ep3 その願いは公転して
翌朝、デスクに着いてからも、「なぜ」という言葉は頭から離れてくれなかった。
なぜ、彼が、よりにもよって僕のところへ来るのか。救いなんて要らないはずの人間が。同級生だから? それとも——。
考えても、答えは出ない。いつもの、仕事終わりの気怠さとは違う。
もっと落ち着かない何かが、胸の底に居座っていた。
少し、怖いとさえ思う。まるで、自分が試されているような。
訪問は、15時。その数字が、わずかな猶予のように思えた。
——
11時すぎ。予定より少し早く、"相馬隆"が事務所の扉を叩いた。
「先生、よろしくお願いします」
長髪に、きちんとしたスーツ。曇りのない声の青年が、深々と頭を下げる。
「よろしくお願いします。どうぞ」
彼にまで、少し試されているような気がした。
——いや。ただ、僕が少し浮ついているだけ。
気を取り直して、いつもの“業務”に入る。
相馬くんは、若い。
そして、自分のやりたいことを、ちゃんと持っている。今日は、結婚の報告のために、
相手の親へ自分のデータを提出したい、という相談だった。
評価値は、50点前後。
特に、問題はない。彼の相談には、いつも気持ちよく乗れた。
彼の依頼を引き受け、手続きを進める。
データの管理は厳重で、書いてもらわなきゃいけない書類も多い。
手を動かしているうちに、いつもの感覚が戻ってきて
——さっきまでの「なぜ」を、しばらく忘れていられた。
「ありがとうございました」
青年はまた深く頭を下げて、事務所を出ていった。
——
13時。予定だった中川さんから、キャンセルの連絡が入った。
よくあることだ。けれど、今日に限っては、少しだけ、都合が悪い。
また、受験の前日みたいな、落ち着かなさが戻ってきた。
指先が、わずかに冷たい。
自分が何者であるかを言い聞かせるように、残っている今日の事務に手を付けた。
集中。とりあえず。目の前のことに。
作業をこなしていると、時計はついに、14時50分を指していた。
ピーン、ポーン。
呼び出し音がいつもより、やけにはっきりと聞こえた。
僕は、ひとつ息を吐いてから、扉を開けた。
——やっぱり、だ。
十年ぶりに見る顔は、それでも、彼なのだと僕に知らせた。
無造作に下ろした黒い前髪。その隙間から覗く目は、澄んでいて、迷いの影がない。
白いシャツを一枚、ただきれいに着ていた。
肌は白く、表情は穏やかに見えて。
それは、彼の自信なのか、僕の憧れていた気持ちなのか。わからなかった。
「久しぶり。雨宮。……覚えてるか?」
「あぁ。覚えてるよ」
中学の頃、神田とは違うグループで、特別に親しかったわけじゃない。
それでも、彼のことはよく覚えている。
誰といても、神田はどこか光って見えた。
その場の空気を、自然と軽くしてしまうような。
そんな彼に少し——
「よかったぁ。やっぱり、ちょっと恥ずかしいなと思ってさ」
神田は、昔と同じ顔で笑った。
十年分の時間が、その笑い方にだけは、乗っていないみたいだった。
その笑顔を見ていると、ふっと、肩の力が抜けた。すり減って、いつのまにか強張っていた何かが
——昔の自分に戻るみたいに、少しだけ、ゆるんだ。
「どうぞ。お茶出すから、座って」
彼は部屋をぐるりと見渡してから、穏やかにソファへ腰を下ろした。
ただ自然に。
きっと、どんな場所に座っても、こうなのだろうと思わせた。
僕も正面に腰を下ろす。不思議と、さっきまでの落ち着かなさは、薄らいでいた。彼の声が、彼の笑い方が、この部屋の空気をやわらかくしている。
——どんな相談でも、来い。久しぶりに、そう思えた。
「それで。今日は、どうしてここに?」
「あー……。あのな」
神田の声が、ふと、濁った。
「俺さ」
僕には、わからなかった。
彼が急に手を握りしめたのも、少し声が震えたのも。
彼は少しだけ息を吸い込んで言った。
「ヒーローに、なりたいんだ」
——。
一瞬、言葉の意味が、うまく入ってこなかった。
ヒーロー。子供の作文みたいな。
その言葉が、胸のあたりに、小さく引っかかって残る。
だけど——それが正しい願いなのだと、そう疑えない自分が、僕の喉を締めて、離さなかった。
お読みいただきありがとうございました!
次回更新は6/28日です!




