第7話 三万人おりますので、全部買います
3万人が集まった。
その報告を受けたとき、エルダーラ・レグランドが最初に考えたのは、敵味方の戦力差ではなかった。
「食料は?」
伝令が聞き返した。
「……はい?」
「3万人分の食料です。各家は何日分を持参しております?」
エルダーラは机の上へ王都周辺の地図を広げた。
42家。
兵、およそ3万2000。
それぞれ別の領から来て、北、西、南の街道沿いに陣を置いている。
「現在確認中です」
「水源は?」
「西側には河川があります。南側には井戸のある村が複数」
「3万人と馬を継続して賄える量ですか?」
「そこまでは」
「確認してください。馬の飼料、薪、それから排泄場所も」
伝令が一瞬止まった。
「……排泄、ですか?」
「3万人おります」
「はい」
「1日に何人が用を足すと思います?」
伝令は真面目に考えた。
「3万人……でしょうか」
「そういうことです」
妙に納得した顔をする。
「水源を汚せば病気になります。王都を攻めてもいないのに、腹を壊して倒れるなど馬鹿馬鹿しいでしょう?」
「仰る通りです」
横で聞いていた父、グランツ・レグランドが言った。
「戦う前から便所の話か」
エルダーラが見る。
「戦わないために集まっているのでしょう?」
「そうだな」
「でしたら、なおさら衛生管理が必要です」
「俺なら先に柵を作る」
「だからお父様は騎士団長なのです」
「褒められたか?」
「役割分担を確認しただけです」
父はそれで満足したように頷いた。
昼前。
家令が各家からの回答をまとめて持ってきた。
「概ね10日から20日分の兵糧を持参しております」
「随分ばらつきがありますね」
「王都までの距離が違いますので」
「その後の補給は?」
「各家が、それぞれ自領から継続輸送する予定とのことです」
エルダーラは地図を見る。
42家。
それぞれ別の領地。
それぞれ別の街道。
中央の補給庫もなければ、全体を管理する兵站責任者もいない。
一つの軍として見れば、まとまりがない。
だが。
「……補給だけなら、意外と強いですね」
家令が首を傾げた。
「強い、とは?」
「3万人分を一か所へ集めれば、その補給線が止まった瞬間に全員が困ります」
エルダーラは地図の各方向を指す。
「ですが今回は42家が、それぞれ自分の兵だけを養っている。一家の補給が遅れても、困るのは基本的にその家だけです」
「なるほど」
「しかも補給路も複数あります。中央がないことが、逆に一か所の失敗で全体が止まらない理由になっております」
父が聞いた。
「つまり?」
「まとまりがないことが、兵站では利点になっています」
「変な軍だな」
「軍ではないと、皆様おっしゃっております」
父は窓の外を見るような顔をした。
「3万人集まって?」
「……そこについては、わたくしも少々疑問がございます」
それでもエルダーラは、王都周辺の各家へ再び書状を送った。
最初にはっきり、
『各領へ帰還してください』
と書く。
そのうえで。
どうしても帰らないのであれば、周辺住民から食料を奪わないこと。
井戸を占有しないこと。
農地を踏み荒らさないこと。
薪を無断で伐採しないこと。
水源へ汚物を流さないこと。
病人が出た場合は隔離すること。
「……完全に軍令じゃん」
ティナリアが横から書面を覗き込んだ。
「違います」
「何が?」
「お願いです」
「最後に『厳守願います』って書いてある」
「強めのお願いです」
「軍令じゃん」
「では、どうすればよろしいのです?」
「知らない」
「なら黙ってください」
ティナリアは机に置かれていた焼き菓子を取った。
「これ食べていい?」
「もう食べておりますでしょう!」
すでに口の中だった。
「おいしい」
「あなたは本当に……」
エルダーラが額を押さえる。
ティナリアは菓子を食べながら地図を見た。
「でもさ。この人たち、ずっと自分の領地からご飯運ぶの?」
「基本的にはその予定です」
「遠いところ、大変じゃない?」
「当然でしょうね」
「じゃあ、近くで買えばいいじゃん」
エルダーラの手が止まった。
ティナリアはもう一つ菓子を取る。
「3万人いるんでしょ?」
「おります」
「その辺の商人、ものすごく儲かりそう」
エルダーラは友人を見る。
本人は、自分が何を言ったのか大して考えていない顔だった。
「……ティナリア」
「なに?」
「たまに、非常に正しいことをおっしゃいますね」
「たまに、が余計」
実際にそれが起きたのは、3日後だった。
王都西方の街道を、12台の荷馬車が進んでいた。
麦。
干し豆。
塩漬け肉。
玉葱。
いずれも王都の市場で売る予定の商品だ。
先頭の商人が道の先を見て、手綱を引いた。
「……なんだ、ありゃ」
平原に天幕が並んでいる。
旗。
馬。
人。
王都の城壁まではまだ遠い。
街道も塞がれていない。
攻城塔もない。
梯子も投石器も見当たらない。
代わりに鍋から湯気が上がり、兵が洗濯物を干している。
蹄鉄を直している者。
排水溝を掘っている者。
離れた場所には、妙に整然と便所用らしい穴まで掘られていた。
御者が聞く。
「……戦なんですかね?」
商人には答えられなかった。
そのまま進む。
やがて街道脇から、ヴェスター伯爵家の紋章を胸につけた騎士が一人出てきた。
「すまない、少し止まってくれ!」
商人の身体が強張る。
略奪。
真っ先にそれを考えた。
だが騎士は剣を抜いていない。
後方の兵もこちらへ寄ってこない。
「何でしょう」
「何を積んでいる?」
やはり来た。
商人は慎重に答える。
「王都で売る予定の商品です」
「中身は?」
「麦と豆、それから塩漬け肉など」
騎士の表情が明るくなった。
「売ってくれ」
商人が瞬いた。
「……はい?」
「買いたい」
「ここで?」
「ここで」
「王都へ持っていく荷なのですが」
「市場との売買契約は済んでいるのか?」
「いえ。持ち込んでから売ります」
「なら問題ないな」
騎士は財布を取り出した。
「麦はいくらの予定だ?」
「一袋、銀貨120ほどで」
「135」
商人が騎士を見る。
「銀貨135?」
「全部買う」
「全部?」
「何袋ある?」
「荷車12台分ですよ」
「うちだけで余るなら、隣へ回す」
騎士が後ろを向いた。
「おい! 麦いるか!」
少し離れたノルデン伯爵家の陣から声が返る。
「いる!」
「干し肉は!」
「いる!」
「豆!」
「それも!」
商人は口を開けたまま、しばらく動かなかった。
王都までは、まだ半日ある。
城門を通り。
荷を確認され。
市場へ入る。
売り場を確保し。
買い手を待つ。
売れ残れば倉庫も必要になる。
目の前では、相場より高い値で。
荷を全部。
今すぐ。
現金で買うと言っている。
「……現金ですよね?」
「もちろん」
「麦は135」
「ああ」
「豆は?」
交渉が始まった。
しばらくして。
12台の荷馬車は空になった。
商人は王都へ行かなかった。
売る物がなくなったからだ。
そのまま来た道を戻る。
途中で、同業の商隊とすれ違った。
「もう帰るのか? 王都はどうだった?」
「行ってない」
「は?」
「手前で全部売れた」
「どこに?」
商人は親指で後ろを指した。
「3万人に」
最初は偶然だった。
次は、噂を聞いた商人が試しに寄った。
3度目からは、商売になった。
王都の外にいる兵は、金を払う。
しかもよく買う。
当然だった。
3万人いる。
馬もいる。
毎日食べる。
麦。
豆。
干し肉。
塩。
油。
酢。
干し果物。
薪。
炭。
馬草。
革。
布。
薬。
包帯。
靴底。
何でも減る。
各領からの補給は続いている。
それでも、目の前へ商品を積んだ商人が来れば買う。
「いくらだ?」
「王都なら銀貨80で」
「88」
「売ります」
成立。
「干し肉は?」
「この樽で」
「全部」
「全部ですか?」
兵站担当が答える。
「3万人おりますので」
それで大体、説明がついた。
やがて半分冗談のように言われ始める。
三万人おりますので、全部買います。
商人の側も変わった。
最初から王都へ行かなくなる者が出た。
外の陣で売り切れば、荷車を空にしてすぐ戻れる。
回転が速い。
市場で買い手を待つ必要もない。
何より、現金払いだった。
「麦ならノルデン伯爵家」
「薪はローデンフェルト侯爵軍が足りていない」
「薬ならアルヴェスト侯爵軍が買っている」
商人同士で情報が回り始める。
やがて街道脇には札まで立った。
麦買入。
豆買入。
薪買入。
馬草買入。
その周りへ、別の商売も集まった。
パンを焼く者。
酒を売る者。
鍛冶屋。
靴直し。
刃物研ぎ。
洗濯。
床屋。
王都の城壁から離れた場所に、臨時の市場ができ始めた。
「戦なのか、祭りなのか分からんな」
ある商人が言った。
隣の男が笑う。
「金を払ってくれるなら、どっちでもいいさ」
誰も街道を塞いでいなかった。
王都へ行きたければ行ける。
実際、契約済みの商品や、王都の方が高く売れる商品はそのまま通っていった。
ただ。
王都へ行く必要のない荷が、その手前で売れるようになった。
最初に異変へ気づいたのは、王都の市場だった。
「今日は麦が少ないな」
「西から来る商隊が3つ来てない」
「雨でも降ったか?」
「晴れてる」
翌日も少ない。
肉。
薪。
卵。
数日が経つと、仕入れ値が上がり始めた。
まだ暴騰ではない。
王都には国営倉庫がある。
軍用備蓄もある。
大商会も相当量を持っている。
それでも、日々市場へ入ってくる量が減れば、価格は動く。
王宮へ最初の報告が上がった。
「西側からの市場向け物資流入が、平時の6割程度まで落ちています」
国王が尋ねる。
「南は?」
「8割前後。北側は今のところ大きな変化はありません」
「理由は?」
財務官が答えた。
「王都周辺にいる諸侯軍が購入しております」
ルーヴァンが顔を上げる。
「徴発か?」
「いいえ」
「奪っている?」
「いいえ」
「街道を止めているのか」
「それもございません」
「なら、なぜ商人は王都まで来ない」
「その手前で売れるからです」
一瞬。
誰も口を開かなかった。
ルーヴァンが聞き返す。
「王都向けの商品を?」
「市場で売る予定の、まだ契約されていない商品を中心に」
「止めさせろ」
軍務卿がすぐに聞いた。
「何を理由に?」
「王都へ来る商品だぞ」
「商人の所有物です。すでに王家や王都商会との契約が成立している物資なら別ですが、自由販売の商品を途中で誰へ売るかまで王家は指定できません」
ルーヴァンは黙った。
「なら、王都で買う値を上げろ」
財務官が少し困った顔をする。
「外では市場価格より1割から2割ほど高く買っております。品目によっては、それ以上です」
「こちらも上げればいい」
「短期間なら可能です」
「ならやれ」
「ただし、長期間の価格競争には向きません」
「なぜだ」
宰相が答えた。
「各諸侯は、自分の数百から千人程度の兵へ必要な量だけ買えばよい。一方で王都は、数十万の住民全体の市場価格を支えなければならないからです」
ルーヴァンの眉が寄った。
同じ値上げでも、必要な金額が違う。
王都側がすべての流入商品へ高値を提示すれば、その負担は桁が変わる。
財務官が続ける。
「加えて、今期の上納について、早期納付を見合わせ、定められた納期に合わせると通告してきた領が増えております」
「未納か?」
「いいえ。納期限前ですので、現時点では何の違反もございません」
「何家だ」
「28家です。それとは別に、王家から求めていた任意の臨時拠出については、ほとんど応じておりません」
ルーヴァンは机を見る。
外にいる兵を、それぞれの領主が自領の金で養っている。
平時なら慣例的に早めに王都へ入っていた金が、今は納期限まで各領に残る。
その金で兵が食べる。
そして兵は、王都へ来るはずだった商品へ高い値をつける。
誰かが経済封鎖を設計したわけではない。
それなのに。
金と物の流れだけが、王都の外へ寄っていく。
「……馬鹿な」
ルーヴァンが呟いた。
「こんなことで」
軍務卿が静かに言う。
「殿下。厳密には、王都は包囲されておりません」
ルーヴァンが睨む。
「今、言葉遊びをする必要があるか」
「必要です」
軍務卿は真顔だった。
「城門は開いております。街道も通れます。人も商品も出入りできる。諸侯軍は王都へ攻撃を加えていません」
「なら、これは何だ」
ルーヴァンの声が強くなる。
「何も止めていないのに、なぜ王都への物だけが減る!」
誰も答えなかった。
だが、答え自体は単純だった。
商人が、自分にとって有利な場所を選んでいる。
諸侯が、自分の金を自分の兵へ使っている。
誰も、
「王都を苦しめろ」
とは命じていない。
それでも、一人一人が自分にとって合理的な行動を選んだ結果。
王都だけが少しずつ不利になっていく。
「備蓄は?」
国王が聞いた。
財務官が答える。
「穀物を中心に、平時消費換算で約2か月半。軍用と民間の在庫を合わせ、配給調整まで行えば3か月程度は持たせられます」
「それだけか」
「明日、明後日に飢えるという話ではございません。ただし流入減少が続けば、価格は上がります」
「どれほど」
「穀物は備蓄がありますので、まず1.5倍程度。長期化すれば2倍近くまで上がる可能性があります。肉、卵、薪などは、より早く影響が出るでしょう」
国王が息を吐いた。
「なら、3か月以内に状況を解消すればいい」
軍務卿が答えない。
「どうした」
「何をもって、解消としますか」
国王は地図を見る。
「諸侯軍を退かせる」
「どのように?」
国王が口を開き、止まった。
王命で退去を命じる。
それで従えばいい。
だが、従わなければ。
次はどうする。
強制的に退かせるなら、兵が要る。
王都から兵を出す。
それを止めるために、3万人がいる。
国王も黙った。
ルーヴァンは地図を見ていた。
そこにエルダーラはいない。
「……全部」
小さく呟く。
宰相が聞いた。
「殿下?」
「この買い付けも。補給も。諸侯の資金の使い方も」
顔を上げる。
「全部、エルダーラが考えたのか」
軍務卿が首を横へ振った。
「確認できる限り、レグランド侯爵は何も命じておりません」
「何も?」
「はい」
「では、商品を買えと誰が命じた」
「各家の兵站担当が、それぞれ必要に応じて」
「王都より高く買うことは?」
「各陣の判断です」
「上納を期限まで手元に置くことは?」
「各領主が、それぞれ判断しております」
「市場ができたのは?」
「商人が集まりました」
ルーヴァンが立ち上がった。
「なら、なぜ誰も命じていないのに、全部同じ方向へ動く!」
答えたのは宰相だった。
「皆が、自分で考えているからではありませんか」
ルーヴァンは口を閉じた。
3万人。
42家。
商人。
諸侯。
誰も、一人の指揮官だけを見ていない。
だから一人を捕らえても止まらない。
命令書も存在しない。
それぞれが、それぞれの理由で、自分にとって最も得になる答えを選んでいる。
ルーヴァンは、あの日の模擬戦を思い出した。
自信のある者ほど。
最後には、自分が最も得意な答えを選ぶ。
エルダーラはそう言った。
ならば今。
自分が商人だったら。
王都まで運び、市場で買い手を待つ。
その手前で、1割高く全部現金で買うと言われたら。
「……売る」
ルーヴァンが言った。
財務官がわずかに頷いた。
「私が領主なら」
続ける。
「証拠もないまま、自分まで謀反人扱いされるかもしれないと思っている。そのとき、納期より早く王家へ金を送るか」
しばらく考える。
「……急いでは送らない」
王妃は何も言わず、息子を見ていた。
「私が外にいる兵なら」
軍務卿を見る。
「王都へ攻め込む必要はあるか」
「ございません」
「討伐軍だけ出さなければいい」
「はい」
「なら、何もしない方がいい」
自分の口から出た言葉に、ルーヴァンは少し苦い顔をした。
エルダーラなら、おそらく最初からそう考える。
倒す必要のない相手を、わざわざ倒さない。
目的を達成できるなら、それでいい。
ルーヴァンは地図へ目を戻した。
「……私なら、どうする」
今度の問いは、誰へ向けたものでもなかった。
その夜。
王都の市場で、一人の女が麦粉の値札を見てため息をついた。
「また上がったね」
店主が答える。
「仕入れが減ってるからね」
「なくなるの?」
「明日なくなるって話じゃないよ。倉にはまだある」
「じゃあいいじゃない」
「ずっと入ってこなきゃ、そのうち減る」
女が少し考える。
「外の兵が取ってるんでしょう?」
店主の顔が曇った。
「取ってるんじゃない」
「違うの?」
「買ってるんだよ」
「同じじゃない?」
「全然違う」
「何が?」
店主は答えに詰まった。
商人が自分から売る。
代金も払われる。
道も塞がれていない。
それを王家が、何を理由に止めればいいのか。
「……止められないってこと?」
女が聞いた。
店主は、今度こそ答えられなかった。
王都の外。
同じ夜。
焚き火の横で、ローデンフェルト侯爵軍の兵たちが麦粥を食べていた。
昼間に商品を売った商人が、もう一度戻ってきている。
今度は荷馬車15台。
「今日は何だ」
兵站担当が尋ねた。
商人が笑う。
「麦。豆。干し魚。油」
「いくらだ」
「昨日より少し高い」
「ふざけるな」
「嫌なら王都へ持っていく」
兵站担当と商人がしばらく見つめ合う。
「……干し魚は負けろ」
「油と一緒なら」
「全部で?」
「全部で」
交渉が始まった。
誰も王都を攻めない。
誰も王都への道を塞がない。
ただ、3万人が食べる。
金を払う。
商人が売る。
そして翌日も、また商品を持ってくる。
それだけだった。
それだけのことが。
王都の暮らしを、少しずつ変え始めていた。




