ep2 その世界は目まぐるしく
彼は、半袖をまくった腕を掻きながら、黙り込んでいる。
毎日、こういうことの繰り返しだ。少し、自分が存在する場所を見失いそうになる。
鑑定人になる前は——みんなの道しるべになりたい、なんて思っていた。
子供の頃、まだ自分の点数を気にもしていなかった頃。
僕の祖母が死んだあの日、
最期に祖母は、「あんたは、人の役に立つ人間になるよ」と言って、僕の頭を撫でた。
それが、長く、苦しく胸に残っていた。
——僕は、誰かの道しるべに、なりたかったんだ。
けれど今は、ただ現実を理解していくこと以外に、進む道なんてないように思える。
彼もそうだ。つかめるはずの現実を拒みながら、つかめない未来ばかりを欲しがっている。
——あぁ、なんて、愚かなんだろう。
それが彼にだけ向けた言葉なのか、自分でも、よく分からなかった。
そんなことを考えた後、僕は口を開く。
「とりあえず、今垣さんは前職の工務店でも、評価は決して低くなかったんですよ」
「今日来てくれたのは、すごく良かった。少しレベルアップして——たとえば“エンジニア”なんて、どうです?」
エンジニア、という言葉に、具体性なんて一つもない。ただ、彼を満たすことだけを考えて、口にした。
「エンジニアなんて……ぼ、僕には、経験もないし……」
もう少し。
「いや、今垣さんになら、向いてるかもしれませんよ」
「今垣さんの学習力なら、工務店の経験もちゃんと生きます。これから目指す目標としても、いいと思いますよ」
ないはずの夢を、どうにか実体化させる。
「そ、そうですか。ぼ、僕、がんばりたい、かもです……!」
そう。これだ。
彼は急に顔を上げて、僕を見た。
「あの……先生が、いてくれて。僕、先生と話すと、まだ大丈夫かもって、思えるんです」
——。
それは、いちばん聞きたくない言葉だった。僕は、彼に何もしていない。ありもしない希望を、それらしく並べただけだ。
なのに彼は、それを救いだと思って、頭を下げる。
「……いえ。こちらこそ」
うまく笑えていたかは、分からない。
「いいと思います。じゃあ、まずクリアしてほしいタスクをいくつか出しますね。それをこなして、もう一度できそうか試してみましょう」
「とりあえず、今ご自身の評価値アプリ、開けますか」
——いつもの流れを、また繰り返す。
結局、鑑定人にできることなんて、ほとんどない。ただの相談屋だ。彼らを満たすことでしか、存在できない。
罪人のような気持ちにすら、なる。
「ありがとうございました! が、がんばります!」
変わらない儀式を終え、彼はまた、満足げに帰っていった。
——彼が、タスクをこなすことはない。何度も繰り返してきた同じ儀式が、また始まるんだろう。そう思うと、辟易する。
だが、これが求められていることだ。僕らが、ここにいる理由だ。
デスクに戻り、顧客データに彼の更新情報を打ち込む。
10/21 11:00 来客予定 → 予定の十分前に来訪。熊田工務店退職の理由をヒアリング後、タスクのクリアを要求。見込みな──
入力の途中で、手が止まった。
見込みなし。
そう打とうとしていた。さっきまで頭を下げていた、あの不器用な笑顔を思い浮かべながら、僕の指は、迷いもなくその四文字を綴ろうとしていた。
自分は、いつから、こんなことを思うようになったんだろう。
正気に返って、打ちかけた悪意を消す。
10/21 11:00 来客予定 → 予定の十分前に来訪。熊田工務店退職の理由をヒアリング後、タスクのクリアを要求。
消した。
——けれど、消したところで、そう思ってしまった事実は、消えない。
画面には、何事もなかったように、整った一行が並んでいる。僕の頭の中にだけ、「見込みなし」の四文字が、薄く灰みたいに残っていた。
——次の来客が、もうすぐ来る。
その次も。その次も。——
「いつになったら、大企業で働けますか?」
「私に向いてるもの、教えてほしいの」
「やりたいことはあるんだけど、向いてないのかなあ、なんて思っちゃって。ね、ふふ」
同じ問い。同じ顔。同じ、満たすだけの言葉。それを、一日中、繰り返した。
気づけば、窓の外は暗くなっていた。
机の上を片付け、帰る前に、明日の来客だけ確認しておく。
11:20 相馬 隆 24歳 前回 8/26 累計5回
13:00 中川 愛子 31歳 前回 9/1 累計2回
15:00 神田 悠馬 30歳 初回 累計 ―
16:30 西田 ──
指が、止まった。
「神田……?」
中学の同級生の名前が、そこにあった。
そして、その横に——“評価値87点”。
救いなんて、必要のないはずの男がそこにいた。




