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王太子との模擬戦に損害ゼロで勝ったら婚約を解消されました――領地に帰っただけなのに、なぜ王都が包囲されているのですか?  作者: 月白ふゆ


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8/11

第8話 王都から出る者は、保護いたします

王都から出ていくのは、貧しい者や大商人だけではなかった。


ある日、一人の鍛冶屋も店を畳むことを決めた。


「本当に出るの?」


妻が聞いた。


男は店の奥に積まれた道具を見た。


金床、槌、やっとこ、砥石、そして炉。


炉は持っていけないし、金床も重すぎる。


運べるのは小さな道具と衣服、それにわずかな金くらいだった。


「出る」


男は答えた。


妻は店の外へ目を向ける。


王都は二人が生まれ育った場所で、2人の子供もここで生まれた。


「どこへ行くの?」

「まだ分からん」

「分からないのに?」


それが不安で、男も3日迷った。


仕事がないわけではない。


壊れた鍋、切れなくなった包丁、農具、靴の金具。


直してほしい物はいくらでもある。


だが、鉄が入ってこない。


炭も高くなった。


王都の外に3万人が集まり、商人たちはその手前で商品を売るようになった。


鉄材を積んだ商隊も減り、このひと月で材料費は大きく上がっている。


「仕事はあるんだ」


男は壁に掛けた蹄鉄を見る。


「材料がない」


妻は黙った。


「昨日、鉄棒一本がいくらだったと思う?」

「知らない」

「前の倍近い」

「そんなに?」

「直してくれと言われても、材料代を聞いたところで客が帰る」


それでも、王都を出た先に仕事がある保証はない。


だから決められなかった。


だが昨日、妙な話を聞いた。


王都から出る者を外の諸侯軍が保護し、仕事を探している者には受け入れ先まで探しているという。


最初は信じなかった。


王都の外にいるのは、王宮が警戒している3万人の諸侯軍だ。


そこへ家族を連れて出るのは怖くて当然だった。


ところが今朝、同じ通りの染物屋が家族ごと王都を出た。


「北へ行くって言ってたね」


妻が言う。


「ああ」

「本当に仕事あるのかな」

「分からん」


店の奥から2人の子供がこちらを見ている。


上が9歳、下が6歳。


男はようやく決めた。


「だから、確かめに行く」

「今日?」

「今日だ」


妻はしばらく夫を見て、それから長く息を吐いた。


「……分かった」


昼。


王都の西門を、荷車1台と家族4人が通った。


門兵が書類を確認する。


「王都を出るのか」

「はい」

「戻る予定は?」


男は少し迷った。


「……分かりません」


門兵は男と妻、子供たち、それから荷物を順番に見たが、それ以上は何も聞かなかった。


「そうか」


最近、こういう者が増えている。


商人。


職人。


仕事を探す若者。


親戚を頼る老人。


家族ごと移る者もいる。


理由は物価だったり、仕事だったり、不安だったりした。


あるいは単純に、外の方が食べ物も仕事もあるらしいと聞いただけの者もいる。


多い日には100人以上が門を出た。


「父ちゃん」


上の子が聞いた。


「外に敵いるの?」


男は答えに詰まった。


近くにいた門兵が代わりに答える。


「いるぞ」


子供がびくりとする。


門兵は少し笑った。


「でも、たぶんお前には何もしない」


男が門兵を見る。


「たぶん?」

「俺も外へ行ったことないからな」


それが今の王都だった。


城門は開いているし、民は自由に出られる。


ただし王都から軍を出そうとすれば、その先には3万人がいる。


誰も、この状態を何と呼べばいいのか分かっていなかった。


その3万人にも、全軍を指揮する者はいなかった。


42家が、それぞれ自分の判断で兵を出している。


ただし、無秩序というわけでもない。


オスヴァルト・ヴァルデック公爵。


エーベルハルト・グライゼン侯爵。


ハインリヒ・アルヴェスト侯爵。


カシアン・ローデンフェルト侯爵。


レグランド家を除く侯爵以上の4家は、いずれも当主本人が陣にいた。


水場。


街道。


商人の通行。


陣同士の距離。


病人への対応。


複数の家にまたがる問題が起これば、自然とこの4家のところへ話が集まる。


4人が相談し、各家へ案を回す。


従うかどうかは、それぞれの家が決める。


伯爵家以下の軍も、当主本人か、次期当主、当主の兄弟や叔父など、家を代表して判断できる血縁者が率いていた。


食料を買う。


陣を移す。


人を雇う。


撤収する。


自領へ人を受け入れる。


その程度のことなら、その場で決められる。


一人の司令官はいない。


だが、判断する者がいない軍もなかった。


荷車が城壁から離れ、街道をしばらく進むと、遠くに旗と天幕が見えてきた。


男は無意識に手綱を強く握る。


妻も子供たちを自分の側へ寄せた。


やがて兵が2人、こちらへ歩いてくる。


「王都からか?」


男が頷く。


「はい」

「商人?」

「鍛冶です」


兵の顔が変わった。


「鍛冶?」

「はい」

「ちょっと待ってろ」


一人が走っていった。


男と妻は顔を見合わせる。


逃げるべきかと考えているうちに、今度は帳面を抱えた文官らしい男がやってきた。


「鍛冶職人と聞いたが」

「はい」

「蹄鉄は?」

「できます」

「農具」

「できます」

「刃物」

「できます」

「鎧は?」

「修理なら」

「剣は?」

「作れます。ただ、炉がないので今すぐは」


文官は頷きながら帳面をめくった。


「家族は?」

「妻と子供が2人です」

「4人か。ノルデン伯爵領が鍛冶職人を12人探している」


男は目を瞬いた。


「……12人も?」

「農地を広げるらしい。農具も要るし、馬も増えている」


文官は後ろへ声をかけた。


「ノルデン伯爵の陣へ伝令! 鍛冶職人1名、家族4人!」


別の男が近づいてくる。


「受け入れ条件は?」

「住居あり。工房あり。半年間は工房使用料免除。最初の1か月は材料費を領が立て替える」

「そこまで決まっているのか?」

「鍛冶職人については、その条件まで現地で受け入れてよいとノルデン伯爵から通達が出ている」


男は話についていけなかった。


妻が遠慮がちに口を開く。


「あの……私たち、まだそこへ行くとは」

「決めてない?」

「はい」

「なら、決めるまでここにいていい。3日までは食事も出る。それ以上になるなら、そのとき相談だ」


男は思わず聞いた。


「なぜ、そこまでしてくださるんです?」


文官は逆に困った顔をした。


「なぜって、王都から家族連れで出てきた人間を、そのまま街道へ放り出しておくわけにもいかないだろう」

「ですが、あなた方は……」

「敵?」


男は黙った。


文官が笑う。


「王都とは戦ってないよ」

「でも、王家とは」

「レグランド領へ討伐軍を出させたくないだけだ」

「同じでは?」

「全然違う」


男には、まだその違いがよく分からなかった。


だがその日の夕方、家族4人で温かい麦粥を食べた。


翌朝。


ノルデン伯爵の陣から、正式な受け入れ書が届いた。


鍛冶職人、受け入れ可。


住居あり。


工房あり。


半年間、工房使用料免除。


最初の1か月は材料費を領が立て替える。


条件は、領内農具の修理を優先すること。


昨日聞いた内容と変わらない。


最後にはノルデン伯爵本人の署名まで入っていた。


男は紙を何度も読み返した。


妻が聞く。


「どうする?」

「行く」


今度は迷わなかった。


その家族は、最初の一組ではなかった。


20組目でも、100組目でもない。


すでに王都から人は出始めていた。


そして3万人の陣の外側には、いつの間にか人を受け入れる仕組みまでできていた。


最初は各家が、自領へ来たい者をそれぞれ勝手に引き受けていただけだった。


農民。


職人。


商人。


ところが人数が増えるにつれ、家同士で情報を交換するようになった。


「うちは鍛冶が足りている」

「こちらは不足している」

「織工なら欲しい」

「教師を探している」

「読み書きできる者はいないか」

「帳簿係なら雇える」


ならば、一つにまとめた方が早い。


最初に一覧を作ったのは、ヴェスター伯爵家の文官とノルデン伯爵家の家令だった。


それを見た他家が、


「うちの分も載せてくれ」


と言い始めた。


人数が増えると、ヴァルデック公爵の陣で書式だけ統一された。


各家が、


「自領では、ここまでなら受け入れられる」


という条件を持ち寄っただけだった。


帳面には、こう並ぶ。


ノルデン伯爵領。


鍛冶12名。


農家30世帯。


木工6名。


ローデンフェルト侯爵領。


織工20名。


染色工8名。


アルヴェスト侯爵領。


新規開墾地への農家50世帯。


道路整備と新村建設に伴う木工、石工。


グライゼン侯爵領。


学校増設のための教師。


領政補助のため、読み書きと計算のできる者12名。


ヴェスター伯爵領。


商業拡大に伴う帳簿係6名。


他にも十数家。


受け入れ人数。


必要技能。


家族帯同の可否。


住居。


初期支援。


現地の代表者が、どこまで自分で決めてよいか。


そこまで書かれるようになった。


王都から出てきた者へ、その帳面を見せる。


「何ができますか?」

「何をしたいですか?」

「ご家族は?」

「どちらの方面を希望しますか?」


条件が合えば、その家の陣へ伝令を出す。


決められた範囲なら、その場で受け入れる。


範囲を超えるなら本領へ確認する。


誰も国全体の人口政策など考えていなかった。


目の前には仕事を失った人がいて、その先には人手の足りない領地がある。


なら、つなぐ。


始まりはそれだけだった。


その報告を読んだエルダーラは、しばらく黙った。


「……なんでこうなったんですの?」


家令が答える。


「王都から出てきた方への対応を各家で続けるうち、自然に」

「その『自然に』が最近怖いのですけれど」

「最初は各家が個別に受け入れていたようです。それでは重複が多いため、希望職種をまとめるようになったと」

「誰が始めたのです?」

「ヴェスター伯爵家の文官と、ノルデン伯爵家の家令です。その後、ヴァルデック公爵家が帳面の書式を統一されたようです」


エルダーラは念のため確認した。


「わたくしではございませんね」

「ございません」


少しだけ安心する。


横からティナリアが言った。


「最近それ絶対確認するよね」

「確認します」

「自分が知らないうちに3万人できたから?」

「黙ってください」


父は報告書の別の部分を読んでいた。


「公爵が仕切ってるのか?」

「そこまでではないようです」


家令が答える。


「各家への命令権はございません。ただ、複数家に関わる問題は、ヴァルデック公爵、グライゼン侯爵、アルヴェスト侯爵、ローデンフェルト侯爵の4名が相談し、各陣へ案を回していると」

「みんな従う?」


ティナリアが聞く。


「納得すれば」

「納得しなかったら?」

「従いません」

「緩いね」


エルダーラは報告書へ目を落とした。


42家は、それぞれ勝手に動いている。


けれど、必要なところでは話し合い、折り合いをつけていた。


「……こういうまとまり方も、あるのですね」


父が聞く。


「軍としてか?」

「軍としては、かなり変です」

「だろうな」


エルダーラも否定しなかった。


父は別のページへ目を落とした。


「人を引き取って大丈夫なのか」

「何がです?」

「飯も家も仕事場も要るだろう。金がかかるぞ」

「最初はかかります」

「なら、なぜ受ける」


エルダーラは少し考えた。


「人が足りないからでしょう」

「王都には余っているのか?」

「余っているというより、王都では仕事が成立しにくくなっています」


材料が入らない。


材料費が高い。


客が減る。


だから職人が出ていく。


一方、地方では人が増える。


人が増えれば家が必要になる。


農具が要る。


工房が要る。


服も靴も家具も食料も要る。


つまり、新しい需要が生まれる。


「人が増えると、その人たちを支える仕事も増えます」


父が頷く。


「飯も増える」

「なら農地を広げる」

「農具が要る」

「鍛冶が要る」

「家が要る」

「木工が要る」

「服が要る」

「織工が要ります」


ティナリアが手を上げた。


「酒も要る」

「必要ではありますが、今はそこを論じておりません」


父まで真面目な顔で言う。


「兵も飲む」

「お父様まで」


家令が笑った。


エルダーラは数字へ目を戻した。


「問題は最初の数か月です。住居、食事、工房、道具、開墾、井戸、道路。どうしても先行投資が必要になります」

「各家の財政状況は、今のところ比較的余裕があるようです」


家令が答えた。


「なぜです?」

「例年より早い上納を見合わせ、定められた納期限まで現金を手元に置いている家が多いためです」


エルダーラは一瞬止まった。


「あ」


ティナリアが笑う。


「今、忘れてた顔した」

「忘れていたわけではございません」

「絶対今思い出した」

「黙ってください」


本来なら、もっと早く王都へ送っていた金が各領に残っている。


もちろん、納期限が来れば納める必要がある。


だが、それまでの間。


各家には例年の同じ時期より、多くの現金が手元にある。


その一部が兵の維持だけでなく、移住者の住居や工房の整備へ回り始めていた。


エルダーラは地図を見る。


「……思っていたより、長く続くかもしれません」


父が聞く。


「3万人が?」

「いいえ。王都の外ででき始めた、この流れの方です」


そのころ王都では、別の数字が変わっていた。


人口である。


正確な人数はまだ誰にも分からない。


住民台帳や転居届が即日反映されるわけではないからだ。


それでも、確実に人は減っていた。


夕方の市場の人通りが少なくなり、借家の空室が増え、閉まった店も目立ち始める。


一方で奇妙な変化もあった。


物価の上昇が少し鈍った。


「麦、今日は昨日と同じだな」


市場で男が言った。


店主が答える。


「上がると思った?」

「先週まで毎日上がってたから」

「買う人も減ってる」


男が少し考える。


「……王都を出たから?」

「だろうね」


入ってくる物は減っている。


だが、食べる人も減り始めた。


王都はまだ飢えていない。


倉庫には穀物があり、今日食べる物もある。


明日も、おそらくある。


肉や卵、乳製品は高い。


薪も高い。


以前より少し不便で、少し高くて、少し人が少ない。


王都は崩壊せず、その「少し」だけが毎日積み重なっていった。


「パン屋の娘さん、ローデンフェルト領へ行ったって」

「親戚でもいるのか?」

「違う。向こうで店を出すらしい」

「床屋も出たぞ」

「あれはグライゼン領だろ」


そんな話が、毎日一つ二つ増えていく。


そして王宮にとって、より厄介な場所でも同じことが起きた。


近衛詰所。


夜。


一人の若い騎士が、上官の机へ王家の紋章が入った徽章を置いた。


「何だ」

「辞職願です」

「……は?」


男は26歳。


8年間、王家に仕えてきた。


上官が紙を取る。


「理由は」

「書いてあります」

「読む前に、お前の口から聞いている」


若い騎士は少し目を伏せた。


「父が、アルヴェスト侯爵軍におります」


上官が黙る。


「弟もです」

「お前は近衛だ」

「はい」

「父親は父親。任務は任務だ」

「分かっています」

「なら」

「ですが、討伐軍が出れば、私は父と弟へ剣を向けることになります」


上官の眉が寄る。


「まだ出兵命令はない」

「はい」

「なら今辞める必要もない」

「出てからでは遅いのです。命令が出てから辞めれば、職務放棄になります」


正しい。


今なら、正式な手続きを踏んで辞められる。


「家へ戻るのか」

「はい」

「アルヴェスト侯爵領へ?」

「父から、領騎士団に席を用意できると」


上官が目を細めた。


「最初から誘われていたのか」

「いいえ」

「なら、なぜ今になって席がある」


騎士は少し困った顔をした。


「人が増えているそうです。王都から出た者がアルヴェスト領にもかなり入っていて、新しい村の警備や治安維持に人手が必要だと」


上官は何も言えなかった。


若い騎士が深く頭を下げる。


「8年間、お世話になりました」

「待て」


男が止まる。


上官は何を言うべきか考えた。


王への忠誠はどうした。


近衛の誇りは。


家族より任務を選べ。


言おうと思えば言える。


だが、もし自分の父や兄弟が城外にいて、その相手へ剣を向けろと命じられたら。


「……受理は上へ回す」


結局、それだけだった。


「ありがとうございます」


男が退室したあと、上官は机に残された徽章を長いあいだ見ていた。


翌日3人。


その次は5人。


1週間で19人。


理由は全員同じではなかった。


父や兄弟が外の諸侯軍にいる者。


家族が王都を出た者。


故郷から戻れと言われた者。


王都の物価が上がり、今の給金では家族を養いにくくなった者。


別の領なら同程度の俸給で住居までつくため、そちらを選ぶ者。


王家へ反乱した者は一人もいない。


武器も制服も徽章も返す。


正規の手続きを踏んで辞める。


その積み重ねが、王家を困らせた。


「19人。1週間で?」


ルーヴァンが報告書を見る。


近衛長が頷く。


「はい」

「同じ部隊からか」

「複数です」

「辞めたあと、外の諸侯軍へ入った者は?」

「少なくとも8名は、故郷の領軍へ入ったことを確認しております」

「つまり加わったのだろう!」


声が大きくなった。


部屋が静まる。


ルーヴァンは机へ手を置いたが、叩かなかった。


前回、物資の話を聞いたときは机を叩いた。


誰も命じていない。


皆が自分で考えて動いている。


その言葉を思い出す。


「……いや」


自分で言い直した。


「全員について、なぜ辞めたのかを調べろ」


近衛長が少し驚いた。


「誰に誘われたか、ではなく?」


ルーヴァンは一瞬黙った。


また、自分は命令した者を探そうとしていた。


「そうだ。父親が外にいる。家族が王都を出た。生活費が上がった。故郷に仕事がある。理由を分けて調べろ」

「処罰については?」

「正規に辞職した者は処罰できない。王家の情報を持ち出した者や、辞職前に命令違反をした者がいないかだけ確認する」


国王が頷いた。


ルーヴァン自身、少し不思議だった。


以前なら、まずどう止めるかを考えただろう。


今は、なぜその行動を選んだのかを先に知りたいと思っている。


「近衛長」

「はい」

「残っている者の勤務状況は?」

「超過勤務は増えております」

「休みは?」

「一部削っております」

「それでは、また辞めるのではないか」


近衛長は答えなかった。


一人辞めれば、残った者の仕事が増える。


疲れた者がまた辞めれば、さらに負担が増える。


分かりやすい悪循環だった。


「勤務を組み直せ」

「しかし、人員が」

「守る場所を減らす」


国王が顔を上げる。


「王宮警備を減らすのか?」

「必要な場所まで減らすとは言っておりません。門と王族周辺を優先し、儀礼配置や式典警備を縮小してください」


近衛長が頷く。


「それなら可能です」

「では、そうしろ」


言ってから、ルーヴァンは少し止まった。


何かに似ている。


何があっても守るもの。


捨ててもよいもの。


状況によって変えるもの。


エルダーラが合同訓練で騎士たちへ教えた内容だった。


ルーヴァンは何も言わず、わずかに苦い顔をした。


王都から出る者は、その後も続いた。


最初は職人。


次に商人。


そして家族。


一方、王都の外にできた市場は大きくなっていく。


3万人の兵を支える商人や職人。


王都から出てきた者の仮住まい。


伝令所。


受け入れ窓口。


簡易診療所。


馬の交換所。


食堂。


宿。


やがて天幕だけだった場所に、木造の小屋まで建ち始めた。


市場をどこまで広げるか。


軍陣と民間区域をどこで分けるか。


消火用水をどこへ置くか。


病人をどこで受け入れるか。


そうした複数家に関わる問題だけは、ヴァルデック公爵と3侯爵が相談し、各陣へ回した。


各家が好きな場所へ勝手に小屋を建てれば、さすがに危険だったからだ。


共通部分だけ決める。


その内側では、それぞれが自分で決める。


結果。


ますます、それらしくなった。


「……町じゃん」


ティナリアが報告書を見て言った。


「町ではございません」

「家あるよ」

「仮設です」

「店ある」

「臨時市場です」

「診療所」

「必要です」

「宿屋」

「商人が勝手に」

「床屋」


エルダーラは黙った。


「酒場」

「なぜですの?」


ティナリアが笑う。


「町じゃん」


認めたくはない。


だが兵を除いても、常時数千人が滞在するようになっている。


日中の出入りまで含めれば、さらに多い。


「王都の外に、もう一つ生活圏ができ始めておりますね」


家令が頷く。


「はい」


父が聞いた。


「王都より便利なんじゃないか?」

「そこまではございません」

「物はある」

「あります」

「仕事もある」

「増えております」

「金は取られるのか?」


家令が答える。


「各陣が管理する区画については、場所代や衛生管理費など最低限の負担のみです」


父が頷く。


「なら安い」

「……そうですね」


王都には城壁がある。


宮殿も官庁も大商会も劇場も学校も寺院もある。


何百年もかけて積み上げてきた都市機能で、外の仮設地がそれに勝るわけではない。


ただ、今すぐ生活するために必要なもの。


食べ物。


仕事。


住む場所。


道具。


そこだけを見れば、外の方が見つけやすくなり始めていた。


「困りましたね」


エルダーラが言う。


「何が?」

「皆様、帰る気がなくなってきております」

「3万人が?」

「兵もですが、民の方です」


王都人口は減り、各領人口は増えている。


まだ国そのものを変える規模ではない。


だが一度人が動けば、次の人も動きやすくなる。


先に移った親戚や知人、同業者から手紙が届く。


仕事がある。


家賃が安い。


農地を貸してもらえる。


子供を学校へ入れられる。


それを読んだ者が、また移る。


エルダーラは、その流れを止める理由を考えた。


見つからなかった。


「王家は民の退出を制限しておりませんね」


家令が答える。


「現状は」

「でしたら、こちらが止める理由もございません」


父が聞く。


「受け入れる方は?」

「各家が受け入れると判断しているなら任せます。ただし、移住者の家族構成と技能は記録してください。土地を与える場合は所有権や利用期限を明確にし、数か月後に突然追い出されるような契約は避けること」


家令が筆を走らせる。


「子供の登録、病人、身寄りのない者、孤児が出た場合の扱いも決めておいてください」

「承知しました」


ティナリアが横から言う。


「また指揮してる」

「調整です」

「でも、みんな守るよ」


エルダーラが見る。


「なぜ断言するのです?」


ティナリアは焼き菓子を取った。


「エルダーラが言うから」


その言葉に、エルダーラは少し黙った。


3万人の一件以来、自分の言葉が本人の想定以上に重く受け取られることを、ようやく意識するようになっている。


「……だから、それが困るのです」

「何が?」

「何でもございません」

「変なの」


2か月目の終わり。


近衛の辞職者はさらに増えた。


ただし、一気ではない。


5人。


3人。


7人。


1人。


少しずつだった。


だから王宮も王都も、目に見えて一日で崩れるわけではない。


門は開く。


国王は執務をする。


官僚も働く。


必要な式典も行われる。


王都はまだ王都だった。


ただし人数は足りない。


警備箇所が減り、夜間巡回の間隔が延び、式典は縮小され、余った衛兵は王都警備へ回される。


ルーヴァンは近衛長から新しい報告を受けた。


「今月の退職希望は12名です」

「理由は?」


近衛長はすぐ答えた。


「家族事情5。故郷からの帰還要請3。物価上昇2。勤務負担1。その他1」

「外の諸侯軍へ参加するため、と明言した者は?」

「おりません」

「残っている者の休日は?」

「先月より戻しております」

「辞職は減ったか」

「少し」

「なら続けろ」


近衛長が一礼して下がろうとする。


「待て」

「はい」


ルーヴァンは少し迷ってから尋ねた。


「お前は辞めないのか」


近衛長が驚いた顔をした。


「……現時点では」

「理由は?」

「私の家族は王都におります。それに、私は王を守る近衛です」


当然の答えだった。


ルーヴァンも頷く。


だが近衛長は続けた。


「ただ、一人の部下が辞める前に言いました」

「何を?」

「我らは王を守るために剣を取った、と」


ルーヴァンは黙る。


「ですが、王家を守るために国の者へ剣を向けることになったとき、我らは何を守っているのでしょう、と」


部屋が静まった。


王家を守ること。


国を守ること。


今までは同じ方向を向いていると思っていた。


だが、もし違う方向を向いたら。


「……その者は?」

「辞めました」

「今は?」

「故郷の伯爵領で、領騎士団へ入っております」

「そうか」


近衛長が頭を下げ、退室した。


ルーヴァンは一人になった。


窓の向こうには王都の城壁がある。


そのさらに外に3万人。


もっと遠くにはレグランド領。


エルダーラは、おそらく普通に領地を治めている。


人に相談されれば答え、必要なら詳しい者を紹介する。


それだけだ。


机の上には報告書がある。


王都人口、減少。


市場取引、減少。


王家へ早期に入る資金、減少。


近衛、減少。


別々の数字。


だが、人はどこかへ消えたわけではない。


王都を出て、仕事や技術、家族や金を持ったまま、別の領地で暮らし始めている。


ならば、移った先では増えている。


ノルデン伯爵領では鍛冶職人が増えた。


アルヴェスト侯爵領では、新しい村ができ始めた。


ローデンフェルト侯爵領では、織物や染色の職人が増えた。


グライゼン侯爵領では、王都から来た教師や書記が働き始めている。


ヴェスター伯爵領でも、商業を支える人間が増えている。


王都の外では市場が育っている。


ヴァルデック公爵が命じたわけではない。


3侯爵が王都から人を奪おうと相談したわけでもない。


各家が、自分の領地に必要な人間を受け入れた。


複数家にまたがる問題だけ、話し合って調整した。


それだけだった。


ルーヴァンは初めて、地図を王都からではなく外側から眺めた。


「……王都が減っているだけではないのか」


誰もいない部屋で呟く。


「外が、増えている」


そのころノルデン伯爵領では、新しい工房の炉に火が入っていた。


王都から出た鍛冶職人が、赤く熱した鉄へ槌を振るう。


カン、カン、と一定の音が響く。


作っているのは剣ではない。


農具だ。


横では9歳の息子が父の手元を見ていた。


「父ちゃん」

「何だ」

「ここに住むの?」


男は槌を止めた。


工房。


家。


妻。


小さな庭。


昨日は近所の子供が息子を遊びに誘っていた。


「……そうだな」

「王都には戻らない?」


王都は嫌いではない。


生まれた町だ。


むしろ好きだった。


だが今は、ここに仕事がある。


「用事があれば行くさ」

「じゃあ家は?」


男は笑った。


「こっちだ」


再び槌を振るう。


王都から見れば、鍛冶職人が一人減った。


ノルデン伯爵領から見れば、鍛冶職人が一人増えた。


国全体で見れば、誰も消えていない。


ただ、人が自分で居場所を選び直しただけだった。


そして王家にとっては、その「選び直せる」という事実こそが、何より大きな変化になり始めていた。

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― 新着の感想 ―
王太子の失態とかエルダーラが優秀だとかそれ以前に、議会制民主主義のはしりが起きてる。 これはそもそも上記ふたりが変なことにならなくても近いうちにこうなった気がするな。 もともと私は当事者のふたりでなく…
あー(・o・)そーだ! 【立憲君主制】に しよう! 国王ゎ国家の象徴(元首)として残し、政治的実権ゎ持たず「君臨すれども統治せず」で行こう! 今の王家ゎ国家として機能してナイ! 今!他国に狙われたら…
優秀な婚約者と仲良くやって、なんなら軍政は彼女に任せて、良い国にしていけば幸せに暮らせただろうに…。 まあ…、それではお話にも何もなりませんね、、、、( ´∀` )
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