第八章『ギター&ドラム先輩、リハ前の8さじ目』
11/11~22更新分(12/1改稿)
五月二十日――弘緒
日曜日。
朝目覚めてリビングに行くと、弘緒は母の姿が見当たらないことに気付いた。
「……あ、そっか」
今頃は意中の男性とデート中だ。先日の夕食時にそんな話をしていたばかりだったなと思いながら、母の代わりに洗濯でもしようと縁側の窓を開けた。
最近はヒマさえあればずっとパソコンをいじっていた。
個人的な趣味の情報を調べたりもするが、最近のお気にいりはネットの向こうにいる人間とミニゲームで楽しむことが出来るオセロだ。
オセロは昔から得意で、近頃の戦歴は連勝続きの絶好調だった。
洗濯機が回しながら思う。
やがてこんな幸せな日々にも終わりは来てしまうのだろうか、と。
荒んだ目をしながら、面白くもない日常を繰り返し、神経をすり減らしながら歳だけを重ねていく。
信じたくない。
でも、受け入れなければならないときもきっと来るのだろう。
遅かれ早かれきっといつかは。
「強くなりたいな……」
ぽつりとそんな言葉が出た。
回る洗濯機の中、そこには汚れた衣類がキレイになっているのだろう。
そうやって人間の心も汚れる度に何度も洗い流せないだろうか。
不安な気持ちは、いつだって胸をざわつかせる。
「……大丈夫」
それはなんの根拠もない、気休めの言葉だと弘緒自身も気付いている。
でも、言わずにはいられない。
「大丈夫、なんだ」
大切な大切な言葉。
大事な人が私に言ってくれた、かけがえのない言葉。
その言葉が弘緒には唯一の救いでもあり、決して裏切られるはずのない絆だった。
洗い終わった洗濯物を干すために、カゴごと弘緒は庭へ飛び出した。
空は真っ青な快晴だった。
どうか明日もこうして、晴れていますように。
10月13日――悟司
土曜日。
学祭が始まった。
学祭は二日にわけて行われ本日は学生たちの屋台の出店はなく、外には町の人達からのフリーマーケットで賑わっていた。
だが、屋外での出店はなくても屋内でのイベントは目白押しであった。
まずは大学の講師陣が各教室で普段とは違う、皆がなるべく興味を持ってくれるような題材で講義を行っていた。ちょうどこの大学にはアイヌ学という変わった講座を受け持っている教授がおり、この日は実際にアイヌの方を呼んでアイヌ伝承の木彫り体験などを行ったりしていた。他にも福祉学科の方では応急処置体験や、マネキンを使った救助講座や、未就学児向けに絵本や紙芝居の読み聞かせなどを行っており、託児所のようなものまで準備していた。
酪農学科は乗馬を連れたり、大学の菜園で取れる食材を使って鍋をしたりするそうだ。
どれもこれも興味を惹かれることをしてるなぁと思う。
この日悟司はいつもよりも遅めに起きると、適当にシャワーを浴びてから大学までやってきた。ちょうど校門の辺りでは学祭執行部が待機しており、彼らからパンフレットを受け取るとそのままフリーマーケットを横目に昇降口の方へと向かう。
その時だった。
「おーい、悟司」
フリーマーケットのところから知ってる声がして振りかえる。
「こっちだよこっち」
「おばさん」
隣の町に住んでいる悟司の叔母、桜木明梨とその娘の陽葵がビニールシートを張った地面でこちらに向けて手を振っていた。
「さちょしー」
陽葵がぬいぐるみをぶんぶんと振り回す。夏休みの時にボロボロだったから不器用な自分がせっかく奮闘して縫ってあげたというのに。すでに腕のところからは綿がはみ出していた。
「ご無沙汰です。その節はどーも」
「なんだいその顔は。陽葵を預けた時のことをまーだ根に持ってやがんのかあ?」
「やがんのかあ」
叔母さんの言葉を復唱して陽葵が笑う。
ええ、ええ。ちょうどその時は例のカルト女子のおかげもあって大変だったんですよ。
心の中でそう毒づくが、さすがにその事は伏せておこうと思った。
「ねーさちょしー。おままごとしよ?」
陽葵が悟司の袖を引っ張る。
「い、いや。あのね。今日お兄ちゃんは色々忙しくてね……」
「遊んでやれよ。どうせヒマだろ?」
「らろー?」
「いや、俺ここの大学生ですから……」
もちろん予定なんてない。だが、この叔母に振り回されてせっかく楽しもうと思っていた学祭初日をふいにしてしまうのだけは避けたかった。
「じゃあさ。せめてもの頼みなんだけど、陽葵を絵本の読み聞かせてる場所まで連れてってやってくれないか? アタシここのフリマの場所から離れらんないからさ」
「それくらいならいいですけど……」
「助かったわあ。多分今日は陽葵の保育園の先生もそこに様子見に行ってるみたいなんだよ。ここの卒業生らしいからさ」
「へぇ。そんなこともあるんですね」
「何言ってんだい。ここらへんの保母さんやケアヘルパーさんなんかはほとんどここの卒業生ばっかだよ。あんたみたいな文学部よりよっぽど価値のある学部なんだから」
悟司のとぼけた返事に叔母さんが呆れたように声を上げてそう言った。
「そんなわけで頼むよ。また開拓おかきと他にも色々あげるからさ」
そう言ってにかりと笑う叔母さんに悟司はがくりと首をもたげた後、
「わかりましたよ……ほら、陽葵ちゃん。おいで」
「あいあいなー」
びしっと敬礼を取ってからとてとてと悟司の元まで寄ってくると、その手をぎゅっと掴んだ。
「よろしく頼むよー」
手を振る叔母さんから離れて、悟司は陽葵と一緒に昇降口の中へと入った。
※ ※ ※
「あのね、陽葵ちゃん。叔母さんは元ヤンなんだ。だからあんまり叔母さんの話し言葉を真似してると保育園の皆に怖がられちゃうぞ」
「もとやんってなにー?」
そうあらためて尋ねられると非常に答えにくい。
悟司は出来るだけオブラートな言葉を探そうとしたが、
「怖い人ってこと」
結局何も思いつかずにそう告げた。
「ままこわくないよー、やさしいよ?」
「そっか……ならもう何も言うまい」
「へいへい、さちょしびびってるー」
「なんて言葉を!?」
そんなやりとりを交わしていると、
「あら、樫枝くん。と、そこにいるのは陽葵ちゃん」
最悪にも水谷が通りがかった。
……不幸ってのは実に良く連鎖するものだ。
頭を垂れながら、悟司はしみじみとそう思った。
「ビバヤハウェ、陽葵ちゃん」
「やはうぇー」
にこにこ顔の陽葵と水谷が挨拶――なのかどうか未だにはっきりとしない言葉を交わし合った。というか、そもそもヤハウェってそんなにみだりに口に出して良い言葉だっただろうか? 悟司はにわかにつけた知識を振り返りながらふとそんなことを思う。
「陽葵ちゃん背伸びたねぇー」
「えへへへぇ」
悟司からすればそんなに変わったようにも思えないのだが、ここら辺の注意は女性の方がやはり敏感なのだろう。
そんな事を思っていると、
「陽葵ちゃん、今からこの呪文をよく覚えてね? 『マハリクマハリタテクマク――』」
「なに教えてんだよっ!?」
さっと水谷の前から陽葵を遠ざけて悟司が叫んだ。
「ふふ、陽葵ちゃん。世の中に一番必要なものって何か分かる?」
悟司のことなどお構いなしに水谷がそう陽葵へ語りかける。
「んー? ごはん?」
陽葵の答えを聞いて水谷はちっちと口元で人差し指を振った。
「答えはね――信仰よっ!」
なんてこと教えやがるんだこのカルト女!
「さぁ、陽葵ちゃん。私に続いて言うのよ! ヤーハウェっ! ヤーハウェっ!」
「やーはうぇっ。やーはうぇっ」
「陽葵ちゃんも真似しなくて良いから!?」
悟司は陽葵の腰を抱えると猛ダッシュでその場を離れた。
「ああ、樫枝くん! ちゃんと後で私のフリマまで来てよね!」
「たった今気が変わりました! 二度とあんたなんかに近寄るかっ! ばかーっ!!」
「聖水ぶっかけるわよっ!?」
「その前に塩撒いてやるっ!」
この子の周りには危険な人物が多すぎる。
悟司は陽葵の今後を思うと、不憫でならなかった。
10月13日――千佐都
一方、悟司と時を同じくして喫煙所にいた千佐都は、自動販売機の前でミルクティーを睨みつけていた。
「……気付けばすっかりホット飲料なのよね」
紅茶やコーヒーなどの、コールド飲料からホット飲料へと切り替わる時期というものは、いちいち理不尽だと思う。まだまだこの商品はコールドで飲みたいと思っているのに、販売業者の都合でころりと暖かくなるのだ。
特にこの喫煙所の自動販売機は、ドリンクの種類をかなり取りそろえているので、二つ以上同じ商品を置いたりしないのだ。つまり、一つの商品に対してコールドとホットを同時に置くことはない。
こういう取りそろえ方をする自動販売機は学内などの、購買層が限定される場所に特に多い。まぁそれだけ種類を多く売るということは、それだけ売れない商品もこういう場所では売れると踏んでの決断なのかもしれないが。
「でもこのラインナップで、ミルクティーがホットになるとかあり得ないんですけど」
ぶつぶつと愚痴を垂れながら千佐都は小銭を投入して、ミルクティーのボタンを押した。
「千佐都くんじゃないか」
商品ががたんと落ちる音と、その声はほぼ同時だった。
「牛丼の出店に使うテーブルは借りに行かないのかい?」
ミルクティーを取りながら振りかえると、小倉が立っていた。
「小倉くん」
「学祭執行部では、既に明日の屋台の為に使う備品を貸し出している。どうせ今日はヒマしてるんだ。もし良かったら直接行って手伝おうかと思ってさ」
「ありがとう。でも悟司は? 一緒に来たんじゃないの?」
千佐都が頬にドリンクの缶を押しつけながら、きょろきょろと見回すが悟司の姿はない。
「もしかしたらまだ寝てるかもね」
「まぁ予想してたけど」
苦笑いしながら小倉の元に駆け寄ろうとすると、白い虫が喫煙所の周りを飛び回っていることに気付いた。
「うわ、なにこれ。なんか見たことない虫が飛び回ってる」
そんなことを言っている間に、服に虫が一匹纏わり付いた。軽く手で払いのけようとすると、もう一匹の白い虫が千佐都の手に止まる。
「それは雪虫だね。ここら辺じゃ珍しくもなんともない」
「雪虫?」
手に付いた虫をぶんぶん振って落とそうとしながら、千佐都が尋ねると、小倉はメガネをくいっと手で押し上げながら宙を睨んだ。
「うん。この季節になると一帯を飛び回る。雪が降る前兆だね」
「え、そんなのがこの虫を見てわかるわけ?」
「うーん、まぁそう言われてるだけで、虫自体がその事を察知して飛び回ってるわけじゃないさ。そういう時期に飛び回るってだけでね。よく見ると、腹の辺りに綿みたいなのがついてるだろ? なんだか雪に見えなくもない。だからまぁ時期と重なった名前というかな」
でも、なかなかロマンチックな虫だろうと言う小倉の横で、千佐都は飛び回る虫を眺めながらミルクティーのプルタブを開けた。
「そろそろ雪が降るね。学祭が終わったくらいにやってきそうだ」
「やっぱ北海道って早いのねー。あたしここに来てから、春に残っていた真っ黒な雪しか見てないや」
「この町は特に雪が降り積もるらしいからね、今のうちに覚悟しておいた方が良いかも」
そんなことを話していると、春日がギグバッグを担ぎながらこちらへと向かってくる。
「おっす、かすがー」
千佐都が手を振ると、春日はそれに気付いて軽く手をあげた。表情がどこか固い。さすがにライブの前日でもあるせいか、あまり落ち着かない様子だった。
「悟司はどうした?」
千佐都達に近付くと、春日はタバコに火を点けて煙を吐き出した。
「まだ寝てるんじゃない? そういえばつっきーもいないね」
「月子は今日の十四時まで、福祉学科の託児所体験中だよ」
「託児所体験……?」
ミルクティーから口を離してそう言うと、小倉の代わりに春日が答える。
「学祭にやってきた人の為に、子供を預かってるんだ。毎年やっている。今年は初日の今日がフリーマーケットの開催場所になってるせいで、おそらく大混雑だろう」
「へぇー。でもそんな子供預かれる様な場所ってあったっけ?」
その質問には小倉が答えた。
「福祉学科には保育所を模した教室があるんだ。たまにそこで実際の幼児を呼んだりしていろいろやってるよ」
「ほぉーすごいね、全然知らなかった」
「お前は普段から他学部に興味がないからだろう」
横から口を挟む春日に千佐都はむっとして、それからすぐに笑顔になった。
良かった、いつものかすがに戻っている。
そのことに安心して、千佐都も負けじといつもの調子で答える。
「うるさいわねー、あんたはさっさと部室行きなさいよ。あたしはこれから小倉君とテーブル借りに行くんだから」
「テーブルなんか何に使うんだ?」
「決まってるでしょ! 牛丼よ!」
ぐっと拳を握って自信たっぷりにそう言うと、春日ははぁとため息をついてタバコをもみ消しながら言った。
「正直、僕はここまで何も手伝ってないからな……。明日の食材の買い出しは?」
「まだだよ? だってこれから学祭執行部に行って、備品と一緒にお金も受け取りに行くんだから」
「わかった。僕の方は今から軽くセッションして、今日の夕方には終わる。その後で良かったら車を出してやろう。少し離れたところに大きなディスカウントショップがあるんだ。そこまで行こう」
「ほんと!?」
「ああ。ちょうど夕方に特売になるはずだ。牛バラとタマネギと……まぁ学生に振る舞う分を考えたら結構な量になるしな。それくらいはやろうじゃないか」
春日はそこまで言うと、再びギグバッグを担いで千佐都達に背を向けた。
「明日も手伝えるようなら手伝うさ。どうせライブが終わってからは特に予定もない。開店時には顔を出せないかも知れないが、その後ならば僕も合流しよう」
「かすが」
千佐都がその背に呼びかけると、春日がゆっくり振り返る。
その春日に向かってびしっと拳を見せつけて千佐都が言った。
「シュガメンバーとして恥じないライブしなさいよっ」
にかりと笑う千佐都を見て、春日も少しだけ柔らかく笑った。
「当然だ」
そうして手をあげると、春日は千佐都達から離れて部室棟へと向かって行った。
「期待してるのかい?」
春日が去った後で、小倉がぽつりとそんなことを言った。
「当然よ。もしミスったりしたら後で大笑いしてやるんだから」
胸を張って千佐都が答えると、珍しく小倉はくすくすと声をあげながら笑った。
「いや、君たち四人を見てると本当に飽きないよ。キャラがばらばらなせいかもね」
確かそんなことを鵜飼も言っていたな、と千佐都はぼんやり思い出す。自分達では意識していないけれど、端から見ればそう見えるのだろうか。
「まぁ、千佐都くんも牛丼が不人気だったら大笑いされるだろう。そうならないために、僕らは最高の腕を振る舞おう。ここに最高の舌があるわけだしね」
小倉が自信たっぷりに胸を叩く姿を見ながら、千佐都はミルクティーをぐいっと飲み干した。
よし、充電完了。
お腹の中がほんわりと暖かくなる。
「あたし達も負けないわよ!」
そう言って二人は学祭執行部のある、学生自治会室へと向かった。
10月13日――月子
「月子ちゃんが絵本を読むの!?」
「そうですよー」
月子は悟司の驚く顔を見てくすくす笑った。
福祉学科が使う、保育所を模した造りのこの教室では、既に十数人の幼児達で賑わっていた。
この教室は実際に最寄りの保育園から幼児を呼んだりして、実習をしたりすることもある。その為に床はきちんとカーペット張りになっており、悟司もやってきて早々、教室のドア近くにある下駄箱に靴を入れて月子の傍へとやってきた。
学祭期間の間は、ここで生徒たちが交互に絵本や紙芝居を披露したり、簡単な手遊びなどを行う、いわば託児所のような役割を果たしているのだ。
「なんか、結構本格的なんだね」
落ち着きなく悟司がきょろきょろと辺りを見回す。
備品を手にとって触りながら、感嘆の息を漏らす悟司の横で、月子が悟司の隣の幼女に笑いかけた。
「はじめまして、陽葵ちゃん」
「はじえましてー」
丁寧に頭を下げる陽葵を見てから、月子は悟司に言った。
「保育士の資格を取る人は一年生の段階で何回かここを使うんですよ」
「月子ちゃんは、保育士になるの?」
悟司の純粋な疑問に、月子は曖昧な顔をする。
「うーん。ウチは子供が好きだけど、どうだろう。介護士の方も考えてはいるんです」
ちなみに月子の予定は今日の午後、ここで二時間ほど幼児に絵本を読み聞かせるのみ。今はちょうど十二時半を回ったところなので、あと一時間半ここで過ごしたら解放される。
「正直、まだわかんないですね。ウチ、ぽーっとしてるから」
これは月子の本心だった。
絵を描くことは大好きで、昔からそれだけをずっと続けていた。でも、本格的に絵の勉強をするならばどうしても道内を離れることになってしまうため、美大への道は諦めた。もちろん道内にはいくつか専門学校や短大もあり、そちらへ行くことも視野に入れてはいたのだが、結局一番実家の旭川から近いこの大学を選ぶことになったのだった。
「で、でもさ。月子ちゃんってすごく絵がうまい。マジで、狙おうと思えばいろんな賞を取れたりも出来るんじゃないかな。イラストレーターとか、さ」
悟司の言葉に、月子はぽうっと顔を赤らめた。
「そ、そんなことないですよ。ウチはまだまだ……」
「で、でもさ。音楽と絵って正直畑違いだから、もしかしたら俺の言うことって全然見当違いなのかも知れないけど……」
そうワンクッション置いてから、悟司は言った。
「多分……俺らのメンバーの中で、一番才能がズバ抜けてるんじゃないかって思うんだ」
「ほ、誉めすぎですっ」
たまらず月子は傍にあったぬいぐるみで顔を隠した。そんな月子を見ながら陽葵が首を傾げている。
「い、いや。でもさ。鵜飼さんも言ってたじゃないか。月子ちゃんの絵で一曲動画を仕上げてみたいって。あの話、受けてみる気はないの?」
「そ、それは……」
そのことはなんとなく頭にはあったのだが、月子もまた、悟司とは違うタイプのコミュ障である。あれこれ頭の中で話をまとめてから言葉に出すため、人と話すのは未だにぎこちない。それが現状、唯一緩和されつつあるのが漫画研究部と、そしてこの悟司たちだけなのだった。
いまだによくわからない気持ちをうまく表現することが出来ない。そのせいで、よくわからない単語が飛び出すこともままあるのだ。例えば「ちゃかぽこ」とか。
「ウチは……冒険が下手なのです」
「冒険?」
悟司が首を傾げると、月子はしまったとばかりに口を押さえる。
「はわっ。また変なこと言っちゃった?」
「い、いや。わからなくもない。ニュアンス的にはね」
そんなフォローを聞いて、少しだけほっとしてから月子はゆっくり自分のペースで話し始める。
「ウチはね、悟司くん。今はあまりこれ以上を望んでないのです。だって、今でもウチは皆と大冒険してる最中だから」
悟司の言葉を待つが、何も言わないのでそのまま続ける。
「だからね、鵜飼さんのお話は非常に嬉しいです。でも、今はまだ、そういうこと考えられないかなって。もっと他人と……特に男の人と緊張しないで喋れるようになってから、かなーって――」
「さちょしー、ごほんよんで」
いつの間にか絵本を持ってきた陽葵が、悟司の袖を引っ張りながらそんなことを言う。
「え、ええ。勘弁してくれよ」
本気で困ってる悟司を見て、月子が陽葵に笑いかけた。
「ひまりちゃんひまりちゃん、ちょっとこっちおいで」
「なぁにー?」
月子に気付いた陽葵が、不思議そうにとことことこちらへやってきた。
手元にあった折り紙を取り出して、月子はその中から黄色の折り紙を取り出すと、
「お姉ちゃんがいいもの作ってあげる」
「いいものー?」
陽葵が尋ねる間に着々と折り始める。
そうして出来上がったものは、キリンだった。
「どうですか?」
「ひゃあー」
月子の星を見て陽葵が両手を頬に押しつけて驚きの声をあげる。
「陽葵ちゃん、ウチと一緒に動物さん折りましょ」
「おるー」
ニコニコと笑いながら月子の手から折り紙を取ると、陽葵はでたらめに折りたたみながら、
「ぞうさんできるー?」
と脇目もふらずに月子へ問いかけた。
「できますよー」
月子はにっこり微笑んでそう言った後、悟司の方を向いた。
「ウチ、子供とは普通に喋られるんですよ。思考回路が一緒なんですかね?」
「いや、そんなことは……。それよりすごいな。めちゃくちゃ手先が器用だ」
悟司が月子の手を見ながら目を丸くする。月子は話しながらでもすらすらと綺麗に折り紙を織り上げた。
「はい、ぞうさんですよー」
灰色の折り紙を使って象を作ってみせると、陽葵は目をきらきらさせながら月子に俄然興味を示した。
「すごーいすごーい。どうやるのー?」
「ここをですねー」
陽葵の手に触れながら、月子はゆっくりと丁寧に折り紙を教えた。そんな姿を悟司はほほえましそうに眺めていた。
そうして、あと二折りほどで完成というところで、
「ねぇ、月子ちゃん。この後さ――」
悟司がぽつりとそんな風に口を開いた。
月子が顔を上げると、悟司はなにやらもじもじと言いにくそうに頭を掻いている。、
「月子ちゃん。あの、俺……」
「できたぁー」
陽葵が自分の手で出来上がった象を持って、その場でぴょんぴょんと跳ねた。
そんな陽葵を見て、再び月子は悟司の方へと振り返る。
「どうしたんですか?」
「え、えっとさ。本当は俺、このまま陽葵をここに預けて別のところへ行こうと思ってたんだ。……でも、もし良かったらこのまま、ここにいてもいいかな?」
月子は目をきょとんとさせる。
それはそんなに言いにくいことなのだろうか? いや、もしかしたら言いにくそうにしていたのは自分の気のせいなのかもしれない。
相も変わらず頭だけがぐるぐると回転したまま、ずっと黙りこくっていることに気付いた月子は、慌てて「いいですよ」と口を開こうとした。
ところが、
「そ、それでさ。その……月子ちゃんがここを離れても良くなったらさ、俺と」
……“俺”と?
月子はその先の言葉を待つ。だが、悟司はその先をものすごく言いにくそうにしながら額に汗を浮かべて口をぱくぱくと動かしていた。
「そのぅ…………一緒に」
「一緒に?」
か細い声で漏らしたその言葉を月子が拾うと、
「一緒に、学祭を……まわりませんか?」
ぽけーっとしたまま、心臓が爆発するんじゃないかと月子は思った。
「い――」
――良いですよ、一緒に回りましょう!
そんな簡単な言葉が全く言えなかった。
……どうしてだろう? いつもよりもその言葉ははっきりと脳内に浮かんでいる。なのに、それは普段よりも一層、言語化することが難しかった。
そうしている間にもどんどん時間は過ぎていく。
どうしよう。悟司くんを困らせちゃう。どうしようどうし――
「首を――」
そんな、焦る月子のことを知って知らずか、悟司が優しく笑った。
「――ゆっくり一度振るだけで良いから。縦か横に。俺も言葉に出しにくい時は、よくそうやるんだ」
その笑顔が、月子の心の奥を静かに揺り動かした。
同じ気持ちを知っているからこその、その何気ない言葉。
まるでそれが合図だったと言わんばかりに、月子はこくりと頷いて、顔を赤らめた。
そんな月子の様子を見て、今まで息を止めていたように悟司が大きな息を吐いた。
「良かった……」
そう漏らす悟司の顔をまともに見られない。
顔が火照っていることに気付いた。
「本当に、良かった」
しみじみと語るそんな悟司の声にはわずかばかりの震えがあった。
そのことがまた、月子の心を震わせる。
……ああ、そうか。
ウチは、嬉しいんだ。
その事にようやく気付いて、それによってわかったことが一つだけあった。
昔、ずっと苦手意識を持っていた自分の殻は、もしかしたらこの人が破ってくれるのかも知れない。
同じ弱点を持つこの人なら。
そう、思ったのだった。
10月13日――春日
「先輩……その手はどうしたんですか」
そう呟いた春日の声はこころなしか、震えてしまっていた。
「わりい……やっちまった」
包帯でぐるぐるに固定された左手を見せつけながら、ギターを担当していた四年生の先輩が申し訳なさそうな顔をした。
「やっちまった、じゃねぇよっ! だから気をつけろっていったじゃねぇかっ」
ドラム担当の先輩が怒声を混じらせながらギター先輩を睨みつけた。
「くっそ!」
スティックをクラッシュシンバルに叩きつけて、ドラム先輩が頭を抱えた。
「どうすんだよ……本番は明日だぞ? そんな怪我して、ライブになんか出られるわけないだろ……。だから言ったんだよ、バイトなんかやってる場合じゃねぇって」
ギター先輩の怪我の原因はバイトの際に起こった不慮の事故によるものだった。と、いっても春日とドラム先輩は既に一週間前から、ギターの先輩にバイトはなるべく休むように再三忠告していたのだ。それなのに、この体たらくである。
ショックなのは、ドラム先輩よりも春日の方がひどかった。すっかり青ざめて、呆然とギター先輩を見つめたまま放心してその場で固まってしまっていた。
「バイトすんなって言われてもさ……オレ一人暮らしだし、生活費……稼がなきゃ暮らしていけねーだろうよ。そりゃお前は実家がすぐ近くだからいいよ」
そう言ってドラム先輩を見ながら、ギター先輩はそのまま春日の方へと目をやった。
「……春日もいいよな。一人暮らしっていっても――実家が牧場で……金あるだろーし」
ギター先輩のその言葉で、春日の頭に一気に血が昇った。
ベースと放り投げると、春日はそのままギター先輩の襟首を掴んで壁際へと追いやった。たったその一瞬のことで、狭いスペースの部室内が一気に険悪なムードへと様変わりしてしまった。
春日は手負いであるにも関わらず、ギター先輩の襟首を掴んだ手をさらに強めた。
「やめろ春日!」
長身の春日にドラム先輩の両腕が巻き付いた。そのまま春日とギター先輩を離そうとするが、春日の手は一向に解ける気配がない。
絞り上げるような声で、春日が言った。
「……何もわかってないくせに」
「ぐ……ほっ」
ギター先輩の息がこぼれる。
「わかってないんだ……先輩は、僕の気持ちなんて。……毎年、どんな思いでステージに立っていたのか……どんな気持ちで実家のことを思っているのか……わかってないくせによくそんなこと言えますよねっっ!」
さらに春日は両手でギター先輩を押さえにかかると、ドラム先輩の手をふり解くようにして狭い部室の壁伝いにロッカーへ叩きつけた。
「実家が牧場だから何だって言うんですか? 生まれた環境であれこれ言われる筋合いなんか……そんなの一切ないんだ。僕はな……僕はなぁ!」
「やめろって言ってるだろ!」
怒鳴り声をあげたドラム先輩に、ようやく我を取り戻した春日ははっとしてギター先輩を掴んでいた手を緩めた。げぼっと湿った咳を吐いたギター先輩はそのまま部室の床へと転がって苦しそうに呻いていた。
「なんてことしやがるんだよ春日……。お前らしくないぞ……? お前ってもっと、おとなしいヤツだったじゃねぇか……」
ドラム先輩の声を背に受けながら、春日はくしゃりと髪をつかんでそのままロッカーを殴りつけた。
「……『僕らしい』って、一体なんなんですか? 先輩」
「なんだって?」
「先輩達は、どれだけ『僕らしい』僕を知ってるんですか?」
春日はドラム先輩の方を振り返る。
「人のいない、組む相手が皆卒業してしまったメンバーの補充員として、僕はあなた達と関わることになりました。以降、年月を重ねるごとに新入部員はやってきましたけど、みんな流動的にいなくなるから、三年になっても僕らのサークルは未だに三人しかいない。でも、それでも正直楽しかったですよ。コピーバンドといっても、立派な音楽だ。先輩二人は、僕の演奏を誉めてくれたしね」
「いきなり、なにいってんだ……お前」
ドラム先輩の声に、春日は静かに目を伏せる。
「ここに入った当時、僕はプロになりたかったんですよ……できる事なら、この三人でやりたかったんです。本当は」
突然のその告白に、ドラム先輩は目を丸くした。
「ば、バカ言ってんじゃねぇぞ……いきなり」
「本気ですよ。いつだって僕は」
「な、なれるわけねーじゃねぇか! 俺たちが? プロに? 遊び半分でやってるバンドだぞ? 学祭で演奏してれば女子からも顔を覚えられるしっていう――」
「――その意識の低さがもう耐えられないんですよっっ!」
その怒気をはらんだ絶叫は、サークル棟全体に響き渡った。
静まりかえった部室の中、春日は泣きそうになりながら言った。
「こんな事も、先輩に言うのは二年間通して初めてのことですよね……。でも、あなた達は僕のことを知ろうともしなかった。だから僕は、あなたたちがここで呑気に漫画を読んでいようが、何してようが、全部自分を押し殺して通い続けてたんです。今更こんなこと言い出し初めても、もうこれが先輩達と最後のライブだ……だから、そのまま言わずにすごそうと思っていたんですが――」
「――勝手なこと……さっきから聞いてりゃ、べらべらと喋り腐りやがって」
ギター先輩が喉元を押さえながらゆっくりと立ち上がって言った。
「てめぇこそ……俺たちのことを知ろうともしてねぇだろうが。何が『僕のことを知ろうともしない?』だ。甘えてンじゃねぇよボンボンが。……オレもそいつもはてめぇのことは、わかりすぎるくらいよくわかってんだよ」
ギター先輩はドラム先輩を指しながら春日を睨みつけた。
「お前最近、よくわかんねー後輩とつるんでごちゃごちゃやってるらしいな? あれはなんなんだ? 新しいバンドでもやろうとしてんのか? 俺たちの卒業後にでもよぉ」
その言葉が、悟司達のことを指していることに春日は気付く。
「まぁ、ああいう後輩なら、お前のような甘ちゃんの言うことホイホイ聞いてくれそうだもんな? そりゃ俺たちなんかと一緒にやるよりもそら、ずっと楽しいだろうよ。年下だしな。……それで、なんだ? 今まではそうやって俺たちのことを腹に据えかねていたってわけか。こちとら、てめぇが今言い出したことは全部初耳だってのに」
「悟司達のことを……悪く言わないでください」
「悪く言わないでください? バカ言ってんじゃねぇ。今、オレが悪く言ってんのはお前だけだよ、春日」
そこまで言うと、ギター先輩はロッカーを蹴飛ばしながら叫んだ。
「そうやって、俺たちを見下しながら言いたいことも黙っていた小心者の雑魚のことしか悪く言ってねぇっつってんだよっ! ……何が意識が低いだ? 今更『プロになりたかったんです』とか間の抜けたこと言ってんじゃねぇぞ? いいか、春日。『気付いてください』『わかってください』『空気読んでください』にゃ限度があるんだよ。はっきり言葉にも出来ないくせに、勝手にストレス抱えて吠えてんじゃねぇぞ!」
「なら先輩は、僕がプロになりたいからもっとオリジナル曲を作って、たくさん活動したいって、そう一年生の頃から言っていたとしたら、どうだったんですか!?」
泣きそうな声で負けじと声を張り上げる春日に、ギター先輩が悪びれもせずに答えた。
「――当然、こんなサークルに入ることを勧めてなかっただろうな」
「ふざけないでください、こんな時に」
「ふざけてねえよ俺たちは。いつも自分達のペースで、真面目にやってる。でも、お前にそういう意図があったなら、俺たちはお前が一年次の時点ではっきりと断ってやってたよ。このサークルは、そういう場所じゃねーんだ。そんなこと、いい加減二年もいりゃわかんだろうが」
でもな、とギター先輩は間髪入れずに付け加える。
「オレの知り合いにプロを目指してるヤツがいる。そいつに紹介してやったりしていたかもしれない。他にもコネでステージ立たせてもらえそうなライブハウスだって何カ所か知ってんだ。お前のそのプロ志向を支えてやるくらいの知り合いは、オレら二人にはいっぱいいる。……ここに来て、今更そんな本音をぶちまけられてももうどうしようもないけどな」
そこまで言ってからギター先輩は、春日の横を通り過ぎて部室の出口へと向かう。
「春日。俺たちはお前のことを計りかねていたところがあったかもしれない。なんだかんだで、お前はこういう雰囲気が好きなんだと思ってた。反面、実はそういうことを考えていたかもなっていうのは、なんとなく感づいてもいたけどよぉ」
がちゃりとドアを開ける音がした。春日はもう、ギター先輩の顔をまともに見られなかった。
「でも正直……そんな話も今更過ぎてよ。今は『二年間のお前の態度は偽物だったのかよ』って気持ちでいっぱいだわ……。なんか胸糞悪りーから……行くわ」
「お、おい」
ドラム先輩の声も無視してギター先輩は部室を去って行った。
“二年間のお前の態度は偽物だったのかよ”
そんな彼の言葉がぐるぐると、頭の中を回り始める。そうじゃない。そういうわけじゃないのだ。ここでの活動は、愚痴りつつも楽しかったはずなのに。
思いだけが激しく空回りしてることに気付いた時には、もう遅かった。
「――春日」
ドラム先輩が春日に呼びかけた。
「オレもさ、正直がっかりしてる。お前がずっと俺たちのことをそんな風に思ってたってことが。俺たちと飲み会に行ったり麻雀打ったりしてた時、お前が何を思ってたのかを考えると、なんかすっげー嫌な気分だ」
普段は温厚なドラム先輩も、眉間に皺を寄せながら部室のドアに近付いた。
「とにかくこんな風になってしまった以上、補充のギタリストを探したいとこだが……無理そうだな。ライブは明日なわけだし」
「ま、待ってください先輩」
「学祭執行部に断ってくるわ。急な変更で、怒られるかもしんねーけどさ」
「待って――」
春日の言葉も空しく、ドラム先輩は悲しい表情のまま部室から出て行った。
頭の中が、真っ白だった。
自分が、全てをぶち壊してしまったのだ。
二年間の集大成である、ライブも。
二年間で築いた、先輩達との絆さえも。
「壊して……しまった」
がくりと膝を落として、その後はもう身体の震えが止まらなかった。
五月二十八日――弘緒
学校に着くと、鞄を置いて弘緒はいずみの元へと向かった。
ここ一週間ほど、弘緒は学校の皆との付き合いが悪くなっていた。昨日の休日も、いずみや他の皆といつものようにファミレスでだべってから、駅の方までショッピングする予定だったのだが、急遽キャンセルを入れる事態に陥ってしまったのだった。
理由はたいしたことではなかった。
すぐに謝れば済むことだと――弘緒はそう思っていた。
「いずみさん」
いずみの席の前には井上、俊介、竜吾が立っていた。ちょうどいい、皆にも一緒に謝罪をしよう。そう思うやいなや、突然俊介が弘緒の存在に気付くと、皆の袖を引っ張り出した。その反応で、皆が一斉に振りかえる。それもなぜか、とても慌てた様子で。
「……な、なに?」
弘緒はびっくりしていた。彼らが自分に対してこんな反応を示すとは予想していなかったからなのだが。
「弘緒」
席に座っているいずみがそう声をかけると、ちょうど弘緒といずみの間に立ちふさがっていた井上がその身をさっと引いた。その瞬間、弘緒は井上がこちらを見てくすりと笑ったような気がした。
今の笑顔は、何?
疑問に駆られながらも、弘緒はいずみの顔を見た。
……いつも通りの表情。
しかしよくよく見ると、どこかぎこちなかった。
胸がざわついて仕方がない。一体皆は、どうしたというのだろう。
「え、と――」
言葉が詰まる弘緒。
もしかして、自分を避けてないだろうか?
ふと、そんな嫌な予感がして弘緒は背中に嫌な汗が流れる。
「どうしたのよ? あたしの顔に何かついてる?」
いつも通りの笑顔。
それなのに、なにか違う気がした。
「う、ううん。いずみさん。その、この前の日曜日……ごめんなさい。行けなくて」
申し訳なさそうな顔で弘緒が頭を下げると、
「ああ。いいんだ。別にあの日はさ、むしろいない方が――」
「いずみくん!」
突然の竜吾のデカい声に、いずみも、弘緒も驚いた。こんなに大きな声を出した竜吾を見たのは初めてだったからだ。それは本人にとっても意外だったのか、すぐに咳払いをしてから、すぐに弘緒の方を向いた。
そして、静かに口を開いてこう言った。
「……なんでもないんだ、弘緒ちゃん。気にしなくて良い」
顔はこちらを向いているが、竜吾もまた、どこか弘緒に対してよそよそしかった。
……なに?
なんなの、それ。
急激な疎外感に包まれる。
今の一連の流れで、弘緒はピンとくるものを感じた。
皆は……自分に何かを隠している。
……でも、それはなんだ?
それほどまでに自分は何か隠し事をされるような事をしただろうか。
「弘緒さん」
その声に振りかえると、井上がいた。
「弘緒さん、なにも気にしなくていいんですよ。大丈夫です」
――大丈夫。
弘緒は井上の言葉を聞いて、すぐに竜吾の方へと振り返った。
竜吾は弘緒と目を合わせると、ゆっくりと頷く。
……大丈夫。
本当に、大丈夫……なのだろうか。
その時、予鈴が鳴り響いた。
「さあさあ、皆も帰った帰ったー。授業始まるよー」
ぱんぱんといずみが手を叩いてそう言うと、俊介がそそくさと自分の席へと戻り、続いて井上が戻っていった。
「弘緒ちゃん」
竜吾が弘緒の肩に手を置く。
「大丈夫だ」
暖かみのある、優しい声だった。
それだけで、弘緒は全てを信じ切ろうと思った。
「……わかりました。竜吾さん」
その手に触れてから、弘緒も自分を納得させるように何度も頷いてみせた。
大丈夫。
大丈夫、なのだ。
10月13日――千佐都
「重いぃぃ……」
ぎりぎりと歯を食いしばって机を担ぐ千佐都。学祭執行部の待機している教室から、まだ出て数歩も歩いていないのに既に腕はぷるぷると悲鳴を上げていた。そんな状況の中、机の反対側のへりを掴んでいる小倉が窓の外を見ながらつぶやく。
「外は風が強くなってきたみたいだね」
「マジで!? フリマ、中止になっちゃったりしないかな?」
「まだそれほどじゃないけど……この先はわからないな」
廊下で立ち止まりながら二人がそんな話をしている時だった。
「千佐都」
いきなり松前の声がして千佐都が振り返ると、そこには黒々とした○ンギリバーさんが両手を腰に当てて立っていた。
「ぎゃあ!」
びっくりして千佐都が飛び上がる。
「はは、私だよ私」
○ンギリバーさんが松前の声でそんなことを言い出した。
「……なによ。驚かせないでよね、机持ってんのにさー」
「ごめんごめん。明日のお披露目のために、ちょっと試着させてもらってたとこなのさ」
背の高い松前が着る○ンギリバーさんはなかなか様になっていた。
そんな松前を見ながら千佐都はふと、松前が鵜飼の背丈にそっくりなことに気付く。
「あらためてあんたって……ホント背高いよねぇ」
上から下まで舐め回すように見ながら感心していると、松前が口に手を押さえて言った。
「千佐都がちびっ子なのよ」
「うるさい」
蹴りを入れようとすると机を持っていた手が上下に揺さぶられ、一瞬でバランスが崩れる。慌てて小倉が支えながら、
「あ、危ないぞ千佐都君。何をやってるんだ全く……」
と、千佐都を睨みつけた。
「あ、あはは。……その、ゴメン」
「バカねぇ千佐都は」
一方で千佐都の蹴りをかわすようにくるりとその場で回った後、華麗にポーズを決める松前。そのなんとも言えないチープなヒーローポーズがなんとも腹立たしい。こめかみに血管を浮き上がらせながら松前に何か文句を言おうとしたその時、ちょうど松前と千佐都の間を抜けるように見たことのある男性が通り過ぎていった。
「今のは――」
確か、軽音サークルの人だ。今頃はまだ春日も練習している時間なのになぜこんなところで油を売っているのだろうか。
「なんか、様子が変ね。怪人でも現われたのかしら」
冗談めかしてそんなことを言いながら、松前が学祭執行部にかけよると、
「――君たちのライブを中止にしたい?」
突然、そんな素っ頓狂な声が、扉を開けっぱなしにしていた教室から飛んできた。その声に驚いた松前も、千佐都の方へ振り返ると両手を挙げて首を竦めた。
「小倉君」
「わかってる。静かに置いてね」
名前を呼びかけただけで全てを悟った小倉に、心の中で感謝しながら千佐都はゆっくりと廊下の床へ机のへりを置いた。
そしてそのまま声のする方へ耳をすませると、
「――ギターのヤツが、怪我をしてしまったみたいで。代役もいないから俺たちのライブの時間を削って欲しいんです」
「削って欲しいって……そんなこと我々に言われましても」
軽音サークルの人の言葉に、学祭執行部の一人が声を荒げた。
「一度、OBの方とちゃんと話し合って、それで時間の方は決めてもらえませんか? ライブのことに関してはOBの方が取り仕切ってるので、体育館でやる行事とは別なのよ」
「それは、OBの人がライブの全権を任されてるからですか?」
「その通りよ。あのライブは我々の管轄外なの。そもそもPA機材をレンタルしてくれる業者と彼らが関わってるからこそ、昇降口であんなライブなんか許されてるわけだし」
その口調から察するに、どうやら軽音の連中は学祭執行部から煙たがられているようである。
「あなた達の持ち時間は十五分なんでしょ? ならOBの方と直接話し合って、どうにかしてもらってください。こちらとしては、明日の十七時にある最後の行事の『くじ引き大会』までにアンプなどを撤収してくれれば問題ないですから」
くじ引き大会とは学生内だけで行なわれる、この学祭の中でも最後に行なわれる一大イベントだった。当日校門で渡される数字の書かれた紙を、十七時の学祭終了時点まで保管しておけば、最後に景品付きのくじ引きに参加することが出来るといったものである。
「なんだか……えらいことになってるね」
松前が千佐都の方を振り返りながらそう言うと、千佐都はぽんと松前の肩を叩いた。
「……あたし、今からかすがのとこ行ってくる。悪いけど、机をお願い」
「え、ちょっとちさ――」
松前の呼びかけに応えることなく、千佐都は猛ダッシュしてサークル棟へと向かった。
10月13日――春日
誰かが、ものすごい早さで階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
「かすがっ! いないの!?」
その音の主は千佐都だった。
部室のドアを乱暴にノックしてから、勢いよくドアを開ける。
「ライブが中止って、どういうことよ!」
春日は、無言のまま何も答えようとはしなかった。
答える気力が、もう残ってなかったのだ。
千佐都は春日の様子を見て、ゆっくりと向かってくる。
「……どうしちゃったのよ、あんた」
「すまない」
ぽつりと出たのは、謝罪の言葉だった。
「すまないって――別にあたしに謝る必要なんてないでしょ」
鼻を鳴らしながら千佐都が、膝をついたままの春日の前で腕を組んだ。
「……何があったの?」
「ギターを担当していた先輩が、昨夜のバイト中に怪我をしたらしいんだ。あの指じゃ、ライブなんて無理だってわかって。それで、僕は――」
※ ※ ※
そうして春日は、全てを千佐都に話した。
先輩達に向かって、それまでの自分の思いを正直にぶちまけてしまったことも。そのせいで、三人の気持ちがばらばらに分解してしまい、結果的に最悪の事態を招いてしまったことも――
全てを話終わった後で、千佐都はため息をつきながら言った。
「――こんなこと、『ガスト・ジョナサンズ』の時にもやってたわね、アンタ」
「ガストロンジャーズだ……」
ファミレスチェーンの名前をくっつける千佐都に向かって、春日は静かに訂正を入れた。
「もういっそ『雑用係のスクリーマーさん』じゃなくて、『壊し屋スクリーマーさん』に変更しなさいよ。もしくは『ちゃぶ台返しのスクリーマーさん』とか」
「……リーダーのお前が、好きにすれば良い……」
「冗談よ。バカ。真に受けんな」
「すまない……」
「だから、別に謝る必要なんて――」
いらいらしている様子の千佐都に向かって、春日は顔を押さえながら肺の中の空気を全て吐き出すように口を開いた。
「僕は……本当にバカだ……とてもお前らに先輩ヅラ出来る人間じゃあないんだ……。利己的で、排他的で、そのくせいつも、プライドだけは一丁前なんだ。そんな自分が、僕はほとほと嫌になる……本当は楽しんでいたくせに……この軽音サークルも……。そういう自分もいたはずなのに……」
床についていた膝を抱え、春日はその場でうずくまった。
「……何がプロだ……何が父さんを見返してやるだ……全部言葉だけだ……満足に動きもしなかったくせに……理想だけは高く持って……きれい事だけ吐いて……周りからしたら疎まれて当然だ……何も出来やしない……だって、何も為していないんだから」
「それ以上は、言わないで」
声が鋭くなった千佐都を無視して、春日は続ける。
「僕のことはもう……放って置いて――」
「放っておけないから――だからあたしはここに来たんでしょうがっ!」
爆発するように千佐都の怒鳴り声が飛んだ。
「利己的で、排他的で、プライドが高いから。……だから何? そんなの皆わかってんのよ! 自分で再確認なんかしなくたって、みんなみーんな気付いてんのよ、かすが!」
千佐都が春日を頭ごなしに叱りつける。
「みんなそれをわかってて付き合ってるのに、それで離れていくアホがどこにいんのよ! あたしはね、かすが。普段の利己的で排他的でプライドが高いあんたを見るよりも、そうやってうじうじいじいじしてるあんたの方がよっぽど嫌!」
「……千佐都」
顔をゆっくりあげて、そう言った。
「とにかく、とっとと謝りに行くわよ。あたしも付いてってあげるから。……全く、リーダーなんて引き受けるんじゃなかったわ。こんなに面倒くさい役職だったなんて」
「謝ったところで……どうなるわけでもない。ギターは、もういないんだから」
「そんなのわからないわよ」
自信たっぷりに告げる千佐都の様子を見て、春日は首をかしげる。
どこにそんなヤツがいるというんだ。
たった一日で、明日やる曲のギターをマスター出来るヤツなんて――
「今からそいつをここに連れてくるわ。そして――かすが。あんたはしっかりと先輩たちに謝りなさい。もちろんそれで許してくれるとは思わないけど……でも、言わないで卒業されるのも、気持ち良いモノじゃないでしょ?」
目の前にいるこの女は一体、何を言っているんだ?
この悪循環を断ち切れるような人物が、どこにいると言うんだ。
「後に引けば引くほど、謝罪ってのは言いにくくなるものなのよ。そのクセ、罪悪感ってのは残るどころか、どんどん膨らむ一方だし……あたしも、そうだったしね」
それは誰のことを言ってるんだ?
ぼんやりしながらそんなことを考えていると、その女は威勢良く部室の扉を開けて、飛び出していった。
再び、静寂な空間が戻ってくる。
春日はぐるりと部室を見渡した。
投げ出されたまま、ギグバッグの中で眠っているベース。
ギターはケースにも入れないで、床に放置してあった。
誰ももいないドラムセットの脇には、スティックが転がっている。
その光景はまるで――魂を失った楽器達の墓場のようだった。
10月13日――月子
「もうそろそろ終わりそうだね」
すっかり眠ってしまった陽葵の横で、悟司が時計を見た。
時刻は十三時五十分。あと十分でようやく解放される。
「そうですね」
「で、でさ……」
悟司はいそいそと学祭のパンフレットを取り出すと、月子に見せるようにしてそれをカーペット敷きの床に置いた。
「酪農部の方でやってる鍋とか食べに行かない? ちょうどお腹も減ってきたところだし、取れたての野菜なんか使うんだって」
「あ、あの。悟司君」
嬉しそうにはしゃぐ悟司を見て、月子は申し訳なく口を開いた。
「う、ウチね……その、持って来ちゃってるんだ。お弁当……」
その言葉で悟司は、ムンクの叫びのような表情になる。
「あ、あ。でもね、その……鍋は一緒に食べましょうよ」
「で、でも――」
「鍋はおかずにしませんか? それで、さ、悟司君も……その――」
一緒にウチのお弁当を食べましょうよ。
そう言えたらどれだけいいか。
月子はしゅーと音が聞こえそうなほど、顔を熱くさせてうつむいた。
さすがにこればかりは首だけで返事をするわけにもいくまい。
「あの、月子ちゃん?」
不安そうに尋ねる悟司を見て、さらに焦る月子。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう…………。
ええい、なすがままよ――
月子が意を決して口を開こうとしたその時だった。
突然勢いよく教室の扉が開いて、悟司も月子も、他の学生や元気に遊んでいる幼児達もみな一斉に扉の方を見た。
「――ちさ姉?」
千佐都が立っていた。
少しだけ息切れをしながら千佐都はぎろっと悟司に目を向ける。
「悟司、こんなとこにいたの……学校中駆け回ったわ」
「なんの用だよ、千佐都」
不機嫌そうな顔をして呟く悟司。だが、そんなことなど全くお構いなしに千佐都は靴を脱ぎ捨てると、ずんずんと二人の目の前までやってきた。
「一緒に来て。非常事態なの」
そう言ってがっしりと悟司の腕を掴む千佐都。
こんなに堂々と人前で男の人の腕を掴めるなんて。
「はぁ!? おいおい、頼むよ。俺これから――」
「これはリーダー命令でもあり、ファンからのお願いでもあるの。悟司、お願い」
……ファン?
それは一体何を意味しているのか、月子にはわからなかった。しかし、その一言で悟司の方は理解したらしく、彼はそれまで頑なに動こうとしなかった場所からゆっくりと腰を持ち上げた。その一瞬の動作だけで、なぜか月子の胸がほんの微かに痛んだ。
「悟司君」
慌てて声をかけるも、悟司は月子に向かって笑いかけながら振り返った。
「すぐ戻るから」
笑顔でそう言うと、悟司は千佐都に連れられるまま、そのまま教室の外へと向かって行ってしまった。
十分後、ようやく託児所から解放された月子は教室から飛び出すと、既にそこに二人の姿はなかった。
「悟司君……」
お弁当を抱えながら、月子はこの後悟司が戻ってこないことを静かに悟ったのだった。
10月13日――悟司
「で? 何があったんだよ。千佐都」
喫煙所のベンチに座った千佐都に向かって尋ねると、
「かすがが、変なの」
と、思いの外、摩訶不思議なコメントが返ってきた。
何が何やら全く検討がつかない。せっかく月子とのデートの機会を延ばしてまでこんなとこに来ているというのに。
イライラしながら悟司は言った。
「よくわからない。先輩は練習中だろ?」
そう口にしてふと気付く。そういえば普段ならばこの喫煙所からでも軽音の音は届くはずなのに、今は一切そんな音は聞こえてこなかった。
「ライブは、中止よ」
「中止って、なんでまた」
千佐都はたどたどしく、これまでの経緯を悟司に話し始めた。その全てが伝え終わるまで、悟司は黙って耳を傾けたまま厳しい表情で空を見上げていた。
※ ※ ※
「――もう見てられないわよ、あのバカ」
千佐都が目元を押さえて俯く。
「かすがは……もっといつもみたいに、不遜な感じじゃないと……そうじゃないと、あたしが嫌だ……」
「でもそんなのは千佐都のエゴだ。先輩も、もちろん俺にだって、時には落ち込んで弱くなってしまうことはある。千佐都だって前に、そんなことがあったじゃないか」
「――あたしは、もうあんな風にならないから!」
千佐都は叫ぶように、力強くそう言った。
「……もうあの時のことは言わないでよ。今でも時々考えるんだから」
「…………悪かった」
辺りの木々が一斉にざわめいた。外に出るまで気付かなかったが、風の勢いが増してきている。これ以上の強風になると、ビニールシートを張って行なわれているフリマの存続自体が危ういかも知れない。
気候も、そして人間関係的にもひどい学祭初日となってしまった。一年の時からこんな調子じゃ、来年も再来年も先が思いやられてしまう。
しかし春日がライブをやらないということに関しては、悟司としても残念でならない。
「とにかくさ、もうライブに関してはどうしたって無理だよ。ギターの人にいたっては険悪どころか、怪我までしてる状況なわけだし」
「ドラムの人には、さっきあたしから考え直してほしいってお願いしてきた。顔を覚えててくれてたみたい。すぐにかすがの仲間だって気付いてたわ」
「ギターの人は?」
「……これから謝りに行く。もちろんかすがも連れて」
「……まぁ、それが出来るなら勝手にすればいいよ。でもギターは? さすがに怪我してる人を説得したところでどうにもならないだろ」
そう言って悟司は自動販売機に向かうと、いつもの無糖紅茶のボタンを押した。
がたんっという音がして取り出し口から拾い上げると、相変わらずの冷たい感触がじわりと手に伝わった。見ると、千佐都の好きなミルクティがホットになっている。
その事を伝えようかと思って振りかえると、いつの間にか千佐都は悟司のすぐそばまでやってきていた。思いのほか接近していたため、どきっとしてしまう。
そんな悟司の思いなど知る由もなく、千佐都は無言で片腕をゆっくり持ち上げると、そのまま人差し指で悟司の顔を指した。
……何ソレ?
わけもわからず、そのまま千佐都の指に自分のを押し当ててみる。
そんな悟司の反応に、千佐都が怪訝な表情をしながら言った。
「……あんた、なにしてんのよ」
「いや、ETの真似なのかなーと」
「こんな時にバカ言わないで。あんたがギター弾けば良いじゃないってこと」
「…………は?」
冗談にしてはちょっと悪趣味すぎる。
「ギター弾いてよ。悟司」
と思ったら、どうやらマジのようでした。
「おいおいおいおい、馬鹿言うなよ? 前日にギターを練習して、当日いきなり『はい、どうぞ』ってか? そんなの無理ゲーすぎるから。無理。不可能です」
「十五分ってことは、準備とMCを挟んで片付けがあるからおそらく二曲程度持てばいいはずだわ。二曲くらいなら悟司だって余裕でしょ?」
そのまま「ついでに洗濯物も取り込んでおいてよ」とでも言いそうなくらいに軽々しく言ってくれやがる。さすがにこれには黙っていられなかった。
「……あのなぁ。先輩のバンドはコピーバンドだろ? モノによってはたかが二曲でも、かなり演奏力を問われるんだ。どんな曲をやっているかもしらない、タブ譜もない、下手したら聴いたことない曲かもしれない。そんなモノをどうやってやれと――」
「お願い、悟司」
千佐都はまっすぐ悟司を見て言った。
「ファンの頼み事なのよ、悟司」
ここに来てまたそれか。……全く、びっくりするほど都合の良い言葉だ。
今更だが、初めてそれを聞いた時に嬉しくなっていた自分がバカみたいに思えてきた。
ホント、単純なんだな。自分。
「ファンの頼みでもこればかりは聞けない。大体、俺は人前で演奏したことないんだ。いきなりの飛び入りで参加出来ると思うか? コミュ障の俺が」
「出来るわよ」
「出来ない」
「出来るってっ!」
「出来ないってのっ!」
そのまま両者睨み合いの攻防戦。それから、二人してふんっとそっぽを向き合った。
「……千佐都。真面目な話、これはそんな簡単に話がすむような問題じゃない。春日先輩はサークルの二人と、ずいぶん長い付き合いがあった。俺達のような半年程度の付き合いじゃない、もっと長い期間だ。そんな長い付き合いの中、突然今までの全てを否定された四年生二人の気持ちは、想像するだけでもひどいもんだ。春日先輩も正直、口が滑ったにしてもやり過ぎだよ」
「…………」
しかめ面の千佐都に向かって、さらに悟司は続ける。
「でもさ、あいにく俺達二人はサークルの二人と違って、そんな言葉を吐いてしまった春日先輩の真意がよくわかってしまうんだ。先輩は焦っていた。将来のことで、もうあまり時間がない。その為に、とにかく音楽に関することは一つ一つ真剣に取り組んでいきかった。そういった事情を知ってるからこそ、千佐都は肩入れしたくなってるんだろ? でもさ――」
「……言われなくてもわかってんのよ、そんなことは」
千佐都がそっぽを向きながら、悟司の言葉を遮った。
「わかってるのよ、四年生の二人がそのことを知らないで激怒したことは。でもさ、あたしはこのままかすががあの二人と険悪なままでいるなんて絶対に嫌。ライブをしないで学祭が終わってしまうのは嫌なの」
少しだけ目を細めると、千佐都は重いため息を吐いた。
「かすがはね、前に自分のことを『臆病な人間だ』って言ったわ。きっと、いつもあたし達に見せてる自分より、そういった臆病な自分こそが地なのよ。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ――」
そこで、なぜか唐突に千佐都が話を切った。
北風が二人の間を通り抜ける。
「――でさ、あいつはずっとそのジレンマを抱えてきて――」
……待ってても一向に反応がない悟司に耐えかねて、再び千佐都が口を開きだした。こころなしか千佐都の瞳がこちらを睨んでいるような気がする。
おそらく千佐都は悟司に、ポ○ズンと言ってほしかったのだろうが、あいにくそんな古いドラマネタなど今更口に出したくもない。北風もそう思っていたはずだ。きっと。
「――それがここに来てとうとう暴発してしまった。でも、それってしょうがないと思わない? あたし達の曲だって再生数伸び悩んでてさ、鵜飼っていう自分より年上の人間が夢を挫折した話まで聞かされて……その挙げ句これよ? そりゃちゃぶ台返しだってしたくなるわよ」
ちゃぶ台返しってなんだよ……。
意味不明な例えを持ち出した千佐都をねめつけながらも、悟司は一応最後まで黙って聞くことにした。
「全部が全部、良くない方向に向いてしまったから、だからこんな事件が起きたのよ。無理して虚勢を張って、本当は自分が周りにどう思われているのかがすごく気になるのに、それでも頑張ってるかすがを、あたしはどうにかしてあげたい。だから悟司――」
千佐都がぐっと悟司の手を掴んだ。
「あたしに協力してほしいの。もちろん、謝ればすむ問題じゃないかもしれない。でもね、このまま壊れた関係を修復出来ないでずっと後悔し続けるくらいなら、今のうちにやれるだけのことはやった方が絶対良い! 仮にあたしが、このまま悟司達と二年間過ごしてきて突然、ずっと言えなかった本心をぶちまけてしまって皆を怒らせてしまったら、きっとそうする。絶対、ジャンピング土下座する!」
「暑苦しい暑苦しい!」
にじり寄る千佐都から顔を仰け反らせる悟司。
「うるさい! ちゃんと聞け! でも今回の件はただ、かすがが謝るだけじゃ何も解決なんて出来ない。ライブが――代わりにギターが弾ける人がいないと!」
「そこで、むっちゃくちゃ強引にライブの件を引っ張ってきたな、オイ!?」
「悟司ならやってくれるっ! あたしは信じてる! だから――」
「……だから?」
千佐都がまっすぐ悟司の目を見て、静かに口を開いた。
「あたしに協力して。オーケー?」
来たよ、この決め文句。
「……オーケー、なんていうと思うか? 俺が」
「言うよ、悟司は。絶対言う」
くそったれ!
「おーけーおーけぇ! ……ったく。その熱意に負けた」
頭を掻いてそう言うと、千佐都はほっと安心するように微笑んだ。
「ありがとう悟司」
……全く。
こいつといると、いつもこうだ。なんやかんやと無理難題を持ってきては、あれこれと自分を困らせてくる。しかも、そんな難題にもいまやすっかり慣れっこになってしまっているのがまた憎らしい。
そんなことを思いながら、悟司は千佐都に掴まれていた手にもう片方の手を添えて千佐都をベンチから引っ張り上げる。
「そうと決まれば早速行くか、先輩のところへ」
「そうね」
二人で笑い合ってから、サークル棟を見る。
「ところで、○ンギリバーさんの監視役なんだけど――」
歩き始めた千佐都がふと、思い出した様に立ち止まって言った。
「……それはノーです」
「なぜだっ!」
「そうやって、なんでもかんでも面倒事を誰かに押しつけようとすんなっ! 松前さんもそう言ってたろーが!」
その場でぶんぶんと両腕を振る千佐都を無視して、悟司はずんずんとサークル棟へ歩き始めた。
十一月八日――弘緒
食事休みの時間に、弘緒は席を立って金髪の席の前まで向かった。
どこかの弁当屋で買ってきた豪華な弁当を広げようとしていた金髪が、弘緒の存在に気付いて驚いた顔をする。
「昨日……私を保険室まで運んでくれた人が知りたいの」
溢れ出そうになる羞恥心を必死に隠しながら弘緒は言った。
弘緒にはちょっとだけ嫌な予感がしていた。
それは自分を抱えて保険室へ運んでくれたのが金髪かもしれないということである。
弘緒は金髪の名字を知らない。覚える気もなかったのだから今更すぎるのだが、こいつが佐藤ということも十分にあり得るのだ。
金髪はいつも作業着で学校に来ていた。工場かどこかで働いているのだろうが、体格は背丈こそ高いものの一般平均男性よりもやや細身な体つきであった。
見かけよりも力がある、という保険医の女性の見解を聞いてなんとなく思い当たるのはこの金髪以外にないような気がした。それ以前に弘緒は普段からあまり周囲の人間に目がいっていないので、この金髪の体格ですらあまりじろじろと見ることもないのだが。
ごくりと唾を飲み込んで弘緒は金髪の言葉を待った。
やはり、こいつが佐藤なのだろうか?
やがて、箸を割りながらぽけーっとした顔で金髪が口を開いた。
「ああ。オッサンなら今日は休みみたいだな」
「オッサン?」
そんな予想外の言葉に、弘緒は思わず目を見開いて聞き返していた。
「昨日お前を運んだのはお前と同じ名字のオッサンだ。いつもはあそこに座ってる」
そういって金髪が箸で指した席は弘緒の左斜め後ろ、一番後ろの列に位置する席であった。全生徒が座っている場所を考えれば、あそこが一番弘緒の席から近い。
弘緒はなんとなく自分の中で合点がついた。そういえば確かに、いつもあそこには誰かが座っていたような気がする。全く顔を覚えていないが。
「オッサンにお礼でも言うのか?」
……相変わらず、ずかずかと他人の領域に踏み込んだ発言をする奴だ。
弘緒は顔をしかめつつそう思う。
しかし金髪は昨日、一番最初に自分の異変に気付いた人物でもあるのだ。感謝の気持ちこそあれ、邪険にするわけにもいかない。ましてや自分から話しかけておいて、である。
苛立ちを押さえながらも弘緒は静かに首を縦に振ると、金髪はにこやかに微笑んだ。
「なら、今日学校終わってから直接会いに行きなよ」
「直接?」
突然何を言い出すんだと思っていると、金髪はノートのページを一枚破って簡単な地図を書き出した。
「オッサンっていつもはずっと棒振りしてんだ。でも今日は確かスーパーの品出ししてるはず。ほらこの駅の南口から出た道の先にコンビニあるだろ」
金髪から手渡された地図には、駅からの行き方を示した簡単な経路が記されていた。
「学校終わってからならちょうど仕事も終わる頃じゃね? あそこのスーパー十時閉店だしさ」
金髪から渡された地図を見て、弘緒もそのスーパーの場所をなんとなく理解した。
過去に何度か行ったことのあるスーパーだった。家の方からだとそれなりに距離があるのであまり利用したことはないが、それなりに品揃えも良くて安かった記憶がある。
「……ありがと。行ってみる」
「おお。あとさ、佐藤」
「なに?」
その場を離れようとした弘緒を金髪が呼び止める。
「こんな事言っても、また前みたいに怒るかもしんねーけど……やっぱ、昨日みたいになる前にさ、誰かに言ってくれよ。難しいかもしれないけどさ。だって俺、あの時すっげー心配したから」
「……心配?」
「なに意外そうな顔してんだよ。当たり前だろ、みんなだってずっと心配してたんだ」
恥ずかしそうに言う金髪の顔を見て、弘緒は意外に思った。
心配? なんで?
前にあれだけ突き放したじゃないか。それなのにどうして?
ぐるぐると疑問が頭の中を渦巻いていく。
「どう……して?」
細い声でそれだけ言うのが精一杯だった。
「どうしてって……そりゃそうだろ。同じクラスの仲間なんだから」
「なんで……よ……やめてよ……」
ぐらりと頭が重たくなってその場でふらついてしまった。
そんな不安定な様子の弘緒を見て、慌てて金髪が取り繕うように言葉を吐いた。
「あ、ああ。うん。わかってる。お前が俺たちを嫌ってんのはわかってるから。でも、まぁなんつーか……時々でいいから相談してくれよ。だっていきなりぶっ倒れられたら、普通はみんなびっくりするだろ? 同じクラスの仲間じゃねぇかよ、遠慮なく頼むぜ」
なんで。
どうして、私が嫌っていることになるんだ。
逆だ。私は誰も嫌ってなんかいない。むしろ嫌われたくないからすぐにでも遠ざけたんだ。悪意がこちらに向く前に、自分から他人と決別して遠ざけようとしたんだ。
なぜなら――
なぜなら、そのままの悪意よりも好意から変貌する悪意の方がよっぽどたちが悪いことを知っているから。だから弱みを見せたくなかった。
一人を貫き通し、空気のように息をひそめていればきっとあっという間に過ぎ去っていく時間だ。そう信じていたから、せめて足下だけはすくわれないよう隙を見せずに心がけていたのだ――昨日までは。
「にしても、久しぶりに話せて良かったぜ。また話したくなったらいつでもいいぞ、俺待ってるからさ」
……世の中は悪意だらけじゃないの?
弘緒にはもうわからなかった。
10月13日――悟司
「先輩、入りますよ」
そう言って、ノックもなく軽音サークルの部室の中へと入った。
部室内は、以前見た光景よりもずっとサークルっぽさが溢れていた。ライブ前日の練習風景はこんなものなのだろう。バンドをしたことない悟司にはわからないが。
そこかしこに散らばっているケーブルや、エフェクターの中心に春日はいた。膝を抱えてうずくまって、まるで子供のようだ。
「樫枝か……」
その上、まるでゾンビのような声だ。
「……何の用だ?」
「先輩が、プチ鬱入ってると聞きまして」
「……笑いに来たのなら、帰ってくれないか?」
軽口を言っただけでこの反応。どうやらよほど参っているらしい。
「ねぇかすが、謝りに行こう。あたしもついてくからさ」
ひょいっと悟司の肩越しに千佐都がそう呼びかける。
「だからもう、放って置いてくれって言ってるじゃないか……それに、ギターは一体どうするんだ……」
「俺が弾くことに相成りました」
「無理だよ……」
即答だった。
「樫枝が弾けるわけないじゃないか……人前で……ライブなんかで……演奏なんて出来るわけがない……そんなの、わかってるんだよ僕は……」
まさにその通りなのだが、あらためて人に言われるとちょっと癪に障るものがあった。
そうして悟司がむっと顔をしかめていると、肩越しから千佐都の荒ぶる声がすっ飛んできた。
「だーっ! もういつまでしょげてんのさ!? 悪いと思ったら『ごめんなさい』でしょ。そんなの小学生でもわかることでしょーがっ! そうやってバカみたいに凹んでても、何も解決なんかしないんだからねっ」
「うるさい……僕はこういうヤツなんだ……」
春日は二人からすっと身体を背けると、床を見つめながら重いため息をついた。
「前に樫枝とやり合ったときもそうだった……僕は弱いヤツなんだよ……本当は人に嫌われたりされるのが……怖いんだ……だから……こうやって、自己嫌悪に耽る……そうして……散々自分を責めたあとで……お前らには強気に出られるんだ……でも、そんなお前らにさえも……僕は嫌われたくない……」
そこまで言うと、とうとう春日は顔を伏せて俯いてしまった。
だめだこりゃ。
「……あのねぇ、そうしていつまでもいじけてると、今度はあたしらがあんたを本気で嫌っちゃうぞぉ? どーするのぉ? かすがくーん」
わざとらしい猫なで声で、千佐都が春日にそう尋ねる。
こめかみに血管を浮き上がらせた千佐都は、とんとんと足を踏み鳴らしながら、どうにか怒りを押さえ込んでいるようであった。表情はかろうじて笑っているが、その口角の引きつり具合を見るに、いつ爆発してもおかしくない。
かくいう悟司も、そろそろ面倒くさくなってきていた。どうやら春日は、悟司の予想も遙かに凌駕するレベルでうじうじするタイプだったらしい。あらかじめ考えていた強攻策がないこともないのだが……。
だがそれを使うべきかどうかは正直、非常にためらわれる。下手すれば逆効果にもなってしまいかねない荒療治のような気がしているからだ。
しかし、いつまでもこうしていたところで埒が明かない。出来れば使いたくなかったし使う気もなかったのだが。
……いちかばちか、やってみることにしよう。
そう思った悟司はすぅっと息を吸い込みながら春日に近寄っていく。
「悟司?」
千佐都の声も無視して、悟司は言った。
「――先輩。なんならもういっそのこと、全部辞めちゃいましょうよ」
もちろん、これは本心ではない。荒療治の、完全なる口からでまかせだ。
でもこの発言には、さすがの千佐都もぎょっとしているようだった。
まだまだ、こんなもんじゃないぞ。千佐都。
一度ぐっと唾を飲み込んでから、悟司は静かに言葉を吐いた。
「さっきから聞いてると、音楽なんて向いてませんよ先輩は」
ぴくりと春日の肩が動いた。
……また殴られ屋になってしまうのだろうか。
内心びくびくしながらも悟司は続ける。
「バンドなんて、内部対立なんか日常茶飯事じゃないですか? それなのに先輩はそんなメンバーに対して、今まで正面からぶつかろうともしなかった。今俺らがやってる音楽だってそうですよ? まともにぶつかり合わないで何が音楽だ、やめちまえ。そんなの」
「ちょ、ちょっと悟司。あんた言い過――」
見かねた千佐都が慌てて悟司の肩に手をかけた。
だがその手も振り払って、悟司はどんどんと春日の前へ近付いていった。
言い出してから気付いたけど、結構自分にもブーメランな発言だなぁ……。
悟司がそんなことを考えていると、
「ちがう……僕は……」
春日が顔を上げた。
「お前らには……いつも本音で――」
そう言って、悟司の方を見る。
それは、なんとも弱々しい表情であった。
だが、悪くない反応だ。
悟司はさらに春日を煽り立てようとする。
「どうでしょうね? 怪しいもんだ。今の先輩見てると思いますよ――」
そこで、思いっきり言葉を溜める。
これなら、きっと激昂するはずだ――
そう思って、悟司ははっきりした口調で言った。
「先輩の父親も、きっとおんなじようにくだらない人なんだってね」
「悟司!」
千佐都の声が耳に届いた時には既に、春日の手は悟司の襟首をがっちりとつかんでいた。
「樫枝ぁ……」
それは、完全に怒気を含ませた威嚇の声だった。
前にもあった展開だが、やはりこういう事はいつまで経っても慣れるものじゃない。
本心では既に完全降伏状態であったが、それを悟られないように精一杯虚勢を張る。
「やっと、立ちましたね。先輩」
その言葉に、春日は下からぎろりと悟司を睨み返した。
「今の言葉を……訂正しろ、樫枝」
「嫌だね」
「訂正しろって言ったんだ」
「嫌だっつってんだろ」
「樫枝ぁっ!」
「また、殴るんですか?」
いつの間にか振り上げていた春日の拳が、そこでぴたりと止まった。
千佐都の息を呑む音がして、すぐに静寂な室内へと切り替わる。
「……俺ならすぐにあんたに謝れますよ、先輩。許してもらえるかどうかはわかりませんが、今言ったことは全部、謝る。誠心誠意謝りますよ。だって本心じゃないですからね。こんなものは」
「それで……その一言で、僕にわかってもらえると思ったのか? 今のは僕の――僕の逆鱗に触れた一言なんだぞ? わかってるのか」
「先輩も、きっと四年生の二人にそれだけのことを言ったんです。俺と先輩は、まったく同じ立場にあるんですよ。そんなわけで、俺は今すぐに謝ります。先輩は――どうなんですか?」
乱暴に襟首から春日の手が離れた。
慌てて千佐都が悟司の肩に触れる。
「ばか……なにしてんのよ、あんたは」
本当にその通りだ。
でも先輩は、自分と同じく器用な方ではない人間だ。
そのせいで人を傷つけて、それでどこまでも悩み抜いてしまう人だ。だからこのやり方が一番良かったのだと、悟司は思ったのだった。
「ていうか、こんなやり方しかぱっと思いつかなかった……へへ」
悟司が千佐都に向かってそう笑うと、千佐都はほっと息を吐いて、それからきっと春日を睨んだ。
「もし、また悟司を殴ってたら……今度こそ本気であたしはあんたを見限ってたわよ、かすが」
春日は俯いたまましばらく黙り込んでいた。
先ほど襟首を掴まれた感触では、前の時ほど春日の手は悟司の喉を締め上げていなかった。もしかしたら、春日はうっすらこちらの意図に気付いていたんじゃないだろうか。
そしたら、この作戦は失敗してしまうかもしれない。
逆効果にならないで欲しい。そう願っていると、やがて春日はゆっくりこちらへ振り返って、
「樫枝、それに千佐都――」
そして、静かにそう口を開くと、
「…………すまなかった」
ゆっくりと、その頭を丁寧に下げたのだった。
千佐都が悟司の元を離れて、春日に近付きながら口を開く。
「バカね……何度も言ってるでしょ、謝る相手が違う」
千佐都はすっと春日の前に立つと、拳を握ってそのまま春日の胸をとんと小突いた。
「いい加減、学習しなさいよ。バカかすが……これ以上あたしらに謝るなって……」
俯いてはいるが、きっと千佐都の目は潤んでいることだろう。
ちょっとしたことで、結構すぐに泣いてしまうのだ。千佐都は、そういうヤツであった。
二人を見ながらそんなことを考えていると、ふとこうしちゃいられない事態であることを今更ながらに思い出した。そのまま立ち上がると、悟司は春日に向かって手を差し出す。
「先輩、とにかく俺は急いでギターを覚えます。タブ譜と実際の曲の音源をください。きっと合わせている時間もないでしょうし、今すぐ帰って練習してきます」
「……本当にやるつもりなのか? 樫枝」
春日の問いに、首をすくめながら悟司は答える。
「めんどくさいリーダーからの直々の頼み事なんですよ。ぶっちゃけ、他に出来る人を知ってるなら今すぐにでも代わってもらいたいです」
「ふっ」
ようやく笑みを見せた春日は、携帯プレーヤーとタブ譜を悟司に渡した。
「やる演目は二曲だ。一曲目はほぼパワーコードだけの簡単なものなんだが、二曲目は正直お前の腕では一夜で出来るかどうか厳しい。先輩はああ見えて、かなりギターは上手いんだ」
「一応断っておきますと、きっと本番は上がりまくってまともに演奏出来ないです。それを考慮したら、その二曲目ってのはどれくらい難しいですか?」
「かなり……難しいな……」
ですよね……。
二人してため息をつくと、横から千佐都が二人の背をばしんと叩いた。
「やる前からみっともない声出さないっ! 悟司、あたしはちょー期待してるんだからね!」
「ファンとして、だろ?」
「当然っ」
胸を張って腕を組んだ千佐都は、続いて春日の方を見た。
「かすが、四年の先輩を探しに行こう」
「ああ、だが千佐都。お前は来なくて良い」
「なんでっ!?」
目を白黒させながら千佐都が叫ぶと、春日は悟司の方へ振り返った。
「……樫枝が今の僕への無礼を謝るなら、千佐都を連れてくるか?」
まっすぐ見据えながらそう問いかける春日。
そんな春日に向かって悟司は即、首を横に振った。
「そういうことだよ千佐都。だからお前は来なくて良いんだ」
再び春日が千佐都に向かって視線を投げると、
「……わかった。でもさ、一応ついて行く。傍にはいないけど、ちゃんと謝ってるとこは見届けたい」
千佐都のそんな申し出に、春日はやれやれといった様子で頭を振った。
「……ここ数日の間迷惑をかけたわけだし、それくらいなら」
不承不承、納得するように呟いてから春日は悟司、そして千佐都と順番に見回してから共に三人で部室の外へと出た。
10月13日――千佐都
喫煙所までくると悟司は「じゃあ帰ってすぐに練習を始めるから」と言い残して、二人の元から離れていった。そのまま遠ざかっていく姿を千佐都が目で追っていると、悟司は急に携帯を取りだして誰かへ電話をかけ始めた。
誰に電話するのだろうか? と思った矢先にふと、千佐都は先ほど悟司が月子と一緒にいたことを思い出した。
……もしかしたら、かなりお邪魔なことをしてしまったかもしれない。
悟司が月子を好意的に想っていることは、彼女のメンバー加入以前から聞いていたはずなのに。当の本人が一切アクションを起こさないから、千佐都は今の今まですっかり忘れてしまっていた。
「やっちまったわさ……」
ぱちんっと手の平をおでこに当てて、そう漏らす。
今更後悔したところでもはや遅すぎる話なのだが、それでも千佐都の心の中は悟司に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「千佐都」
その声で我に返った千佐都がゆっくり振り返る。
声のした先では、呑気に春日がタバコを吸っていた。そのあまりの呑気っぷりに、千佐都はその場でずっこけてしまいそうになる。
「ちょ、あんた何してんのさ!? 謝りに行くんでしょ?」
千佐都が声を荒げると、慌てて春日は口からタバコを離した。
「い、行くとも。でも何事にも、まずは心の準備ってモノが必要じゃないか。だから僕は少し一服して気持ちを落ち着かせようとだな――」
そこまで言って、春日の声が止まる。春日の視線は千佐都の背中越しに向けられていた。
千佐都が振り返ると、そこには見たことのある人物が立っていた。
四年生の先輩である。左手には痛々しい包帯が巻かれており、それを見て千佐都はすぐにこの人がギターの担当だと思い当たった。
顔を見るまですっかり忘れていたが彼は以前、悟司と一緒に軽音サークルに押しかけたときに自分をナンパしてきたヤツだ。それを思い出しただけで彼の顔が一際憎たらしく見えてくる。
――っといかんいかん。今は自分が腹を立てている場合ではないのだ。
そう思い直して、千佐都は春日の方へ再び振りかえると、
「…………」
……春日は、石化していた。もし、仮に全裸だったら「煙草を吸う男」というタイトルで彫刻になってしまうほど微動だにしない。
――しっかりしてよ、このバカっ!
口をぱくぱくさせながら、春日に合図を送ろうとしたところで、
「楽しそうだな」
そんな声がギター先輩から飛んでくる。
「ライブが出来ないっていうのに……そうして、すぐに後輩とつるんでるわけか。本当にどうでもいいんだな、俺らのことはよ」
「……違います」
そう漏らす春日の声は、先ほどまでの態度とはまるで違う人物のようであった。そればかりかついさっきサークル室でしていた、あの気弱な表情が再び戻ってきてしまっている。
……人って、相手に対してこんなに変わるモノなのだろうか。
誰に対しても、常に我の道を邁進している千佐都には信じられなかった。
「違います、先輩……僕は、さきほど自分が言ってしまったことを……謝りたくて――」
「謝りたくて? ……はん、とてもそういう姿には見えないけどな」
ギター先輩が、春日を睨みつける。自ら手にするタバコの灰が落ちそうなことにも気付かない様子で、春日はひたすらに青ざめた表情のままだ。
「まぁいいわ。もうお前にはこれ以上言うこともねーし。サークルだって、学祭の時期が終わっちまえば、もうやることもねぇ。だから春日――お前ももう、嫌々来なくてもいいんだぜ。……じゃあな」
そう言って立ち去ろうとするギター先輩。春日はまだ動けずにじっとその場で固まったままだった。千佐都はぐっと両拳を握ってから春日の元へと近寄った。
「……何やってんのよ、ばかかすがっ」
小声でそう言うも、全く反応を示すことがない。
……どうしよう。
このままじゃ、よけい関係を悪化させただけだ。
そうしている間にもギター先輩はどんどんと二人の元からいなくなってしまう。
どうしよう。
あたしは一体、どうすれば――
ぐるぐるとおかしくなりそうなくらに悩み抜いてしまった千佐都が取った結論。
それは、これだった。
――ぱちんっ!
千佐都は春日の頬を、全力の力を込めて叩いていた。
「しゃきっと――しゃきっとなさいよっっ! 謝るんでしょ!」
手が……じーんとする。
あまりにも突然のビンタに、ギター先輩の方もびっくりしてこちらへ振り返っていた。春日は殴られたところを真っ赤にしながら、ぽかんと口を開けていた。
虚ろだった目に、光が戻り始めている。
「謝るんでしょっっ!」
再び千佐都が叫んだ。
すると、春日はようやく我に返り、そのまま頬を押さえながら千佐都の横をすっと横切っってギター先輩の方へと向かって行った。
その刹那――
「……ありがとう」
ぽつりとそう呟くと、春日は千佐都の肩に手を置いてそのまま先輩の元まで歩いて行った。
涙が、頬をすぅっと伝った。
……なんでだろう。あたしが泣くことなんか何もないのに。
目元をこすって泣いてることを悟られないようにしながら、千佐都は黙って二人のやりとりを背中越しに聞き届けようと思った。
「先輩……本当に、申し訳なく思ってるんです。千佐都は……こいつは、頼りない僕のためにわざわざ付き添いに来てくれただけだったんです。先輩が思ってるように、どうでもいいと思って、僕らはここにいたわけじゃないんです」
ギター先輩の声は聞こえず、春日の声だけが淡々と千佐都の耳に入ってくる。
「さっき、先輩のその手を見て僕は気が動転してしまいました。でも、さきほど僕が言った気持ちというのは嘘ではありません。だから、そのことを言い訳するつもりもないんです。でも、これだけは言わせてください先輩――」
少しだけ間が空いた。
そのわずかな二人の間が、千佐都にはたまらなく切なかった。
「僕は――あなた達と二年間過ごしてきて、楽しかったんです……っ! さっき僕が言った気持ちは本心だけどっ! でも……楽しかった。本当に、楽しかったんです!」
その言葉を聞いて、千佐都は再びぼろぼろと涙が溢れ出してくる。
溢れ出して、ちっとも止まらなかった。
「なんでだろう……?」
そう呟いてみるが、原因なんてわからない。
「舌の根も乾かないうちに、と思っているかも知れません。でもそれだけは、絶対にすぐ伝えないといけないと思いました。……あれだけ言って、あれだけのひどいことをして、許してもらえるとは思ってないです……。でも、今、僕はあなたに謝りたいんです」
「どうして……だよ」
戸惑いの色を見せたギター先輩の擦れ声に、春日が答える。
「……二年間の僕の姿は、嘘じゃないって言わなければいけなかった。それは、間を空けてから言うべきことじゃないって。そう思ったんです……すみませんでした、先輩。先ほどの無礼……本当に、すみませんでした……っ!!」
ざらっと、地面の砂がこすれる音がして千佐都は息を呑んだ。
背を向けたままだから、その姿はわからないが――
「すみませんでした……っ。すみません……本当に、本当に。すみません……」
春日が、地面に頭をつけて何度も何度も謝っているのが、千佐都にははっきりとわかってしまった。
「お、おい」
さすがにギター先輩も、慌てて春日の身体を起こそうとする。しかし、春日は頑として下げた頭を持ち上げない。
「すみません、でしたっ! 先輩っっっ!」
……ああ、ようやくわかった。
心の中で、千佐都はいつも、軽音の連中のことを愚痴っていながらも笑いながら話していた春日の姿をぼんやり思い出していた。
あれだけいつも、嫌そうに話しながらそれでも笑みを崩さなかった春日。
春日は、この先輩のことが大好きだったんだ。
父親との約束もありつつ、焦る気持ち。
しかしそれとは全く別のベクトルで、春日は音楽を楽しんでいたのだ。
この先輩達と一緒に、二年間ずっと――
「わかったから! ……もうわかった、春日。だから頭を上げろって」
とうとう耐えきれなくなったギター先輩は、春日の腕を無理矢理掴んで引き起こす。そうしてようやく身体を起こした春日に向かって、ため息をついた。
「俺の方こそ……悪かったよ」
そう言って、先輩は恥ずかしそうに頭を掻く。
「言わなくても、お前が色々思ってることはわかってたんだ。春日はさ、何も言わなくても顔がべらべらと喋ってるんだよ。でも少なくとも俺は――それを追求したり出来なかった。一度聞いてしまったらさ、お前が俺達のバンドを辞めるって言い出すかもって思ってたら……怖くて言えなかった」
「先輩……」
「もう、こんな手だし。結局俺はもうライブに出られないけど……でもさ、春日」
手を見つめた後、ギター先輩は春日の方へ向き直った。
「卒業前に、またどこかでライブやろうぜ」
「先輩……」
……いかん。
マジで、涙が止まらない。
「――えぐっ……えぐっ……ひんっ……」
「……ところでよ、春日――」
ギター先輩が、春日の肩に手を置いてからすっとこちらを指さした。
「あの子、そろそろ泣き止ませてくれないか? なんで泣いてるのか……さっぱりだ」
そう言われた春日もゆっくりとこちらへ振りかえる。一瞬だけぎょっとしてから、
「……すみません。一応知り合いではあるんですが、僕も、理由がよくわからないです」
首を傾げながらそんなことを言う。
ほっといてください。不覚にも感動してしまったのさ。
なんというかその――男の友情ってヤツ?
「ううぅ~……ぐすんっ……ひん……」
ジト目で見つめる二人の前で、だらしなくも涙はどんどんと溢れ出して、一向に止まる様子がなかった。
10月14日――悟司
日付が変わった。時計をちらりと見てから、悟司はヘッドホンを取った。
「まずい……」
二曲目は春日が言うとおり、一曲目よりもずっとレベルの高い楽曲だった。曲構成自体がかなりギターに頼っている部分があり、正直これをライブで演奏するにはもう少し長い練習時間が必要になる。
「……どうすんだよ、これ」
今朝家を出たときにはあんなに軽やかだった足取りも、明日は相当に重くなりそうだ。一度やると言ってしまった手前、断るわけにもいかない。
とりあえず一度休憩を挟もうとしたところで、
「ん?」
パソコンのディスプレイの下方部が点滅しているのに気付いた。
確認しようと思って悟司が近付くと、どうやらその点滅の正体はいくつか開きっぱなしにしていた窓の一つ、ネット通話用ソフトのようだった。
このソフトはパソコンを点けると同時起動するようで、ネットに繋いだ途端、勝手にアクセスされるように出来ているらしい。設定の方で変更出来るようだが、どうせ通話する相手など今は一人しかいない。
そして、その点滅の原因はその一人からのチャットメッセージによるものであった。
『himajin-majin:久しぶりー。navelには一応お前らにメルアドを教えるって言ってあるから、暇な時にでもメールしてやってくれ。一度、楽曲を聴いてみたいって言ってたからお前らの曲の動画URLを教えといた』
そう書かれている会話のすぐ下に、navelのものらしきメールアドレスが載っていた。メールの文面を作るのは苦手なので千佐都にやってもらうことにしよう。
……というか、忙しくてそんなことをすっかり忘れていた。
悟司は、つたないキーボードタッチで返信を送る。
『 sugao-sk:ありがとうございます。
himajin-majin:新しい曲、進んでる?』
相変わらず、ひまじんこと鵜飼の返信は早かった。四六時中パソコンの前にいるのだろうかとすら思ってしまう。
『 sugao-sk:まだですね。ちょっと今、学祭で立て込んでまして。
himajin-majin:学祭?
sugao-sk:スクリーマーさんのライブに、俺も参加する羽目になったんですよ。
himajin-majin:面白そうだなー。いいなぁ、学生』
チャットからは、まるで彼の声が聞こえてきそうだった。鵜飼のそういった何気ない文面からでもにじみ出てくる人間性が、なんだか非常に羨ましい。
『 himajin-majin:ライブの感想、楽しみにしてるわ。
sugao-sk:申し上げるものがあればいいですけれど、やれるだけやってみます(笑)』
そこで、鵜飼とのチャットは終了した。
再びヘッドホンを耳に当てながら、悟司はコピー曲の練習を再開し始める。
この時は、まさか明日のライブが「あんなこと」になるなんてこの時の悟司には想像だにしていなかった。
※ここまでの日付まとめ
・弘緒
四月九日、四月二十三日、
五月十三日、五月二十日、五月二十八日
十月三日、十月二十一日、十一月七日、十一月八日
十二月一日
・悟司
9月27日、9月28日、9月29日、
10月1日、10月7日、10月10日、
10月13日(開拓祭一日目)、10月14日(開拓祭二日目)




