第4話 難しいことは、お前がやるのが合理だ
レグランド侯爵領の領都が見えてきたのは、王都を出て3日目の午後だった。
街道の向こう、なだらかな丘陵の上に灰色の城壁が見える。
王都のものほど高くはない。その代わり、厚い。
かつて国境が今より近く、レグランド侯爵家がこの一帯の防衛を担っていた時代から残る城壁だ。
エルダーラは馬車の窓を少し開けた。
入ってきた風は、王都より少し乾いている。
「……帰ってきましたわね」
誰に言うでもなく呟いた。
父と母は婚約解消の手続きを終え、先に領地へ戻っていた。
エルダーラは王都の残務を片づけ、2日後に発った。
婚約中も領地へは年に何度か帰った。6年間ずっと離れていたわけではない。
けれど、今までとは違う。
必ず王都へ戻る日が決まっていた。
今回は、決まっていない。
馬車が城門をくぐる。
「エルダーラ様!」
門番の声が上がり、衛兵たちが姿勢を正した。
エルダーラは窓越しに軽く会釈する。
石畳の道沿いには商店が並び、広場のパン屋には人が集まっている。
鍛冶場からは槌の音が響き、荷車を引く男の横を子供が駆け抜け、母親に怒られていた。
何も変わっていない。
自分の婚約が終わったからといって、領地の暮らしまで変わるわけではない。
それが少しだけ、ありがたかった。
侯爵邸の門が開いた。
玄関前には父と母、使用人たち。
そして、小さいものが3つ。
「お姉さまああああ!」
真っ先にアウレリアが飛び出した。
「アウレリア、走らない」
言ったときには遅い。
金色に近い淡い髪を揺らし、8歳の少女が一直線に駆けてくる。
その後ろからセルフィリアとメリディア。
同じ日に生まれた三つ子で、顔立ちもよく似ている。
けれどエルダーラは、ほとんど見間違えたことがない。
「お姉さま!」
抱きついてきたアウレリアを受け止める。
「ただいま戻りました」
「おかえり!」
セルフィリアも寄ってくる。
「おかえりなさい」
最後にメリディア。
「お姉さま、お腹すいてる?」
エルダーラが瞬いた。
「なぜ最初にそれを聞くのです?」
「だって前に、お昼ごはん食べられなかったって言ってたから」
「誰がそんなことを?」
3人が揃って目を逸らした。
「アウレリア」
「わたしだけじゃないもん!」
「まだ何も申し上げておりません」
「でも絶対わたしって言う顔してた!」
「では、やはりあなたですのね」
「ずるい!」
セルフィリアがぼそりと言う。
「自分で言った」
「セルフィリア!」
メリディアが二人の間へ入った。
「お姉さま帰ってきたのに喧嘩したらだめ」
「喧嘩してない!」
「してない」
「声が大きい」
エルダーラは笑った。
その向こうで、父が腕を組んでいる。
グランツ・レグランド侯爵。
大柄な身体に騎士団の軍服。
今日も勤務先から戻ったばかりらしい。
「帰ったか」
「はい、お父様」
「そうか」
それだけだった。
母が夫を見る。
「それだけ?」
「帰ったのだから、帰ったと言った」
「3日ぶりの部下じゃないのよ」
「6年間ずっと王都にいたわけでもない」
「そういう問題ではありません」
セレナ・レグランド侯爵夫人は、夫ほど大きな声を出さない。
けれど、この家で父を一言で黙らせられる人間は、母とエルダーラくらいだった。
母が娘へ歩み寄る。
「おかえりなさい、エルダーラ」
「ただいま戻りました、お母様」
抱きしめられる。
その温かさに触れた瞬間、身体のどこかに残っていた力が少しだけ抜けた。
「おかえりー」
別の声がした。
エルダーラは母の肩越しに見る。
玄関脇の石柱へ、栗色の髪の女が寄りかかっていた。
「……なぜあなたがおりますの」
「いたら悪い?」
ティナリア・セルヴェント。
隣接するセルヴェント子爵家の長女で、エルダーラと同い年。
幼いころからの付き合いだ。
「隣領でしょう」
「馬で半日」
「半日かかるでしょう」
「朝出た」
「なぜ」
「今日帰ってくるって聞いたから」
「誰からです?」
「うちのお父さん」
「そのお父様は誰から?」
「レグランドのおじさん」
エルダーラが父を見る。
父は頷いた。
「言った」
「なぜですの」
「ティナリアだからな」
まったく説明になっていなかった。
ティナリアが石柱から離れる。
「で、婚約なくなったんだって?」
玄関前には家族も使用人もいる。
エルダーラは目を閉じた。
「もう少し場所をお選びになれません?」
「みんな知ってるじゃん」
「そういう問題ではございません」
「泣いた?」
三つ子まで一斉にこちらを見る。
「ティナリア」
「うん」
「あとでお話ししましょう」
「分かった」
意外にも、すぐ引いた。
エルダーラは彼女を見る。
笑っている。
いつもの、あっけらかんとした顔。
ただし左手の指先が、腰の剣帯を2度叩いていた。
苛立っているときの癖だ。
「……怒っておりますね」
「怒ってない」
「では、その手は」
ティナリアが自分の左手を見た。
「あ」
慌てて離す。
「そういうとこ嫌い」
「どこです?」
「すぐ分かるとこ」
「分かりやすいのはあなたです」
母が横から言った。
「私も分かったわよ」
「え」
「門を入ってきたときから」
ティナリアが父を見る。
「おじさんも?」
「ああ」
「ほんと?」
「いや」
「おじさん!」
父が笑った。
エルダーラも、また少し笑った。
その日の夕食では、婚約解消の話はほとんど出なかった。
父は騎士団で起きた馬の脱走について話し、母は今年の薔薇が例年より早く咲いたと言った。
アウレリアは新しく覚えた歌を聞かせたがり、セルフィリアは3番の歌詞が違うと指摘した。
「3番は明日練習すればいいよ」
メリディアが言って、話は終わった。
ティナリアは当然のように夕食まで残っている。
「帰らないのです?」
「明日帰る」
「泊まるつもりだったのですか」
「おばさまが部屋あるって」
母を見る。
「ありますもの」
「そういう問題では」
「何か困る?」
「困りませんけれど」
「じゃあいいじゃん」
ティナリアは肉を口へ運んだ。
「これおいしい」
「話を聞いております?」
「聞いてる」
「返事が雑です」
「エルダーラが細かい」
父が頷いた。
「それはそうだ」
「おじさんまで」
賑やかだった。
婚約解消の書面へ署名して、まだ数日だ。
それなのに、この家では誰もエルダーラを腫れ物のように扱わない。
それがありがたかった。
食事の終わり。
三つ子が侍女に連れられて部屋へ戻ったあと、父が酒杯を置いた。
「で。殿下とは何を話した」
来た。
エルダーラは姿勢を整える。
「正式な話し合いの後ですか?」
「あの席の話は聞いている。その後だ」
エルダーラは少し考えた。
「殿下は、わたくしの影響力とご自分の権威が競合することを懸念なさいました」
父の眉が動く。
「競合?」
「騎士の皆様がわたくしの指揮を評価し、諸侯からも面会の希望が増えました。将来、殿下とわたくしの意見が割れた場合、周囲がどちらを見るのか。それを問題視されたのだと思います」
「王家も同じ考えなのか」
「いいえ」
エルダーラは首を横へ振った。
「王家が危険視したのは、わたくしの能力そのものではございません。その能力を殿下がご自分への脅威として感じ始めた状態で、婚姻を続けることです」
父は数秒黙った。
「分からん」
「でしょうね」
母が言った。
「あなたは軍の人ですもの」
「お前は分かるのか」
「要するに、エルダーラが正しいことを言うたびに、殿下が自分の立場を奪われたと思うようになったら夫婦として危ない、ということでしょう?」
「だいたいそのような話です」
ティナリアが手を上げた。
「私はもっと簡単に言える」
「嫌な予感がします」
「ルーヴァン殿下、エルダーラに負けて格好悪かったうえに、エルダーラの方が人気出て嫌だった」
「ティナリア」
母が穏やかに名前を呼ぶ。
ティナリアが姿勢を正した。
「すみません」
父は気にしていない。
「違うのか?」
エルダーラは答えに詰まった。
「……かなり雑ですが、大きくは」
「ならそれでいい」
「よくありません」
父は腕を組む。
「で。王家はうちと敵対する気なのか」
「現時点ではないと思います。婚約は解消されましたが、レグランド家への処分はなく、軍務上の関係も従前通りと明言されています」
「ならいい」
父は酒杯を取った。
本当にそれで終わらせようとしている。
「お父様。もう少し警戒なさってください」
「何をだ」
「王家を」
「攻めてくるのか」
「その可能性は低いです」
「なら来てから考える」
「来てからでは遅いのです」
「来る前から殴るわけにもいかんだろう」
「誰も殴れとは申し上げておりません」
「じゃあ何をする」
「王宮の動向を確認しながら、こちらは通常通りに」
父が頷いた。
「今まで通りだな」
「……そうです」
「なら問題ない」
ティナリアが笑う。
「おじさん強いなあ」
「何がだ」
「何も考えてないところ」
「考えている」
「何を?」
父は当然のように答えた。
「エルダーラが考えているから、それでいい」
エルダーラが父を見る。
「お父様。それは考えているとは申しません」
「役割分担だ」
母が頷く。
「合理的ね」
「お母様まで」
「だって、あなたの方が得意でしょう?」
「得意かどうかと、全部任せてよいかは別問題です」
ティナリアまで頷いた。
「でもエルダーラならできるよね」
「できますけれど」
3人が揃って納得した顔をした。
エルダーラは深く息を吐いた。
翌朝。
久しぶりの自室で目を覚ましたエルダーラは、王都の屋敷より少し低い天井を見上げた。
窓の位置も違う。
けれど、こちらの方が朝日が早く入る。
身支度を整える侍女ネリの手が、いつもより少し遅かった。
「ネリ。昨夜、妹たちに起こされました?」
櫛が止まる。
「……2度ほど」
「では午後は下がってください。今日は髪も結い直しません」
「ですが」
「休ませる理由が必要なら、わたくしが今日は怠けることにいたします」
ネリが困ったように笑った。
「ありがとうございます」
扉の外から声がした。
「そういうとこだよね」
エルダーラは鏡越しに見る。
「なぜもういらっしゃるの、ティナリア」
「朝ごはん食べた」
「聞いておりません」
ティナリアが部屋へ入ってくる。
「で、そういうとこ」
「何がです?」
「人たらし」
「違います」
「疲れてるって言わずに休ませた」
「疲れていると言われることを嫌がる方もおります」
ネリが何とも言えない顔をした。
ティナリアが笑う。
「当たってるじゃん」
「観察しただけです」
「じゃあ私が今考えてることも当てて」
「なぜです?」
「いいから」
エルダーラはティナリアを見る。
乗馬用の靴。
剣帯。
窓を先ほどから何度も見ている。
そして右の踵が小さく動いていた。
「馬に乗りたいのでしょう」
踵が止まった。
「ずるい」
「窓の外を何度も見ております」
「それだけ?」
「乗馬前は、いつも右の踵を動かします」
ティナリアが自分の足を見る。
「やってた?」
「ええ」
「知らなかった」
「ご自分のことは見えにくいものです」
言ってから、エルダーラは少し止まった。
演習場で老騎士に言われたことを思い出した。
他人のことはよく見える。
自分自身だけは、同じ距離から見られない。
「どうしたの?」
「いいえ」
「王子のこと?」
「なぜそうなるのです」
「帰ってきたばっかだから」
「関係ございません」
「じゃあ違うんだ」
エルダーラは黙った。
ティナリアが笑う。
「そこ黙るんだ」
「馬に乗るのでしょう?」
「乗る」
「先に厩舎へ行っていてください」
「追い出された」
「はい」
「素直!」
笑いながら出ていく背中を見送り、エルダーラは小さく息を吐いた。
朝食後。
庭では三つ子が花冠を作っていた。
しばらくすると、何やら言い争いが始まる。
「わたしが作ったの!」
「半分メリディア」
「セルフィリア!」
メリディアが二人の間で困っている。
エルダーラが声をかけようとしたとき。
「じゃあ」
メリディアが言った。
「アウレリアが作ろうって考えて、3人で作ったことにすればいいんじゃない?」
アウレリアが口を尖らせたまま考える。
「……それならいい」
セルフィリアも頷いた。
「いい」
数秒後には、3人とも別の花を探して走っていった。
エルダーラはその後ろ姿を見る。
庭の卓で茶を飲んでいた母が笑った。
「あなたがいなくても、ちゃんと3人で解決するようになったでしょう?」
「……そうですわね」
「少し寂しい?」
「いいえ」
即答してから、
「少しだけ」
と付け加えた。
母は笑う。
「全部あなたが見て、全部あなたが決めなくてもいいのよ」
エルダーラが母を見る。
「そんなつもりは」
「ないでしょうね」
母は茶を口へ運ぶ。
「だから言ってるの」
その意味を聞こうとしたところで、屋敷から家令がやってきた。
「エルダーラ様。侯爵閣下がお呼びです」
母が笑った。
「ほら。お父様は全部あなたに決めてもらうつもりみたいよ」
「嫌な予感がいたします」
父の書斎。
机の上には帳簿、地図、書類。
多い。
非常に多い。
しかも父の隣には家令、領政官、会計官まで揃っている。
「お父様。これは」
「仕事だ」
「見れば分かります」
父が椅子を指した。
「座れ」
「今日は休めとお母様に言われました」
「これは休みみたいなものだ」
「どこがです」
「剣を振っていない」
「基準がおかしいです」
家令が咳払いをした。
おそらく笑いを誤魔化している。
父が一枚の書類を差し出した。
「東の2村が揉めている」
「何について?」
「用水路」
エルダーラは目を通す。
上流のベルク村は、新しく開墾した畑へ回す水を増やしたい。
下流のネイス村は、渇水期の水量低下を理由に反対。
さらに共同用水路の補修についても、両村で負担がまとまっていない。
「ネイス村が補修労役を嫌がる理由は?」
領政官が答える。
「人手不足かと」
エルダーラは報告書の日付を見る。
「6月末」
「はい」
「麦の収穫期ですね」
領政官が止まった。
「……あ」
「人を出したくないのではなく、出せないのでしょう」
「では補修時期をずらしますか?」
「水を使う前に直さなければ意味がありません。ベルク村が労役を多く出し、ネイス村は収穫後に穀物か金銭で負担してください」
父が頷く。
「水は?」
「開墾地分を無条件に増やすのではなく、渇水期だけ取水上限を設けます。過去5年の水量を確認してから数字を決めましょう」
家令がすでに書き留めている。
父が言った。
「それでいい」
「まだ案です。両村の意見を聞いてください」
「その案で聞けばいい」
「……はい」
父が次の書類を出す。
エルダーラは止めた。
「まだあるのですか」
「ある」
北街道の橋。
穀物倉庫の増設。
領都の市場税。
ひとつずつ確認しているうちに、昼前になった。
エルダーラは最後の書類を置く。
「お父様」
「何だ」
「普段、これをどうなさっていたのです?」
「家令と領政官がまとめる」
「最終判断は?」
「俺」
「できていたのですか?」
「失礼だな」
父が眉を寄せる。
「できていた」
家令が微妙な顔をした。
エルダーラは見逃さない。
「家令」
「はい」
「今、何か言いたそうでしたね」
「……」
父が言う。
「言え」
家令は観念した。
「最終的なご決裁は、確かに侯爵閣下がなさっております。ただ、細かな条件整理については、我々でほぼ済ませてからお持ちしておりました」
父が胸を張る。
「それが仕事だろう」
「はい」
「なら俺が決めている」
家令は黙った。
エルダーラは理解した。
「お父様。難しいところを全部、家令たちへ投げておられましたね」
「投げてはいない」
「では?」
「任せている」
「同じです」
「違う」
ティナリアと同じことを言っている。
頭が痛くなってきた。
「まあ、それも今日までだ」
父が書類をまとめる。
「何がです?」
「お前が帰ったからな」
「はい」
「家督を譲る」
エルダーラは動かなかった。
家令も、領政官も、会計官も。
誰一人驚かない。
「……今、何と?」
「家督を譲る」
「聞こえております」
「ならいい」
「よくありません」
父が不思議そうに首を傾げた。
「なぜだ」
「なぜ、はこちらの台詞です」
「王家へ嫁がない」
「はい」
「ならレグランドに残る」
「現時点では」
「なら継げ」
あまりにも簡単だった。
「妹たちは?」
「8歳だ」
「存じております」
「お前が王家へ嫁ぐ予定だったから、将来3人の誰かへ婿を取らせるつもりだった」
「はい」
「だが、お前が帰ってきた」
父は指を折る。
「18歳。軍務が分かる。領政も今見た。会計もできる。社交もできる」
「一通りは」
「俺より早い」
「比べる対象がお父様なのは不安です」
「なら、なおさらお前でいい」
「軽い!」
思わず声が大きくなった。
部屋が静まる。
父が少し驚いた。
「珍しいな」
「何がです」
「お前が大声を出した」
「誰のせいですか」
「俺か」
「他におります?」
家令たちは全員、視線を下げていた。
絶対に笑っている。
「お父様。家督です。今日の昼食を誰が決めるかという話ではございません」
「分かっている」
「代々、騎士団長を輩出してきたレグランド侯爵家です」
「俺が今その騎士団長だ」
「だからこそ、もう少し慎重に――」
父が首を傾げる。
「何が問題なんだ」
エルダーラは言葉に詰まった。
父は淡々と続けた。
「10年待って、8歳の娘3人から後継を選ぶ」
指を一本立てる。
「今ここに、18歳で一通りできる本来の継承者がいる」
もう一本。
「どっちが合理的だ?」
「……」
あまりにも、エルダーラの使いそうな言葉だった。
「それに、俺は騎士団の方が向いている」
「それは存じております」
「領政は嫌いではない」
それは少し怪しい。
「だが細かい」
「必要です」
「数字が多い」
「当然です」
「村同士が揉めると話が長い」
「聞いてください」
「聞いている。家令が」
家令の肩が揺れた。
「聞いております」
エルダーラは額へ手を当てる。
父が言った。
「難しいことは、お前がやるのが合理だ」
静かになった。
家令。
領政官。
会計官。
誰も反対しない。
エルダーラは順番に見る。
「皆様、ご存じだったのですか」
家令が答える。
「今朝、侯爵閣下から伺いました」
「反対は?」
「ございません」
「なぜ」
家令は少し笑った。
「先ほどのお仕事ぶりを拝見して、なおさら」
「家令まで」
「難しいことは、エルダーラ様にお任せするのが合理的かと」
「その言葉を流行らせないでください」
昼食の席。
エルダーラは母と妹たちへ報告した。
「家督を継ぐことになりました」
アウレリアがパンを噛むのを止める。
「かとく?」
セルフィリアが説明する。
「お父様のかわり」
メリディアが聞く。
「お姉さまが侯爵になるの?」
「そういうことになります」
3人が顔を見合わせる。
最初にアウレリア。
「じゃあ、お姉さまずっとここにいる?」
エルダーラは少し止まった。
「王都へ行くことはございますよ」
「でも帰ってくる?」
「ここが家ですから」
「じゃあいい!」
それで終わった。
セルフィリアが尋ねる。
「わたしたちは継がなくていいの?」
「まだ誰が継ぐか決まっていたわけではないでしょう?」
母が頷く。
「そういう予定だっただけよ」
アウレリアが首を傾げる。
「じゃあ、わたしたち何するの?」
「何でも」
エルダーラは答えた。
「まだ8歳ですもの」
「騎士でもいい?」
「構いません」
「お菓子屋さんでも?」
「侯爵令嬢として可能な範囲で考えましょう」
「じゃあ、お菓子屋さんの騎士」
「なぜ混ぜるのです」
母が笑った。
やがて三つ子が別の話へ移ると、母が小さな声で聞いた。
「受けるのね」
「……はい」
「嫌なら断ってもいいのよ」
エルダーラは母を見る。
「お父様は、断れると思っておられるのでしょうか」
「思ってないでしょうね」
「ですよね」
「でも私は聞くわ」
母の声は穏やかだった。
「本当にいいの?」
エルダーラは考えた。
王太子妃になる。
6年間、そのために学んできた。
法律。
財政。
外交。
領政。
軍事。
社交。
王宮儀礼。
国を支えるために身につけたもの。
その未来は、なくなった。
けれど、そのために学んだものまでなくなるわけではない。
使う場所が変わっただけだ。
「はい」
エルダーラは答えた。
「やります」
母が頷く。
「そう」
それだけだった。
父が肉を食べながら言う。
「決まりだな」
「お父様は最初から決めていたでしょう」
「合理的だからな」
「便利な言葉として使わないでください」
午後。
ティナリアは帰り際に家督の話を聞いた。
「へえ」
反応はそれだけだった。
「驚かないのです?」
「なんで?」
「18歳で侯爵です」
「エルダーラだし」
「説明になっておりません」
「じゃあ何て言えばいいの」
「普通は、早すぎるとか」
「でも、おじさんより向いてる」
「それは否定しにくいですけれど」
「じゃあ決まりじゃん」
ティナリアは馬へ跨がる。
「次に会うときはエルダーラ侯爵?」
「手続きが終われば」
「なんか偉そう」
「侯爵令嬢だったころと家格は変わりません」
「まあいっか」
手綱を取る。
「じゃ、おめでとう」
「ありがとうございます」
馬を進めかけたティナリアが、数歩で止まった。
振り返る。
「エルダーラ」
「何です?」
「王都のこと、気にしすぎなくていいからね」
エルダーラは少し驚いた。
ティナリアは続ける。
「帰ってきたんだから」
それだけだった。
「じゃ」
馬が走り出す。
エルダーラはその背中を見送った。
考えていないようで、時々、必要なことだけ言う。
そういう女だった。
翌日。
レグランド侯爵家では、家督移譲に必要な書類が整えられた。
この国では爵位の継承は各家の継承法に従う。
存命中の家督移譲も、正当な継承者、当主の署名、家門印、中央登記院への届け出が揃えば成立する。
王家の承認状は発行されるが、それは継承を許可するものではなく、事実を確認するためのものだ。
レグランド家の第一継承者は、もともとエルダーラだった。
王太子妃となる予定だったため、婚姻後に継承から外すことになっていただけだ。
婚約が解消された。
なら、元へ戻る。
父が署名する。
エルダーラも署名し、家門印を押した。
「これでいい」
「まだ登記院へ届いておりません」
「届くだろう」
「そういう問題ではございません」
「細かい」
「必要です」
数日後。
正式な通知が届いた。
家督移譲登録。
前当主、グランツ・レグランド。
新当主、エルダーラ・レグランド。
18歳。
侯爵。
家臣たちが大広間へ集められた。
父は前へ出る。
「今日から当主はエルダーラだ」
終わった。
エルダーラが横を見る。
「それだけですの?」
「他に何がいる」
「もう少しございますでしょう」
「難しいことはお前がやれ」
「今それを使います?」
家臣たちが笑った。
エルダーラは仕方なく一歩前へ出る。
幼いころから知っている者。
王都へ行ってからこの家へ入った者。
騎士。
文官。
使用人。
一人ずつ顔を見る。
「エルダーラ・レグランドです」
全員知っている。
それでも言った。
「本日より、レグランド侯爵家の当主を務めます。父ほど剣は強くございません」
横から父の声。
「そうだな」
「お父様、黙っていてください」
また笑いが起きた。
「母ほど、この家の全員を長く見てきたわけでもございません。分からないことも、多くあります」
エルダーラは一度、全員を見渡した。
「ですから、分からないことは聞きます。必要なことは考えます。間違えたら直します。できないことを、できるとは申しません」
少しだけ間を置く。
「そして、できることをやらない理由にもいたしません」
静かだった。
「よろしくお願いいたします」
頭を下げる。
最初に拍手したのは家令だった。
領政官。
騎士。
使用人。
すぐに大広間全体へ広がっていく。
エルダーラは顔を上げた。
不思議だった。
王太子妃になるため、6年間ずっと未来へ向かって準備してきた。
その未来がなくなったとき、一度は自分には何もなくなったような気がした。
けれど帰ってみれば、仕事があった。
家族がいた。
領地があった。
人がいた。
そして、自分にできることも残っていた。
その夜。
前当主となった父は、すでに書斎から自分の私物を運び出していた。
「早くありません?」
「明日から騎士団に集中できる」
「嬉しそうですわね」
「嬉しい」
即答だった。
母も書棚から数冊の帳面を抜いている。
「お母様まで」
「領政用だから置いていくわ」
「お母様が管理していたものは?」
「説明は明日する」
「その後は?」
「あなたがやる」
「……」
難しいことは、お前がやるのが合理だ。
本当に全部こちらへ寄せるつもりらしい。
扉が開いた。
寝巻き姿の三つ子が顔を出す。
「お姉さま」
「まだ仕事?」
「寝ないの?」
「もう寝ます」
「ほんと?」
「本当です」
「じゃあ一緒に行こ」
エルダーラは机の書類を閉じた。
「8歳の皆さんより先に寝室へ向かう侯爵というのも、どうかと思いますけれど」
メリディアが首を傾げる。
「侯爵も寝るでしょ?」
「……それはそうですわね」
3人と一緒に書斎を出る。
後ろから父が声をかけた。
「エルダーラ」
「何でしょう」
「明日の朝、北倉庫の件がある」
「今言わないでください」
「忘れるなよ」
「家令に言ってくださいませ」
「もう言った」
「では、なぜわたくしにも!」
廊下に父の笑い声が響く。
三つ子も笑った。
エルダーラは少しだけ頬を膨らませ、それから自分も笑った。
婚約を解消されて、王都から帰った。
そして、ただそれだけの理由で。
レグランド侯爵家は、最も自然な継承者へ家督を戻した。
少なくとも、この家の誰も。
それ以上の意味など、考えてはいなかった。




