっろー!」

「「「「えっ」」」」


 その声で、弘緒以外の全員が一斉に息を呑んだ。

 入り口の方から飛んできたその声は、間違いなく立花いずみ本人のものであった。


「元気してた、みんな?」


 そう言って、ずんずんとこちらに向かって歩いてくると、わけもわからないといった様子の俊介の頭へと飛びついた。俊介はびっくりしながらも、いずみにされるがままぐりぐりと頭を撫でられまくる。


 井上もそんないずみを見てぽかんと口を半開きにさせながら、ぽつりと言った。


「いずみさん……どうして」

「どうしてって、弘緒から聞いたのよ。今日が閉店だって」

「そうじゃなくて! 今まで連絡もなく……」

「ごめんごめん。ずっと携帯代払ってなくてさ。ようやく繋がったーって時でも、親が入院したりなんかして、ずっとバタバタしてたんだ。つっても今日一日ホテルに泊ったらまたすぐ実家の方へ戻るんだけど」


「いずみさん。お久しぶりです」


 弘緒が緩く笑うと、いずみは突然俊介から離れて弘緒の両頬をつねりだした。


「い、いふぁいっ!」

「な、何をしてるんだいずみ君」


 竜吾が慌てて止めに入るも、いずみはその手を避けて弘緒を睨みつける。


「あんたはいっぺん、ちゃんとあたしから制裁しないときが済まないからねっ。ずっと、あたしらとの事を優先して、ボーカロイドやめたりなんかして――あたしはずっと応援してたのに。好きなことに打ち込むあんたを、ずっと羨ましく思ってたのにっ」

「はなひてくらひゃいっ!」

「いーや! まだまだ離さない!」


 じたばたする弘緒に向かってさらにいずみは言った。


「……あたしね、歌手を目指して上京してきたのよ」

「え?」


 その言葉に、思わずミッチーが頬杖を離して顔をあげた。


「昔の話よ。若い時からずっとアイドルになりたくてね。幸い弱小プロからお目かけしてもらって、しばらくは地下アイドルみたいなこともしてたんだけど。才能なんてないから結局、なにもかも終わっちゃったけどさ」


 でも、と言ってさらに弘緒の両頬を伸ばす。弘緒の目には既に涙がにじんでいた。


「弘緒はもったいないんだよ。大学も家族のために、趣味もあたしらのためにって、そうやって自分を押し殺して、『心配かけたくないからそばにいたいから』って……。そんなあんたを、あたしは許せないよ……。一体どうして、そんな思考になるワケ? 大切なものでも、自分のためになら犠牲にしちゃいなよって、電話ではあんなに怒鳴りつけたけど、やっぱりまだまだ言い足りないっ!」

「ぎふぇいにひまひたっ!」

「なに?」


 ようやくいずみが弘緒を解放すると、弘緒は両頬を押さえながら言った。


「犠牲にしました……。いずみさんから電話がくるまで、ずっと断ろうと思っていた話を受けることにしました。でも、前みたいなポジションでは続けられません。だから、新しいユニットに入ることにしたんです」


 限定的な活動、ということは伏せておいた。だが、その言葉を聞いてようやくほっとしたようにいずみはソファの上に腰を落ち着けた。


「それ、どんな名前よ?」

「シュガーシュガーシュガーとかいう――」

「センス悪いーな、その名前」


 ミッチーがそう横から口を挟んでくる。


「弘緒ちゃん」


 竜吾は口をつけたコーヒーカップを置いて、静かに口を開いた。


「君のお母さんも、そして僕らも、みんな君のしたいことをしてほしいと望んでいる。きっと、お兄さんもそうだ」


 元就は、母親の新しい交際相手である竜吾のことをあまり好ましくは思っていないようだった。だから、今に至るまで会話をかわしたわけではないのだが。


「君は、もう“大丈夫”なんだよ」

「竜吾さん……」


「そうよ。どうせ、時間が経てば皆どんどん変わっていく。離ればなれになるのなんて、ちょっと早いか遅いかの違いよ。ちっとも怖いことじゃないわ」


 ふんぞり返るいずみの横で、井上も口を開いた。


「そ、そうですよ。弘緒さんは、いつも皆のことを大切に思ってる。それも、わかるんですけど、そのせいで二の足を踏めないまま変化を拒み続けるのは、よくないことです」

「ま、断言してやるよ弘緒」


 ミッチーが金髪をかきあげながら、弘緒に笑いかけた。


「頭の良いお前は、こんなとこでくすぶってる器なんかじゃねーんだよ」


 そこで、弘緒の頭にふんわりとした感触がやってきた。

 振りかえると、俊介が弘緒の頭に手を乗せて優しく撫でつけていたのだった。


「弘緒ちゃんは、すごいひと。とってもとっても、可愛いこ」


 そこで、なんとも言えない気持ちに駆られてしまった。

 慌てて俯きながら弘緒は口を開く。


「み、みんなっ。そうやって私をからかうようなことばっかり言わないでよ」


 俯いたまま、弘緒はぽつりぽつりと漏らしていく。


「そんなことよりもさ、もっと、楽しい話をしようよ? 今日で、このファミレスなくなっちゃうんだよ? 皆で、ほぼ毎週通ってたのに……。それだけ、ここにはいろんな思い出あるじゃない? ボーカロイドの話なんて、今はどうでもいいことでしょ?」


 膝に置いた拳をぎゅっと握りしめながらそう語る弘緒に、誰もが言い返す言葉を持っていなかった。


「……ね? みんなさ、このままなくなっちゃう前にさ、もっと楽しい話しよう? ほら、以前私と竜吾さんが遅れてやってきた時、竜吾さんスーツでやってきたでしょ? あの時いずみさんと私たち、入り口の前で騒いで怒られちゃって。ミッチーはそんな私たちを見てずっと店内で笑ってたのね――あぁー……可笑しい」


「ひ、弘緒さん?」


 井上がびっくりした様に目を見開かせていた。

 自分の顔に何かついているのだろうかと思い、そっと頬を指で触れて気付いた――



 ――知らぬ間に、涙を流していたことに。


「あ、あれ? おかしいな。あれ?」


 いくら目元を拭っても、その後からぼろぼろとあふれ出してくる。


「……あれぇ?」


 バカだな。


 おかしいな。


 泣く理由なんてどこにもないじゃないか。


「…………ひんっ」


 くしゃっと歪んでしまう顔を見られまいと、必死で顔を覆った。

 いつの間にか嗚咽まで漏らしながら、号泣へと変わってしまう。


 しかしそんな弘緒を見ても、皆何も言わずに、優しい目をしながら見守っていた。

 俊介の撫でる手の温もりが、とても心地良い。

 私はどうして、こんなに温かい人達に囲まれながら泣いているのだろう。

 ふと弘緒は頭の中で月子の言葉が思い出された。


 ――ウチのことは、それだけの“友達”で構いませんから――


 友達に、なれるのだろうか?

 私に……これ以上の新しい友達など、出来るのだろうか?

 ……もう一度、誰かを信じてみても……大丈夫なのだろうか?



「――“大丈夫”」


 そんな竜吾の言葉に顔を上げると、皆が口々に笑顔で声を上げた。


「そんな泣かなくても、いつだってこういう場所で何度も会えるわよ。“大丈夫”」

「弘緒さん、“大丈夫”です。私はまだいますし。だからもう泣かないでください」

「“大丈夫”だぜ弘緒、お前がここにいる間はいつだって俺が付きまとってやるから!」

「弘緒ちゃん、なかないで。手紙、送るよ? “だいじょうぶ”だから」


「み……んな……」


 皆の言葉は、それだけで全てがうまくいけるように思わせる、そんな魔法の言葉のようだった。

  こんなに無様で不器用な私のことを、これだけ大切に想ってくれている。


 ……あなたもまた、“そういう”人なのでしょうか? 月子さん。


 皆と出会えて、本当に良かった。

 月子のことをそんな風に思えるようになったのは、自分の中でも驚くべき変化だ。

 そうしてその時、ようやく弘緒は気付いたのだ。

 自分の人生が、かけがえのない光で満たされていることに。

 ……もっと生きてたい。

 こんなに、素敵な人生なんだ。

 だから、もっともっと、たくさん笑おう。


 「みんな……本当にいつもありがとう……」


 もっともっと、楽しんでいたいんだ。


 弘緒は皆と出会ってもう何度目かわからないほどの、とびきりの笑顔をみせながら、そんなことを思っていたのであった。



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