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ファンタズマの長い午後 03


01


 ガルターク百万年の歴史の最も深い闇――“劣性魔力排斥法”。


 それは、魔法が“魔ののり”と呼ばれる理由。

 それは、魔術師の邪悪なる真理。

 それは、人類の悪意の極北。


 ……いや、その表現は適切ではないかもしれない。

 この非人道の極みと言える政策に悪意は存在せず、ただ学術的意義があるだけだからだ。


 法規の内容自体は単純だといえる。

 魔導帝国全ての人民は――皇族から奴隷まで例外なく――生まれた直後に潜在的な魔力を検査するというものである。


 “魔力”とは、ファンタズマ全ての生物が生まれつき身に付けている神秘の力であり、魔法を生業とする者が最も重要視する要素だった。

 魔術師を自動車に置き換えて例えると、魔力とはエンジンとガソリンを兼ねた部品だといえる。

 無論、自動車を走らせるには他の部品やドライバーの存在が必要なように、魔術師になるには知識の習得と厳しい修行が必須ではあるが、おおまかな認識としてはこの“魔力”こそが魔術師の根幹をなすキーパーツだと断じてもいいだろう。


 話を戻す。

 法令に従って身体に宿る魔力量を調べられた新生児は、その大小によって今後の運命は二極化されることになる。

 魔力量がある規定ラインより大きい子は、そのまま親の元に返される。後はゲルターク帝国民として平穏な生活を送る事ができるだろう。


 だが、そのラインを下回った不幸な赤子には悲惨極まる末路が待っていた。

 その場で親元から引き離されると同時に、あらゆる人権が剥奪。および戸籍からの抹消。

 即座に星振塔所有の実験場ラボに送られた後、高度に効率化された育成システムによって家畜のように成長させられる。

 その後に待つ運命は、魔道具マジックアイテムの材料や新規魔法の実験体だ。もはや彼等は人間として扱われず、例外なく苦痛と絶望に満ちた最期を迎えることになるのだ。


 ……いや、最期を迎えられる者はマシな方かもしれない。

 皇都ガルタニカに長年伝わる都市伝説の中には、この巨大都市に密かに建造された巨大魔力炉の生体部品として実験体が使用され、今も死ぬ事すらできすに苦しみもがいている……というものがある。

 星振塔の魔術師たちは、その噂を否定しなかった。


 こうした実験体の数は膨大で――実に新生児の三分の一が選ばれるという――その時点で“使いきれなかった”者たちは、皇都外周部の収容エリアに隔離されて、実験の順番を待つことになる。その期間、星振塔から収容エリアに与えられるのは最低限の合成食料と治安維持用ゴーレムだけだ。

 それはもはや“人間牧場”と言うべき無残なものだが、実験体の中には他国の捕虜やシューレント自由帝国から購入した奴隷も混ざっているので、そうした者たちを中心に最低限のコミュニティが築かれてはいた。

 ただしそれは、屠殺の順番を待つ家畜の檻でしかないのだが……


 驚くべき事に、この劣性魔力排斥法に抗議する帝国民はほとんど存在しなかった。

 元よりガルターク魔導帝国は、それ自体が巨大な魔法の研究施設として作られた国なのである。百万年の長きに渡って継続していた強固なシステムは、帝国民に『それがごく普通の日常』として定着させる事に成功していた。


 ――あの5年間が無ければ、この常識改変は今も続いていただろう。


 魔女帝フロラレスが皇位に就き、家族を失って『白雲の間』に引きこもるまでの、わずか5年間――その間だけ劣性魔力排斥法は施行されずにいたのだ。

 この百万年の歴史に比べれば瞬きにも満たないだろう5年間は、家畜の心を持っていた“劣勢魔力”の持ち主に、人間の尊厳を思い出させたのである。

 それは、このファンタズマ最長の歴史を持つ巨大帝国の心臓に打ち込まれた、確かなくさびだった。



02


「風がとっても気持ち良いですわぁ……わたくし、空からの景色を見るのが大好きなんですの」

「はぁ」

「ほらほら、ガルガ山脈があんなに小さく見えましてよ!」

「は、はぁ」


 子供のように無邪気に窓の外に顔を突き出している“圧倒的な”後ろ姿に、ミルゴ村の美少年司祭(見習い)――ショータは困惑の呟きを返した。

 ほんの10分前までは、ショータは他の治療師6人と共に東の治療院へ箱馬車で移動している最中だったのである。

 しかし突然、巨大な白い蝶型ゴーレムに襲撃を受けて……あとはバイケンに拉致されたアニスと同じ流れで、ガルターク魔導帝国への空の旅を満喫させられているのだ。


 ただし、アニス側の襲撃とは3つの異なる展開があった。


 まず1つ目――ショータ以外の同行者が馬車ごと捨てられる事はなく、彼と一緒に拉致された点だ。

 いわば巻き添えを食った治療師たちは、全員がショータの足元で倒れ伏し、ピクリとも動かずにいる。命に別状はないようだが完全に意識を失っていた。

 彼等が今の状態になったのは、蝶型ゴーレムの襲撃と同時に黒い煙かもやのような何か――砂蟲の群れ――が、箱馬車の中に侵入してきた直後だった。

 ショータの魔法の知識は絵物語で得た程度の素人同然だったが、それでもあの黒い霧状の何かが魔法の産物であること、つまり今、自分たちが魔術師に襲撃を受けたこと、それがガルターク魔導帝国の企てであることは、ここ最近の事件から推測する事ができた。


 そして二番目の違い――当然の話ではあるが、襲撃者がパンクロッカーではなかった事だ。


「よいしょよいしょ……ううう、狭いですわ……」

「はっ? え? えぇええ!?」


 黒い靄が治療師たちを気絶させた直後、馬車の中に侵入しようとしてくる“それ”を見て、ショータは目を丸くした。

 成人1人がなんとか通れる程度の大きさしかない箱馬車の出入り口に、直径3mに達する巨大な紫色の塊が入り込もうとしているのである。

 数分間に及ぶ悪戦苦闘の挙句、狭い穴の中を柔らかいゴムマリが無理矢理通り抜ける調子で、紫色の巨大な“それ”は何とか馬車の中に侵入する事に成功したのだった。


「ふぅ……やっと入れましたわ……って、あらあら! こちらが当たりでしたのね!」


 額の汗を拭いつつ振り向いた“それ”が、唖然とする少年に上品な笑みを浮かべるのを見て、初めてショータはその巨大な塊が、紫色のドレスを着た身長220cm&胴回りの直径が3mを超えるという凄まじい肥満体の女性である事に気付いた。


「ショータ様……ですわね」


 極太の腸詰ソーセージのような指でドレススカートの両端をつまみ、身を屈めながら静かにお辞儀する姿は、貴族階級の御令嬢風な容姿に相応しい高貴さに満ちている。

 あの体格に目をつぶれば、だが。


「ワタクシの名は“ムシヒメ”。ガルターク魔導帝国“五本指”の一指ですわ。以後お見知りおきを」


 薄紫色の縦ロールヘアを揺らしながら、ムシヒメはショータに屈託のない微笑を向けた。濃い紫色の瞳に邪気は少しも存在しない。

 華麗な美貌には無駄な肉は一切付いていないが、首から下の限界まで膨らませた風船のような体型とは全く釣り合っておらず、むしろショータは得体の知れない不気味さを感じていた。


「僕を誘拐するつもりですか」

「そういう事になりますわね。抵抗しなければアナタにお痛はしませんから御安心下さいませ。御同行の方々も気絶しているだけですわ」

「……本命はレミュータさん……ですね」

「あら、お分かりですのね」


 少年の眼差しは怯えつつも、強い光が宿っていた。

 身近にサキュバスの魔王や天才少女がいるのであまり目立たないが、ショータも十分に聡明と言える子供なのである。アニスほど明確ではないが、自分が誘拐される理由は何となく推測できた。


「レミュータさんに何を要求するつもりですか? うちは控え目に言ってとてもとっても貧乏なのでお金はないですよ! いや本当のホントにマジで!」

「……よく分かりませんが、苦労なさってますのね」

「……ハイ、正直言って今のお手伝いをするようになってから、日々のご飯に苦労する事はないのが有り難いくらいです……ホント、なぜあの食事量でマザーウィル様は太…あの体型になっちゃうのでしょうか……」

「……本当に、苦労なさっていますのね……飴ちゃん、お食べになります?」


 少し顔色を暗くした少年にそっと突き出された、突起の付いたクッションのようなムシヒメの掌上に、透明なセロファンに包まれた極彩色のドロップがいつのまにか大量に出現していた。きっと魔法を使ったのだろう。


「ワタクシ、緋果味が好きなんですの」

「じゃ、じゃあ僕は紫玉味で――って、話が反れました。レミュータさんに何をさせるつもりですか!?」

「それはこのお空の旅が終わってから説明しますわ」


 ショータに紫色の飴を手渡しながら、ムシヒメは再びあの無邪気な微笑みを浮かべた。

 外見年齢に似合わない、童女のような笑い――


「ガルタークまでの数時間……ねぇ、その間にワタクシとお喋りしませんこと?」

「え?」


 ずぃ


 ムシヒメの吐息が少年の眼前に迫る。彼女はほんのわずかショータににじり寄っただけだが、あまり広いとはいえない馬車の中でムシヒメの巨体は、それだけでショータに身を寄せ合う事になってしまうのだ。


「ワタクシ、同年代の殿方とお喋りする機会があまりなくて、ちょっと憧れてましたの」

「えぇ?」


 どう控え目に見ても二十歳前後に達しているであろうお姉さんの告白に、ショータは瞳を丸くする。今まで散々実年齢より若く見られていたが、その逆は初めてだった。


「僕はこう見えても10歳ですよ?」

「まぁ! それならお兄様とお呼びしなければいけませんわね」

「ええぇ?」

「ワタクシ、先月8歳の誕生日を迎えたばかりでしてよ」

「えええぇ……」


 少年はお姉さんの発言を冗談だと思う事にした。年頃の女性が自分を若く偽るのはままある話だと、自分の師匠でよく知っているからだ。


「うふふ……ワタクシ、そんなに大人っぽいかしら?」


 ずずぃ


 紫の瞳にどこか妖しい光を宿しつつ、ムシヒメは更に少年の元に身を寄せる。もう互いの鼻先が触れ合いそうな至近距離に、ショータは思わず後退ろうとして――背が壁に当たる無情な衝撃があった。


「つれない御方ですこと……そんなに避けられると、ワタクシも傷付きますわ」

「あ、いえ、その、あの……」


 切なさ気に顔を曇らせるムシヒメに、ショータは慌てて言葉を濁した。単にその怪物的な巨体に圧迫されただけ、とは流石に当人の前では言い難い。


「……やっぱり、ワタクシみたいなぽっちゃり系は、世俗の殿方には醜く見えるのかしら」

「それはないです。少なくともラミュルト教徒の僕は否定します」


 あなたの体型はぽっちゃりの範疇を超えているだろう――というツッコミを飲み込みつつ、少年司祭(見習い)はきっぱりと否定した。

 ラミュルト神に使える者は、他人を外見や服装で評価しない。それは経典にも『見た目で人を判断する者は愚か者である。なぜなら外観は中身に関係なく整えられるからだ』と書かれている。

 世間でよく聞く「人は見た目が十割」とか「外見が美しい者は心も美しい」という言葉は、根拠となる具体的なデータが存在しない単なる印象論でしかないからだろう。

 ただし、同時にラミュルト教の経典には、身だしなみを整えることの大切さや、特に衛生の重要性には少ししつこいくらい念入りに記載されているので、ラミュルト教徒ならだらしない姿格好でも問題ないかといえば、むしろ逆である。


「うふふふふ……それを聞いて安心しましたわ。お兄様♪」


 蠱惑的に舌なめずりしつつ、ムシヒメの甘い吐息がショータの首元を舐める。


 ごくり


 ショータは生唾を飲み込んだ。興奮ではなく、緊張からだ。

 単純に彼女が自分を誘惑しようとしているだけではない事は、まだまだお子様な少年司祭にも理解できた。

 何せ相手は魔女帝直属の戦闘術師である。どんな手段で自分を支配下に置こうとするのかまるで分からず、ほんの少しも油断ができない――


 ぴぃ!


 ぽかっ


「あうっ!?」


 ――だから、ショータの懐から飛び出した亜竜の赤子――レミュータから預かっていたアンキロサウルスが、その棍棒のような尻尾の一撃をムシヒメの顎に炸裂させて、


「うぅうう……痛いですわぁ~~~」


 最強の戦闘術師が涙目になってあっさりと引っ込むのを見て、ショータは口をぽかんと開けた。

 馬車が襲撃された際に服の下に隠していた大事な預かりものは、どうやらガルタークの魔術師は敵だと認識しているらしく、ショータの胸元でジタバタ暴れながらブンブン尻尾を振り回している。


「まぁまぁ、可愛らしいお子様ですこと」


 結構な一撃を食らったものの、ムシヒメの声に怒りの因子は無かった。

 むしろ楽し気な様子で、今度は亜竜の赤子に笑顔を寄せる。


 ぴぃ! ぴぃ! ぴぴぃ!


 ぽかっ ぽかっ ぽかぽかっ


「あうっ!? はうっ!? げ、元気なお子様ですこと……ふにゃっ!!」


 連続尻尾攻撃を食らいながらも微笑みを崩さないムシヒメの姿に、ひょっとしてこの恐るべき戦闘術師は本当に自分と遊びたいだけなのでは……ショータの心中に、どこか拍子抜けするような疑念が沸いた。



「風がとっても気持ち良いですわぁ……わたくし、空からの景色を見るのが大好きなんですの」

「はぁ」

「ほらほら、ガルガ山脈があんなに小さく見えましてよ!」

「は、はぁ」


 しばらくして、亜竜の尻尾攻撃に飽きたらしいムシヒメが、子供じみた調子で窓の外に顔を突き出しているのを見て、少年は困惑と共にどこか気が抜ける思いを抱いていた。


(――ひょっとして、このお姉さんはそんなに悪い人ではないのでは――)


 ……その推測が当たっていたのは半分だけだと、これからショータは思い知る事になる。



03


 ガルターク魔導帝国首都“ガルタニカ”――ファンタズマ最高の魔法文明の結晶たる巨大都市を遥か上空から見下ろすと、泥の中に浮かぶ真珠のように見えるだろう。

 真珠と泥を構成しているのは、完璧な真円状に都市設計された光り輝く中央都市と――その周辺に広がる茶色く薄汚れた“実験体収容エリア”だ。

 昼夜問わず魔法光がまばゆきらめく中心部と、深夜にも文明の光がともる事無き周辺部――栄光と退廃に塗分けられた首都の姿は、ガルタークの内なる歪みを象徴しているかのようだった。


 ぱた ぱた

 ぱた ぱた


 一羽の白い蝶が東の空から飛んで来る。

 羽ばたき音は昆虫に相応しい軽いものだが、しかし箱馬車を抱えて飛ぶ巨大蝶などいるはずがない。

 今回の作戦の最重要ターゲットたる少年を拉致した蝶型ゴーレムは、真っ直ぐにガルタニカ中心都市へ向かって飛翔して――しかし直前でくるりと向きを変えると、茶色く薄汚れた都市周辺部へと素早く消えて行った。



「そ、そんな……こんな……」


 少年司祭の声はかすれていた。

 馬車からショータが降り立った場所は“実験体収容エリア”という管理的な名称で呼ばれるには、あまりにも無秩序で退廃的だった。かつては整然と規格化された住宅区域は、今やスラム以下の廃墟へと変貌していた。

 空を覆う鉛色の雲。そこから降り注ぐのは淡雪ではなく、ビル街が天高くそびえる中央エリアから廃棄された灰埃だろうか。

 崩れかけたコンクリート風の建造物群は巨大な墓標のように傾き、乾いた汚泥と不法投棄された産業廃棄物の山に半ば埋もれている。風が吹くたびに錆びた廃材が軋み、きいきいと不協和音を奏でていた。


 そうした瓦礫や泥と廃棄物にあふれた地面に、ゴミのように横たわる人々がいた。

 彼らこそがこのエリアの住人であり、家畜のように管理される“実験体”と呼ばれる者達だ。

 実験体の姿に人間の尊厳は欠片も残されていなかった。

 皮膚は骨に張り付き、水分を失った果実のように萎びている。眼窩は落ち窪み、うつろに開かれた口からは呼吸の音すら聞こえない。

 まるで生きたままミイラにされたかのような痩身からは、実験体が男なのか女なのか、老人か子供かさえ判別する事はできなかった。


 それでも五体満足なのはマシな方だろう。

 ある者は腕を、別の者は脚を失い、またある者は眼球を抉り取られ、ただ空虚な眼窩を虚空に向けていた。

 彼らが横たわったまま動かないのは、眠っているのか、あるいは既に事切れているのか――それを見分けるすべすらない。


 ショータの瞳は残酷過ぎる光景を前に激しく揺れていた。質素だが清潔な司祭服の裾が汚泥でけがれることも気にならなかった。


「こんなの……酷すぎる……」


 もしレミュータがこの光景を観測していたら、かつて地球で世界大戦と呼ばれた戦争に存在したという、絶滅収容所のログデータを見出したかもしれない。

 ここでは死ぬことさえ許されず、ただ実験材料として消費され、運良く生き延びても搾りカスのように捨て置かれているのだ。


「ふぅ……この場所も相変わらずですわねぇ」


 そして同時にショックだったのは、ショータと一緒に降り立ったムシヒメが、目の前の惨状をまるで気にする風もなく平然としている事だった。

 あたかもこの悪夢が、昔からの馴染みであるように。


「地面がぬかるんでますわ。服を汚さないようにお気をつけあそばせ」

「…………」


 愕然と少年が立ち尽くしていると、視界の隅で枯木かれきのような物体が動いた。


「――、―――、――」


 一体の――いや1人の実験体が、瓦礫の陰からフラフラと姿を現したのだ。

 老若男女の判別すらできないボロボロの実験体は、焦点の合わない目でショータの方を向き、何かを求めるようにフラフラと近づいてきた。


「――…―――」


 ショータは動けなかった。

 恐怖ではなく、あまりの哀れさに。


 ぱさり


 乾いた音がした。

 棒切れよりも細い身体がショータの足元に崩れ落ちる。

 枯れ枝のような手先が少年の足に触れて――そのままピクリとも動かなくなった。

 少年司祭は息を呑み、物言わぬ実験体を見下ろすことしかできなかった――


「――っ!!」


 ――が、呆然自失も一瞬だけだ。

 慈悲と慈愛をつかさどる創造神――ラミュルト教の司祭に、死にかけた社会的弱者を救わないという選択肢は存在しない。

 ショータは身を屈めると実験体の乾き切った口元に握り拳を掲げ、静かに瞳を閉じで聖句を唱えた。


 ぽたり ぽたり


 固く握られた指の隙間から黄金色に輝く液体があふれ出て、ミイラのような唇を濡らす。

 奇跡が起きた。


「――……―、…ぁ……ぁあ……」


 実験体の黒く濁り切った瞳に光が宿り、全身を震わせながら呻き声を漏らしたのだ。

 これは“聖蜜”というラミュルト教の『奇跡』である。一滴に成人が活動する数日分の栄養素が含まれており、餓死寸前の者でも問題なく消化吸収できる。習得には相当な信仰心が必要な高位奇跡だが、この見習い司祭の少年は即興で見事に使いこなしてみせた。


 続けて“治癒”の奇跡を実験体に施しつつ――


「ムシヒメさん!」

「はいっ!?」


 普段の気弱そうな面影から想像もできない鋭い声に、少年を圧倒する力を持つはずの戦闘術師が小さな悲鳴を漏らす。


「今すぐ治療師さんたちを起こしてください。急いで!」

「は、はいですの!」


 慌ててムシヒメが巨大な掌をひらひらと振ると、すぐに箱馬車の中から黒い煙が漂い出た。

 数十秒後、今度は治療師たちがフラフラとよろめきながら馬車の外に出てくる――が、周囲の光景に気付くと即座に目の色が変わった。

 己の仕事を聖職だと考えている治療師に、眼前の衰弱した患者を治さないという選択肢は存在しない。


「全員すぐに仕事に取り掛かれ! 診断と治療法は各自に任せる! まずはこの付近一帯からだ!」


 治療師たちのリーダーである壮年男性が素早く指示を出す。が、ぽかんと口を開けているムシヒメを肩越しに睨みつけると、激しい剣幕で怒鳴りつけた。彼には魔法の知識があった。


「あんた、蟲使いだろ!! さっきの砂蟲で傷病人の治療はできないのか!?」

「で、できますわ……」

「だったらボケっとしてないで今すぐ手伝ってくれ!!」

「ははは、はいですの……!」


 戸惑うファンタズマ世界最高の蟲使いの全身から漆黒のもやが勢いよく噴出して、たちまち実験体収容エリア全体へと拡散していった――



04


「――ジュース、お飲みになります? 魔法合成ジュースですけど」

「あ、はい。いただきます」

「ワタクシ、緋果味が好きなんですの」

「じゃあ僕は紫玉味で」


 すぐ隣の瓦礫に腰掛けている美女――薄紫色の縦ロールに濃紫色の瞳。豪奢な紫色のドレス。身長220cmバスト220cmの“スマート”な美女から紫色の小瓶を受け取りながら、見習い少年司祭は墓標のような瓦礫の陰に沈む深紅の夕日をぼんやりと眺めていた。

 黄昏の時刻はどんな風景でも哀愁が漂う。

 泥と灰、そして塵芥ちりあくたに埋まった“実験体収容エリア”の地獄のような光景も美しいオレンジ色に染まり、どこか退廃的な絵画の如き雰囲気を醸し出していた。


 ショータと、隣に並んで座る細身の美女――ムシヒメは疲れ切っていた。

 疲れ切ってはいるが充実感があった。

 つい先程まで二人は実験体たちの治療に奔走していたのだ。

 このエリア付近の治療活動はおおむね完了し、他の治療師たちは既に近隣のエリアに移動している。

 救済の熱意は誰にも負けないがまだまだ子供で体力不足なショータと、砂蟲を一時的に使い果たすまで実験体の治療に奮闘していたムシヒメは、この場に残って簡素な食事休憩を取っていた。


「……合成ジュースがこんなに美味しいなんて、初めて思いましたわ」

「疲れている時は何でも美味しいですよね」


 こくこくと小瓶を傾けて薄桜色のジュースを飲み干すムシヒメの横顔には、荒野の戦場で蛮族戦士を一方的に鏖殺おうさつする恐るべき戦闘術師の面影はどこにも存在しなかった。

 倍以上の年齢にしか見えない大人のお姉さんが、まるで自分より幼い少女のようにショータは感じていた。


「ショータお兄様は、この場所をどう思いますの?」


 ぽつり、と呟きが漏れた。独り言のような響きに、少年の反応は少し遅れた。


「……こんな悲惨な世界があるなんて想像もしてなかったです。僕は世間知らずでした」

「ワタクシ、ここで産まれ育ちましたの」


 愕然とするショータの瞳に、夕日に染まったムシヒメの横顔が写った。どこか透明な寂寥感があった――



 世界最高の蟲使いにして最強の戦闘術師“ムシヒメ”――この奇妙な名前は本名ではない。“魔名”と呼称される、いわば魔術師としてのコードネームである。

 彼女に本名は存在しない。

 実験体収容エリアに生れ落ちてから物心つくまで、誰も名付けてくれなかったのだ。

 赤子に名前すら与えられない……それだけで、彼女の悲惨極まる境遇が想像できるだろう。


 3歳の誕生月に一山幾らの実験素材として星振塔の魔法研究ラボに移送された少女は、蟲使いの中でも最高ランクの高難度魔法を駆使する“砂蟲制御体”の素体として選出された。

 これは彼女に特別な才能があったわけではなく、単に実験データを取るための使い捨てに過ぎない。250兆分の1という成功確率予想の前に、研究者たちが成果を期待する理由はどこにも存在しなかった。


 しかし、奇跡は起こったのである。おぞましい奇跡が。


 天文学的低確率を乗り越えて誕生した世界最高の蟲使い――彼女には“蟲の姫”という魔名レゾンデートルと、制御体として急成長させられた肉体に魔術師の高度な知識、そして魔女帝フロラレス直属の戦闘術師“五本指”という身分が与えられた。

 これは名前すら存在しなかった実験体の少女にとっては、破格の大立身出世といえるだろう。


 しかし――どの世界でも経験に裏打ちされない急成長というものは、必ず何らかのいびつさを生む。


「……先程、治療師さんに怒られてしまいましたわ。砂蟲使いなのに、どうして実験体の皆さんを治さないのか……って」

「…………」

「ワタクシって本当におバカさん。言われるまでその事に気付きもしなかったのですわ」


 ガルタークの地は、大陸北方のラングレードや暴風雪が荒れ狂うアルバインと比べれば、冬でも比較的温暖な気候が続く。

 しかし自嘲するムシヒメの吐息はなぜか白く冷たくて、まるで自分の魂を吐き出しているようにショータには思えた。


 ――砂蟲使いが使役する砂蟲は、実質的にナノマシンと同等の機能を持つ。飢餓や傷病で衰弱した生物を癒し、悪化した環境を回復させる治療行為は、むしろ得意分野と言ってもいい。

 だが、この世界最高の砂蟲使いは今こうして指摘されるまで、収容エリアの実験体に対してそうした行為を実行した事はなかった。

 これは彼女が冷酷非情なのではない。

 幼児期から戦闘術師として戦いと破壊の日々を過ごしてきた無垢な少女には、『自分の力で誰かを救う』という概念そのものが欠落していたのである。

 収容エリアの悲惨な生活と戦闘術師としての殺伐とした任務しか知らない、ただ破壊と殺戮だけの戦闘人形――それがムシヒメだった。


 しかし――そんな純真無垢ゆえに空っぽな心の奥底には、それでも人間らしさの残滓があったのかもしれない。

 ムシヒメは戦闘術師の任務の合間に、こっそりと自分が生まれ育った実験体収容エリアに立ち寄る事が多かった。それがある種の郷愁きょうしゅうなのかどうかは自分でもわからない。

 収容エリアに住む実験体の大半は、もはや自分の意思を持たない半死人に過ぎない。

 しかし少数ながら他国の捕虜や奴隷などの明確な自己意識と理性を持つ住民もいる。そして何より、魔女帝フロラレスの“五年間の慈悲”によって人間の尊厳を思い出した者達が確実に存在していた。

 そんな“人間らしい”人々との交流は、無垢な戦闘人形の心に、ある確かな決意を抱かせたのである。

 それは――


「――改めて、ショータお兄様にお願い申し上げます」


 ムシヒメはショータの眼前に向き直ると、胸元に手を組み、片膝をつき、深々と頭を下げた。


「どうか、貴方の下僕たる、かの異世界の機械人形の御力を、私に貸して頂きたいのです。これはガルタークの意思ではなく、私個人の独断です」


 数瞬、世界から音が消えた。

 少年司祭が息を呑む音も聞こえなかった。


「……レミュータさんの力を何に使うつもりなのですか」

「全ての実験体を救いたいのですわ」

「つまり……この地の人々をレミュータさんが救出するという事ですか」

「いいえ。それでは根本的な解決にはなりませんわ」

「……全ての原因である“星振塔”を倒す……という事ですか」

「いいえ。もっと根本的な解決法ですわ」


 蟲の姫が顔を上げた。濃紫の眼光が少年の瞳を貫いた。


「私はガルターク魔導帝国そのものを滅ぼしたいのです」



05


 同時刻――


「――あのクソガキ……やりやがったな」


 世界最高の雷術師にして世界最強の戦闘術師たるパンクロッカー男――バイケン。

 部下の報告を確認し終えて、一旦ガルターク皇城に帰還した彼は、眼前の光景に唖然としていた。


 休むことも眠る事もない不滅の門番――黒曜石製のゴーレムは、魔法扉の前でいびきをかいていた。

 決して開かぬはずの魔法の鉄扉は己の役目を放棄するように開け放たれて、きいきいと音を立てて揺れている。

 通路から丸見えとなった図書室の内部には、閉じ込めていた少女修道士の姿は何処にも存在していなかった。


 まんまと逃げだして見せたのだ。あの小生意気な赤毛ツインテールの美少女――アニスは。

 ありえない光景だった。


 決して眠らないゴーレムに寝息を立てさせたのは、たとえ非生物でも関係なく眠らせる“昏眠”という魔法だ。

 魔法で施錠された扉を問答無用で開けたのは“解放”の魔法だろう。

 どちらも上級魔術師ですら使うのは難しい高位魔法である。しかし、よくよく部屋の内部を見れば、本棚の魔導書が何冊か抜き取られているのが分かった。


 まさか――部屋に閉じ込められてからバイケンが戻ってくるまでのわずかな時間で、あの田舎の小娘は魔導書を読み解き、高位魔法をマスターして、見事に脱出に成功したというのか――!?


「面白ぇじゃねえか、クソガキ」


 薄暗い通路に深紅の閃光がほとばしった。

 不敵に哄笑わらう世界最強の戦闘術師は、己自身が荒れ狂う赤い稲妻と化していた。


「鬼ごっこの始まりだ」




つづく





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