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シュガー・シュガー・シュガー(!)  作者: 助供珠樹
大学一年:9~12月まで(エピソード2)
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10/90

第七章 『ひまじん、どや顔で7さじ目』

10/29~11/10更新分(12/1改稿)

 10月7日――悟司


 札幌、時計台前――

 慰安旅行かなにかの老人団体が賑わう中、悟司、千佐都、春日、月子の四人が寒空の下でとある人物を待っていた。


 相手は他でもない『ひまじん』である。デートとは言いつつも、悟司と春日の同行はきちんと許可をしてくれた彼を四人は朝の札幌の中心街で待っていた。


 時刻は既に十時十分。

 約束の時間はとっくに過ぎている。


「あーあ……どこかのバカがいらん欲を出したりするから、こんなことに――」


 千佐都ががっくりと肩を落として呟く横で、春日は何も言わずに老人団体の方へと目を逸らし続けていた。


「再生数とかどうでもいいじゃないのさ。前にそういう結論になったっしょ? それをまたウジウジウジウジ蒸し返したりして……。せっかく悟司とひまじんも良い雰囲気で会話してたのに、全くこの男は――」


 何も言い返せないのか、ずっと春日は押し黙ったままだった。


「ちょっと。いつもみたいに言い返してきなさいよ。結構あたし、キツい事言ってるんだから少しは噛みついてこないとなんかすごいイヤなヤツみたいじゃない」


 ジト目で千佐都が春日を睨むと、


「……すまんとしか言えん」


 春日はそっぽ向いたままそう答えた。

 あれから春日は申し訳なさそうにしているが、肝心の事には何一つ答えようとはしなかった。

 なぜそこまでして、結論を焦る必要があるのか。

 もちろん悟司達と違って春日は三年生だ。卒業したらこの『シュガー・シュガー・シュガー(!)』というユニットに関われなくなるかもしれない。

 それはわかるのだが、この執着は正直悟司の目からしても異常だった。


 そこまで彼を駆り立てている、その理由がわからなかった。


「……まぁいいわ。ちょっとあたしも言い過ぎた」


 そう言って、千佐都は頭を掻くと春日へ向き直って柔らかい笑みを浮かべた。


「話した感じ気の合いそうなヤツだったし、別に悪いヤツでもなさそうだもんね。こうやってあんたらも一緒に同行して良いって言ってくれたし」

「か、帰りに岩見沢で牛丼……おごってやらんでもない」

「マジで!?」


 春日の言葉に千佐都は目を輝かせた。


「う、ウチはまだ……緊張してます……」


 現在の札幌の気温は十度。空は快晴で、そこまで冷えた空気が流れ込んでいるわけではないのだが、月子はその身体を緊張でぶるぶると震わせていた。


「しかし……遅いな」


 悟司が腕時計を眺める。

 約束の時間は十時だったのに、既に十五分も遅刻している。


「このまま十時半まで来なかったら帰って良いんじゃない?」


 千佐都がそんな事を言った時だった。


「おおーい」


 道路向かいから、何者かがこちらに向けて大声で叫んでいる声がした。四人が一斉に振りかえると、そこには悟司と春日のちょうど間の背丈ほどの男が、ぶんぶんと両手を振りながら満面の笑顔を振りまいている。


「あれが……ひまじん?」


 伸ばしっぱなしの髪の毛で無精髭をたくわえたその人物は、よれよれのジーンズに、これまたよれよれのシャツを二枚重ねており、車の通りがなくなったとわかるとそのまま道路を元気良く渡り歩いてきた。よく見ると、履いている靴も遠目からでもはっきりわかるほどにくたくたのズタズタである。


「む、無理無理無理無理っ! あたし、あんなのと一緒に歩きたくないっっ!」


 千佐都が慌てて悟司の後ろへと逃げ込むと、


「おお、その声は千佐都ちゃんだね!」


 といって、ひまじんらしきその男が悟司の背後へと回り込んだ。


「ぎゃあ!」


 びっくりした千佐都が悟司の前へと回り込むと、


「逃げないでってばぁー」


 それを追いかけるようにひまじんらしき男が悟司の前方へやってくる。バターになるぞと内心呆れかえりながら、ぐるぐる回る二人の中心で悟司はその身を固まらせていた。


「ちっさとちゅわーん」

「このっ……いい加減に――」


 突如、千佐都はくるりときびすを返すと、


「しなさい……よっ! このバカあああっ!」


 脇腹の方から握り拳を固めて、一気に前方斜め約六十度辺りを振り抜いた。

 その拳は、へらへらしながら千佐都の尻を追っかけていたひまじんらしき男のアゴへ見事クリーンヒット。するどい千佐都の右アッパーでぶっ飛ばされたひまじんらしき男は笑顔のまま華麗に宙を舞ってその場でノックダウンした。


「はぁっ、はぁっ」


 千佐都は息切れしながら地面に倒れた男を勇ましく見下ろしていた。その一部始終を見ていた慰安旅行っぽい老人団体も、思わず盛大な拍手を千佐都へ送っていた。


「す、すごいなお前……」


 春日が自分のアゴをさすりながらそんな事を言う。その意見には同意だった。いくら相手が油断していたからといって、ここまでキレイに決まるアッパーもなかなかお目にかかれるものじゃない。

 そんな、すっかり伸びて失神したままの男の元に月子が近寄る。


「大丈夫でしょうか……この人」


 しゃがみながら、月子は不安げな表情でそんなことを言った。まぁ殺しても死ななそうなタイプではありそうだなとは思うけれども、このままにしとくのも周りの視線を引いてあまりよろしくない。


「と、とりあえず起こそう。先輩、手を貸してください」


 そう言って悟司と春日は男の身体を起こすと、そのままなるべく人の目につかなさそうな場所まで移動しようと思った。

 とは言っても、ここは札幌の中心街である。人の目につかない場所という概念がそもそも存在しない場所なので、仕方なくそのまま大通り公園の方まで両肩を担ぎながら移動することにしたのだった。



 五月十三日――弘緒




「おっそーい」


 いずみがふくれっ面する横には、俊介と井上が待っていた。

 一緒にやってきた弘緒と竜吾が互いに息切れしながらぺこぺこと頭を下げる。


「ごめん……いずみさん、井上さん、俊介くん」

「なにしてたのさー。もう中でミッチーが待ってるよ?」

「いやたいしたことじゃないんだ。ちょっと、ね」


 そう言った竜吾の服装に、違和感を覚えたいずみが眉を寄せながら口を開く。


「なんで竜吾はそんなにきちんとした服なの? いつももっとだらしない格好してるのにさ」

「こ、これはね。あの」


 弘緒が慌て出す。その様子にぴんと来たものを感じたいずみがにやりと口角を吊り上げた。


「もしかして竜吾……弘緒の親のところに?」

「わーわーわーっ!」


 慌てて口を塞ごうとする弘緒の手を井上と俊介が羽交い締めにする。


「なっ!? い、井上さんまで?」

「聞きたいです知りたいです尋ねたいです」


 にやにやと意地悪い笑みで笑う井上の横で俊介がこくこくと頷く。


「これは中にいるミッチーに全てぶちまけるしかないわ……。とんでもないスクープよ。ありえないわ。信じられないわ。いつの間にそんな関係になったっていうのさ……」


 そう言いながらいずみは店内をのぞき込む。


 そこはなんの変哲もないファミリーレストランだった。

 弘緒のグループは日曜や休日に互いの時間に余裕が出来たとき、このファミレスを利用する。大体はくだらないおしゃべりをする者と、読書に勤しむ者とで二分される。時期によっては皆でテスト勉強などもしたりしていた。


 この町のファミレスはここ以外にも新しく出来た大型チェーン店のものがあり、この店はそちらの方に顧客を取られっぱなしで、ここ最近の客入りはずっと減少傾向にあった。

 ひょんなことがきっかけで、弘緒はグループの皆をここに誘うようになった。それがいつの間にか常態化し、今では恒例のたまり場と化している。


 今日は去年の春に卒業したミッチーが仕事休みらしく、皆も偶然他の予定もないとのことで久しぶりのフルメンバーでの集まりになったのだ。


「ミッチー! 大スクープよ! スクープすぎんのよ!」


 いずみは大きな声で叫びながら店内に向かってぶんぶんと両手を振ると、その様子に気付いたミッチーが笑顔でこちらに手を振る。あの様子じゃ、はっきりいって何にもわかっていないだろう。


 弘緒はそんな間抜けヅラのミッチーを見て、たまらずぷっと吹き出す。ミッチーは本当にうるさいやつで、在学中は弘緒のことをいつも気にしてあれこれ口を出したりしていた。

 あんまり頭は良くないし顔も全くいけ好かないが、久しぶりにその元気な姿を見ると、やっぱり懐かしく嬉しい気持ちになる。


 いろいろあったなぁ。本当に。


「ダメだ。あのバカ。なんにもわかってない」


 いずみがそう吐き捨てると、ずんずんとファミレスの入り口に向かおうとする。


「あ、あのねいずみ君。そんなに事を大げさにしなくても」


 竜吾が額にびっしょりと汗をかきながらおろおろといずみの袖を掴んだ。

 先ほど弘緒の母にお茶を出されたときも、竜吾はこんな感じでおろおろしていた。本当に頼りない。本当にこんな調子でこれから大丈夫かなぁと不安になったりもするが、弘緒はやっぱりそんな頼りなさそうな竜吾のことが良いのであった。


「ちょ、ちょっと離しなさいよ! 竜吾。服が伸びちゃうでしょ」

「ご、後生だ……」

「ナイス、竜吾さん! そのままそのまま!」


 そうしてあんまりにも外で賑やかにぎゃあぎゃあと騒いでいたせいか、


「すみませんお客様……あの、あんまりその店内の入り口前で騒がれますと他のお客様のご迷惑にもなりますので」


 そんな風に店員の方に怒られてしまった。

 弘緒、竜吾、いずみ、俊介、井上の五人が必死で頭を下げる。

 そんな姿を店内で爆笑しながら見ているミッチーの姿が目に入った。


 久しぶりにあって嬉しい気持ちになっていたけど、前言撤回。


 ……あいつ、あとで覚えておきなさいよ。

 弘緒は歯をぎりぎり食いしばりながら、脳内でミッチーの鼻の穴にストローを突っ込むイメージトレーニングを始めた。



 10月7日――悟司




「う、ううーん…………」

「あ、目が覚めたみたいです」


 月子の声に三人が一斉にひまじんらしき男の前に集まった。

 ベンチでゆっくりその身を起こしながら男は言った。


「……おっぱいの夢を……見ていた」


「「「どんな夢だよ!?」」」


 悟司と千佐都と春日の三人が同時にそうツッコむ。月子だけは、何も言わずにただその場で顔を赤らめながら俯いていた。


「はっ!? こ、ここは大通り公園……」

「そうよセクハラ大魔神。一応確認しとくけど、あんたが『ひまじん』ね?」


 いつもより一層不機嫌な表情で千佐都が尋ねると、男はアゴを押さえながら頷いた。


「そうだよ……にしても、ひでぇ一撃もらっちまったなぁ」

「当たり前じゃない。普通なら警察沙汰よ。通報されなかっただけでも有り難く思いなさいよね」

「ははは、こやつめ。あんな程度、世界では常識のスキンシップだぞ?」

「日本では非常識なスキンシップなの!」


 漫画の好青年のように、爽やかな笑顔を見せながらグローバルスタンダードを語るひまじんに対し、千佐都は全力で鎖国宣言を下した。


「まぁまぁそんな事は置いといて、と。自己紹介もまだだったな。オレがご存じ『ひまじん』こと、鵜飼元就と申す」

「もとなり? 変わった名前ね」


 さらりと本名を言ってのけたひまじんこと、鵜飼が千佐都の言葉に気恥ずかしそうに頬をかいた。


「親が歴史好きでなぁ。戦国武将の毛利元就から取ったらしいわ。ま、そんなことよりほら、お前らも名前教えてけろ。それと、見たところオレの方が年上っぽいから言葉遣いもこのままでいかせてもらおうか」


 そう言われて、一人一人頭を下げながら簡単に自己紹介をする。そうして皆が同じ大学の集団であるということを聞いて、鵜飼は納得したように手を打った。


「ははぁ。なるほどなぁ。確かにあれだけの数の投稿者がいれば、そういった集団で動画をあげる連中も一つや二つあってもおかしくないな。うん」

「あの、失礼なのですが」


 春日が手をあげて鵜飼に尋ねる。


「鵜飼さんはその、お仕事とか何してる方なんですか?」

「あ、オレ?」


 鵜飼はベンチであぐらをかきながらのほほんとした声で言った。


「フリーターだけど」

「ええっ!?」

「……んだよ。そんな驚くことじゃねーだろよ仕事ねーんだよ。北海道は常に就職難なんだよ。ちなみにボカロやる前はしばらく引き籠もりニートも経験しておりました。あ、歳は今年で二十七な」


 そう言いながらけらけらと愉快そうに笑う。

 四人は開いた口が塞がらないまま、呆然と鵜飼を見つめていると、


「とりあえずどっか店入ろっか? あ、言っとくけど金はないから皆で割り勘な。な?」

 鵜飼は百均で買ったようなマジックテープ式の財布を取り出すと、懇願するようにそう言った。


 こ、この人はなんというか……色々とすごい。

 そうして悟司達は終始圧倒されながら、鵜飼の言うオススメの喫茶店まで案内されることになったのだった。



  ※ ※ ※



「――まぁなんていうかな、クズ人間なんですわ。オレ」


 喫茶店で互いの注文がやってきた後、唐突にそんな切り出しで鵜飼の話が始まった。


「大学卒業してすぐに就職した会社が、まーヒドいブラック企業でさ。オレ相手に殴る蹴るの暴行とか、もー日常茶飯事。営業だったんだけど、朝の六時出社、深夜二時帰宅とか当たり前の世界なんだよ。そんなヒドい待遇でも不思議としばらくは続けてたけどな」

「な、なんでです、か?」


 悟司が尋ねると、鵜飼はコーヒーカップにスプーンを差し入れて、くるくるとかき混ぜながら小さなため息をついた。


「……わっかんね。洗脳に近かったのかもしれないな。なんか企業ってさ、就職してすぐの頃に研修やったりするじゃん? あの時にあれこれ言うわけよ。『ウチの会社はここが違う!』とか『この会社こそ全て!』みたいな。そういう熱意みたいなものをこれでもかって押しつけられて、自我が麻痺しちゃってたのかもしれねえ」


 かき混ぜ終わったのか、鵜飼はコーヒーを一口だけ静かに飲む。


「それにさ、ネットとか見てると『転職するにも最低三年間は働け』とか書いてあったりするんだよ。そういうのも結構真に受けちゃったりするタイプだからさ、もうホント、逃げることが凄まじく悪いことのように思えちゃったの。でも実際、三年間って縛りは事実なのかもしれんがな。ま、そんなわけで心身共にぼろぼろのオレは見事三年間も持たずに実家へとUターン辞職、軽い人間不信と鬱状態に陥ってしばらくはヒキニートしてましたってわけ」


「でも今のあんた見てると、むしろ鬱どころか躁状態にしか見えませんが……」


 そんな千佐都の嫌みにも鵜飼は明るく笑う。


「だろうな。でもこうなるまでに二年近くかかってんだ。地味に苦労したんだぜ?」

「そ、そそれで……鵜飼さんは……な、なんでまた……ボカロなんかを……?」

「あーそれね」


 悟司の質問に、鵜飼はびしっと指を突き出した。


「端的に言えばオレもあの潮流に巻き込まれたかったんだ。ボーカロイドはちょうど今の動画投稿サイトが出来て一年経ったか経ってないかくらいの頃から、ずっとその存在だけは知ってたし。最初はあの独特の声が耐えられなくてしばらく毛嫌いしてたけど、次第にハマっていったなぁ。ま、それでちょうどヒキニートだった頃にネットとかでDTMの使い方とか調べたりして。言っとくけど最初に試しで作ったヤツとかはもうグダグダだったぜ? あんなの人になんかとても聴かせられねぇレベル」


 そうして鵜飼は実に愉快そうに自身のことを悟司達に聞かせた。


 しかし――

 ずっと軽いノリではぐらかしているが、本当に彼はそんなに壮絶な過去を過ごしてきたというのだろうか。今この目の前にいる、喜怒哀楽がこんなにもはっきりしている人物が数年前まで鬱状態で引き籠もりだったなんて、悟司にはとても想像出来なかった。


 その笑顔の裏には果たして、どれだけの苦悩や痛みがあったのだろう。それはまだ社会人として経験のない悟司には、到底わかるはずもなかった。


「今は曲作ってる時が一番楽しいんだ。もうさ、一曲完成したときなんかソッコーコンビニ行って酒盛り準備だぜ? そうやって一曲完成したときに飲む第三のビールがまた格別なんだ。はは、みみっちいだろ? でもそれが、たまんねぇんだよなぁ」


 鵜飼がビールを飲む真似をする横で、春日はどこか浮かない顔のまま俯く。

 その固い表情はまるで先日の通話での失礼な自身の態度を悔いているようにも見えた。


「あ、あの。ウチも聴きたいことあるんですっ」


 月子がそう言うと、鵜飼は実に気さくな様子で手を広げた。


「おお、いいよいいよ。オレ女子からの質問は常に大歓迎」

「あ、あの……鵜飼さん。すごくピアノうまいじゃないですか? あれって小さいときから練習してたんですか?」

「あー。うんそうだよ」


 さらりと肯定したその後、


「オレ、実は音大卒なの。ちなみに専攻はピアノな」


 いきなりとんでもない爆弾発言が四人に向かって投下された。


「「「「ええええええええ!?」」」」


 さすがにこればかりは全員が声を上げた。

 どう見てもそんな人間には見えない。


 札幌在住の件といい、この人はどうしてこうさらりと爆弾発言をかますのか。


「んだよ……そんなにびっくりすることじゃねーだろうよ」

「びっくりするよ!」


 千佐都は机を叩いて立ち上がると、興奮した様子で声を荒げた。


「今のあんた、ちゃんと鏡見た方がいいよ!? よれよれのだらしない格好。音大ってことは昔のアンタはもっとしゃんと、こう髪とかもきちんとしてたんじゃない!? ピアニストなら人の前に立つこと多そうだし。その、タキシードなんか着たりしてさ。それで――」

「あーうんうん。わかるよその気持ち」


 鵜飼はうんうんと頷きながら、一人納得したような面持ちでソファに背を預ける。


「それに関してはもう、『そういった人間でした』としか言えんわな。結局社会に出て、ピアノの技術が何かの役に立ったわけではないし、そりゃ入る前は立派なピアニストになってって夢もあったけど――」


 鵜飼は柔らかい笑みを崩さずに、しかしどこか淋しげな表情で静かにこう言った。


「――でも、もうそんなのはなくなっちまったよ。情けない話だけどな」


 そうして鵜飼が再びコーヒーカップに手を取って口をつけると、全員が黙ったままの静かな時間だけがゆっくりと流れていった。


「さて、それじゃどの子がオレのデートに付き合ってくれるのかな?」


 しばらくして飲み干したカップを皿の上にかちゃりと置くと、鵜飼は千佐都と月子を交互に眺め回す。


「オレとしては、おっぱいがおっきい子が好みなわけだが――」


 そう言いながらじろりと月子を見ると、月子がひっと身をのけぞらせる。


「……ちょっとあんた。あたしは魅力無いって言いたいわけ?」

「おやおや、千佐都ちゃんはオレに誘われる気満々なの?」

「ち、違うわよっ、ばかばかっ!」


 千佐都が顔を赤らめながらつんと横を向いた。


「た、たださ。どっちでも構わないけど……もう少しちゃんとした身なりをしなさいよ。女の子と歩くってのに、そんな服でやってくるのって、正直どうかと思う」


 視線だけ鵜飼に向けた千佐都がそう言うと、


「なるほど、確かにそれは一理ある。しかしっ! オレの私服は長く外に出てなかった時期以前のものしかないのだよ。えへん!」


 いばるところか。

 もうはっきりいって、脳内ですらツッコミが追いつかない。千佐都もそう思っているのか、そのことには一切触れぬまま、続いて鵜飼の髪の毛を指して言った。


「それにそのぼさぼさの髪! それもいっそばっさり切っちゃいなさいよ。さすがに自分からデートって言っただけあって、そこそこお金は持ってきてるんでしょ?」

「まぁ……そこそこ持ってきてはいるな」


 そう言いながら、鵜飼は財布のマジックテープをびりっとはがして中身を確認し始める。その光景に、たまらず悟司と千佐都が「Oh……」と小さな唸り声をあげた。

 しかも微妙に年季が入っているところが、また居たたまれない。


「ちょうど今月は実家に金入れただけで、それ以外は一銭も使ってない。普段もDTM機材には金使うけど、ここ最近はそちらにも全く使ってないしな」

「と、友達とかと遊んだりしないんです、か?」

「友達なんて引き籠もってる間に、ぷっつりだ」


 おい、やめろ。

 悟司はすぐに余計なことを口走ったと後悔する羽目になった。爆弾発言どころか、こんな笑えないことまでさらりと言い切るなんて。


「わかったわ。決まりよ」


 そう言って千佐都が立ち上がった。


「本日、あたし達『シュガー・シュガー・シュガー(!)』は彼、鵜飼元就くんのトータルコーディネイトをいたします。プロデューサーはずばり、あたしとつっきーよっっ!」


 ばばばばーん! (帰ってきた『エアー・オブ・クリサンセマム』)


 そう片手を広げながら千佐都が鵜飼の前に手を突き出すと、鵜飼は千佐都と月子を同時に眺めてぽかんと口を開いた。


「それはもしかして……両手に花ってヤツ? 千佐都ちゃんと月子ちゃんがオレをエスコートしてくれるってわけ?」

「そうよ! あたしたちがあんたの為に髪型も、服も、女の子ウケしそうなものを選んであげるわ。どうも見たところ、あんたかなりの女好きみたいだし」

「そうは言うけど、オレこう見えて意外と草食系なんだぜ?」

「とてもそうは見えんが……」


 鵜飼の言葉に、春日が顔を引きつらせながらそんな事を言った。

 千佐都はお構いなしに続ける。


「草食系だろうと絶食系だろうと、女好きであることは事実なんでしょ? あんたが今までその軟派な性格のせいで女の子からキモいウザいと避けられ続けてたのが目に浮かぶわ」 

 でも、と千佐都は付け加えると隣にいた月子の顔を自身の胸元に寄せた。

「そんなあなたにあたしとつっきーが、とりあえず見た目さえなんとかしてやるって言ってんのよ。そうすれば、きっとホイホイついてきてくれるバカ女くらい一人か二人集まってくれるでしょうよ!」


 月子を引き寄せた手とは反対の手を握りしめながら、千佐都は満足気に笑う。

 月子はまだよく状況が飲み込めない様子で、千佐都の胸元でそのくりくりした丸い瞳をきょとんとさせていた。


「お前、何気に無茶苦茶言ってないか。オレのこと」


 そうは言いつつも、鵜飼は千佐都の提案に実に満足そうだった。やはりこの二人って、案外気が合うのかもしれない。


 そんなやりとりを見ながらそういえば、と悟司はふと思う。

 やたらと今日はファッションに関して口うるさい千佐都だが、よく考えてみれば普段はそれほど他人の服装には言及したりしない。なのに、これは一体なぜなんだろうか。


 そもそも千佐都が服装のことに関してうるさい人間であるのなら、まっさきに小倉のことを糾弾しているはずである。なぜなら彼は、ほぼ年中同じジャージをずっと着回し続けているのだから。


 不思議だった。

 そう思いながら、悟司は立ち上がった鵜飼の顔をちらりと伺う。すると、それまで前髪で隠れていた鵜飼の顔が、ちょうど見上げる形ではっきりと確認することが出来た。


 ……ああ、なるほどね。

 その顔を見て、悟司は思わず納得してしまった。


「さぁ、行くわよ。鵜飼くん改造計画開始っ!」


 そう言って千佐都は、いまだ状況の飲み込めていない月子の手を引っ張りながら、皆のお金をまとめてレジに向かう鵜飼の後を追っていった。



  ※ ※ ※



「まずは髪型よ」


 そう言って美容院に連れて行くこと約三十分。特に待たされることもなく、すぐに髪を切ってもらうことが出来た鵜飼が、外で待っていた四人の前にゆっくりと現われた。


「シャンプーしてもらったからさっぱりだ」


 ……とんでもないイケメンがそこに立っていた。


「さすが、あたしの目に狂いはなかったわ」


 確かにこれは、と思う。

 それまではいかにも不健康そうで油ぎっしゅなイメージだったのに、あれだけ長かった髪の毛をばっさりと切ってスタイリング剤できちっとキメれば、それだけでかなりの真人間に見えた。


 先ほど、悟司がうっすらと見えた彼の顔を見て思ったのは、こういうことであった。

 千佐都も意外と現金なヤツだなぁと、悟司は鵜飼の顔を見ながらぼんやり思う。


「せっかく光る玉なのに、磨かないで錆びてくなんてもったいない。ほれ、次はこれ」


 コンビニで買ってきた髭剃りを鵜飼に手渡すと、千佐都はあさっての方向に向かって指を指した。


「どこかのトイレで剃ってきなさい」

「面倒くさいなぁ……」


 ぶつぶつ言いながらも鵜飼は近くのドンキを見つけると、四人を置いて店の中へと入っていった。


「なんだかんだでお前もイケメン好きなんだな」


 鵜飼がいなくなったところで、ようやく悟司が千佐都にそう切り出すと、


「そりゃあんただって可愛い子は好きでしょうが。男もそうであるように、女もまたそんなもんなのよ。でもね、こんなあたしでも欲を言わせてもらうなら、鵜飼みたいなタイプの顔は正直苦手。なんとなく○ャニーズっぽいもん、あいつ」


 言われてみれば、確かに鵜飼には○ャニーズっぽい幼げな雰囲気を持った人相だ。

 思わず、千佐都のその言葉に納得してしまう。


「ま。結局我らがシュガメンバー、フツメン連中の一員であるあたしとしては、ああいう美男美女の見てくれを持つ相手には、もう少し輝きを保ち続けていて欲しいわけよ。せっかく容姿という希少な武器を持って生まれてきてるんだからさ。活用しないなんてもったいない」


 おっしゃるとおりで。


 しかし、フツメン連中と言い切る千佐都には少しだけ異議を申したかった。背丈こそチビで性格もちょっとアレだが、千佐都は悟司の目から見ても割に整った顔立ちなのである。フツメンと呼ぶにはいささか無理があった。


 そういう意味では月子だってそうだ。なんといっても自分のお気にいりな容姿を持った子なのだから。出るとこが出て、引き締まるところが引き締まっているその体つきも加わり、まさしく美人と呼べるにふさわしい逸材だ。


 春日も一見神経質そうな顔つきだが、その常に眉間に皺を寄せたようなキツい顔つきがかえって自身の益荒男ぶりを強調していなくもない。


 そうやって一人一人の顔を吟味していくと、最終的にフツメン以下の自分がシュガメンバーの顔面平均値を著しく下げているような気がしないでもなかった。

 ……突然わけもわからない自己嫌悪がやってくる。余計なこと考えなきゃ良かった。


 そんなわけで髭もキレイに剃った鵜飼が出てきた。


「よし、ようやく一緒に歩いてもマシな感じになった」


 千佐都が満足そうに頷く横で、月子も顔を明るくさせて声をあげる。


「わああ。鵜飼さん、素敵です」

「そ、そうか?」


 鵜飼は、そんな二人の反応に思いの外デレデレしだした。


 ずっと黙って見ていた悟司の横で、春日が静かに耳打ちする。


「なんだか――なんでなのかはわからないが、とにかく無性に気に食わんと思わんか?」


 ……その意見には激しく同意する。

 特別、鵜飼は悟司と春日を傷つけたわけではないのだが、なんだか見ているだけで非常にむかっ腹の立つ光景だと思った。女子にちやほやされているイケメン、という構図が自らの容姿の不甲斐なさをことさら刺激するからであろうか。

 なんだかダブルヒロインを全てライバルに取られた主人公の気分だった。


 ……イケメン、どれも皆爆発しろ。

 悟司は心の中で呪詛を吐き散らしながら、無意識のうちに両隣に女子二人を並べて歩く鵜飼を睨みつけていた。


「次はここよっ!」


 次に千佐都が向かったのは、駅の中のビルに入っているアパレルショップだった。黒を基調にしたデザインが特色の、全国的にも非常に有名なお店である。


「こんなのはどうですか?」

「あたしはこの色のシャツとかいいと思うなぁ」


 鵜飼の身体に服を合わせながら、二人は楽しそうに服を選び続ける。

 そうして渡された衣類を、鵜飼は満面の笑みで手にとっては何度も試着室を往復していた。


 ……ああ、気に入らない気に入らないっ!

 途中、大通り公園に寄って買ったトウモロコシをかじりながら、苛立ちを押さえきれない様子で悟司は店の外から三人を観察していた。


「樫枝」


 すると、そんな悟司にまたしても春日が声をかけてきた。


「どうしました先輩。いよいよ我慢の限界ですか? 暴れましょうか。いっそ派手に」

「いや、そうじゃないんだ」


 妙に深刻そうな顔で春日が俯く。


 ……何やら様子がおかしい。

 そう思った悟司は春日を連れて、そっと店の前から離れた。


 ちょうどトイレの入り口がある曲がり角で、春日がぴたりと立ち止まった。


「どうしたんですか?」


 そう悟司が尋ねると、春日は浮かない顔のままゆっくり振り返った。


「僕は……やはり僕は焦っているのかもな」


 その発言を聞いて、悟司は春日が何を言うつもりなのかを悟った。

 前にひまじん、つまり鵜飼とネット通話したときのことを話そうと思ったのだろう。


 悟司は、表情を引き締めながらあらためて春日を見つめ返した。


「先輩は、どうしてそんなに結果を急ごうとしてるんですか? 結成してまだ間もない、俺たちが今後人気になるかそうでないかなんて、わかるわけもない段階です。それなのに、どうして」

「樫枝、僕はな……」


 春日は両手で、目を覆うようにしてゆっくりと隣の壁にもたれかかると、


「僕は……僕は卒業したら家を、牧場を継がなきゃ行けない……卒業したら音楽のことをすっぱりと諦めて実家の牧場を継ぐ。それが、僕と父さんが昔交わした約束なんだ」


 絞りあげるように喉を鳴らしながら、悔しそうにそう呻いたのだった。



 十月二十一日――弘緒




「なぁ、佐藤」


 四限目が終わって帰宅しようと思った矢先、またしても金髪がそう声をかけてきた。あれから金髪はめげることなく、毎日弘緒に話しかけてきた。弘緒は、金髪が話しかけてくる度に無視を貫き通していたのだが、当の彼はこうしていつまでもめげずに話しかけてくる。


 とうとうこの日、耐えきれなくなった弘緒は初めてまともに怒気をこめた瞳を見せた。

 怒りを押し殺しながらも、彼をぐっと睨みつける。


「……なんなの? もう放っておいてって言ってるでしょ」

「つれねーなぁ。俺は単にこの後ヒマなら皆とちょっと話でもって――」

「私の言葉が聞こえないのっ!?」


 我慢の限界を感じた弘緒が、声を荒げながら机を叩いて立ち上がった。


 すると突然、その声に反応するようにして教室の隅の方からひぃっと情けない声が上がった。弘緒の倍のボリュームで突如沸き上がったその声に、教室にいた全員が一斉にそちらへと振りかえる。


 弘緒も彼らに倣うようにして声のした方へと振りかえった。すると、窓際の席の一番後ろ、ロッカーと窓際の壁との間にあるわずかなスペースの中で、線の細い男がこちらを見つめながらがたがたと震えていた。


「ご、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


 まるでうわごとのように何度もごめんなさいを繰り返しながら、男はカーテンを自身の身体へ巻き付けていく。


 どうしたのだ、この人は。


 弘緒がその男を見ながらあっけに取られていると、同じようにそれを見ていた金髪がゆっくりと口を開いた。


「……佐藤、あんまり大きい声出すなよ。高橋がおびえる」

「高橋?」


 弘緒が聞き返すと、金髪は重そうに肩を落としながら水商売女の方を向く。


「おい、いつもみたいに頼むよ」

「はいよ」


 水商売女はまんざらでもない様子で高橋に近付くと、いきなり彼の身体を優しく抱きとめた。

 ひっひっと過呼吸気味の彼をゆっくりとなだめるように背中をぽんぽんと叩く。


「大丈夫。大丈夫だから……」


 その様子を呆然と眺めていた弘緒に向かって、金髪は不愉快そうに眉を寄せた。


「あいつは軽度の知能障害があるんだ。親も親で、そんなあいつを最初は全日制の高校に通わせてたらしい。んでまぁ詳しくは知らねーが、色々あったらしくてな。いきなり怒気を含ませた大声をあげたり、血を見たりすっとああやってパニックを起こすんだ」

「ねぇ、先生呼んだ方がいいかな?」


 水商売女が金髪に向かって声をかける。


「いやあ、それくらいなら多分大丈夫だろ」


 そこまで言ってから、再び金髪がくるりと弘緒の方へ向き直った。


「佐藤、前に自分が異質だとか出る杭だとか抜かしてたよな?」


 それは静かに淡々とした台詞だったが、声には怒りがこもっていた。


「異質なのは結構だ。別に俺もそれを止める気はないぜ。でもな、せめて同じクラスの連中をことを理解した上での異質であってくれよ。混乱するヤツもいるからさ」

「あ、あんたが悪いんじゃない。あんたが強引に話しかけてきたりしなけりゃ――」


 その語り口にやや圧倒されながらも、弘緒がそう口を開くと、


「俺か? ……まぁ確かに強引ではあったけど。でも、そうやってでも話をしたかったんだよ。じゃないとこういうことになるからさ」


 なんなのよ……。

 弘緒は心の中で吐き捨てる。


 あんたのせいじゃないのよ――そう口を挟みたくなったが、言葉が出てこなかった。


「いろんなことがまだまだ説明不足なんだ。ここにはいろんな奴がいる。本当に色々な事情でこうして夜間でしか通えなくなった連中がたくさんいるんだ。俺ってお節介な人間だからさ、なんとなく新しく入ってくる連中にそういった必要な情報を教えてやりたくなる性分なんだ。それもなるべく軽めに。大体お前、もう二週間近く経つってのにまだ皆の名前すら正確に把握してないだろ?」


 図星だった。

 弘緒は唇を震わせながら、とうとう金髪から目を逸らしてしまった。


「なぁ、あんまり頑固になるなよ。せめて皆の名前くらいでもさ。な?」


 知りたくなんてない。知ってなんになるというのだ? 他人とはもう関わりたくもないのに。裏切られ、騙され、欺かれたくないのに。


 そんな気持ちで自身の心をいっぱいにさせようと踏ん張るが、心の渇きはずっと誰かを求めて飢えている。

 ――理解して欲しい、受け止めて欲しい。

 そうした二つの感情のせめぎ合いがまるで綱引きのように弘緒の心を揺さぶった。


 この状況はまずい。また発作が起きるかもしれない。

 そう思った弘緒は、無理にでもこじ開けるようにして口を開いた。


「そんなこと……私は知らなくて構わない」


 そうして口から漏れ出た声は、自分の声とは思えないほどかすれていた。


「なんだって?」


 素っ頓狂な声をあげる金髪に向かって、弘緒は覚悟を決めて喉を震わせた。


「私は――ひとりで良いっ!」


 ボリュームを落としながらもキツい口調でそう言うと、弘緒はかばんをひっつかんで教室を飛び出した。


 ……孤独でいい。

 誰にも関わりたくなんてない。

 人を繋ぐコミュニティと関わったところでろくなことがない。


 最初こそ、表面だけは立派な輪が出来てコミュニティが形成されたように感じる。それは一見互いを尊重しあって、まるで信頼を寄せ合った絆のように感じる居場所に思えるかもしれない。「我々は仲間だ、親友だ」と声を張り上げながら。


 だが現実は逆だ。コミュニティなどしょせん見せかけだけの絆と信頼だけで成り立って、底では悪意の塊がマグマのようにぐつぐつと煮えたぎっている。

 同質な存在であることを良しとし、そうでないものは容赦なく淘汰される。


 ……その全貌を、自分は見てきた。

 その上、その悪意ってやつは留まることを知らない。さらに恐ろしいものへと形を変え、まるで狂気としか思えないような歪んだ人格を作り上げてしまう。


 一度でも悪意が表面に漏れ出せばあとはあっという間に色鮮やかに思えたそれは、どす黒く澱んだ空気に支配される。

 後に残るのは暴力と破壊、中傷と嘲笑、それだけだ。


 ……あの時だってそうだった。

 たった数ヶ月前の、あの時だって――


 だからもう、関わりたくないのだ。他者とは。コミュニティとは。


「……もう……うんざりなのよっっ! 裏切られるのはっっ!」


 校舎を飛び出して弘緒は目元を拭いながら叫んだ。


 ……強くなりたい。

 誰にも頼らずに、孤独にも耐えられる、そんな強い心が今すぐ欲しかった。



 10月7日――悟司




「――で、でも先輩。ボーカロイドの活動なら。それなら両立も可能じゃないですか? 俺が作った曲をファイル転送して、先輩がそれにベースやアレンジを加えてまた送り返してくれれば……」

「そんなのは僕の父さんには通用しない」

「そんな……どうして?」

「父さんは、一度交わした約束を反故にすることは決して許さない。ましてや牛の世話なんて命を扱うデリケートな仕事だ。今の関係のように続けることは出来なくなる」

「だから先輩は、今すぐにでも結果が欲しいんですか? 人気が出て、それでいろんなところから注目されるような存在になって……それで父親の目も引きたいんだ、と?」


 悟司がそう言うと、春日は無言で頷いた。


「でも……そんなの……」

「わかってる。こんなことにはなんの意味もないんだ。ただ僕は……自分がどこまで出来るのか、どこまでやれるのかを今すぐに証明してやりたいんだよ」

「証明って……?」

「……わかってて聞いてるだろ? プロにならないかって話がやってきたりすることだ」


 ――プロ。

 そんなことを、悟司は考えたこともなかった。確かにボーカロイドを使って音楽を公表していた人が、そのままレコード会社の人の目に止まり、プロミュージシャンとなった――なんて話は悟司だって知っていた。


 しかし、そんなものはどこか遠くの国の出来事のように思っていたのだ。


 そのことをも視野に入れて、春日が今まで活動していたなんてにわかには信じられず、悟司はただその場に固まることしか出来なかった。


「でも僕には既に父親と家を継ぐことを約束している。だからたとえ、そんなものがやってきたところでその事実自体、なんの意味もなさないことはわかってるんだ。でもな」


 そこで一度言葉を切ると、春日は目元から手を離して悟司を一瞥した。


「それでも僕は、僕自身の可能性を見せつけてやりたいんだよ。牧場という道さえなければ『音楽でこうやって大成することも出来たんだ!』って。その可能性を父さんに見せつけてやることで、ちょっとでも父さんが罪悪感に捕らわれてしまえば良いって……僕は意地が悪いだろ? 樫枝。でもこう思うことで僕はなんとなく気分が落ち着くんだよ。父さんに敷かれたレールの上をただ黙って歩くなんて出来なかった。そうすることで僕は――この先もずっと夢を見続けてられる、そんな気がしてるんだ。……実際はそんなこと、あるわけもないのにな」


 自虐的にくつくつと笑いながら話す春日に対して、悟司は相変わらず固まったままだった。

 何か言うべきだろうか? 慰めの言葉一つでもかけるべきか?


 ……言えるわけがない。

 こればかりは悟司が何か言ったところでどうなるわけでもないのだから。

 これは春日自身の、そして春日の家族の問題なのだ。


「でもさ、樫枝もさっきの鵜飼さんの話聞いたろ? 『夢を追いかけて、でももうその夢はなくなってしまった』って――あの割り切り方は、僕の未来の姿かもしれないなって、さっきふと思ってしまったんだ。同時に、僕は卒業時に果たしてあそこまで綺麗に諦めきれるのだろうかともな。……僕はな、樫枝。怖いんだよ。今後自分にああいう日がやってくるのかって思うと、本当に怖くて怖くて仕方がないんだ」


 ありったけの想いを吐露しながら、春日はずるずると壁伝いにその身を滑らせながらその場でうずくまった。


「僕の言うことはそれだけだ、樫枝。先に戻ってくれ……。千佐都達もそろそろ心配しているかもしれない」


 春日の言葉に悟司は無言で頷くと、顔を歪ませながらそっとトイレの前から離れた。

 何も言葉をかけることが出来ない自分が、たまらなく虚しかった。


 曲がり角を曲がるとそこには見慣れた顔があった。


「――悟司」


 千佐都だった。


「……ごめん。急に二人の姿が見えなくなったから。あたし、別に盗み聞きしようと思ってたわけじゃなくて」

「わかってる」


 悟司は千佐都の頭に手を置いて言った。


「戻ろう。鵜飼さんも、月子ちゃんも心配してる」

「……うん」


 そう言って二人は春日を置いて、店の前へと戻っていった。



  ※ ※ ※



 夕刻――

 鵜飼は見違えた姿で、悟司達の前に立っていた。


「まぁこんなとこかな」


 今生の使命を果たし終えたかのように凛々しく頷く千佐都。そんな彼女を見ているとまるで、どこぞの坊ちゃんに仕えている強気なメイドのようだった。鵜飼の、その年齢よりも幼い顔立ちが、ことさらそう思わせるのかもしれない。


 そんなことを脳内イメージで妄想していると、悟司はついつい忍び笑いを漏らしてしまった。


「なにがおかしいのよ」

「いやいや、なんでもないよ」

「なーんか今日は、オレが思ってたデートとは違ったなぁ」


 不服そうに鵜飼がそんな事を言う。


「詐欺に遭ったような気分だぞ。納得いかねぇんだよなぁ。なんか」

「何言ってんのよ。あたしとつっきーを両隣に並べてずっとデレデレしてたじゃない」

「……そう言われると、そうだけど。でもなんかなぁ」

「鵜飼さん」


 頭をばりばりかいている鵜飼の前に春日が立ちはだかった。


「約束――お願いしますね。『navel』さんと僕らを、引き合わせてください」


 春日は頭を下げながら、そう言った。

 その念押しの姿に悟司も千佐都も、つい押し黙ってしまう。


「ああ。そうだったな。でも、前にも言ったけどもし断られてもそれはオレのせいじゃないかんな? ホントのところ、あいつは結構気むずかしいからオレが言ってどうにかなる相手でもないんだよ」

「鵜飼さんは、その『navel』さんという方とよくお話するんですか?」


 月子が尋ねる。


「ああ、まぁな。ネットで通話するくらいだけど」

「会ったことはないんですか?」

「ないな」


 不自然に思えてしまうほど、やけにあっさりとした回答だった。


「ま、そんなわけでさ。なんだかんだあったけど結構面白かったわ。札幌に遊びに来ることがあればいつでも連絡してくれよ。一緒に遊んでくれる仲間が出来たってだけでも嬉しいんだ――っと、言い忘れてた」


 鵜飼は悟司の方に向き直ると、悟司の胸にその拳をゆっくりと押し当てた。


「これからも頑張ろうや、互いにさ」


 そう言ってにっと歯を見せると、次いで握手を求めるように鵜飼が手を差し出した。

 悟司は、おそるおそるその手を両手で掴む。


「……こ、こちらこそ。頑張りま、しょう」

「期待してるぜ、イチファンとしてな」


 ぶんぶんと上下に勢いよく振り回された後、互いの手が離れたところで、鵜飼は四人に向かって手を振りながらまっすぐ地下鉄の入り口へと向かっていった。


「やっぱり、鵜飼さんと悟司くんってどこか似てる気がします」


 鵜飼の姿が見えなくなったところで、月子がぽつりとそんなことを呟いた。そんな月子の言葉に千佐都は「えぇーっ」と声を上げながら反論する。


「全然違うよ! 悟司はもっと他人に興味ない感じだもん!」

「……どういう意味だよそれ」

「そのまんまの意味よ」


 そう言って三人で笑い合った。

 やがて女子二人が談笑を始めたところで、ふと悟司が春日の方へと視線を向けた。


 春日は三人を尻目に夕日をいつまでも見続けていた。


 ……悟司は先ほどの春日の言葉を思い出す。

 あの後も色々考えてはみたけれども、結局彼にかける言葉は一つも見当たらなかった。


「悟司くん?」


 様子がおかしいと思ったのか、月子が不思議そうに悟司の顔を見つめていた。

 悟司は慌てて春日から目を逸らすと、


「な、なんでもないよ」


 と言いながら、顔の前で小さく手を振った。

 その仕草に安心したのか月子は、


「お腹空いてきましたね」


 と、言ってにっこりと笑った。


「じゃあ帰りましょうか」


 抜群のタイミングでやってきた千佐都のそんな提案に、全員が一斉に千佐都の方を見て、それからゆっくりと頷いた。


 こうして、学祭まで残り一週間を切った四人の休日は静かに更けていったのだった。



 十一月七日――弘緒




 とうとう弘緒に話しかけてくる者は完全にいなくなった。

 あれだけべたべたと寄ってきていた金髪も、あの日以来、さっぱりこちらへ近寄ってはこなくなった。今では視線を合わせることもない。


 ……嫌われたのだろう。でもそれで弘緒は構わなかった。


 ここ最近、食事の時の休み時間と帰宅時に、弘緒は教室にいる何人かの視線をたびたび感じるようになった。でも、それは前にいた学校に比べれば幾分にも易しいものである。おそらく悪意のようなものをあまり感じないからだろう。


 しかしそれでも大なり小なり嫌な気分になるのは変わらなかった。弘緒は無意識下で少しずつストレスが溜まっていることに気付かなかった。


 そうして食事休みの時間になり、弘緒はあらかじめ買ってきていたサンドイッチを食べようと包装紙を破っている途中にそれは起きた。


 動悸である。突如胸を鷲づかみされたような気分になり、ぐぅっと肺の奥から息を漏らすと、弘緒は持っていたサンドイッチを床の上に落としてしまった。


「――佐藤?」


 トイレに行こうとしていた金髪が、何気なく弘緒の方を見てその様子の不自然さを敏感に感じ取った。


 呼吸が出来ない。胸が苦しい。


 ぜぇぜぇと胸を押さえながらも、視線は集まる一方だった。とうとうその場に座っていることすら困難になった弘緒はそのまま床の上へと倒れ込む。


 誰かの悲鳴が聞こえた気がした。

 こんな状況の中でも、放っておいて欲しいと思う気持ちは変わらなかった。


 自分は一人で大丈夫だから。

 それは薄弱とし続ける意識の中でも変わらない。


 そのはずだった――


「……けて。…………だれ、か…………たすけ」


 それなのに無意識に、弘緒はかすれる声で何度もそう叫んでいた。

 朦朧とした意識の中で、弘緒はたまたま傍にいた誰かの手に寄りすがった。


「――こぶんだ。そ――く」


 この手は金髪だろうか。本来ならば振り払ってしまうその手でも、今ではわずかでもその人の温もりに触れていたかった。掴む手の力が無意識的に強まっていく。


 ああ、もうこれ以上の虚勢は無意味だ。

 弘緒の目尻から涙がつぅと伝った。


 本当に……私は弱い。

 この先も私はずっと、借りたくない人の手まで借りなければまともに生きられないのだろうか。もしそうだとしたら、この先の自分の人生は絶望しか待っていないではないか。


 それはあまりにも悔しかった。

 悔しくて悔しくてたまらなかった。


 そう思うと一度流れ出た涙がどんどんと溢れ出してきて、止まらなかった。それは呼吸困難で引き起こされる反射的なものとかけあわさってさらにひどいものになった。


 きっともう今の自分の顔はぐしょぐしょだ。どこまでも弱く、脆い自分を周囲の人間に惜しみなくさらけ出してしまっているのだ。


 今まで必死になって他人の前で強く見せかけていた自分はわずか一ヶ月弱でこんなにも簡単に瓦解してしまった。


 私は弱い。弱い。弱いのだ。


 ……どうしてだろう。


 こんなに弱い自分が、どうしてこの世に生まれてきてしまったのだろう。


 ごめんなさい。


 こんなに弱い私で、ごめんなさい。


 ごめんなさい。お母さん。


 もう、辛くて。悲しくて。


 いよいよ完全にダメになっちゃったかもしれません。


 意識が途切れる寸前まで、弘緒の胸中は後悔の念ばかりで埋め尽くされていた。



 10月10日――千佐都



 別の講義へと移動しているところで、偶然にも悟司とばったり出くわしてしまった。

 その瞬間、千佐都はげっと鈍い声をあげる。


 このタイミングはまずい。だって今は――


「おお、悟司くんだ!」


 隣に松前がいるのだ――と思った時にはもう遅い。

 既に、千佐都の友人「松前樹里」は挙動不審でおどおどしている悟司の姿を上から下まで舐め回すようにじろじろ見始めていた。

 

 松前樹里は、千佐都が所属しているスキーサークルの一員であった。シュガメンバー以外で出来た初めての友人であり、ボカロの活動外ではいつも行動を共にしている人物でもある。

 とにかく彼女はやたらと背が高いのだ。ただでさえ悟司よりも背が高いのに、それに加えプロポーションもモデル並みときている。


 一見したところ、松前はまさしく「かっこいいお姉さん」のそれなので、スキー部の中では男女問わず大人気なのだが……実際の性格はそんな良いものでないことを千佐都はよく理解している。


 しかし……。

 松前は以前から千佐都が悟司と仲良くしている姿を目撃してはいたのだが、まさかここに来て初遭遇を交わすとは。


 二人が会話する機会など今までなかったので、千佐都はその事に多少興味も持ちつつも、内心こちらにまで火の粉が飛んでこないかなぁとどきどきしていた。

 というのも、この女はなぜかいつもやたらと自分と悟司を自らの思うカップリング構想へと当てはめたがるのだ。悟司とはそういう関係ではないといつも言っているのに。


「な、なに……?」


 戸惑いを隠せない様子の悟司。

 うーん相変わらずのコミュ障っぷり。お見事。

 千佐都は心の中で悟司に喝采を浴びせた。


「初めましてっ。私は松前樹里って言うの。千佐都さんと仲良くさせていただいてまーっす」

「は、はぁ……」


 悟司はものすごくその場を逃げ出したそうだった。


「ねぇねぇ、悟司くんって入学の時からずっと千佐都と仲良いですよね?」

「ふぁっ!?」


 素っ頓狂な声をあげる悟司を見て、千佐都はたまらず松前の袖を掴む。


「じゅ、樹里。もう行こうよ」

「へ? 行くってこの後の講義は悟司くんとも一緒でしょ?」


 そうなのだ。

 いつもはこの講義の際、千佐都はあえて悟司と距離を置いて松前と一緒に受けることにしていた。悟司はそんな自分を見てなんとなく空気を察してくれているのか、こちらへ寄ってくることもなく、それでいていつも始業ぎりぎりに席についてくれるので、今までは松前が悟司と絡む要素などどこにもなかったのだ。

 最悪だ。いつかこういう日がくるとは思っていたのだが――


 ――そうして、気付けば次の講義の教室で、三人は共に同じ長机に座り込んでいた。

 席順は左から悟司、松前、千佐都の順。


 どうしてこんなことに……。

 千佐都は頭を抱えながら机の上に突っ伏した。


「ねぇねぇ、悟司くんって年上の女性のこと、どう思いますー?」

「……お、おお、おっかない……かな」

「へええ」


 松前がちらりと千佐都の方へ意地悪そうな目を向けた。ものすごく何か言いたげな目である。なんなんだよ。その目は。あたしのせいって言いたいのかそれ。

 

 大体、悟司も悟司なのだ。松前の押しに簡単に流されるなんて。


 普段弱々しいなのは大目に見るとして、せめてこういう時くらいはっきりとノーと言える男になってほしいものだ。「ノー同席、ノー質問」とはっきり断れる男に。


 脳内で、思いっきり文句を垂れながらも、結局ため息をつくだけに終始する千佐都。その横で、松前はなおも悟司に向かってマシンガンのような質問攻めをし続けていた。


「悟司くんもやっぱり女性は料理が出来る方がいいですよねぇ」

「い、いや……俺……自炊派だし……」

「おおっ! すごい! まさか今日は弁当とか持ってきたりしてる?」

「い、いや……弁当はめんどくさい……から。ゆ、夕飯だけ……自炊」

「そっかそっかぁ。いや、しかしすごいねー千佐都?」


「あたしに振るな」


 素っ気ない返事をして千佐都は窓の外へと目を移す。そんな情報は今更尋ねるまでもなく知っているのだ。なにせ、しばらく共に生活をしていたのだから。


 ああ、早く始業の鐘が鳴らないかなぁ……。


 そうは思っても鐘のなる気配は一切なかった。それも当然、まだ休憩時間は五分以上もある。いつもなら短く感じられる時間なのに、今日に限ってはその五分がやたらと長く感じられた。


「――あ、そういえば千佐都聞いた?」


 隣で激しい質問攻めに遭い、すっかり真っ白になった悟司の横で松前が言った。


「聞いたって、なにが?」

「いやさ、今年のスキー部は出店もなんにもやらないけど、“ヒーロースーツ”だけはサークル連中の中で各自交代で着てくれって」


 ……んんん?

 なんだその摩訶不思議なキーワードは。


 千佐都は窓から視線を外すと、苦い顔をしながら松前の方を見た。


「なにそのヒーロースーツってのは」


 千佐都が尋ねると、松前は自らのスマートフォンをいじりながら話し始める。


「ほら、うちらのスキー部って大学随一の大所帯じゃない? 学祭執行部から、何もやらないサークルの一つということでお鉢が回ってきてさ。今年の学祭は町との交流もテーマの一つらしくて、うちのご当地ヒーローをこの学祭内にもぜひお招きしたいらしいのさ」


 ほらこれ、と言いながら松前は千佐都にスマートフォンの画面を見せつけた。

 そこに映っている画像を見て、千佐都は驚愕の表情をする。


「な…………なにこれ」


 真っ黒なタイツに赤い目。両腕にはわけのわからない白い包帯みたいなものを巻き付けていた。さらにラ○ダーベルトのように腰には妙ちくりんなベルトを巻き付けている。なんでもかんでも巻き付ければいいってもんでもない。


 一言で言えば、面妖。


「なにって、うちの町のご当地ヒーローでございますが? 名前はジ○ギリバーさん」

「ヒーローどころか泣く子も号泣しそうな悪役デザインですけど!?」

「失礼ねぇ……これでも正義の味方なんだから。一応主題歌もあるんだよ、ほら」


 そう言って今度は動画サイトを開く。

 そこにあった主題歌を聴かされながら、千佐都は顔を引きつらせて松前を見た。


「あのね樹里。これ、別にあたしらじゃなくたって、スキー部のメンズ達がやれば……」

「それが色々話しあったところ、メンズ達からも猛反発に遭ってさ。当日学祭を回りたいって気持ちはみんな一緒だから、各自短い時間で着回していくっていう結論に落ち着いちゃったわけ」

「う、うう。でもあたし背が低いし、こんなの着て歩けないと思うんですが」

「当日は二人ペアで、着る人とその様子を監視する人で行動するらしいよ」


 くそう、この言い訳じゃ逃れられないか。


「ね、当日は私が着るからさ。千佐都は横で子供たちが悪さしないか見張っててよ」

 松前がスマートフォンをしまいながら千佐都へそう提案する。

「えー」


 面倒くさいことになってしまったな、と思った。

 まさかこんなことになるとは、夢にも思っていなかった。


 実は千佐都は、松前に牛丼の出店を開く旨を今まで一切伝えていなかったのだ。


 そもそも千佐都は松前に対して『シュガー・シュガー・シュガー(!)』のことすら話し

ていない。隠していたわけではなく、特段打ち明ける必要性もなかったからなのだが。

 だがそのせいで、悟司との関係を変に勘ぐられてしまったり、当の悟司もすぐ横で真っ白になっているわけで――


 いい加減話さなければならない時期になってしまったのかもしれない。もちろんちょっと前まで二人が半ば同棲生活までしていたことは伏せて、であるが。

 しかし、自分が歌詞を書いてるなんて知ったら松前はどんな反応をするんだろうか。


 ……ああもう、恥ずかしいなぁ。


 そうは思いながらも結局他にごまかす理由が思い浮かばなかったので、千佐都は思い切って松前にシュガメンバーのことを話してみることにした。


「樹里、講義終わったらあとで一緒に喫煙所に来てよ」

「喫煙所? 千佐都タバコなんて吸ってたっけ?」


 そんな時ようやく始業の鐘が鳴った。

 もう少し早く鳴って欲しかったぜ、ちくしょう。



  ※ ※ ※



「――というわけなんです、はい」


 千佐都が肩を落としながら説明を終えると、松前は自販機の前でぽけーっと口を開けたまま悟司と月子を交互に見回していた。


 春日は学祭に向けての練習の為、今この場にはいない。だが、彼のベース演奏はサークル棟の方からこの喫煙所まではっきりと聞こえてきていた。


「へええ。まさかあんたが歌詞だなんて、そんなたいそうなことしてるとは夢にも思わなかったわ」

「どういう意味よ。とにかくそんなわけでさ樹里、あたし当日は牛丼屋をやってるからご当地ヒーローなんかに構ってる余裕なんてないのよ」

「うーん。でもそんな事もないんじゃない?」

「へ?」


 きょとんとする千佐都に松前は自販機からおしるこを取り出して言った。


「そういう話なら私も手伝うわ。牛丼の販売から料理に至るまで、ね。だからあんたも私のヒーロースーツ姿をきっちり監視なさい」

「えええええ」


 嫌そうな声をあげる千佐都に向かって、松前はおしるこの蓋を開けながら膨れる。


「ジンギ○バーさんから逃れようって魂胆が見え見えなの千佐都は。それに、その音楽メンバーのみんなだって、当日は他サークルとの掛け持ちで出店には出られないかも知れないんでしょ?」

「う、うぐぅ……」


 言葉を飲み込みながら唸る千佐都の横で、松前はおしるこを一気に煽った。


「わ。まさか一気飲みですか?」


 月子が目を丸くして松前の飲みっぷりを眺めていた。


「あ、熱くないんでしょうか」

「……ぷは。私、舌が強いからね」


 あっという間に空になった缶をゴミ箱に投げ入れると、松前は項垂れたままの千佐都に人差し指を突きつけた。


「とにかく! 千佐都にはきちんと私のジ○ギリバーさんに付き合ってもらうからねっ。大体あんたはここんとこスキー部の飲み会にも顔を出さなすぎなのさ。こっちのメンバーがお気に入りなのはわかるけど、ちょっとは私の頼みも聞いてよね!」

「は……はぁい」

「す、すごい……あの千佐都をこんなに従順にさせるなんて」


 悟司がぼそりとそんなことを口にしているのが千佐都の耳にも届いた。

 ……そうなんだよなぁ。


 自分でも不思議なのですよ、そこんところ。

 それも相手は一個下の現役入学のはずなのにこの女にはちっとも逆らえない。


「そういえば、鷲里月子さんだっけ?」


 松前が月子の方へと振り返ると、月子は背筋をぴんと張って頷く。


「鷲里さんってそんなに絵がうまいの?」

「い、いや。ウチはその。別に」

「ねぇねぇ、もし良かったら、一度私にも絵を見せてもらえないかしら?」

「ふぇ、ふぇえ!? い、いや。み、見せられるほどのものでは……」

「いやいや。だって今でもその動画でネットに公開してるんでしょ? ねぇねぇー」

「は、はわわわわっ! た、たんまです。ちょっとたんま」


 そうして慌てる月子を尻目に、千佐都も喉が渇いて自動販売機で何か飲み物でも買おうとベンチから立ち上がった。ちょうどその時、千佐都の目にサークル棟へと入っていく数人の男達の姿が目に入る。


 彼らの姿を見て千佐都はぼんやりとしながら言った。


「あれって確か春日もよく担いでるやつじゃない?」


 千佐都が悟司の袖を掴んで男達を指すと、悟司もそちらに気付いて眉間を寄せた。


「そう……だね。あれはギグバッグだ。ベースと……あとギターが二人か。ドラマーもいるみたいだね。スティック持ってる」

「ねぇ悟司。あんたあの人達見たことある?」

「あるわけないじゃないか。俺たちが軽音に寄ったときにいたメンバーは、四年生の先輩たった二人だけだったし。あそこにいる連中は四人だ。しかもその時いた二人のどちらとも顔が違う」


 軽音サークルに寄ったのなんてもう相当昔の話だと言うのに、悟司はあの時の二人の顔をよく覚えているようだった。一方の千佐都は顔も体格も完全に忘却の彼方だ。


「そもそもさ、さっきから先輩が部室で演奏してる音が聞こえるだろ? 確かあの四年生の二人も、春日先輩のバンドのメンバーじゃなかったか?」

「そうだったっけ?」


 千佐都が首を傾げると、悟司はジト目で千佐都を見ながら呆れたようにため息をつく。


「なによう。大体あんたは記憶力良すぎるのよ。半年前のことなんて普通忘れるって」

「アンタは二、三日前のことだって忘れてるわよ」


 そんな松前からの横ヤリが入って千佐都がうっと短い声をあげる。

 松前は月子から離れて二人が見ていたサークル棟の方へ視線を合わせながら言った。


「私、あの連中知ってるよ」

「うそ。樹里って軽音サークルに興味なんてあったっけ?」

「ないよ?」


 さらりとそう言いのけると、松前はおでこに手をかざしながらギグバッグを持った連中に向かって目を細めた。


「あいつらは軽音サークルのOBね。間違いないわ」

「OB?」

「そう。今年の未開大のオープンキャンパスは学祭とは別に設けられてるけど、去年のオープンキャンパスは学祭と一緒に行われてたのね。で、当時高校生だった私は、その時にたまたま彼らのライブ演奏を聞いたってわけ。だから知ってんのよ、彼らのこと」


「な、なんだよそりゃ……。普通学祭のライブって学生同士でするもんじゃないのかよ」


 独り言のように呟く悟司の言葉を拾って松前が答える。


「ね? あの時は私もびっくりしちゃったわ。なんでも彼らって美唄出身のインディーズバンドで、現軽音サークルの創設者たちなんだってさ」


 意図せずして自らの言葉を拾われた悟司がびっくりしていると、松前はそんな悟司に向かって優しく微笑みかけた。松前は時々こういう妙に大人っぽい仕草を取るところがあった。今のも何気ない仕草だったが、悟司の緊張はきっとうまい具合に緩和されただろう。こういう芸当は千佐都にはなかなか出来ないことだった。


「ねぇねぇ、でもなんで樹里はそんな相手の情報をそんな詳細に知ってんの?」


 千佐都が率直な疑問を口にすると、松前は手をひらひらさせながら可笑しそうに笑う。


「去年、あいつらがMCで自慢げにそう言ってたからよ。軽音サークルって昔はこの大学にたくさんあったらしいけど、今はあそこ一つしかないから、そういった事情も込みでとにかくやたら勲章のように語ってたなぁ……んでも正直この未開大では、軽音サークルなんて過去から現在に至るまで弱小中の弱小サークル。去年だって二時間以上歌ってたけど誰もロクに聞いてなかったわよ」

「に、二時間もですか!?」


 松前の言葉にびっくりした月子が思わず声を上げる。


「そうよ。ミクスチャーだかほうじ茶だか知らないけど、お経みたいなラップを混ぜながらそりゃもう楽しそうに飛び跳ねまくってたわよ。さながら、自分達の実力では絶対にたどり着けない野外フェスの気分にでも浸ってたのかしら? でも大学の昇降口に作ったステージなんかであれだけ満足できるってのも、まぁある種の才能なのかねぇ」

「ちょ、ちょっと待った」


 千佐都が松前の言葉を遮るように手を広げた。


「昇降口ってなに? も、もしかして学祭の軽音サークルの演奏場所って――」

「え、なに。まさか軽音の人達のステージ、知らなかったの? あそこだよ」


 松前が指し示した場所、それは大学の中へと入る中央昇降口であった。


 その昇降口は前方に段差があり、左右はなだらかな斜面となっていた。

 バリアフリーとしての目的もあるのだろうが、その多くの使用用途はおそらくタクシーなどの乗用車の為だ。斜面は車がちょうど玄関の手前すれすれのところで停車出来る作りとなっており、雪よけの立派な屋根もかかっているので非常にスムーズな乗降を可能にしていた。未開大は駅からやや離れているので、札幌や他の地方都市からの非常勤講師はこの大学に来る際にタクシーでやってくることが多かった。千佐都も何度か講師が昇降口でタクシーにお金を支払っている姿を何度も目撃したことがある。


「当日は屋根から大きなビニールシートをかぶせて斜面からの人の進入を塞いじゃうのさ。んで、前方の段差にはモニターやらスピーカーみたいな機材で固めてこちらも進入禁止状態。まぁそんな感じでライブをやるんだけど――去年はあんなに寒かったのによくやるわって思ったなぁ。去年の午前とかめっちゃ空気が冷えてたんだよ。数日もしない内に雪が降ったくらいの気温だったんだから」

「ゆ、指とか、う、動かないんじゃないか?」


 悟司がおそるおそる尋ねると松前は笑いながら悟司の背中をばんばんと叩く。


「もーっ! 悟司くんは軽音じゃないんでしょ? なになに、自分もミュージシャンとして思わず気になっちゃった? あははは」

「き、聞くけどさ樹里」

「ん?」


 背中を押さえてうずくまってしまった悟司をよそに、千佐都が言った。


「OBがあそこでやるってのはわかった。で、現在の軽音メンバー達はどうなのさ? あんた、去年在学メンバーの演奏とか聴かなかったの?」

「もちろん聴いたよ。だからその千佐都達の音楽メンバーである春日先輩って人も、あの昇降口で演奏してたと思う」


 でも、と付け加える。


「彼らの演奏時間は、十五分程度の短いもんだったの。素人の私の感想じゃあんまり参考にはなんないかもしれないけど、演奏力でいったら明らかに春日先輩達の方がOB連中よりうまかったね。ぐだぐだといつまでもやり続けてた、あのOB連中よりずっと」


 十五分――


 松前のその言葉を聞いて千佐都はこの前の春日の姿がフラッシュバックされる。

 悟司も同じ事を思ったのだろう、松前から食らった背中の痛みなど忘れてしまったかのように呆然としていた。



  ※ ※ ※



「――なんだ、千佐都か」


 喫煙所に二人の影が長く伸びていた。

 悟司は司書資格の講座を受けに向かった。松前は今日の講義は終了して帰ってしまった。直前まで一緒にいた月子も漫研の部室へと向かってしまい、今この場には千佐都と春日の二人だけで、知り合い以外にも学生の姿はその二人のみであった。


「珍しいな、お前が一人でここにいるなんて」


 ベースの入ったギグバッグを担ぎながら春日はタバコをくわえると、ライターを取り出して手で風を防ぐ仕草をした。


「……ねぇ、OBって、一体なんなのよ」


 千佐都がそうぽつりと漏らすと、春日の動きが止まった。


「ばっかみたい……あんな奴らに今まであんたは……っ。自分の夢を妨害され続けてきたわけ? 二年間も。大学に入ってから、ずっと!」

「お前まさか――」


 目を大きく見開いて狼狽える春日を無視して、千佐都は続けた。


「悔しくないの!? 言ってやりなよあいつらにっ! お前らは卒業してまだこんなところでくすぶっててバカみたいだって。とっとと追い出してやれば良いじゃんっ! 今年ならあたしだって、あたしだってさ! 一緒になってキレてやるわよっ! あたしだけじゃない。きっと悟司だって――」

「――まさか、聞いていたのか……札幌の時に、僕が悟司に言ったことを」


 その問いに、首肯はしなかった。

 代わりに千佐都はまっすぐ春日を見据える。


「かすがは……かすがはお父さんを、見返してやりたいんでしょ……」


 札幌で春日が悟司に話していた時の、あの春日の顔が千佐都には忘れられなかった。あんなに弱りきった春日の姿を見た後で、こんなことを言うのはひどく気が重い。


 ……でも自分の性格上、こんなことは黙っていられない。


「意地が悪くたっていいよっ! 春日らしいもん! それがあたしが知ってる春日だもん。でも、なんかさ……、OBの話聞いたときに、なんか違うなって思っちゃったよ……十五分っていう時間を与えられて、それに対して納得できないまま演奏してるかすがなんて、全然イメージと違う。彼らに食ってかかったりしなかったの? 食ってかかって、それでもそんな時間しか無理だったわけ?」


 春日は静かに首を振った。


「なにも、言わなかった」

「なんで……なんで、いつもあたしに刃向かう時みたいにあいつらに言ってやらなかったの? いつもあたしに文句言う時みたいにさ、もっと図々しく意見を主張して、それで追い出してやればいいじゃないのさ……いつもみたいに……なんでなのさ。どうしてっ」


 そう言って千佐都はベンチにへたり込んだ。いつもみたいに強く出られない。

 そんな千佐都を見て、春日は再びタバコに火を点ける動作を再開した。ふぅっと短く息を吐くと、柔らかい煙が上空へと舞い上がる。


「――そうだな」


 その声は、いつにもまして優しくて。


「千佐都の言うとおりだ」


 その表情は、いつにもまして穏やかで。


「もっと図々しく、か。まぁその通りだ。僕はあいつらを認めていない。だけど僕はそんなことが言えないんだ。なぜなら度胸がない。何事も愛想笑いでやりすごしてしまう」


 そんな春日の顔を見ていると、ものすごく胸がしめつけられる。


「……本当はそんな臆病な人間なのさ、僕の本性は」


 なんで、そんな顔が出来るのか千佐都には不思議でたまらなかった。


 くしゃりと顔が歪んでしまって、涙がこぼれてしまいそうになる。

 それを誤魔化すように千佐都は春日の顔も見ずに言った。


「馬鹿。本当に大馬鹿よ……あんたは」

「相変わらず手厳しいな、千佐都は」


 そう言って春日は微かに笑うと、タバコをもみ消した。


「サークル内の活動は所詮コピーバンドなんだ。今も二年前も変わらずにな。だから別に構わないのさ。それより今は、他にもっと大事な活動がある。お前達とのユニット、『シュガー・シュガー・シュガー(!)』がな」


 ようやくわかったのだ。

 春日はいつも『シュガー・シュガー・シュガー(!)』の活動にひたむきだった理由を。

 夢を追い続けようとして、あがいて、でもその実やってきていた事はずっと夢に向かって足踏みをし続けていたんだ。二年間ずっと。


 そんな彼が、やっと手にしたきっかけなのだ。

『シュガー・シュガー・シュガー(!)』というユニットは。


 千佐都はつい数週間前に、春日と再生数の伸びのことで揉めたことを思い出した。

 あの時の春日が口にした言葉の真意が、今ではひしひしと伝わってくる。


「僕の夢は別に妨害されていない。もともとそう言う場所なんだ、あそこは。僕は今までずっと父さんを見返そうとして、その気持ちだけがずっと空回りしたままで……同じような志をもった人など、あの当時、僕の周囲には一人もいやしなかった。そうして仕方なくサークルへと通いながらいつも思っていたさ。『それでもいつかきっとチャンスはくる』って。自らでロクな行動もしてないくせにな……おかげで二年間を棒に振った」

「……そんなことないよ。絶対に。かすがの二年間は――」

「気休めは良い。事実なんだから」


 春日はそのまま千佐都の座っているベンチまでやってくると、ゆっくりと腰を下ろして千佐都の隣へと座った。


「その点、樫枝はすごい。最初こそ、僕から言われたことをただこなしているだけだったのに、気付いたらどんどん我を出していって、今じゃすっかり僕らの活動の中核だ。本当にあのバイタリティはどこから来るんだろうな? 他人と会話するのはあんなに苦手なくせに、作曲に関してだけは人一倍に積極的だ」


 千佐都が顔を上げると、春日はいつもの無愛想な顔とはまるで違う優しい笑みを見せた。


「あいつと出会えて……良かった。ありがとうな、千佐都」


 その言い方があまりにも優しかったので、千佐都は不覚にもどきっとしてしまった。

 そのことを悟られないように、千佐都は慌てて顔を逸らす。


「あたしは……何もしてないもん」


 唇をほとんど動かさずにそう告げる。

 もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。


 ……一体、なんで?


「お前が僕とあいつを引き合わせたんだぞ?」

「そんなことない……遅かれ早かれ、絶対二人はそのうち知り合ってたはずよ」


 そこまで言ってから慌ててベンチを離れる。

 意識的に春日から距離を置いて、千佐都は言った。


「……牛丼の件は見逃してあげる。だからライブ、精一杯頑張りなさいよ」


 ここまでの動作を、自分では結構挙動不審だと思っていたのだが、どうやら春日は全く何も気付いていなかったようで、


「ああ、任せろ」


 と力強く返事をすると、再びポケットからタバコを取り出していた。


 ……今のは一体なんだったんだろう。


 その場でくるりと振り返って胸を押さえると、鼓動が少しだけ早く鳴っている気がした。

 顔の火照りが少しずつ冷えてくるのを確認しながら、千佐都はゆっくり深呼吸を始める。


「……なにしてんだ、お前」


 春日がそんな千佐都を見て怪訝な顔をする。


「うっさいばか」

「なぜ罵られる!?」


 ぎょっとしている春日をちらりと伺う。

 そうしてようやく落ち着き始めたところで、千佐都はしっかり春日の方へと向き直った。


「あたしたくさん人集めるから。スキー部の連中にも声をかける。悟司も、つっきーも、小倉君も。みんなみんな連れてきて、全力で応援してあげる」

「その間、牛丼屋はどうするんだ?」

「その時くらい店を空けたっていいでしょ? どうせ十五分なんだしさ」

「どうせ十五分とか言うな」


 苦笑いしながら春日も立ち上がると、終業のベルが鳴り響いた。


「せっかくだ。このまま樫枝と鷲里を連れて、久々にあのラーメン屋へ行くとするか」

「濁りってメニューのところ?」


 千佐都が尋ねると、春日は笑いながら自分のスマートフォンを取りだした。


「二人に電話してみるか」



 10月10日――悟司



 講義が終わって席を立とうとすると、


「ビバヤハウェ」


 背中の方ですごく嫌な寒気がして悟司は振り返った。


「どーもぉ、樫枝くーん」


 水谷が手を挙げながらこちらに笑いかけていた。


 逃げよう。

 そう思い鞄をひっつかもうと手を伸ばすと、水谷はばしんと悟司の鞄を押さえ込んだ。


「ひ、人の鞄になんて乱暴な仕打ちを……」

「夏休みはありがとうね。おかげでたくさんの人へお祈りも出来たことだし、何かお礼でもしようと思うんだけど」


 水谷という女を一言で言い表すならば「カルト系女子」とでも言おうか。

 以前まだ悟司が自前のコミュ障によって今のシュガメンバーとの接点がなかった頃、この水谷は三年の先輩、安藤を引き連れ悟司を自らのカルト教団「いちじく会」に引き込もうとしたことがあった。


 その時は、偶然その場に居合わせた春日によって事なきを得たのだが、夏休みのある日、悟司は再びこの女と町中でばったり遭遇してしまった。そのせいで悟司は約二週間以上もの間、彼女の言う「ヤハウェへの祈り」というわけのわからないノルマへと共に付き合わされることとなってしまった。


 さすがにそれだけの期間を一緒にいたので水谷に対しての悟司のコミュ障スキルは、既にシュガメンバーとほぼ大差が無くなってしまっているのであった。


「そ、そういえば安藤さんはどこ行ったんですか?」


 ふと気付く。

 そういえば、夏休みも本当は二人で一緒にそのお祈りとやらをするはずだったと水谷は言っていたのだが。


「彼は辞めたわよ」

「へ?」


 ぽかんと口を開ける悟司に向かって水谷は再度告げる。


「辞めたわよ。大学を。今は芦別の支部で健康食品を売りつけてるわ」

「あぁ……さいですか」


 深く聞くのはよしておこう。


「とにかく、俺は別にお礼とかいらないんで」


 そう言って悟司は水谷が押さえている鞄を引っ張った。が、鞄はびくともせずに机の上に押さえつけられたままだった。

 全く、相変わらずの馬鹿力に感服してしまう。


「離してください」

「お礼するから」

「お礼って、一体どこでなにを?」

「うちの支部で聖水を振りかけてあげるわ」


 うわ、いらねぇ……。

 目をらんらんと輝かせながら水谷は悟司に語りかける。


「私が思うに、樫枝くんはきっと我々のお祈りなしにヤハウェ様のご加護を受けている数少ない逸材だと思うの」

「勘違いです」


 そう言って鞄を思いっきり引っ張ると、ようやく机に張り付いていた状態から解放された――と思っていたら水谷の手からは一切解放されておらず、彼女の手にはしっかりと悟司の鞄の端が握られていた。


「ねぇ、いい加減強情にならずに一度セミナーに来なさいよ。支部のみんなにあなたの話をしたらすごく興味をひいてたわ」

「勝手に俺の話をよそで出さないでくださいよ!?」


「そうやってあんまりわがまま言ってると――拉致るわよ」


 その発言に一瞬背筋がぞっとなった。

 そんな悟司の様子を慮ってか水谷はにっと口角を釣り上げた。


「……冗談よ。そんなカルト教団に見える?」


 見えるからこうして拒否ってるんですが。


 そう思っていると、突然悟司のズボンのポケットが震えだした。

 携帯から着信が来たらしい。


 仕方なく悟司は鞄から手を離して携帯を取り出す。その隙に水谷は悟司の鞄をしっかりと胸元へ抱き寄せてしまった。


 そんな水谷を見て肩を落としながら悟司は電話に出た。


「……もしもし」

「樫枝か?」


 電話の主は春日だった。


「今、千佐都と喫煙所にいるんだ。良かったら今日この後皆でラーメンでも食いに行かないか?」

「ああ、それはいいですね」

「どれくらいでここに来れる?」


 春日の言葉を聞いて、悟司はちらりと水谷を見た。

 悟司の視線を感じた水谷が、胸元でしっかりと鞄を抱えながら二、三歩後ずさる。


「結構……かかるかもしれません」


 そう言って電話を切ると、相変わらずこちらを警戒したままの水谷に言った。


「聖水は振りかけられたくないです。お礼もいらないです。だから鞄を返して下さい」


 実力行使で鞄を奪おうとしても不可能だと悟り、対話路線へと切り替えてみる。

 水谷は鞄を離さずにゆっくりと口を開いた。


「……そんな道理が、私に通用すると思う?」

「お礼したいのか迷惑かけたいのかどっちなんですかアンタは!?」

「そりゃ当然お礼よ。他人から受けた義はきちんと返すのが、私の宗教の教えだもの」

「でも俺はそんなのいらないと言ってるんです」

「ダメよ。そんなの認めるわけにはいかない。ヤハウェ様だってきっとそう思ってるわ」


 そこまで言うと、水谷はぶつぶつと相変わらずわけのわからない呪文を唱え始める。


「マハリクマハリタテクマクマヤコンテクニクテクニカシャランラー……」

「毎回、その奇妙な呪文で煙に巻こうとするのやめてください」

「樫枝くんは私のお気にいりなの。そりゃあ私だって出来ることならこうした手荒な真似をしたくないわよ……でも……仕方ないじゃない」

「……そうやってこちらの情に訴えるようなやり方は既に夏休みの時に思い知りました。もう通用しません」


「……ちっ」

「舌打ちしたでしょ今!?」


 思わずびっくりして声を上げる悟司を見て、水谷はぽーんと鞄を悟司に向かって投げた。


「……わかったわよ。でもお礼は近いうちにちゃんとさせてもらうから」


 悟司は鞄を受け取ると、水谷に向き直る。

 予想以上に早い返却だった。


「聖水は勘弁してほしいです」

「それもわかったわよ。でも、感謝してるのは本当なの。別にあなたに嫌がらせがしたいわけじゃないってのもわかってほしいわ」


 本当かなぁ……。

 そう思いながら鞄の中身の無事を確認する悟司。


「そうそう。今週末、学祭があるでしょ?」


 突然話題を変える水谷に、悟司は鞄から目を離して向き直った。


「町との交流ってことでさ、私たち『いちじく会』も屋台の方で出店するの。もし時間が合ったら樫枝くんもぜひ足を運んでちょうだい」

「出店って……一体どんなものを?」

「壺とか水晶玉とか」


 うわぁ……。


「と言っても今言ったものは一日目に開催されるフリーマーケットのものだけどね。屋台の方はちゃんとした食べ物よ。確かたこ焼きだったかな?」

「変なもの入れたりしないですよね?」

「……失礼ね。私たちはそんな危ない連中じゃないわよ」


 むすっと頬を膨らませると、水谷は既に人の出払った教室のドアへと向かっていった。


「樫枝くん、絶対来てね。約束だから」


 そう言ってにこりと快活な笑みを残して水谷は出て行った。


 ああやって普通に笑っている顔はどう見ても普通の女子なんだよなぁ。

 そんなことを心の中で思いながら、ようやく誰もいなくなった教室の真ん中で悟司は机の上に腰を落ち着けたのだった。




 十一月七日――弘緒



「…………」


 目を開けると保険室だった。まだ少しめまいがして、頭が重かった。

 今は何時なのだろう。

 しばらくして辺りの視界がはっきりしてくると、弘緒はそっと身体にかけられたシーツをはがして身体を起こした。


「あら、起きたの?」


 カーテン越しに女性の声が聞こえた。弘緒がカーテンをめくると白衣に包まれた二十代後半くらいの女性が、灰色の事務チェアーから立ち上がってこちらを見つめていた。


「どう? 調子は」


 弘緒はベッドの横のかごに置かれた自分の靴を眺めると、そちらへ足を伸ばしながら軽く頭を下げる。


「……ご迷惑をおかけしました」

「迷惑じゃないよ。かといって歓迎もしてないけれど。先生としては生徒が元気であることが一番だ」

「あの、誰がここまで運んでくれたんですか?」


 恥ずかしそうに弘緒がそう尋ねると、保険医の女性は淡々とした声で言った。


「佐藤さんよ」


 一瞬、聞き間違いかと思った。


「佐藤さんがここまで運んでくれたの。あの人、見かけによらず力があるからねぇ。って別に君が重いとか言ってるわけじゃないよ」

「はぁ」


 話だけ聞くにおそらく同じ教室の生徒の誰かだろう。男か女かもわからないが、なんとなく弘緒は男性のような気がした。


 そうして弘緒は、あらためて自分が教室の皆と一切の関わり合いがないことを痛感した。佐藤なんて同じ名字の人物が教室にいるなんて全く知らなかった。といってもそれほど珍しい名字でもないので全然あり得ないことではないのだが。


「ちゃんと明日お礼を言いなさい。それにもう遅いから。ちょうど今親御さんに連絡を入れようと――」

「連絡しないでください!」


 保険医の女性の声を遮って、弘緒は言った。


「しないで……ください。一人で、大丈夫ですから」

「といってもねぇ」


 万年筆の尻で頭をかきながら保険医の女性が眉を寄せる。


「タクシーで結構です。母は、きっと今日はお仕事で……今家には祖母と祖父しかいなくて、この時間はきっともう寝ています。これ以上迷惑をかけたくないんです」

 ぎゅっとシーツを掴みながら弘緒が言うと、保険医の女性はため息をついて言った。

「……わかったわ。タクシー呼んであげるからもうしばらく少し横になってなさい」


 ベッドから降りようとしていた弘緒は足を再びベッドに向けて横になった。


 ……本当に無力だ。

 再び流れそうになる涙をこらえ、弘緒は天井の蛍光灯を見つめながらそう思った。



 10月10日――月子



「ラーメンなんて久しぶりですっ」


 月子が笑いながらそう言うと、隣にいた小倉が水を飲み干しながら月子を見た。


「何言ってるんだ。月子はいつも僕がラーメン誘っても付いてこないじゃないか」

「庄ちゃんは食べ過ぎなの。こうやってたまーに食べるラーメンが最高なんですよー」


 そう言って箸を割りながら月子は楽しそうに身体を揺らした。


「……てか、小倉君は食べ物のことになるとどこでも付いてくるね」


 悟司がぼそりとそう言うと、


「腹を見ればわかるだろ?」


 思いっきり開き直ってそんなことを言ってみせた。


「そういえば千佐都くん。あれから牛丼の方は順調かい?」


 小倉が尋ねると、千佐都は親指を立てながらにんまり笑みを浮かべた。


「小倉くんいつも試食ありがとね。おかげさまで大分店の味に近付いたわ、完璧よっ」

「やっぱり白ワインが決め手だったようだね」

「どうでもいいけど、ホント二人は家のキッチン独占しすぎだから……」


 悟司が苦笑いで二人の会話に割って入る。

 どうやら以前会議をした後にも、千佐都は悟司の家に入り浸って小倉と一緒に牛丼を作り続けていたようだった。


 その事がわかって、月子はちょっとだけ安心する。

 本当は、千佐都に牛丼の屋台をやると言われた時から月子はずっとその事を心配をしていた。というのも、時々自分は本当に自らの絵で彼らに貢献出来ているのだろうかという漠然とした不安があったからだ。


 自分の絵で彼らの音楽に関われるという不思議。そのことは最初にメンバー入りしたときからずっと感じている。


 でも、月子は楽しかった。

 今いる漫画研究部には女子しかいない。でもここには悟司や春日といった男メンバーに加えて小倉という幼なじみも時々顔を出してくれる。


 少しずつではあるが、月子は悟司と春日に出会って自分の男性に対する不信さが緩和されていってることを自覚していた。悟司はいつだって自分に優しく接してくれるし、春日も月子に対してだけはあまり強い口調で責めたりはしない。


 彼らにはわからないかもしれないし、これからもわからないだろう。

 でも、自分には彼らにもらったものがいっぱいある。


 出来れば、もっと彼らの為に、ひいては『シュガー・シュガー・シュガー(!)』のメンバーの一員として、他にも貢献出来るものが何かあればいいのだけれど――


「はい、つっきー。ラーメン来たよー」


 そうしてぼうっとしている間に、千佐都が月子の前にラーメンを寄こした。


「あ、はい。ありがとうございますちさ姉っ」


 そう言ってぺこりと頭を下げる。


「熱いからふーふーするんだよ?」

「はいっ」


 千佐都も月子のことをいつも気にかけて、色々と世話を焼いてくれる。

 あまり頭の回転が良くない自分の為に色々とわかる範囲でボーカロイドのこと、DTMのことをかみ砕いて説明してくれることもあった。


 本当にいい友達だ。

 そう思っていると、またしてもぼんやりしている月子に隣の小倉が笑った。


「なにしてるんだよ、伸びちゃうぞ」

「もー。わかってるって庄ちゃん」


 何か出来ることはないか。


 それは学祭でどうにかできる事だろうか。

 今はまだわからない。


 けど、必ず近いうちになにかお返しが出来たら。

 そう月子は思うのだった。


「いただきますっ」




※ここまでの日付まとめ


・弘緒

 四月九日、四月二十三日、五月十三日

 十月三日、十月二十一日、十一月七日、

 十二月一日


・悟司

 9月27日、9月28日、9月29日、

 10月1日、10月7日、10月10日



※千佐都と松前、悟司と水谷のお話は、「スティック・タイプ」の短編に掲載されています。

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