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王太子との模擬戦に損害ゼロで勝ったら婚約を解消されました――領地に帰っただけなのに、なぜ王都が包囲されているのですか?  作者: 月白ふゆ


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6/11

第6話 わたくしの派閥とは何ですの?

王宮へ届いたレグランド侯爵家からの回答書は、187枚あった。


「……多いな」


国王が言った。

宰相も否定しない。


「多いですね」


王太子ルーヴァン・ルディオクは、机の上に積まれた紙束を見る。


1枚目は、王家から求められた質問事項への回答。

2枚目以降はすべて添付資料だった。


領軍の兵員数と過去3年の推移。

武器購入記録。

訓練日程。

合同訓練の参加者名簿。

他領との書簡一覧。

領政相談の記録。

商会との契約。

金銭の移動。

王家への上納記録。


疑義を呈された項目について、いつ、どこで、誰が、何の目的で何をしたのか。

ほとんどすべてに記録が添えられていた。


「読むのか?」


国王が宰相を見る。


「読まなければ、何のために提出させたのか分かりません」

「そうだが」

「陛下」


王妃が横から口を挟む。


「出させたのは私たちです」

「分かっている」

「なら読みましょう」


国王は黙った。

読むしかなかった。


昼を過ぎるころには、結論が出た。


「兵力増強なし」


宰相が確認する。

軍務卿が頷いた。


「通常の補充を超える武器購入もありません」

「秘密裏の徴兵」

「なし」

「傭兵契約」

「なし」

「国外勢力との不審な接触」

「通常の交易、および王家承認済みの外交関係のみ」

「諸侯間の軍事同盟」

「確認されておりません」

「合同訓練は?」

「公開訓練です。参加者名簿も日程も提出済み」

「資金移動」

「不審なものはありません」


国王が椅子へ深く座った。


「なら、終わりだな」


王妃がすぐに答えた。


「最初からそう申し上げております」


ルーヴァンだけは、最後の回答書をまだ見ていた。

エルダーラ本人の署名。

その少し前に、一文ある。


『なお、他家より信頼を寄せられること自体を問題とされるのであれば、その点については当家より説明いたしかねます』


明確に刺しにきている。

普段のエルダーラなら、もう少し柔らかい言葉を選ぶ。

つまり、怒っていたのだ。


「殿下」


軍務卿に呼ばれ、ルーヴァンは顔を上げた。


「何だ」

「これでよろしいですね」

「何が」

「レグランド侯爵への疑いです」


ルーヴァンは少し黙った。


「謀反準備を示す証拠はない」

「はい」

「兵力増強も、密約も、不審な資金移動もない」

「はい」

「だが、人が集まっている事実は変わらない」


軍務卿の表情が硬くなった。

王妃が息子を見る。


「ルーヴァン」

「分かっています。証拠がないことは」

「なら何が残るの?」

「証拠がないことと、危険がないことは同じではありません」


軍務卿が低く息を吐いた。


「殿下。それを言い始めれば、誰でも危険です」

「誰でもではない」

「なぜです」


答えは、考えるより先に口から出た。


「エルダーラだからだ」


部屋が静まった。

ルーヴァン自身も、自分の言葉に止まる。


国王が低い声で尋ねた。


「どういう意味だ」

「彼女は、人を動かせます」

「命じた証拠はない」

「命じなくてもです。騎士から信頼され、諸侯から相談を受け、領地でも結果を出している」


王妃が一つずつ聞いた。


「騎士から信頼されることは悪いこと?」

「……違います」

「諸侯から相談されることは?」

「違います」

「領地をよく治めることは?」

「それも違います」

「なら、あなたは何を問題にしているの?」


ルーヴァンは答えられなかった。

並べたものは、すべて本来なら褒められることだ。


それでも、怖い。


「もし彼女が、王家へ反旗を翻すと決めたら」


軍務卿が即座に返した。


「決めておりません」

「だから、もしだ」

「その『もし』を理由に、何をなさるおつもりですか」


兵を出す。

捕らえる。

処分する。


どれもできない。

理由がないからだ。


国王が机を指で叩いた。


「処分はしない」

「当然です」


王妃が答える。


「だが、新侯爵としての動静確認は当面続ける。これ以上の措置は取らん」


軍務卿が眉を寄せる。


「陛下」

「何もなければ、それで終わる」


慎重策。

国王にとっては、そのつもりだった。


だが、すでに一度始まった監視は、その言葉ほど簡単には終わらなかった。


レグランド侯爵家へ王家から疑義照会が届いた。

その事実は、すでに諸侯の間へ広がっていた。


そして今度は、


「187枚もの資料を提出したが、不審なものは何一つ出なかった」


という話まで広がった。


南部を治めるカシアン・ローデンフェルト侯爵は、家令から報告を受けて眉を寄せた。


「何もなかった?」

「はい。兵力増強なし。武器購入なし。密約なし。不審な資金移動なし。上納金の滞納すらございません」

「では、王家は疑いを解いたのか」


家令が答えにくそうにした。


「確認は継続されるようです」

「なぜだ」

「軍や諸侯への影響力を、引き続き注意する必要があると」

「影響力?」


カシアンはしばらく黙った。


「それは罪なのか」


誰も答えなかった。


ザルツェン伯爵家。


夕食の席で、伯爵夫人が指を折った。


「人望がある」


夫が続ける。


「騎士から信頼されている」


成人した長男。


「他家から相談される」


長女。


「領地をよく治めている」


そこで家族全員が黙った。


ザルツェン伯爵がナイフを置く。


「全部、私にも当てはまってほしいものだな」


笑う者はいなかった。


長男が尋ねる。


「では父上も、騎士から信頼されるようになれば謀反人ですか」

「やめろ」


そう答えた伯爵自身、顔は笑っていなかった。


東部。


エーベルハルト・グライゼン侯爵は、王都から届いた報告へ目を通していた。


「証拠なし」

「はい」

「それでも監視」

「はい」

「理由は、人が集まるから」


家令は返事をしなかった。

グライゼン侯爵は書類を置く。


「では、次は誰だろうな」

「次とは?」

「レグランドの次だ」


軍に顔が利く家か。

商会とのつながりが深い家か。

領同士の揉め事を仲裁する家か。

王都で人望のある家か。


「王家が気にするほど有能になった者から、順番か?」


家令には答えられなかった。


話の中心は、いつの間にかエルダーラ個人ではなくなっていた。


レグランド侯爵が本当に謀反を企てているのか。

もう、そこではない。


何も出なかった家が、それでも危険視される。

ならば同じことは、自分たちにも起こり得る。


そう考える諸侯が増え始めていた。


そこへ、一つの情報が漏れた。


軍務院で、レグランド侯爵家が王命に従わなかった場合を想定した机上試算が行われた。


それは国王が命じたものでも、討伐準備でもなかった。

重点的な確認対象となった家について、最悪の場合に備えて軍務院の担当部署が作成した、危機対応上の机上試算にすぎない。


討伐命令ではない。

出兵命令ですらない。


仮に王命拒否が発生した場合、どれほどの兵力が必要か。

どの街道を使うのか。

補給拠点をどこへ置くのか。

通過する領はどこか。


軍務上の最悪事態を想定した、机上の検討だった。


王家側からすれば、それだけだった。


だが諸侯へ伝わった言葉は、もっと短かった。


王家が、レグランド討伐に必要な兵数を調べている。


翌朝。


レグランド侯爵邸。


「何ですって?」


エルダーラは聞き返した。

家令の顔は硬い。


「王宮で、当家に対する軍事行動の試算が行われているとの情報が入りました」

「誰からです」

「ノルデン伯爵家です。軍務院に縁のある者から聞いたと」


エルダーラはすぐに確認する。


「王命は?」

「ございません」

「討伐令」

「ございません」

「当家へ向けた出兵準備は?」

「確認できておりません」

「でしたら、まだ動きません」


家令が少しだけ安心した顔をした。

父は違った。


「先に兵を集める」

「集めません」

「来てからでは遅い」


エルダーラが父を見る。


「以前、お父様がわたくしにおっしゃいましたね」


父が黙った。


来る前から殴るわけにもいかんだろう。

確かに言った。


「今回は話が違う」

「同じです」

「討伐に必要な兵数まで調べている」

「だからこそ、こちらが先に兵を集めてはいけません」


エルダーラは地図を広げた。


王都。

レグランド領。

その間にある複数の領地。


「今、当家が領軍を増強すれば、王家は『やはり準備していた』と言えます」


父の顔が険しくなる。


「なら何もしないのか」

「通常の警備は続けます。街道と王都の動向も確認します」

「本当に兵が来たら?」

「国内です。大軍なら街道を使うしかありません。数日前には分かります」

「そのとき集める?」

「状況を見ます」


父は納得していない。


「エルダーラ。俺は王家へ剣を向けたいわけじゃない」

「存じております」

「だが、お前を逆賊として捕らえに来るなら話は別だ」


エルダーラは黙った。


父の声が少し低くなる。


「この家には、まだ8歳の娘が3人いる」


アウレリア。

セルフィリア。

メリディア。


「お前を逆賊にするということは、あいつらも逆賊の妹になるということだ」


部屋が静まった。


「そこまで考えているのか、王家は」


答えられなかった。


扉の近くから母の声がした。


「考えていないでしょうね」


父が振り返る。

いつから聞いていたのか。


母は静かだった。


「だから怖いのよ」


エルダーラは少し目を伏せた。


それでも。


「こちらから兵は動かしません」


父は長く息を吐いた。


「分かった」


意外にも、それ以上は反対しなかった。


「ただし王命が来たら、全部俺にも見せろ」

「もちろんです」

「一人で決めるな」


エルダーラが少し驚いた。


「珍しいことをおっしゃいますね」

「何がだ」

「難しいことは、わたくしがやるのでは?」

「今回の難しいことは家族の話だ」


父は言った。


「なら俺も入る」


エルダーラは少しだけ笑った。


「承知しました」


その日の午後から、他家の書状が届き始めた。


1通。

2通。

5通。

10通。


『王家が軍を動かすとの噂あり』

『必要なら協力する』

『当家として看過できない』

『もはやレグランド家のみの問題ではない』


エルダーラは一つずつ返事を書いた。

内容は、ほとんど同じだった。


『お気持ちはありがたく存じます』

『しかしながら、兵を動かされませんようお願いいたします』

『王命に武力で応じれば、当家のみならず皆様まで謀反の疑いを受けかねません』

『当家は現時点で兵力を増強しておりません』

『どうか平静に』


署名。

次。

また署名。


夜までに28通。

翌朝には、さらに37通。


エルダーラが書状の山を見る。


「多いですわね」

「はい」


家令も疲れた顔をしている。


「すべて同じ文面では失礼でしょうか」

「内容が内容ですので、むしろ統一した方がよいかと」

「そうですね」


父が横から言った。


「印刷できんのか」

「できません」

「不便だな」

「今さら何をおっしゃっているのです」


ひたすら書く。


兵を動かさないでください。

こちらへ来ないでください。

王都へ圧力をかけないでください。

当家には争う意図がありません。


途中でエルダーラの手が止まった。


「……わたくし、謀反を疑われておりますのよね」


家令が頷く。


「はい」

「なのに、なぜ他家の出兵を止める書状を、わたくしがこれほど書いているのでしょう」


父が答えた。


「人望じゃないか」

「その言葉、今はあまり聞きたくありません」


夕方。


ティナリアが来た。


いつもなら馬から降りるなり「お腹すいた」くらい言う女だ。

今日は言わなかった。


その時点で、嫌な予感がした。


「ティナリア。何がありました」

「先に言っとくけど、怒らないで」

「内容によります」

「じゃあ無理かも」

「何ですの」


ティナリアが少し目を逸らした。


「うち、兵が出た」


エルダーラは数秒止まった。


「……どこへ」

「王都」

「なぜ」

「お父さんが」

「なぜ!」


声が大きくなった。


ティナリアが肩をすくめる。


「ほら怒った」

「怒ります!」

「200だけ」

「人数の問題ではございません!」


父が奥から出てきた。


「セルヴェントが?」

「うん。今朝出た」

「止めなかったのか」

「止めたよ。エルダーラが兵を出すなって言ってるって」

「それで?」


ティナリアは父親の真似らしく胸を張った。


「『だから俺が出る』って」


エルダーラは額を押さえた。


「意味が分かりません」

「私も」

「他には何と?」

「『見栄で娘を捨てた次は逆賊扱いか。ふざけるな』」


容易に想像できた。


「それから」


ティナリアの表情から笑いが消える。


「『ここで黙ったら、次はうちだ』って」


エルダーラも笑えなくなった。


「……そちらが本音ですか」

「たぶん」


ティナリアは椅子へ座った。


「お父さん、エルダーラだから怒ってるのもあるよ。でも、それだけじゃない」

「はい」

「うちみたいな子爵家が、王家から『お前は怪しい』って言われたら、もっと何もできないじゃん」


レグランド家には軍がある。

人脈もある。

侯爵家としての発言力もある。


セルヴェント家は違う。


「レグランド家で、証拠がなくてもここまで疑われるなら」


ティナリアの声が低くなる。


「うちなんか、もっと簡単に潰されるって」


エルダーラは答えられなかった。


父が腕を組む。


「そういうことだ」

「お父様まで納得しないでください」

「俺は兵を出してない」

「出そうとなさいました」

「止められた」

「わたくしに!」

「だから出してない」


頭が痛い。


「セルヴェント子爵へ伝令を」


家令が答える。


「すでに出しました。エルダーラ様より即時帰還を求める、と」

「ありがとうございます」


ティナリアが気まずそうに言った。


「たぶん帰らないよ」

「なぜ分かるのです」

「うちのお父さんだから」

「あなたが言うと説得力がありすぎます」


その夜。


次の報告が来た。


ヴェスター伯爵家、400。

ローデンフェルト侯爵家、1200。

ノルデン伯爵家、600。

さらにザルツェン伯爵家とエルムガルト伯爵家、合わせて900。


エルダーラは一件ごとに帰還を求めた。


だが、返事も届く。


『もはや貴家のみの問題ではない』

『証拠なく侯爵家へ軍事措置を検討する前例を認めることはできない』

『我が子の代へ同じものを残したくない』

『王家へ刃を向ける意図はない』


そして。


『ただし、レグランド討伐軍を王都から出すことは認めない』


その一文で、エルダーラの手が止まった。


「目的が変わっておりますね」


家令も読む。


「ええ」


王都を攻めたいわけではない。

王家を倒したいわけでもない。


レグランド家への討伐軍を、王都から出させない。


それだけ。


さらに、王都中央部に広い領地を持つ唯一の公爵家からも書状が届いた。


差出人は、オスヴァルト・ヴァルデック公爵。


エルダーラは封を開いた。

文面は短かった。


『レグランド侯爵家を支持するためではない』


エルダーラの眉がわずかに上がる。


続きを読む。


『証拠なき軍事措置を前例として認めないためである』


それだけだった。


家令が尋ねる。


「ヴァルデック公爵家も?」

「兵を動かされたようです」

「エルダーラ様を支持して?」

「いいえ」


エルダーラは書状をもう一度見る。


「むしろ、そこは明確に否定されております」


個人的な味方ではない。

レグランド家のためでもない。

王太子との婚約解消に口を挟む気もない。


ただ、疑いだけで一つの諸侯家へ軍事措置を取れるという前例を残したくない。


「……そういう方まで動かれますか」


エルダーラは小さく呟いた。


これはもう、自分への人望だけでは説明できなかった。


「誰が決めたのでしょう」


エルダーラが尋ねる。


「分かりません」


家令が答える。


「代表は?」

「おりません」

「総指揮官は?」

「確認できません」

「では、なぜ同じことを?」


家令も困った顔をした。


「皆様、理由は違っても、結論が同じなのでしょう」


エルダーラは何も言えなかった。


数日後。


王宮。


国王は地図を見ていた。


「……何だ、これは」


王都周辺。

北。

西。

南。


主要街道の先へ、複数の諸侯軍が陣を置き始めている。


「確認できているだけで19家です」


軍務卿が答えた。


「さらに数家が移動中」

「レグランド軍は?」

「動いておりません」


国王が顔を上げる。


「何?」

「領軍は通常配置のままです。エルダーラ侯爵本人も領地におります」


ルーヴァンが身を乗り出した。


「各家へ命令を出しているのではないか」

「書状は多数出しております」

「内容は?」


軍務卿が一枚差し出す。


『兵を動かされませんようお願いいたします』

『王命に武力で応じれば、本当に謀反となります』

『どうか各領へお戻りください』


もう一枚。

同じ。


別の家。

また同じ。


「……本物か」

「各家から確認しております」

「なら、誰の命令で集まっている」


軍務卿は答えにくそうにした。


「各家が、それぞれ判断しております」

「19家が別々に?」

「陣の位置も指揮系統も別です」

「では、なぜ同じ場所へ集まる」

「目的だけは一致しております」

「何だ」

「王家がレグランド家へ討伐軍を出すなら、その進路を通さない」


国王が低く聞く。


「王都を包囲するつもりか」

「攻城準備は確認されておりません。城門にも近づいていませんし、街道もまだ封鎖していません」

「では何をしている」


軍務卿は少し考えてから答えた。


「待っているようです」

「何を」

「王家が兵を出すのを」


ルーヴァンは地図を見る。


19家。

今も増えている。


エルダーラ本人は、来るなと書いている。

命令していない。

金も出していない。

武器も渡していない。

軍事同盟もない。


「……エルダーラは、何をした」


誰も答えなかった。


やがて軍務卿が言った。


「少なくとも今回の出兵については、何もしていないのでしょう」

「なら、なぜ!」


声が響く。


軍務卿は少し間を置いた。


「皆が、自分の問題だと思ったからではありませんか」


ルーヴァンには、すぐには理解できなかった。


エルダーラの問題ではない。

レグランド家だけの問題でもない。


自分の問題だと。


各家が勝手に考えた。

だから、誰にも命じられず、同じ方向へ動いた。


ルーヴァンは模擬戦を思い出した。


あのときも、自分は指揮官を取れば終わると思った。

今も、エルダーラの命令を探している。


だが今回は、一つの軍ですらない。

指揮官が存在しない。


「……そんなことが」


軍務卿は答えなかった。


3日後。


まだ朝食前だった。


レグランド侯爵邸の執務室へ、泥だらけの伝令が飛び込んできた。


「侯爵閣下!」


エルダーラが立つ。


「何がありました」

「王都周辺へ集結中の諸侯軍について、最新の報告です!」

「何家です?」

「現在確認できているだけで42家!」


エルダーラの表情が止まった。


「42?」

「はい!」

「兵数は」


伝令が呼吸を整える。


「およそ3万です」


部屋が静まり返った。


父。

家令。

領政官。


誰も何も言わない。


「……3000ではなく?」

「3万です」

「3万」

「はい」


エルダーラは父を見る。

父も見る。


「なぜですの?」

「俺に聞くな」

「お父様は軍人でしょう!」

「俺の軍じゃない」

「ですが3万です!」


珍しく本気で声が大きい。


家令が口元へ手を当てた。

笑っている場合ではない。

だが、ここまで慌てているエルダーラは珍しかった。


「42家が、それぞれ兵を出して」

「はい」

「わたくしは全家へ、来ないでくださいと送りましたね」

「はい」

「なのに3万」

「はい」

「どうして?」


伝令にも答えられない。


父がぽつりと言った。


「だから3万で済んだんじゃないか?」


エルダーラがゆっくり振り向く。


「……何ですって?」

「お前が止めなければ、もっと来たんじゃないか」

「お父様」

「何だ」

「まったく慰めになっておりません」

「そうか」


扉の外から声がした。


「私もそう思う」


ティナリアが入ってくる。

エルダーラが睨んだ。


「なぜあなたが当然のようにおりますの」

「今それ?」

「今だからです!」

「めちゃくちゃ慌ててるね」

「3万ですのよ!」

「うん」

「うん、ではございません!」


ティナリアは少し笑ったあと、真面目な顔になった。


「でも、みんなエルダーラのためだけに来たわけじゃないよ」


エルダーラが止まる。


「うちのお父さんも、エルダーラのことは好き。でも一番怒ってるのは別」


指を一本立てる。


「証拠がないのに、一つの侯爵家へ軍事措置を考えたこと」


2本目。


「それが通ったら、次は自分かもしれないこと」


3本目。


「自分の子供の代まで、そのやり方が残るかもしれないこと」


ティナリアは手を下ろした。


「だから3万いる」


エルダーラは黙った。


「エルダーラが呼んだからじゃない」


ティナリアは言った。


「みんな、自分で来たんだよ」


エルダーラは机へ手を置いた。


3万。

42家。

統一指揮なし。

攻城の意図なし。


目的は一つ。


王家がレグランド家へ討伐軍を出すなら、その進路を塞ぐ。


「……まず、全家へもう一度書状を」


家令が頷く。


「帰還を求めますか」

「はい」


ティナリアが言った。


「帰らないと思う」

「それでもです」


エルダーラは強く答えた。


「わたくしが出兵を求めていないこと、帰還を求め続けたこと。その記録を残します」


家令が理解して頷く。


「全家へ同文。受領確認も取ります」

「お願いします」

「王宮へは?」

「そちらにも書状を」


エルダーラはすぐ内容を組み立てる。


「当家は諸侯へ出兵を要請していない」

「はい」

「各家へ即時帰還を求めている」

「はい」

「レグランド領軍は通常配置のまま」

「はい」

「王都周辺の諸侯軍について、当家に指揮権はございません」


ティナリアが横から言った。


「本当にないよね」

「ございません!」

「怒らないでよ」

「誰のせいです!」

「うちは200だけ」

「人数の問題ではないと何度申し上げれば!」


父が笑った。


エルダーラは額を押さえた。

そして、もう一つ思いつく。


「3万人の食料状況も確認してください」


家令が目を見開いた。


「兵站ですか」

「3万も集まって、食料や水が不足すれば周辺の領民へ被害が出ます」

「帰れと言いながら飯の心配をするのか」


父が聞く。


「帰るまでにも食事は必要でしょう!」


正論だった。


「各家が持ち込んだ食料量。水源。馬の飼料。衛生状態。病人の有無も」

「承知しました」

「王都周辺の村から食料を勝手に取ることだけは、絶対にさせないでください」


父がふと口を挟んだ。


「エルダーラ」

「何でしょう」

「お前、もう指揮してないか?」


エルダーラが固まった。


ティナリアが吹き出す。


「してる」

「しておりません!」

「でも3万人の飯と水と馬を管理し始めたよ」

「事故防止です!」

「それをやる人って指揮官じゃない?」

「違います!」

「じゃあ何?」


エルダーラが詰まる。


家令が助け舟を出した。


「調整役……でしょうか」

「それです!」


ティナリアが笑う。


「だいたい後から指揮官って呼ばれるやつ」

「呼ばれません!」


その時点では、本気でそう思っていた。


夕方。

王都周辺の兵数、3万1400余。


翌日。

3万2000。


そこから増加は、ほぼ止まった。


エルダーラが各地へ送った、


『これ以上、兵を送られませんようお願いいたします』


という書状が届き始めたからだった。


父が数字を聞いて言う。


「ほら」


エルダーラは嫌な予感がした。


「何です?」

「お前が止めたから3万で済んだ」

「まだ言いますの?」

「証明された」

「嬉しくございません!」


しかし事実として、そこで止まった。


王都を攻めない。

城門へ近づかない。

街道そのものも封鎖しない。


ただ、王都の外にいる。


王家がレグランド領へ軍を出そうとすれば、その進路上に3万人がいる。


奇妙な包囲だった。


そして、さらに奇妙なことが起きた。


その3万人を、誰かがこう呼び始めた。


エルダーラ派。


最初に誰が言ったのかは分からない。


酒の席か。

伝令同士の冗談か。

王都側が便宜上使った呼び名を、諸侯軍の側が面白がって使い始めたのか。


数日後。


エルダーラのもとへ届いた報告書に、その文字があった。


『自称エルダーラ派諸侯軍、王都西方にて――』


そこまで読んで、エルダーラは紙を置いた。


「……何ですの、これ」


家令が答える。


「呼称のようです」

「誰の派閥です?」

「エルダーラ様の」

「わたくしは作っておりません」

「存じております」

「では解散させてください」

「指揮権がございません」

「では、どうすればよろしいのです!」


父は隣で茶を飲んでいる。


「諦めたらどうだ」

「何をです!」

「派閥」

「わたくしの派閥とは何ですの!?」


廊下から三つ子が顔を出した。


アウレリア。


「お姉さま、派閥できたの?」

「できておりません!」


セルフィリア。


「でも3万人いるんでしょ?」

「おりますけれど!」


メリディアが首を傾げる。


「じゃあ、できてるんじゃない?」


エルダーラは言葉を失った。

父が大きく笑う。


兵を呼んでいない。

命令もしていない。

それどころか、帰れと言い続けている。


なのに王都の外には3万人。

しかも自称、エルダーラ派。


エルダーラは人を見ることには自信があった。


一人の癖。

一つの部隊の動き。

指揮官が何を選びやすいか。


そこから次の行動を考えることもできる。


けれど、命令系統すら共有していない42家が、それぞれ別の理由から同じ結論へたどり着き、自分の制止まで振り切って動く。


それは、完全に読み違えていた。


エルダーラ・レグランド、18歳。

侯爵となって、まだ2か月余り。


この日初めて。


人を読むことと。


人々が勝手につながった先を読むことは。


まったく別の話なのだと知った。

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― 新着の感想 ―
あはは(ノ∀≦。)ノこれぞ《天与の才》だね~♪ 本人が望むと望まないとに関わらず!《人》が動く♪ ジョン○ノンとかも国家から監視がついてたと言うし♪ 陛下も!殿下も!何処にどー着地させるのかなw(…
「だいたい後から指揮官って呼ばれるやつ」( ´∀` ) 面白過ぎです。ここからどう展開するのか楽しみ~~!
エルダーラさんは頭がいいからかえって心配。例えば「この案は合理的だから、これでおさめましょう」と王家へ提出したとしても、嫉妬と恐怖にかられたバカ王子は「エルダーラが仕掛けて来た!」と思うだけでしょう。…
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