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王太子との模擬戦に損害ゼロで勝ったら婚約を解消されました――領地に帰っただけなのに、なぜ王都が包囲されているのですか?  作者: 月白ふゆ


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5/11

第5話 人望があるのは、謀反の証拠ですか?

エルダーラ・レグランドが侯爵家の当主となって、27日。


少なくとも、レグランド領では特に何も起きていなかった。


「北倉庫の屋根は、全面補修でお願いします」


朝の執務室。

エルダーラは修繕見積書を机へ置いた。

家令が別紙を確認する。


「部分補修ではなく?」

「3年前に西側、昨年は南側。今年は北側です」

「はい」

「毎年どこかを直しております。全面を張り替えた場合は?」


家令が差し出した見積書を、部分補修のものと並べる。

今年だけを見れば、部分補修の方が安い。

だが、過去5年の修繕費まで加えると話は変わった。


「この差額なら、3年ほどで回収できますね」

「そのようです」

「では全面で」

「承知いたしました」


父なら、おそらく雨漏りしているところだけ塞げと言っただろう。

それでも倉庫は使える。

間違いではない。

ただし翌年、別の場所から雨が漏れる可能性が高い。


「次をお願いします」


領政官が書類を出した。


「ベルク村とネイス村の用水路についてです。両村とも先日の案を概ね了承しました」

「概ね?」

「ネイス村から、穀物で負担する場合は豊作年と凶作年で量を変えてほしいと」

「当然でしょうね」


領政官が少し驚いた。


「よろしいので?」

「固定量にすれば、凶作の年ほど負担が重くなります。収穫量に応じて3段階程度にしましょう」

「平年、豊作、凶作」

「それで十分です。それから両村の代表を、一度同じ席へ呼んでください」

「まだ問題が?」

「いいえ。だからです」


領政官が首を傾げる。


「揉めてから会うと、相手の顔を見るだけで腹が立つようになりますから」


家令が笑った。


「ご経験が?」

「妹が3人おります」


全員が納得した顔をした。


午前中は、そんな調子で終わった。


倉庫、用水路、街道、市場。

新当主になったからといって、突然兵を集めたり、武器を買い込んだりする理由はない。

税率も変えていない。

領軍の編制もそのまま。

城壁の補修計画も、父の代から続いているものだ。


変えたことといえば、会議の時間を少し短くし、同じ内容を二重に提出していた報告書を一本化し、帳簿の様式を2種類減らした程度だった。


「革命」


執務室の長椅子から声がした。

エルダーラは書類から顔を上げる。


「何がです?」

「紙が減った」


ティナリア・セルヴェントが寝転がったまま答えた。


「革命ではございません」

「うちもやって」

「なぜセルヴェント家の帳簿まで、わたくしが整理するのです」

「お父さんが見せるって」

「勝手に話を進めないでください」


ティナリアは返事の代わりに大きく伸びをした。


侯爵家当主の執務室で、子爵令嬢が取る姿勢としてはかなり問題がある。

本人は気にしていない。


「エルダーラ」

「何です」

「お腹すいた」

「まだ10時です」

「朝、馬乗ってきたから」

「食堂へ行ってください」

「一人で?」

「8歳ではないでしょう」

「冷たい」

「仕事中です」


ティナリアは起き上がった。


「じゃあアウレリアたち探してくる」

「妹を巻き込まないでください」


止める間もなく出ていった。


エルダーラがため息をつくと、家令が笑う。


「ティナリア様は変わりませんね」

「少しは変わっていただきたいです」

「ですが、エルダーラ様が侯爵となられても、以前と同じように接してくださる方は貴重かと」


ペンが止まった。


王太子の婚約者だったころも、婚約を解消されたあとも、侯爵となった今も。

肩書きが変わるたび、人の態度も少しずつ変わった。

ティナリアだけは何も変わらない。

「おかえり」で始まり、「お腹すいた」で済む。


「……それは、そうかもしれません」

「でしょう?」

「だからといって、仕事中に菓子を要求してよい理由にはなりません」

「それもそうですね」


家令は真顔で頷いた。


一方、その27日間を王宮ではまったく違う意味で数えていた。


「家督継承から27日」


宰相が報告書を読み上げる。


「レグランド侯爵領で、通常を超える兵力増強は確認されておりません。新規の武器購入も補充の範囲内。城塞整備は前年計画通り。徴税制度にも変更なし」


国王が椅子へ背を預けた。


「なら、何もないではないか」


机を囲んでいるのは国王、王妃、ルーヴァン、宰相、軍務卿。

婚約解消から1か月弱。

王家とレグランド家の関係は、表向き何も変わっていない。


前侯爵グランツ・レグランドは騎士団長職をそのまま続けている。

新侯爵エルダーラから王家へ抗議もない。

家督継承の届け出にも、定型通り王家への忠誠を示す文言が記されていた。


「だから私は言ったでしょう」


王妃が息子を見る。


「エルダーラに何かする気などないと」

「分かっています」


ルーヴァンは報告書から目を上げない。


「本当に?」

「はい」

「なら、なぜ毎週この報告を読んでいるの」

「新侯爵の動静確認は、王家として当然でしょう」


宰相が助け舟を出す。


「通常業務ではございます」


王妃が聞いた。


「全侯爵について、毎週?」

「……程度の差はございます」

「でしょうね」


国王が口を開いた。


「今回については慎重になる必要がある」


王妃が夫を見る。


「あなたまで疑っているの?」

「疑ってはいない。ただ、婚約解消の直後に武門の侯爵家で当主交代があった。確認しておくのは当然だ」

「確認だけならね」


王妃はそれ以上言わなかった。


宰相が次の紙へ移る。


「来月、レグランド領で合同訓練が予定されています」


軍務卿が言った。


「毎年やっている」

「今回は参加希望が増えております。王都から3家、近隣から5家」

「誰が呼んだ」


国王の指が止まる。


「レグランド侯爵です。ただし、王都から個別に訓練視察の申し込みが3件あったため、一度にまとめただけのようです。その後、参加者が増えたため、近隣にも希望を募ったと」

「合理的だな」


軍務卿が笑った。

ルーヴァンの眉がわずかに動く。

その言葉は、最近どうしてもエルダーラを思い出させる。


宰相は続けた。


「訓練内容には、先日の模擬戦で有効だった小隊運用も一部取り入れる予定とのことです」


ルーヴァンの顔が強張った。


「……私を負かした戦術を?」

「殿下」


軍務卿がすぐに言った。


「軍務上有効なら、取り入れるのは当然です」

「分かっている」


少し強い声が出た。

ルーヴァンは一度息を吐く。


「分かっています」


自分の失敗から学ぶ。

それが軍務だ。

分かっている。


それでも、面白くはなかった。


「他には?」


国王が促す。


「東部の伯爵家から、用水問題についてレグランド侯爵へ相談が一件。南西の子爵家から、帳簿様式について照会が一件」

「なぜエルダーラへ?」

「レグランド領で処理した案件が伝わったようです」


王妃が首を傾げる。


「普通の相談では?」

「はい」


宰相も頷いた。


「確認できる範囲で、現在レグランド侯爵へ直接相談を持ち込んでいる家は12家です」


ルーヴァンが顔を上げる。


「1か月で?」

「はい」

「返答に何か条件をつけているか」

「ございません」

「見返りは?」

「確認できません」

「貸しを作っている可能性は」

「ルーヴァン」


王妃が低く呼んだ。


「相談へ答えたら、それだけで派閥になるの?」

「そういう意味では」

「あなたが軍務官から質問を受けて答えたら、その人間はあなたの派閥?」

「違います」

「なら同じでしょう」


ルーヴァンは口を閉じた。


理屈では、その通りだ。


12家。

軍務、用水、帳簿、社交。

どれも一件ずつ見れば何でもない。

だが、数字で並べると多く見える。


「殿下」


軍務卿が言った。


「レグランド侯爵は、以前からあのような方です」

「以前から?」

「王太子妃候補として王都におられたころも、若い貴族や夫人から相談を受けていたでしょう」

「知っている」

「なら、何も変わっておりません」


何も変わっていない。

本来なら、そうなのだろう。


以前はエルダーラへ人が集まっても、それはいずれ王太子妃になる人間へ集まっているだけだった。

その人脈も、信頼も、いずれ王家へ入るものだと思っていた。


今は違う。

エルダーラ・レグランド侯爵個人へ集まっている。


それだけの違いが、ルーヴァンには妙に大きく見えた。


合同訓練の日。


レグランド領の演習場には、想定を上回る人数が集まった。


「……多くありません?」


エルダーラが聞く。

父が人数表を見る。


「多いな」

「何人です?」

「326名」


エルダーラは父を見る。


「参加希望を全部受けました?」

「だめだったか」

「安全管理があります!」

「審判は増やした」

「誰を?」

「俺の部下」

「お父様」

「大丈夫だ」


王都から3家。

近隣から5家。

さらに見学希望まで加わり、領主本人が来ている家もある。


エルダーラが挨拶すると、中年の伯爵が笑った。


「一度見てみたかったのです」

「何をでしょう」

「殿下を損害なしで全滅させた戦術を」

「閣下」

「失礼」


伯爵は口元を押さえた。


「本当に失礼だと思っておられます?」

「少し」


その横で、エーベルハルト・グライゼン侯爵が笑った。


「私も興味があった。騎士団長の娘がどんな指揮をするのか、昔から聞いていたからな」


父が言った。


「俺より上手いぞ」

「お父様」

「事実だろう」


周囲から笑いが起きる。


エルダーラにとっては、ただの合同訓練だった。


午前は10人単位の小隊。

課題は敵を倒すことではない。

負傷者役を連れ、隊列を崩さず指定地点まで退く。


若い騎士が戸惑った。


「退却の訓練ですか?」

「はい」

「騎士が逃げるのです?」

「必要なら」


エルダーラは地図を示した。


「退くと決めてから全員で走ればよいわけではありません。最後尾は誰が守るのか。負傷者を誰が運ぶのか。道が狭くなったら、どこで隊列を変えるのか」


騎士たちの表情が変わる。


「敵が追ってきた場合、どこで一度止めるのか。伝令が来なければ、いつ予定を変更するのか」

「……考えることが多いのですね」

「戦うより難しい場合もございます」


最初の班は、見事に失敗した。

先頭だけが先へ行き、負傷者役が取り残された。


エルダーラは怒鳴らない。


「今、何が起きました?」

「先頭が後方を確認していませんでした」

「では、次は?」

「途中に確認役を置きます」

「やってみましょう」


二度目は、少しよくなった。


午後は戦闘訓練。


数で劣る。

地形が悪い。

指揮官が途中で離脱する。

伝令が来ない。


あえて、最初の予定通りには動けない条件を入れる。


「臨機応変とは、その場で適当に決めることではございません」


エルダーラは地図へ3つ印をつけた。


「何があっても守るもの。捨ててもよいもの。状況によって変えるもの」


若い騎士が尋ねる。


「すべての事態を想定しておくのですか?」

「無理です」


即答した。


「全部を予測する必要はございません。ただ、何を優先するかを決めておけば、予定が崩れても判断しやすくなります」


見学していた諸侯の何人かが頷いた。


訓練後。


グライゼン侯爵がエルダーラへ声をかけた。


「面白かった」

「ありがとうございます」

「殿下との模擬戦より、今日の方が君の考え方はよく分かった」

「そうですか?」

「ああ。勝つことだけではなく、予定が崩れたあとにどう生き残るかまで考えている」


エルダーラは少し考える。


「両方考えます」

「欲張りだな」

「勝って死ぬより、勝って生きた方がよろしいでしょう?」


グライゼン侯爵は声を上げて笑った。


帰り際、何人かから「次回も参加したい」と言われた。

エルダーラは「日程が合えば」と答えた。


それだけだった。


王宮へ届いた報告書にも、事実しか書かれていなかった。


参加家、8。

見学諸侯、4。

参加騎士、326名。

レグランド侯爵による直接指導。

複数領合同での小隊運用。

指揮官喪失時の行動。

退却。

伝令遮断。


そして、次回参加希望11家。


「11」


ルーヴァンが呟く。


「前回より増えた」


軍務卿が答える。


「訓練ですから。有用だと思えば増えます」


その下には、領政上の相談を持ち込んだ家の数。


14家。


「こちらも増えている」

「2家です」


宰相が答える。


「今度は何だ」

「街道整備と、領内騎士団の編制について」

「軍務まで」

「元から武門の家です」


軍務卿が言った。


「だが、当主は18歳だぞ」

「年齢と意見の中身は別です」

「分かっている!」


声が響いた。

部屋が静まる。


ルーヴァンは目を閉じ、一度呼吸を整えた。


「……すまない」


以前なら、それで終わっていたかもしれない。

だが今回は、自分へ問い直した。


「なぜ私は、これほど気にしている」


誰も答えない。

自分へ向けた問いだった。


14家が相談した。

11家が次回の訓練を希望した。

エルダーラは見返りを求めていない。

王家への不満も口にしていない。

支持を求めてもいない。


何もしていない。


それでも人が集まる。


怖い。


そう思った瞬間、ルーヴァンは初めて自分の感情に名前をつけた。


エルダーラが怖いのではない。

何もしなくても、人が集まることが怖い。


「陛下」


父を見る。


「レグランド家について、もう少し詳しく確認すべきです」


王妃がすぐに聞いた。


「何を?」

「人の出入り。金の流れ。軍務上の接触」

「何もないと報告されているでしょう」

「今は」


王妃の顔が険しくなった。


「婚約を解消するときにも聞いたわね、その言葉」


ルーヴァンが黙る。


「王家の中で力が集まりすぎるのが危険だから、エルダーラを妻にできないと言った」

「はい」

「今度は王家の外で人が集まっているから警戒するの?」


返事がない。


王妃は静かに言った。


「では、あの子はどこにいればいいの?」


誰も答えられなかった。


国王が重く口を開く。


「調査だけだ」

「陛下」

「何もなければ、それで終わる」


その言葉で、レグランド侯爵家は一段細かく見られることになった。


そして、見れば見える。

見ようとすれば、何にでも意味があるように見えた。


北東部のノルデン伯爵家から届いた書簡。

内容は冬季街道の除雪費用について。


西部のヴェスター伯爵家から、若い騎士3名を短期研修へ出したいとの申し込み。


南部子爵夫人から、娘の社交について相談。


王都の商会から、倉庫屋根の資材見積もり。


どれも単体なら、ごく普通のやり取りだ。

だが一覧へ並べれば、


『複数諸侯との継続的接触』


になる。


騎士団長グランツ・レグランドが週末に領地へ帰宅した。

自宅なのだから当然である。


しかし報告書へ書けば、


『現騎士団長、レグランド侯爵領へ帰還』


となる。


その際、騎士団所属の部下2名が同行した。

目的は家族への挨拶。


だが一覧には、


『騎士団員2名、レグランド領入り』


と残る。


エルダーラが旧知の令嬢の結婚を祝う茶会へ招かれた。

そこには侯爵夫人も、子爵夫人もいた。

普通の社交。


だが記録へ落とせば、


『複数家との接触』


になる。


事実は一つも間違っていない。

文脈だけが消えていく。


「多すぎないか」


ある日、ルーヴァンが一覧を見て言った。


接触の確認された家、27。


「1か月半で27家」


宰相が紙を見る。


「殿下。一つ申し上げても?」

「言え」

「私について同じ一覧を作れば、おそらく50家を超えます」


ルーヴァンが黙る。


「宰相だからだろう」

「はい」

「エルダーラは侯爵だ」

「侯爵でございます」

「18歳だ」

「はい」


それ以上、宰相は何も言わなかった。


ルーヴァンにも分かっている。

若い。

それだけだ。


侯爵。

元王太子妃候補。

武門の名家。

6年間の王都社交歴。


人脈があること自体は不自然ではない。

それでも、報告書を開けば数字が目につく。


「殿下」


軍務卿が言った。


「一度、見るのをやめた方がいい」

「何を」

「レグランド侯爵を」


ルーヴァンの眉が寄る。


「なぜだ」

「見すぎております」

「王家として必要だ」

「最初はそうでした」


軍務卿は机の報告書へ視線を落とした。


「今は、答えを探しているように見えます」

「何の」

「レグランド侯爵が危険だという答えを」


部屋が静まった。


「言葉を選べ」

「選んでおります」


軍務卿は引かなかった。


「私は軍人です。敵を探すとき、一番やってはいけないことがあります」


ルーヴァンは黙る。


「敵だと決めてから、理由を探すことです」

「私は決めていない」

「なら、ここでやめられます」


ルーヴァンは答えなかった。


その日の会議は、そこで終わった。


だが調査は終わらなかった。


すでに一度、重点的な確認対象として扱われた家については、情報が定期的に集められる。

報告が増えれば、それだけ重要な対象に見える。


2か月目。


レグランド領の次回訓練へ、17家から参加希望が届いた。


エルダーラ本人は増えすぎだとして断り、5家に絞った。

だが王宮へ最初に上がった数字は、17だった。


領政相談は31家。


そのうちエルダーラ本人が回答したのは9件。


残りは、


「わたくしより詳しい方へ聞いた方がよいでしょう」


として、技師、商会、法務官、別の領主へ紹介した。


結果として、人と人がまたつながった。


「……増えている」


ルーヴァンは相関図を見る。


エルダーラが何かをするたび、線が増える。

いや。

自分で答えず、適切な相手へ回しただけでも線が増える。


「これを本人は意図しているのか」


宰相は長く黙ったあと、答えた。


「おそらく、しておりません」


その方が、ルーヴァンには恐ろしく思えた。


策略なら止められる。

密約なら暴ける。

金なら流れを追える。


だが、困っている者を適切な相手へつないでいるだけなら、何を止めればいい。

止める理由そのものがない。


「……人望」


ルーヴァンが呟く。


「人望というのは、こういうものなのか」


誰も、すぐには答えなかった。


同じころ。


レグランド領では、ティナリアが机の横に積まれた手紙を見ていた。


「なんでこんなに来るの?」

「わたくしが聞きたいです」


エルダーラは少し疲れていた。


「全部読むの?」

「わたくし宛てですから」

「これ何?」


ティナリアが一通へ手を伸ばす。


「触らない」

「はい」


すぐ引っ込める。


「ノルデン伯爵家です」

「何の相談?」

「冬季輸送」

「詳しいの?」

「いいえ」

「じゃあどうするの」

「北部街道の運用に詳しい別の伯爵家へ聞きます」


ティナリアが笑う。


「また人に投げる」

「わたくしより詳しい方へ聞くのは当然でしょう」

「じゃあこっちは?」

「見ないでください」

「名前だけ」

「南部子爵家です」

「何の話?」

「娘の婚約相手について」


ティナリアの目が輝いた。


「恋バナ?」

「違います」

「見たい」

「絶対に見せません」

「けち」


エルダーラは手紙を取り上げる。


「家同士の条件が合うか、という相談です」

「好きかどうかは?」

「それも重要でしょう」

「へえ」

「何です、その顔」

「エルダーラ、そういうことも考えるんだ」


手が止まった。


婚約。

6年。

ルーヴァン。


ティナリアの顔から笑いが消える。


「……ごめん」


珍しく素直だった。


「いいえ」

「でも」

「完全に何も思わない、と申し上げれば嘘になります」


ティナリアは黙っている。

エルダーラは少し笑った。


「ですが、仕事はございますので」

「それでいいの?」

「何がです」

「悲しいとき、仕事して忘れるやつ」


エルダーラは考えた。


「忘れるためではありません」

「じゃあ?」

「悲しくても、北部の冬は来ます」


数秒、ティナリアは何も言わなかった。


それから、


「エルダーラらしい」


と言った。


「褒めております?」

「半分」

「残り半分は」

「めんどくさい」

「帰ってください」

「やだ」


そんな普通の日だった。


その日の夕方、王都から正式な使者が来るまでは。


王家の紋章。

重い封蝋。


エルダーラは応接室で書状を受け取った。

同席しているのは父、母、家令。


使者は明らかに緊張している。


「国王陛下より、書状をお預かりしております」

「ありがとうございます」


封を開く。

読む。

一度では意味を取り切れなかった。

もう一度読む。


父が聞く。


「何だ」


エルダーラは最後まで読み、それから紙を机へ置いた。


「複数領参加による合同軍事訓練、および諸侯間の継続的な連携について、その目的と経緯を説明するように、とのことです」

「それだけか?」

「私的な軍事連携に該当する事実があるかについても、回答を求められております」


父の眉が寄った。


「私的な軍事連携?」

「はい」


エルダーラは使者を見る。


「つまり王家は、わたくしが諸侯を私的に束ねている可能性を確認したいのですね」


使者が慌てる。


「形式上の確認でございます」

「なるほど」


エルダーラは書状へ視線を戻した。


「それを一般には、謀反の疑いと申しません?」


使者の顔が固まった。


「い、いえ。謀反と断定しているわけでは決して」

「存じております。だから『疑い』と申し上げました」


父が立ち上がる。


「王都へ行く」

「お父様」

「直接聞いた方が早い」

「座ってください」

「だが」

「まず書面へ回答します」


父が不満そうに見る。


「こんなものにか」

「こんなものだからです。ここで感情的に動けば、それこそ説明が難しくなります」


父はしばらく黙ったあと、座った。


母が尋ねる。


「何を答えるの?」

「事実を全部です」


エルダーラは指を折る。


「他領との軍事同盟なし。兵力増強なし。通常を超える武器購入なし。王命拒否なし。上納金の滞納なし」


家令がすでに書き始める。


「合同訓練は公開。参加者名簿も提出可能。相談への回答についても、必要なら記録を確認いただきます」

「書簡も?」

「私的な内容を除き、必要なら」


家令が驚いた。


「そこまで?」

「疑いを晴らす方が先です」


父が低く言った。


「そもそも、人が相談に来ることが謀反なのか」

「お父様」

「騎士が訓練へ来ることが謀反か。領地をまともに治めることまで疑われるなら、侯爵は何をしていれば忠臣なんだ」


使者の顔色が悪くなる。


「お父様」


今度は少し強く呼んだ。

父が止まる。


「使者へおっしゃっても仕方ありません。この方が決めたわけではございません」


父は使者を見る。


「……悪かった」

「い、いえ」


エルダーラは書状を見直す。


家督継承。

合同訓練。

父は現役の騎士団長。

他領からの相談。

諸侯との交流。

そして婚約解消。


一つずつなら、何でもない。


だが、王家から見れば。


「……そういうことですか」


母が聞いた。


「何か分かったの?」

「王家からすると、すべてが一つにつながって見えるのでしょう」

「何が?」

「婚約解消の直後に、武門の侯爵家の家督を継いだ。騎士が訓練へ集まる。諸侯から相談が届く。父は騎士団長」


父が言う。


「俺が譲っただけだ」

「はい」

「訓練も毎年やっている」

「はい」

「相談は向こうから来る」

「その通りです」

「なら何もしてないぞ」

「分かっております」


母が静かに言った。


「以前なら、あなたに人が集まっても、将来の王太子妃に人が集まっているだけだった」


エルダーラが母を見る。


「今はレグランド侯爵に集まっている」

「ええ」


理屈は分かる。


だが。


「……それで疑われましても、困ります」


本当に、困る。


その夜。


エルダーラは王家への回答書を作った。


日付、人数、目的、金額、記録。

確認できる事実を、一つずつ並べていく。


父は途中で寝た。

母も部屋へ戻った。

深夜まで残ったのは、エルダーラと家令だけだった。


最後に一文を書く。


『以上をもって、当家に王家へ反抗する意図、および私的な軍事連携の事実が存在しないことをご確認いただきたく存じます』


そこでペンが止まった。


少し迷う。

そして、もう一文。


『なお、他家より信頼を寄せられること自体を問題とされるのであれば、その点については当家より説明いたしかねます』


家令が横から読む。


「……入れますか」

「だめでしょうか」

「正しいですが、少し刺さります」

「刺しております」


家令が小さく笑った。


「珍しいですね」

「何がです」

「怒っておられます?」


エルダーラはしばらく答えなかった。


「……少し」


婚約解消は受け入れた。

ルーヴァンが自分を妻に望まないなら、仕方がない。

家督は父から譲られたから継いだ。

領政は仕事だからしている。

相談は聞かれたから答えた。

訓練は頼まれたから教えた。


その結果が、謀反の疑い。


「わたくしは、何をすればよかったのでしょうね」


家令は黙っている。


「相談されても答えず、騎士に教えてほしいと言われても断り、領地も王家から目立たない程度に治める」


声が少し硬くなる。


「有能でなければよかったのでしょうか」


家令は静かに首を横へ振った。


「それでは領民が困ります」


エルダーラは目を閉じた。


「そうですね」


少しして開く。


「では、今まで通りにいたしましょう」

「よろしいのですか」

「王家に疑われないために、領地を悪く治めるわけにはまいりません」


署名する。


エルダーラ・レグランド。


「相談を受けた方へ、理由もなく冷たくすることもできません。騎士へ学ぶなとも言えません」


家門印を押す。


「事実を示して、それでも疑われるのでしたら」


赤い蝋へ印が残る。


「そのとき考えます」


回答書は翌朝、王都へ送られた。


だが、その書状が王宮へ届くより先に、別の話が諸侯の間へ広がった。


レグランド侯爵家が、王家から私的軍事連携について説明を求められた。


言葉はすぐ変わった。


王家が、レグランド家の勢力形成を疑っている。


さらに。


レグランド侯爵に謀反の疑い。


最初に聞いたノルデン伯爵は、冗談だと思った。


「レグランドが?」

「はい」

「何をした」

「合同訓練や、他家との連携を問題視されているとか」

「……それだけか?」

「今のところは」


ノルデン伯爵は笑わなかった。


「婚約を切っただけでは足りんのか」


西部を治めるアルヴェスト侯爵家では、当主ハインリヒ・アルヴェストが報告を聞いて黙り込んだ。


その向かいで、息子が口を開く。

例の模擬戦を見ていた青年だった。


「父上」

「何だ」

「これは……殿下が、まだ演習の件を気にしているだけでは?」


ハインリヒの目が鋭くなる。


「口を慎め」

「はい」

「だが」


少し考えた。


「そう思われても仕方のない順番ではある」


婚約者に負ける。

婚約解消。

令嬢が領地へ帰る。

家督を継ぐ。

普通に領地を治める。

人が集まる。

王家から説明を求められる。


「……気に入らんな」


さらに、ヴェスター伯爵家。


若い伯爵夫人が夫へ尋ねた。


「人望があることが、謀反の証拠になるのですか?」


ヴェスター伯爵は答えられない。


「騎士から信頼されることも?」

「……」

「他家から相談されることも?」

「……違う」

「でしたら」


夫人は静かに言った。


「次はあなたでは?」


ヴェスター伯爵の表情が変わった。


その問いが、最も厄介だった。


そのころ。


エルダーラ本人は領都の市場にいた。


「西門側の出店料が高い?」

「はい、侯爵様。場所代は同じなんですが、荷車を置ける場所が遠くて」

「なるほど」


エルダーラは市場図を見る。

魚、肉、野菜、荷車、水場。

動線を指で追う。


「でしたら、水場の近くに荷下ろし用の区画を――」


普通に、領主をしていた。


その一方で王都では、彼女の周囲に集まり始めたものへ、名前をつけようとする人間が出始めていた。


反王家勢力。

レグランド派。

あるいは。

エルダーラ派。


そのどれも。


まだ、存在すらしていなかった。

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