第9話 もう、王家を放っておけばよろしいのでは?
諸侯軍が王都の外へ集まってから、93日目。
王都は飢えていなかった。
国営倉庫にはまだ穀物があり、軍用備蓄も残っている。肉や卵、乳製品は高くなり、薪や油も以前ほど気軽には買えなくなったが、城壁の内側で人々が食料を奪い合うような事態には至っていない。
市場は開く。
鐘も鳴る。
官僚は王宮へ出勤し、数を減らした近衛も門に立っている。
王都はまだ、王都だった。
だからこそ。
王宮の中には、少しずつ妙な楽観が生まれ始めていた。
「耐え切ったのではないか」
朝の御前会議で、国王が言った。
机の上には王都周辺の地図が広げられている。
3か月前には3万2000を超えていた諸侯軍も、今は交代や病人の帰還などで3万人を少し下回っていた。
それでも大きな配置は変わらない。
北、西、南。
王都からレグランド領へ向かう主要街道の先には、今も各家の陣がある。
「3か月だ」
国王は続けた。
「向こうも、いつまでも兵を置いてはおけまい」
財務官は何も言わなかった。
軍務卿も黙っている。
代わりにルーヴァンが口を開いた。
「陛下。こちらも、いつまでも今の状態を続けられません」
「分かっている」
「近衛の欠員。王都警備隊の減員。軍馬用飼料の不足。市場流入量も戻っておりません」
「ルーヴァン」
国王の声が少し強くなる。
「何が言いたい」
ルーヴァンは地図を見た。
3か月前の自分なら、王都には城壁も備蓄もあるのだから耐えればいいと考えただろう。
相手が先に疲弊すれば、それで勝ちだと。
だが今は、少し違う。
「外の諸侯は、王都を落とすために来たのではありません」
「それは知っている」
「でしたら、こちらが耐えたこと自体には、それほど意味がございません」
国王の眉が寄った。
「どういう意味だ」
軍務卿が一枚の報告書を出した。
「陛下。レグランド侯爵領への遠征について、現在の戦力と補給能力を前提に再試算いたしました」
部屋の空気が変わった。
そもそも、すべての始まりはそこだった。
王家がレグランド家に対する軍事行動を想定した。
それを止めるために諸侯軍が集まった。
「結果は?」
国王が聞いた。
「現時点では、実効的な遠征軍を編成することを推奨できません」
「推奨できない?」
軍務卿は首を横へ振った。
「正確には、ほぼ不可能です」
国王の表情が変わった。
「理由を言え」
「近衛と王都警備兵の減員。王都から調達できる軍馬と飼料の不足。補給を請け負う商人の確保難。そして最も大きいのが、沿道諸侯の協力を期待できないことです」
軍務卿は王都からレグランド領へ続く街道を指でなぞった。
「遠征軍は、この複数領を通過します。宿営地、水、馬の交換、食料購入、橋梁の使用。すべて沿道領の協力があって初めて成立します」
「王命で協力させればよい」
国王が言った。
軍務卿は少しだけ間を置いた。
「法的には可能です」
「ならば」
「従わない領へ王命を実行させるための兵が、さらに必要になります」
国王が黙った。
レグランド家へ軍を送る。
その軍を通すために別の領へ兵を向ける。
その兵を養うために、さらに別の領へ協力を求める。
拒まれれば、そこにも兵を向ける。
そこまでやれば。
もうレグランド一侯爵家の問題ではない。
「つまり」
国王が低く聞く。
「今の王家には、レグランド領まで軍を送れないと?」
「はい」
軍務卿は明確に答えた。
「少なくとも、国内をさらに敵に回さずに行うことはできません」
ルーヴァンは地図を見た。
外にいる諸侯軍の目的は一つ。
レグランド家へ王家の軍を出させないこと。
ならば。
「……終わったのか」
国王が見る。
「何がだ」
「外にいる諸侯たちの目的です」
ルーヴァンは軍務卿を見る。
「こちらは、もう討伐軍を出せない」
「はい」
「なら、あの者たちは目的を達成しています」
国王は何も言わなかった。
その日の午後。
王都の外。
オスヴァルト・ヴァルデック公爵の大天幕には、何人もの諸侯が集まっていた。
エーベルハルト・グライゼン侯爵。
ハインリヒ・アルヴェスト侯爵。
カシアン・ローデンフェルト侯爵。
3か月の間、複数家に関わる問題が起きるたび、ヴァルデック公爵とこの3侯爵が話をまとめてきた。
今日も同じだった。
誰かに召集権があるわけではない。
ここで決まったことに、42家すべてが従う義務もない。
ただ、全体に関わる話がある。
だから集まった。
近隣の伯爵や子爵もいれば、離れた陣から家を代表する者も来ている。
「軍務院の話は確かなのか」
アルヴェスト侯爵が聞いた。
ヴァルデック公爵が頷く。
「複数から同じ話が入っている。レグランド領への実効的な遠征は困難。少なくとも、沿道諸侯を敵に回さずに行うことはできないそうだ」
「王命は?」
ローデンフェルト侯爵が聞く。
「出ていない」
「出たとしても?」
「軍を通せるかは別の話だ」
少しの沈黙。
そこへセルヴェント子爵が言った。
「じゃあ、帰るか」
何人かが一斉に見る。
アルヴェスト侯爵が笑った。
「軽いな」
「何がです?」
「3か月いたんだぞ」
「だから帰るのでしょう」
セルヴェント子爵は本気で不思議そうだった。
「レグランドへ軍を出させないために来た」
「そうだ」
「もう出せない」
「そうらしい」
「なら終わりです」
ローデンフェルト侯爵が少し笑う。
「お前の娘によく似ているな」
「ティナリアはもっと考えませんよ」
「知っている」
小さく笑いが起きた。
だが、エーベルハルト・グライゼン侯爵だけは笑わなかった。
「本当に、それでよいのか」
年老いた侯爵の声に、天幕が静かになる。
「我々が帰れば、王家は残る。今回レグランドを疑った者も、王太子も、そのままだ」
「そうだな」
ヴァルデック公爵が答える。
「また同じことをする可能性はある」
もっともな懸念だった。
3万人。
3か月。
金も人も時間も使った。
ここまで来たなら、いっそ王都へ入り、国王を退け、王太子を廃した方が後腐れがない。
そう考える者がいても、不思議ではない。
ハインリヒ・アルヴェスト侯爵が腕を組んだ。
「では、王家を潰して、そのあと誰を王にする?」
誰も答えない。
アルヴェスト侯爵はグライゼン侯爵を見る。
「あなたがやりますか」
「断る」
「私も嫌です」
ローデンフェルト侯爵がヴァルデック公爵を見る。
「公爵閣下は?」
「断る」
「早いですね」
「面倒だ」
即答だった。
「では、レグランド侯爵を」
誰かが言った。
その名前が出た瞬間。
何人もが、ほとんど同時に首を横へ振った。
セルヴェント子爵に至っては即答だった。
「絶対にやらん」
「本人へ聞いたのか?」
「聞かなくても分かります。侯爵になっただけで仕事が増えたと文句を言っている女ですよ」
「それはそうだな」
納得された。
では、王家を倒したあと誰が国外へ説明する。
条約は。
国書は。
貨幣の信用は。
王都の中央官庁は。
国境軍は。
王領は。
諸外国から見た、この国の代表は誰になる。
「……面倒だな」
誰かが言った。
非常に率直だった。
だが、この3か月で皆が嫌というほど知ったことでもある。
壊すことより。
壊したあとを動かす方が、よほど面倒だった。
セルヴェント子爵が肩をすくめる。
「危険がなくなったなら、今すぐ潰す必要もないでしょう」
グライゼン侯爵が見る。
「では、どうする」
「放っておけばいい」
あまりにも雑な答えだった。
だが。
誰もすぐには否定しなかった。
ヴァルデック公爵が天幕の中を見回す。
「少なくとも、私は自領軍へ撤収の検討を始めさせる」
「命令ですか?」
ノルデン伯爵が聞いた。
「私の軍にはな」
ヴァルデック公爵は答えた。
「君の軍を帰すかどうかは、君が決めろ」
ノルデン伯爵は少し考えた。
「では、私も帰します。もうここにいる理由がありません」
ヴェスター伯爵家の代表も頷く。
ローデンフェルト侯爵が言った。
「こちらも撤収準備に入ろう」
「アルヴェストは?」
「帰る。ただし西街道の商人へは先に知らせる。明日突然3万人分の買い手が消えたら、今度は向こうが困る」
「グライゼン侯爵」
「同じだ。病人と長距離移動が難しい者を先に出す」
誰も全軍へ命令しなかった。
誰も解散を宣言しなかった。
ただ、それぞれが。
自分の家について決め始めた。
翌朝。
最初の一隊が撤収を始めた。
天幕を畳み、荷車へ積み、馬をつなぐ。
王都の見張り台はすぐに気づいた。
「諸侯軍に動き!」
警鐘が鳴る。
王宮へ伝令が走った。
「ヴェスター伯爵軍が動いております!」
国王が立ち上がる。
「攻撃か!」
「いえ! 撤収です!」
「撤収?」
1時間もしないうちに、次の報告が来た。
ローデンフェルト侯爵軍。
ノルデン伯爵軍。
セルヴェント子爵軍。
さらに別の家。
また別の家。
一つの命令で動いているわけではない。
目的を失った家から、それぞれの都合で帰り始めただけだった。
天幕が消える。
旗が下ろされる。
荷馬車が列を作る。
3か月間、王都の外にいた兵たちが帰っていく。
「……勝ったのか?」
御前会議の誰かが、小さく言った。
3か月耐えた。
王都は落ちなかった。
諸侯軍が去る。
ならば王家が勝った。
そう思いたくなるのは自然だった。
「追撃を」
若い軍務官が言いかける。
軍務卿が即座に止めた。
「不要だ」
「ですが、敵軍です」
「帰っているだけだ」
「ここで打撃を与えれば」
「こちらから攻撃した瞬間、今度こそ本物の戦争になる」
若い軍務官は黙った。
ルーヴァンは窓の向こうを見た。
城壁のさらに先。
そこから消えていく諸侯軍。
「違います」
国王が息子を見る。
「何がだ」
「勝ったのではありません」
以前の自分なら、そんな言葉は口にしなかっただろう。
「向こうが諦めたから帰るのではない」
ルーヴァンはゆっくりと言った。
「こちらを倒す必要がなくなったから帰るのです」
国王の顔が固くなる。
「同じことではないか」
「違います」
軍務卿が小さく頷いた。
「王都が耐えたからではありません。こちらがレグランドへ兵を出せなくなった。だから、外にいる理由がなくなったのです」
国王は長く黙っていた。
諸侯軍は数日かけて王都周辺から消えた。
攻城戦はなかった。
城門への突撃もない。
王宮への降伏勧告もない。
賠償請求も、国王の退位要求もなかった。
ただ帰った。
最後の一隊が地平線の向こうへ消えた日。
西門の兵が隣へ聞いた。
「……終わったのか?」
「たぶん」
「誰が勝ったんだ?」
「知らん」
それが、一番正確だった。
レグランド領にも撤収の報告が次々と届いた。
「ヴェスター伯爵軍、帰還開始。ローデンフェルト侯爵軍も撤収。ノルデン伯爵軍も――」
エルダーラは報告書から顔を上げた。
「本当に帰っておりますの?」
「はい」
家令が答える。
「なぜ?」
「目的を達成したからだろ」
父が横から言った。
エルダーラが父を見る。
「お父様。今日は随分まともなことをおっしゃいますね」
「失礼だな」
ティナリアも隣で報告を聞いていた。
「うちのお父さんも帰ってくるって」
「やっとですか」
「お土産あるって」
「何をしに行ったのです?」
「知らない」
「あなたのお父様でしょう!」
ティナリアが肩をすくめる。
「でも、王都を攻めなくてよかったね」
エルダーラは少し黙った。
「はい」
「攻めると思ってた?」
「可能性としては考えておりました」
「何度も止めたしね」
「はい」
「でも最後は、みんな勝手に帰った」
エルダーラは報告書を見る。
自分は3万人を呼んでいない。
当然、解散を命じる権限もなかった。
来るな。
帰ってほしい。
3か月間ずっとそう言い続けた。
それでも彼らは残り。
必要がなくなったと、自分たちで判断して帰った。
「……本当に皆様、ご自分でお考えなのですね」
ティナリアが首を傾げた。
「そりゃそうでしょ」
「分かっております」
「でも3万人来たとき、すごく驚いてた」
「3万人には誰でも驚きます!」
諸侯が自領へ戻ると、別の意味で想定外のものが待っていた。
セルヴェント子爵が3か月ぶりに屋敷へ戻った日のことだった。
「帰ったぞ!」
大声で入ってきた当主を、家令がいつも通り迎える。
「お帰りなさいませ」
「領地はどうだ」
「大きな問題はございません。ただ、ご確認いただきたい帳簿がございます」
分厚い冊子が机へ置かれた。
子爵の顔が露骨に嫌そうになる。
「エルダーラに送れ」
「当家の帳簿です」
「ならティナリア」
「お嬢様はまだレグランド家です」
「まだ帰ってないのか」
「はい」
逃げ道がなくなった。
子爵は諦めて椅子へ座る。
「金は足りているのか?」
3か月間、200人の兵を王都周辺に置いた。
食料。
馬。
給金。
さらに王都から来た移住者も受け入れ、住居や工房、井戸まで整えた。
相当な金を使っている。
家令は帳簿を開いた。
「当初の想定より残っております」
「……何?」
「兵の維持と移住者の受け入れに使った分を差し引いても、例年の同じ時期より手元資金が多くございます」
「なぜだ」
家令が数字を示す。
「この3か月、法定の納付期限が到来した分はすべて納めております」
「うむ」
「そのうえで、例年行っていた早期納付と、王家から求められていた任意の臨時拠出を行っておりません」
「それも知っている」
「例年なら、この時期までに王都へ出ていた現金が領内に残っております」
「だが兵にも移住者にも使っただろう」
「使いました」
「それでも残る?」
「はい」
子爵はしばらく帳簿を見た。
家令がさらに別の数字を示す。
「加えて、王都からの移住者は現在183世帯。大半がすでに就業しております」
「そんなに来たのか」
「はい。農地、工房、商店、運送業へ分かれております。来年度以降は税収増も見込めます」
長い沈黙のあと。
子爵が言った。
「……思ったより、早く王都へ金を送っていたんだな」
「慣例として長く続いておりましたので」
子爵は椅子へ深く座った。
「必要なのは分かっているんだがな」
国防。
外交。
幹線街道。
王都の官庁。
王国全体でなければできない仕事はある。
それでも。
「全部、今まで通りである必要はあるのか?」
家令は答えなかった。
似たような確認は、各領でも起きていた。
アルヴェスト侯爵領では、新村の整備と移住者受け入れに大きな金を使った。
道路。
井戸。
住居。
警備。
それでも、働く者が増え、新しい集落ではすでに商店まで開き始めている。
ノルデン伯爵領では、王都から来た鍛冶職人たちの工房が稼働し、開墾の拡大に伴って農具の生産も増えた。
ローデンフェルト侯爵領では織工と染色工が増え、以前なら王都へ運んでから西へ売っていた布を、そのままアルヴェスト領へ運ぶ商人が現れた。
グライゼン侯爵領では、王都から移った教師や書記が働き始めた。
ヴェスター伯爵領では、帳簿を扱える人間が増え、商人同士の取引量が増えている。
3か月間。
各領の兵は王都の外で隣同士に暮らした。
正式な経済協定などない。
ただ、麦が余れば売る。
塩が足りなければ買う。
腕のいい鍛冶を紹介する。
使いやすい街道を教える。
商人同士が顔を覚える。
それを3か月続けた。
領主が帰っても、商人たちは道を忘れなかった。
地方から王都へ集め、王都で売り、また地方へ戻す。
それだけではなく。
地方から地方へ。
直接、物が動き始めていた。
当然、その報告もエルダーラの机へ届いた。
「……多いですわね」
第一声だった。
家令が頷く。
「はい」
「なぜ皆様、わたくしへお送りになるのです?」
「今後について、ご意見を聞きたいとのことです」
その「今後」が重い。
ティナリアは隣で焼き菓子を食べている。
「やっぱ人たらし」
「今それを言わないでください」
父は何枚かの報告書を読んだ。
「要するに、みんな思ったより困らなかったんだな」
「家によります」
エルダーラは訂正する。
「かなりの先行投資をした領もございます」
「でも人は増えた」
「はい」
「仕事も増えた」
「はい」
「王都へ早く送っていた金を、領内で使えた」
「そうですね」
「じゃあ、全部元へ戻したくはないだろ」
エルダーラは黙った。
そこが一番難しかった。
今回の混乱は非常時だった。
王家への納付を拒否したわけではない。
期限の来たものは納めている。
ただ、例年より早く送ることをやめた。
任意の臨時拠出にも応じなかった。
その結果、各領には以前より長く金が残った。
騒動が終わったなら、元へ戻す。
普通ならそうなる。
だが。
本当に、全部元へ戻す必要があるのか。
「王国全体で行わなければならない仕事はございます」
エルダーラは言った。
「国境防衛。外交。共通通貨。幹線街道。領地をまたぐ犯罪。大規模災害。それに領主同士の紛争処理」
ティナリアが頷く。
「じゃあ王家いるじゃん」
「その仕事は必要です」
「王家は?」
エルダーラが止まった。
仕事が必要であること。
その仕事を、すべて今までと同じ方法で王家だけが決めること。
それは別の話だった。
父が娘を見る。
「また難しいこと考えてるな」
「難しいことですから」
「お前の仕事だ」
「今は黙っていてくださいませ」
数日後。
ヴァルデック公爵家から正式な招待状が届いた。
議題は、混乱後の調整。
今後の早期納付と臨時拠出。
国防負担。
領間交易。
そして、王国全体に関わる案件を今後どう決めるか。
開催地は王都ではなく、ヴァルデック公爵領だった。
「王都で行えば、王家主催の会議になりますものね」
エルダーラが言った。
ティナリアが聞く。
「じゃあレグランドでやれば?」
「絶対に嫌です」
「なんで」
「わたくしの派閥会議だと言われます」
「もう言われてる」
「だからです!」
ヴァルデック公爵領は、王都からも各地方からも比較的入りやすい。
主要街道も複数通っている。
何よりオスヴァルト・ヴァルデック自身が、この3か月ずっと各家の間を調整しながら、一度も全軍の指揮官を名乗らなかった。
開催役として反対する者は少なかった。
招待状は、兵を出した42家だけに送られたわけではない。
出兵しなかった家にも届いた。
これからの王国全体に関わる話だからだ。
会議当日。
ヴァルデック公爵家の大広間には、多くの諸侯とその代表者が集まった。
壇上に立ったオスヴァルトが、最初に言った。
「ここに集まった者が、すべて同じ考えだとは思っていない」
ざわめきが静まる。
「私は場所を用意した。だが、私一人が結論を決めるつもりもない」
それだけ言って席へ戻る。
最初の議題は、金だった。
「以前と同じ早期納付へ戻す理由はない」
すぐに声が上がった。
「だが国防費は必要だ」
「なら国防費として必要額を算出すればいい」
「外交費は?」
「必要だ」
「王宮維持費はどこまで必要なんだ」
「国外向けの式典は要る」
「全部か?」
「近衛は」
「王都警備は」
「また一つの判断で討伐軍を組まれては困る」
議論はすぐに広がった。
エルダーラは黙って聞いていた。
全員が同じ意見ではない。
王家への負担を大きく減らしたい者。
王家そのものは維持したい者。
国防だけは中央へ強い権限を残したい者。
逆に、軍事こそ国王一人へ任せるべきではないという者。
ただ。
聞いているうちに、重なる部分も見えてきた。
隣でティナリアが小声で言う。
「みんな大体、同じこと言ってない?」
「どこがです?」
「王家に全部任せるのは嫌」
指を一本立てる。
「でも国としてやる仕事は必要」
2本目。
「あと、一人で勝手に決められるのも嫌」
3本目。
「じゃあ、みんなで決めれば?」
「……あなた」
「結果だけ正しい?」
先に言われた。
「覚えておりましたのね」
「そこだけ」
雑だ。
だが。
確かに、その3つは多くの意見に共通していた。
エルダーラは手を上げた。
少しずつ声が止まる。
ヴァルデック公爵が促した。
「レグランド侯爵」
「一つ、よろしいでしょうか」
「もちろん」
全員の視線が集まる。
3万人の一件以来。
エルダーラは、自分の言葉がどこまで広がるのかを以前より気にするようになっていた。
だから、少しだけ言葉を選ぶ。
「皆様のお話を伺っておりますと、王家そのものをなくしたいとお考えの方は、実はそれほど多くないように思います」
ざわめきが起きる。
ハインリヒ・アルヴェスト侯爵が答えた。
「好きではないがな」
カシアン・ローデンフェルト侯爵も続ける。
「今すぐ滅ぼしたいほどではない」
エーベルハルト・グライゼン侯爵は肩をすくめた。
「潰したあとの外交が面倒だ」
「王都の官庁も使える」
「貨幣まで作り直したいわけではない」
「国境軍を止める理由もない」
エルダーラは頷いた。
「でしたら、もう王家を放っておけばよろしいのでは?」
一瞬。
静かになった。
ヴァルデック公爵が眉を上げる。
「放っておく?」
「はい」
エルダーラは続けた。
「王家には、王家に必要な仕事をしていただけばよろしいでしょう。国外へ向けた国書、条約、王冠、儀礼、王領の統治。今あるものを、わざわざ壊して一から作り直す必要はございません」
アルヴェスト侯爵が聞く。
「国全体に関わる政治は?」
「それは、王家だけで決めなければならないのでしょうか」
空気が変わった。
ローデンフェルト侯爵が確認する。
「各領へ追加負担を求めること」
「はい」
「複数領へ軍役を命じること」
「はい」
「領境をまたぐ大規模事業」
「はい」
エルダーラは大広間を見回した。
「そうした、複数の領地へ負担や影響が及ぶものだけでも、先に各領の意見を持ち寄って決める形にしてみてはいかがでしょう」
ヴァルデック公爵が尋ねる。
「常設の会議を作るということか」
「いきなり恒久制度にする必要はございません」
「では?」
「半年」
エルダーラは答えた。
「まず半年間、暫定で運用してみませんか」
何人かが顔を見合わせる。
「王国の各領へ参加を呼びかけ、それぞれ1名ずつ代表を出していただく」
今度はグライゼン侯爵が聞いた。
「今回ここへ来なかった家も含めてか?」
「はい」
「兵を出さなかった家も?」
「当然です」
エルダーラは頷く。
「今回の3万人へ参加したかどうかを、今後の国政へ参加できる条件にはできませんもの」
何人かが頷いた。
「その代表者で、国全体に必要な負担、複数領に関わる事業、領間の問題などを協議する」
グライゼン侯爵が続ける。
「大領も小領も一票か?」
「最初は」
「人口差は?」
「問題になるでしょう」
「なら、最初から調整すべきではないか」
「ですが、人口比例だけにすれば、今度は人口の多い数領だけですべて決められる可能性がございます」
別の伯爵が頷く。
「確かにな」
エルダーラは続けた。
「どちらが正しいかは、今ここで断言できません。ですから半年使ってみて、何が問題になるか記録する。そのうえで直せばよろしいでしょう」
グライゼン侯爵が笑った。
「随分と雑な制度設計だ」
エルダーラも少し笑う。
「使う前から、すべての欠陥が分かる制度などございませんもの」
「なるほど」
「問題があるから始めない、では何も変わりません。今分かる危険だけ避けて、実際に不都合が出たら直す」
少しだけ間を置く。
「100年後にも一字一句同じ制度でしたら、その方が問題でしょう」
ヴァルデック公爵が椅子へ背を預けた。
「王家は、この会議へ入れるのか」
「もちろんです」
「もちろん?」
「王家にも王領がございますでしょう」
何人かが笑った。
「王家も一領として代表を?」
「排除する理由がございません」
「王であっても一代表か?」
「そこまでを今、わたくし一人で決めるつもりはございません」
エルダーラは即答した。
「王にどの権限を残すか。会議でどこまで決めるか。それこそ協議が必要でしょう」
ヴァルデック公爵が笑う。
「自分で提案しておいて、決めないのか」
「一人に決めさせないための話をしておりますのに、なぜわたくし一人が決めるのです?」
今度は大広間のあちこちから笑いが起きた。
カシアン・ローデンフェルト侯爵が手を上げる。
「国軍はどうする」
「それは、別に詰めませんか」
「逃げたな」
「逃げておりません。軍事だけで今日が終わります」
ティナリアが窓を見る。
「もう今日、終わりそうだけど」
エルダーラが睨む。
実際、日が傾いていた。
そこでグライゼン侯爵が、笑みを消した。
「一番大事なことが残っている」
「何でしょう」
「王家が認めなかったら?」
大広間が静かになる。
エルダーラは少し考えた。
「まず、お話しします」
「断られたら」
「そのとき考えます」
「またそれか」
「はい」
誰かが言いかけた。
「王家が軍を――」
そこまで言って、自分で止まった。
今の王家には。
少なくとも、諸侯全体を無視して好きに軍を動かせる状況ではない。
エルダーラは、そのことを口にはしなかった。
代わりに言った。
「倒す必要のない相手を倒すために、兵を使う必要がどこにございます?」
大広間が静まる。
相手を壊さなくても。
目的を達成できることはある。
「王家を滅ぼす必要も、ございませんでしょう?」
しばらく誰も答えなかった。
やがてヴァルデック公爵が、長く息を吐いた。
「では、案を作るか」
エルダーラが聞く。
「何のです?」
「今、お前が話した暫定協議会だ」
「わたくしがですか?」
「一人で決めろとは言っていない」
ヴァルデック公爵は大広間を見回した。
「各領へ参加を呼びかける。半年間。何を協議対象にするのか。王家とどう話すのか。それを文書にする」
何人かが頷く。
「まず、たたき台が必要だな」
アルヴェスト侯爵が言った。
ローデンフェルト侯爵も頷いた。
グライゼン侯爵が、ゆっくりエルダーラを見る。
一人。
また一人。
視線が集まる。
嫌な予感がした。
非常に。
嫌な予感がした。
「……なぜ、わたくしをご覧になるのです?」
ティナリアが隣で笑い始める。
「ほら」
「何がです」
「また偉い人になるやつ」
「なりません!」
声が大広間へ響いた。
今度は、はっきり笑いが起きた。
エルダーラが出したのは、王家を倒す案ではなかった。
必要なものは残す。
一か所へ集める必要のないものは分ける。
問題が出たら直す。
その方が、失うものが少ない。
ただ、それだけだった。
それでも大広間ではもう。
各家の文官たちが、半年間の暫定協議について紙を広げ始めていた。




