第3話 王太子妃には、相応しくないそうです
4敗。
その数字が王宮へ届くまで、1日もかからなかった。
正式な報告書には、もちろんそんな書き方はされていない。
王国騎士団合同模擬演習。
王太子ルーヴァン・ルディオク指揮軍、全滅判定。
エルダーラ・レグランド指揮軍、損耗なし。
実負傷者、双方とも治療を必要とする者なし。
続いて行われた個人模擬戦は3戦。勝者、いずれもエルダーラ・レグランド。
軍務上の記録としては、それだけだった。
だが、人の口は報告書よりずっと短く、ずっと速い。
王太子殿下が婚約者に負けた。
軍を率いて負け、そのあと自分から一騎打ちを申し込み、3回とも負けた。
合わせて4敗。
しかも最後は、剣まで弾き飛ばされた。
王宮へ戻ったころには、ルーヴァン自身が聞いたことのない言い回しまで出来上がっていた。
「4連敗ですって」
「声が大きい」
「申し訳ありません」
王宮の回廊で、若い侍従2人が慌てて口を閉じた。
角を曲がった先に、ルーヴァンが立っていたからだ。
「殿下。失礼いたしました」
2人の顔から血の気が引く。
ルーヴァンは何も言わず、その横を通り過ぎた。
背後で2人が息を吐く気配がした。
4連敗。
右手を握る。
もう赤みはない。
エルダーラに言われて冷やしたからかもしれない。
そんなことまで思い出して、ルーヴァンはさらに機嫌を悪くした。
自室へ戻り、扉を閉める。
負けた理由は分かっている。
模擬戦も、3度の一騎打ちも偶然ではない。
だから、次に直せばいい。
そう思っていた。
だが王宮へ戻ってみれば、聞こえてくるのは同じ言葉ばかりだった。
4連敗。
誰も直接は言わない。
侍従の口が止まり、近衛が一瞬だけ視線を逸らし、廊下で会った若い貴族が普段より妙に丁寧に頭を下げる。
誰も笑っていない。
けれど、笑われている気がする。
机の上には、演習の正式報告書が置かれていた。
ルーヴァンは椅子へ座り、最初から最後まで目を通した。
内容に虚偽はない。
エルダーラ側へ有利な書き方でもない。
ただ事実だけが並んでいる。
それが腹立たしかった。
せめて何か一つ、言い訳になるものがあればよかった。
地形条件。
戦力配分。
審判の判断。
だが、どこにもない。
むしろ演習前の戦力評価では、ルーヴァン側がわずかに上と記されている。
「……最悪だな」
扉が叩かれた。
「殿下。陛下がお呼びです」
「分かった」
来たか。
ルーヴァンは報告書を閉じた。
国王の執務室には、すでに数人が集まっていた。
国王。
王妃。
宰相。
軍務卿。
王家付きの古参顧問。
ルーヴァンが入ると、全員の視線が向いた。
「座れ」
「はい」
机の中央には、やはり演習報告書が置かれている。
国王がそれを指先で叩いた。
「まず確認する。この報告に誤りはあるか」
「ありません」
「エルダーラ・レグランドが規則に反する行為をしたという事実は」
「ありません」
「審判が彼女へ便宜を図った事実は」
「ありません」
国王はそこで一度止めた。
「では、純粋に負けたのだな」
胸の奥が熱くなる。
それでもルーヴァンは頷いた。
「はい。私の負けです」
王妃が口を開いた。
「3度の一騎打ちも?」
「すべてです」
「あなたから申し込んだのね」
「はい」
王妃は小さく息を吐いた。
「あの子、お腹が空いていると言っていたそうじゃない」
ルーヴァンが固まった。
軍務卿が横を向き、宰相は咳払いをした。
「……それは今、関係ありますか」
「ないわ。でも、あなたが3回負けた話より先にそれが耳へ入ったのよ」
「誰からです」
「あの三つ子ではないわよ」
「聞いていません」
「ならいいでしょう」
国王が眉間を押さえた。
「話を戻すぞ」
空気が変わった。
「模擬戦の敗北そのものを咎めるつもりはない。軍務演習なのだから、負けることもある」
「はい」
「むしろ、エルダーラ・レグランドの能力については高く評価すべきだろう」
宰相が数枚の紙を差し出した。
「本日午前までに軍務院へ提出された演習所感です。観覧していた諸侯、騎士団幹部、軍務官から任意で提出されています」
ルーヴァンは受け取った。
エルダーラ・レグランド嬢の指揮は、兵力の保全を第一としながら勝利条件を達成しており、実戦においても高い有用性が期待される。
部隊特性の把握が極めて精密。
下級指揮官が意図を理解しやすい命令体系も優れている。
戦力を失わず敵軍の機能を停止させる思想は、今後の演習へ取り入れる価値がある。
そして何枚かには、似た言葉が記されていた。
――レグランド嬢の指揮下で戦いたい。
ルーヴァンの指が止まった。
「お前が弱いという話ではない」
軍務卿が言った。
「お前は前へ出る指揮官だ。自ら突破し、兵を引っ張る。あれも立派な指揮の形だ」
「なら、何が問題なのです」
「問題とは言っていない。レグランド嬢は別の形を示しただけだ」
軍務卿が報告書を指す。
「自分の強さを見せて兵を引っ張るのではなく、兵が死なずに済む状況を先に作る」
ルーヴァンは黙った。
「騎士は臆病者ではない」
「知っている」
「だからこそ、生かしてくれる指揮官を好む」
返す言葉がなかった。
自分についてこい。
俺が道を開く。
それは士気を上げる。
だがエルダーラは言った。
全員で戻ってきてください。
そして本当に、一人も失わなかった。
どちらの下で戦いたいと思うか。
想像するまでもない。
国王が言った。
「ここまでなら喜ばしい話だ。王太子妃となる娘が軍務を理解し、騎士から信頼されている。王家にとって損ではない」
ルーヴァンは顔を上げた。
「でしたら、なぜ私は呼ばれたのです」
国王はすぐには答えなかった。
代わりに王妃が尋ねる。
「ルーヴァン。あなたは、あの子が騎士たちから評価されたことをどう思う?」
「優秀だからでしょう」
「それだけ?」
「何がおっしゃりたいのです」
「昨日から、あなたはあの子の評価を聞くたびに不機嫌になっているわ」
ルーヴァンの眉が寄る。
「負けた直後なのですから、多少は」
「負けたから?」
「……」
王妃は追い詰めるような言い方をしなかった。
ただ息子を見ている。
国王が引き取った。
「演習のあと、一騎打ちを申し込んだそうだな」
「はい」
「なぜだ」
「軍の指揮と、個人の剣術は別だからです」
「それを証明する必要があったのか」
「……」
「誰に?」
答えが出なかった。
一度では偶然と言われる。
だから3戦。
そう言った。
だが、誰が偶然と言うのか。
誰へ証明したかったのか。
国王が静かに言った。
「面目を取り戻したかったのではないか」
「違います」
反射的に答えた。
国王は追及しなかった。
「ならば、それでいい」
その方が苦しかった。
王妃が手元の書類へ視線を落とした。
「ルーヴァン。あの子があなたより優れている分野があることを、あなたは受け入れられる?」
「当然です」
「では、あなたとエルダーラの意見が割れたとき、騎士たちがエルダーラの方を支持しても?」
ルーヴァンは止まった。
「それは話が違います」
「どう違うの?」
「私は王太子です」
「ええ」
「最終的な判断を下すのは私です」
「あなたが正しければね」
ルーヴァンの目が細くなる。
王妃は続けた。
「では、あなたが間違っていて、エルダーラが正しかったら?」
「そんな仮定を」
「あるでしょう」
即座に返された。
「王でも間違える。王妃も間違える。宰相も軍務卿も間違える。だから人を置くのよ」
「……」
「エルダーラは、あなたが間違っていると思えば意見する娘でしょう?」
「はい」
そこは否定できない。
人前で恥をかかせるような真似はしない。
言葉も選ぶ。
それでも、必要なら言う。
「それはあの子の長所よ」
王妃が言った。
「問題は、あの子が意見することではないの」
一拍置いた。
「あなたが、それを自分への挑戦だと思うようになることよ」
ルーヴァンが顔を上げた。
「私はそんなことを」
「今はまだね」
王妃の声は穏やかだった。
「でも昨日、あなたは軍の指揮で負けたあと、自分が最も得意な剣で勝ち直そうとした」
「……」
「今日、騎士たちがエルダーラを評価していると聞いて、また顔を曇らせている」
「母上」
「私はエルダーラが危険だと言っているのではないわ」
王妃は、はっきりと言った。
「あなたが、あの子の能力を危険だと思い始めることを心配しているの」
部屋が静かになった。
国王が腕を組む。
「王と王妃の意見が違うことは問題ではない。互いを補えれば、それでいい」
「はい」
「だが、王が王妃の正しさを自分の権威への脅威と感じ始めれば話は別だ」
「私はそこまで」
「ならば、考えろ」
国王は短く言った。
「今すぐ婚約をどうこうするつもりはない。頭を冷やして、自分が何に腹を立てているのか考えろ」
また、その言葉だった。
――念のため冷やしてください。
ルーヴァンは無意識に右手を見た。
「……分かりました」
翌日になっても、ルーヴァンの考えは変わらなかった。
3日後も。
1週間が過ぎても。
エルダーラに問題があるとは思っていない。
優秀だ。
礼儀もある。
王家への忠誠にも疑いはない。
それでも、考えれば考えるほど、一つの不安だけが大きくなった。
今後も同じことが起きる。
自分が判断を誤る。
エルダーラが正す。
周囲が彼女を見る。
自分ではなく。
2週間後。
再び王宮で話し合いが開かれた。
「私から申し上げます」
ルーヴァンが言った。
「婚約を解消したい」
王妃の表情が変わった。
国王はしばらく息子を見たあと、尋ねた。
「理由を言え」
「今後、私とエルダーラの意見が割れることはあるでしょう」
「当然だ」
「そのとき、周囲が彼女を支持する可能性もある」
「それもあるだろう」
「それが続けば、王家の中に二つの中心ができます」
「できるとは限らん」
「ですが、可能性はある」
国王が目を細める。
「それで?」
「王太子が二人いるような状態は、国にとって好ましくありません」
王妃が静かに聞いた。
「エルダーラは王太子ではないわ」
「周囲がそう扱えば同じです」
「誰も扱っていないでしょう」
「今は」
ルーヴァンは続けた。
「騎士たちは彼女の下で戦いたいと言った。諸侯からも面会希望が増えている。今後、彼女の影響力はさらに強くなります」
「それは王太子妃として望ましいことでもある」
宰相が言う。
「王家へ人望のある者を迎えるのだからな」
「限度があります」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
ルーヴァン自身も気づいた。
だが、もう止まれなかった。
「軍への影響力。諸侯からの信望。レグランド侯爵家という後ろ盾。そのすべてを持った王妃が、王と違う意見を持ったとき、何が起きますか」
国王はしばらく黙っていた。
「分かった」
「陛下」
王妃が見る。
国王は首を横へ振った。
「婚約解消を認めると言ったのではない」
そしてルーヴァンへ視線を戻した。
「だが、お前が何を恐れているのかは分かった」
「私は国のために」
「そう思っているのだろうな」
国王の声には怒りがなかった。
「だから厄介なのだ」
ルーヴァンは黙る。
「エルダーラの能力そのものを危険視しているのではない。お前は、自分と違う結論を出すかもしれない妻が、自分より支持されることを恐れている」
「……」
「その状態で無理に婚姻させれば、本当に二つの中心ができるかもしれん」
ルーヴァンが顔を上げる。
「なら」
「原因はエルダーラではない」
国王は言った。
「お前たち二人の関係だ」
それから婚約の扱いは、王家だけでは決められなくなった。
レグランド侯爵家との協議が始まった。
エルダーラに瑕疵はない。
レグランド家にも問題はない。
軍務上の関係を損なう理由もない。
それでも、将来、夫が妻の能力を脅威として見る。
妻が正しい意見を口にするたび、夫が権威を傷つけられたと感じる。
そんな婚姻を続けることが、本当に両家のためになるのか。
レグランド侯爵は、王家から事情を聞いたあと長く黙り、一言だけ言った。
「娘を嫁がせる理由がなくなったな」
それで、ほとんど決まった。
最終的に王宮が用意した文言は、ひどく曖昧なものになった。
将来の国家運営に関する方針の相違。
王太子夫妻として求められる役割について、双方の考えが一致しない。
両家協議の結果、婚約を円満に解消する。
きれいだった。
誰にも非がない。
誰も悪くない。
そのように見える文章だった。
「……円満?」
エルダーラが書面を読んで言った。
王宮の小応接室。
いるのはエルダーラ、ルーヴァン、国王、王妃、そしてレグランド侯爵夫妻。
両家だけの場だった。
「形式上の表現だ」
国王が答える。
「そうですか」
エルダーラは頷き、もう一度書面を見る。
それ以上何も言わないので、国王の方が落ち着かなくなった。
「何か聞きたいことはないのか」
「ございます」
エルダーラは顔を上げ、ルーヴァンを見る。
「殿下がお望みになったのですか?」
真正面から聞かれた。
ルーヴァンは答える。
「そうだ」
エルダーラは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「承知いたしました」
レグランド侯爵が娘を見る。
夫人も。
エルダーラは書面を机へ戻した。
「婚約解消をお受けいたします」
王妃が口を開いた。
「エルダーラ。あなたに落ち度があったわけではありません」
「存じております」
即答だった。
ルーヴァンの胸が、わずかにざわつく。
「あくまで将来を考えた上での判断なの」
「はい」
「あなたの能力を否定したものでもないわ」
「はい」
王妃がそこで言葉に詰まった。
優秀であることは認めている。
だが、その優秀さを夫となる男が受け止められない。
本人へどう説明すればいいのか。
エルダーラが先に言った。
「殿下にとって、わたくしは王太子妃として相応しくないのでしょう?」
ルーヴァンが顔を上げる。
「エルダーラ」
「違いますか?」
責める声ではない。
本当に確認しているだけだった。
「わたくしに何らかの瑕疵があれば、書面へ記されるでしょう。ですが、ございません」
淡々と続ける。
「レグランド家にも処分はない。王家との軍務上の関係も維持される。でしたら、問題はわたくし個人の能力か、殿下との関係性です」
「……そうだ」
ルーヴァンはようやく答えた。
エルダーラは頷いた。
「でしたら、承知いたしました」
あまりにも簡単だった。
それが、なぜか腹立たしかった。
「お前は、何とも思わないのか」
初めて、エルダーラの顔にわずかな変化が出た。
「何とも、とは?」
「6年だぞ」
「はい」
「6年婚約していた。それを『承知しました』で終わらせるのか」
言ってから、ルーヴァン自身が何を求めているのか分からなくなった。
婚約解消を望んだのは自分だ。
なのに、エルダーラがあまりにも静かに受け入れるから、何かを否定されたような気がする。
彼女はしばらくルーヴァンを見た。
「では、どうしてほしいのでしょう?」
「……」
「泣けばよろしいですか」
「そうではない」
「撤回をお願いすれば?」
返せない。
「殿下がお望みになった婚約解消を、わたくしが拒めばよろしいのでしょうか」
エルダーラは声を荒らげなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「殿下。わたくしは、殿下の判断を尊重しております」
その言葉に、一瞬だけ胸が軽くなる。
次の言葉で沈んだ。
「だからこそ、覆そうとは思いません」
「……」
「殿下が考えた上で、わたくしを妻にしないと決めたのでしょう?」
ルーヴァンは答えられなかった。
エルダーラが相応しくない。
本当にそうなのか。
優秀だ。
それは分かっている。
むしろ、優秀だから。
その先を考えた瞬間、模擬戦が頭へ浮かんだ。
罠だと疑った。
それでも、自分なら突破できると思った。
自信がある者ほど、自分の得意な答えを選ぶ。
今も同じなのかもしれない。
「私は……国のためだと考えている」
やっと出た言葉だった。
エルダーラは、ほんの少し悲しそうに笑った。
「でしたら、なおさらでございます」
それ以上は何も言わなかった。
レグランド侯爵が低い声で確認する。
「婚約は解消。我が娘およびレグランド侯爵家に処分なし。王家との軍務上の関係も従前通り」
「その通りだ」
国王が答えた。
「承知した」
侯爵は立ち上がる。
「では帰る」
「あなた」
妻が呼び止めた。
「何だ」
「まだ署名が終わっていません」
「そうか」
侯爵は何事もなかったように座り直した。
エルダーラが小さく息を吐く。
ほんの少し、笑ったようにも見えた。
レグランド夫人が娘の手を軽く叩く。
「帰ったら甘いものでも食べましょう」
「お母様」
「あなた、演習の日もお昼が遅れたのでしょう?」
「なぜご存じなのです」
「妹たちがずっと話していたわ」
ルーヴァンは顔を背けたくなった。
4回負けた。
お姉さまが勝った。
お腹が空いていた。
きっと全部、三つ子は家で話したのだろう。
両家が書面へ署名する。
6年間の婚約は、数枚の紙で終わった。
王宮から正式発表が出たのは、その日の夕方だった。
将来の国家運営に関する方針の相違。
双方合意。
円満な婚約解消。
貴族社会は、表向きそれを受け入れた。
「そうですか」
「残念ですわね」
「お二人ともまだお若いのですから」
「より良い縁がございましょう」
夜会でも、茶会でも、誰も王家を公然とは批判しない。
だが、王宮の発表と、人がどう受け取るかは別だった。
ある伯爵家では、夕食の席で娘が尋ねられていた。
「お前、あの演習を見ていたな」
「はい」
「どうだった」
娘は少し考えた。
「殿下は強かったです」
「レグランド嬢は?」
さらに考える。
「……殿下を、強いまま負かしました」
伯爵が眉を上げた。
「どういう意味だ」
「殿下が弱かったから勝ったようには見えませんでした」
娘は答える。
「殿下が強いから、その強さを利用されたのだと思います」
伯爵はしばらく黙ったあと、
「なるほどな」
とだけ言った。
東部を治めるエーベルハルト・グライゼン侯爵は、演習報告書と婚約解消の通知を並べて見ていた。
軍務にも長く関わってきた老侯爵である。
「王家も難儀なことだ」
向かいにいた息子が聞く。
「何がです?」
「王太子より弱ければ、王妃として頼りない。同程度なら問題ない」
グライゼン侯爵は紙を置いた。
「強すぎれば、今度は王太子の面目を潰すらしい」
息子が黙る。
「では、娘はどの程度優秀ならちょうどよいのだろうな」
その言葉が、その家から外へ出ることはなかった。
だが、似たような疑問は王都のあちこちに残った。
誰もまだ怒ってはいない。
婚約は当人同士と両家の問題だ。
王太子が誰を妻にするかについて、諸侯が口を挟むべきではない。
レグランド家自身も受け入れた。
なら、それで終わり。
ただ、覚えられた。
王太子ルーヴァンが婚約者との模擬戦で負けたこと。
続く一騎打ちでも3度負けたこと。
その2週間後、6年続いた婚約が終わったこと。
公式の理由は、方針の相違。
それだけは、誰も忘れなかった。
翌朝。
エルダーラは王都を出た。
荷物は多くない。
王太子妃教育のため王都で使っていたものの大半は、すでにレグランド家の屋敷にある。
馬車が王門を抜ける。
窓から、王都が少しずつ遠ざかっていく。
6年。
ここへ嫁ぐつもりでいた。
将来は王妃になり、王家を支える。
ルーヴァンを支える。
必要なら意見する。
そういう未来を、当然のものとして考えていた。
それがなくなった。
馬車の中には誰もいない。
エルダーラは少し長く目を閉じた。
悲しくないわけではない。
悔しくないわけでもない。
6年は、6年だ。
昨日まで存在していた未来が、今日からなくなる。
合理だけで消せるものではなかった。
けれど、なくなったものを、あるものとして扱うこともできない。
目を開ける。
王都の城壁は、もう小さくなっていた。
「帰りましょう」
領地へ。
父と母がいる。
8歳の妹が3人いる。
隣の領には、きっと事情を聞く前に「おかえり」と言う女もいる。
王太子妃ではなくなった。
なら、次にできることを考えればいい。
エルダーラはそう思った。
このとき。
王家も、ルーヴァンも、諸侯も、そしてエルダーラ自身も。
彼女が王都へ戻るより先に、王都の方が彼女を恐れ始めることになるとは。
まだ誰も知らなかった。




