一章『火のない蝋燭』 ep1 変わらない
扉を開けると、来客の一人である【今垣良太】が立っていた。11時の予約より、10分早い。
背中に見えない重りでも提げているような前のめりの猫背で、僕と目が合うと、申し訳なさそうに視線を落とした。
「こんにちは。どうぞ、お入りください」
来訪者のこわばりをほどくように、声を柔らかくして、案内する。
彼を部屋の中央のソファへ案内し、僕はテーブルを挟んだ向かいに腰を下ろす。冷蔵庫で冷やしておいたお茶を、彼の前に置いた。
「前回は、二か月前くらいでしたかね。最近はどうですか」
データを開けば、彼の二か月はすぐにわかる。
だけど、彼から話してもらわないとこの空気が動かなそうだ。
「あ、あの、最近いろいろあって……」
「あの、いつも前と同じような質問になっちゃうんですけど、いいですか」
彼は一度、口ごもった。膝の上で、両手の指がもつれている。
少し考えて、見当をつけてから、頷く。
「ぜひ、聞かせてください」
申し訳なさそうな声だった。けれど、何かの糸が切れたみたいに、彼はまた話し始めた。
「あの、えっと、ちょっと前に仕事を辞めたんですけど──」
頷きながら彼の言葉に耳を傾ける。
「で、新しいのが、見つからなくて。いや、辞めたのは、その、僕が悪いんですけど。評価値を見ても、ずっと点数が上がってなくて。だから、合ってないのかなって。どうしても、工場で働くのは、違う気がして」
僕は、彼の手元から、テーブルの造花へ目を移す。
「だから、その、どうやったら、もっといい仕事につけるか……教えてくれませんか。あの、はい。はは」
彼は自分をあざ笑うように、最後に少し笑った。
データとの食い違いはない。彼は先月まで働いていた熊田工務店を退職していた。
評価値34点 低い数値だが何の仕事もできない状態ではない。
「前回は、何でもいいから仕事に就きたいみたいな感じだったと思うんですけど、今回は、新しい仕事にまた就きたいみたいな感じですかね。」
彼を落ち着かせるように口調を少し崩して問いかけてみる。
「そうですね。その、何かやりたいことが、すごいわかってるわけじゃないんですけど、ただ、今のこの点数じゃダメだなっていうのもわかってて、だから、点数を上げたいのと、何したらいいかを、ちょっと相談したいです。」
「わかりました。ちょっとデータもう少し確認しますね。」
「あっ。そのお茶全然飲んでくださいね。」
また、少しずつ心を溶かすようにそう言葉を添え、ゆっくりと時間をひとりでに歩かせる。
──少し自分も落ち着いて整理する。
点数の低い人間は、たいてい同じ理由で低い。能力じゃなく、システムが用意したタスクを後回しにしてきただけだ。
タスクは、ばかばかしいほど単純なものばかり。学生なら勉強や運動。働く者なら、生活習慣を整える、その程度。要するに、自分を律するための小さな宿題で、世界は埋め尽くされている。それを先延ばしにした人間から、順に置いていかれている。
それだけの話だ。
けれど、取り返しがつかないわけじゃない。今あるタスクを一つずつ片づけていけば、点数は、ちゃんと上がる。
だから「点数を上げたい」という問いに、僕の答えはもう決まっている。依頼者の場合も、例外じゃない。
問題は、そこじゃない。
「仕事」だ。彼が、何の仕事を望んでいるのか。それを聞かないかぎり、この話は一向に進まない。
僕は画面から顔を上げた。
造花の赤が、視界の端で少しだけ揺れる。
「ちなみに、やりたいお仕事などはどういったものを想像されてますか?」
「…………」
彼の答えを待つが答えは返ってこない。
あぁまただ。
進んでいた時間が一気に沈み、また自分の時間がすべて無意味に思えた。
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