オデット・フルニエの覚醒
ついに、オベール家から籍を抜かれた。
今日からリュシエンヌは、「オデット・フルニエ」と呼ばれることになる。父がニヤニヤと嫌な薄笑いを浮かべているから、これも嫌がらせのつもりらしい。
むしろわたしは困らないのだけれどね。
顔には出さないよう細心の注意を払ってリュシエンヌは内心で歓喜した。
よろこぶ代わりに淡々と、業務のことだけを口にする。
「今後、家事や領地に関わる決裁はいかがいたしましょう。部屋に残った書類は執務室に運べばよろしいですか?」
常識的に考えて、他家に嫁いだ娘がすることではない。けれど今まで父はまったく関与していないのに、これからどう処理する気なのだろう。
リュシエンヌが首をかしげると、父は得意げにフンと鼻を鳴らした。
「フルエニ家とは話がついている。おまえは通いの侍女としてオベール家に勤務するのだ。書類仕事はそのときにすればいい」
「ああ、そういうことですか」
この期に及んでも「自分がする」とは言わない気らしい。
それ以上は何も言うことなく、表情を変えることなく。リュシエンヌは父の隣を通りすぎた。
「ふん、相変わらず可愛げのない娘だ。いなくなって清々するな!」
「おっしゃるとおりです」
背後で父の舌打ちする音がしたけれど、この程度の嫌味なんて慣れたものだ。
追随するヨハンの声がしたけれど、内心では彼もリュシエンヌがいなくなればもっと自由に振る舞えると喜んでいることだろう。
「でも今はどうでもいいわ。オベール家のことなんて後回し」
そうつぶやきながら、脳裏でリュシエンヌはフルニエ家の情報を引き出した。
社交界で、フルニエ家は成り上がりの一族と呼ばれている。
大きな商会を経営し、隣国から越してきて、今は貴族相手に商売を広げる足掛かりを欲していた。
一方で王家の血筋であるセレスタン第二王子を婿として迎え入れるためにオベール家は潤沢な資金を求めている。
資金を提供する代わりに、縁を結ぶ。つまり完全なる政略だ。
リュシエンヌは手が回らなくて後回しになっている荒れた庭を眺める。
私がいる間に、領地と家だけは手放さずに済んでよかった。
これからはもう、リュシエンヌが金策に走り回る必要はない。そう思うと失った悲しみよりも、今は安心する気持ちのほうが強かった。
リュシエンヌは部屋に戻って手早く荷物をまとめる。手持ちの小さなカバン一つに荷物が収まった。公爵令嬢の全財産がこれだけと知ったら、きっと皆驚くだろう。
歩いて門を出たところで、馬車から降りたオデットとメラニーとすれ違った。
背後に従う侍女達が大小さまざまな箱を抱えている。
「あら、とうとういなくなるのね。清々するわ!」
「ええ本当、ようやく肩の荷が下りたわ」
嫌味は軽く受け流して、リュシエンヌの視線が侍女の抱える箱に釘づけとなる。
……またこんなに買い物をして。
これにはリュシエンヌも呆れた顔を隠せなかった。
結婚式が三ヶ月後と決まってから、さらに輪をかけて散財している。
リュシエンヌが家を出るのに、これまでどおりに散財はすべてわがままな義妹のせいという嘘が通用すると思っているのか。
リュシエンヌの態度が気に食わななかったようで、オデットは口元を醜く歪めながら耳元に顔を寄せる。
「相手の男はお金持ちだけれど社交界でも有名な浮気者よ、女性がいないと生きていけないのですって。そんな相手が旦那様になるなんて、かわいそう。ご愁傷様!」
オデットの嫌味はメラニーにも聞こえたようで、二人はクスクスと笑っている。けれどリュシエンヌは表情一つ変えることなく、二人の脇を通りすぎた。
無視された二人はあからさまに不愉快という顔をする。
けれど、人目があるところでは優しく慈悲深い母娘を演じているからオデットも義母もわたしに折檻はできないのだ。
その代わり、言葉で私の価値を落とすことは忘れない。
「家を出るのに『お世話になりました』と言う言葉に一つもないだなんて! 本当、躾のなっていない最悪の娘ですこと。お母様がかわいそう!」
「ごめんなさい、リュシエンヌ。あんな義理の妹がいるせいで、あなたにも肩身の狭い思いをさせてしまって」
「いえ、大丈夫ですわ。わたしにはお母様という心強い味方がおりますもの」
「ありがとう、あなたはわたしの自慢の娘だわ!」
背を向けたリュシエンヌは皮肉げに口元を歪めた。
ここまでくると滑稽で笑える。周囲は二人の関係を美談だと盛り上がっているけれど、義理の娘だけを可愛がる異常さにどうして気づかないのかしらね。でももう家を出るし、これもどうでもいい。
終わらない茶番に背を向けて、リュシエンヌは新居の住所まで歩いた。
オベール家の馬車なんて使わせてもらえないし、使用人が渡してきた新居の住所はオベール家の邸宅とはそこまで離れた距離ではないから、徒歩でも十分通える。
新居に到着したリュシエンヌは扉についた呼び鈴を鳴らした。事前に家屋の手入れはされているようで、ほのかに建築資材の匂いがする。
返事がないのでもう一度。でもやはり返事はない。
仕方なくノックをしてから扉の把手を回すと、簡単に開いた。驚いたリュシエンヌは目を丸くする。
今回は助かったけれど、不用心にも程があるわね!
おそるおそる、扉越しに顔をのぞかせると、そこそこ広さにある部屋の中心で男性が大小さまざまな荷物と格闘していた。
かと思うと時折り傍に置かれた紙にペンを走らせ、また荷物の整理に取り掛かる。
リュシエンヌは、ぐるりと部屋を見回した。
何をしているかわからないけれど、部屋の片付けが遅々として進んでいないのは間違いないだろう。
これは手伝ったほうがいいわよね。
リュシエンヌは荷物の隙間をぬって部屋に一歩踏み込んだ。
荷物のところどころから、異なる模様の布の切れ端がはみ出ている。無機質な床の上に置かれているからか、リュシエンヌの目には一際色鮮やかに見えた。
男性は荷ほどきに夢中になって呼び鈴が聞こえなかったのだと判断したリュシエンヌは玄関を背にして男性に声をかける。
「呼び鈴を鳴らしたのですが、反応がなかったので勝手に入らせていただきました。お手伝いいたしましょうか?」
声をかけた途端、男性が勢いよく顔を上げる。
若い男性で、癖のある柔らかな髪、少し垂れ目で目元に小さなホクロがある。全体的に優しさを感じさせる甘い顔立ちで、醸し出す雰囲気が柔らかい。
彼はつかんでいた型紙を床に置くとリュシエンヌの前に立った。
「えっと、どなた?」
「オベール家から参りました。これから、よろしくお願いします」
「ああ、もしかしてオデット様の侍女ですか?」
「いいえ、侍女ではありません。今日からここで暮らせと言われました」
するとリュシエンヌが答えた途端、相手が目を丸くする。
「えっ、まさか本人⁉︎ あなた公爵令嬢でしょう、侍女は?」
「侍女はついていません」
「侍女がいない? そういえば、馬車の音もしなかったけれど」
「馬車は使いませんでした。ここまで歩いてきています」
「は、え、歩いて! と、とにかく中へ。少しでも休まないと!」
彼はあわててリュシエンヌから手荷物を受け取ると、椅子に座らせる。
「ええと、公爵家のご令嬢が身ひとつで嫁いでくるとは思わなかったので、これからいろいろ揃えようと思っていました。ですが間に合わなかったようですね」
あわてる彼に申し訳ない気持ちになって、リュシエンヌは眉を下げた。
驚くのも無理はない。公爵令嬢とは到底思えない扱いだから。けれど、オベール家ではこれが普通だから、いつの間にか非常識にも慣れてしまったらしい。
「お気遣いありがとうございます。ですがわたしにはこれでも十分です」
椅子に座ったリュシエンヌは家内をぐるりと見回した。部屋数も広いし、居心地の良さそうな家だ。
家具は少ないけれど最低限のものは揃っているみたいだ。
なんとか今日から暮らせそう。
リュシエンヌは目の前に座る男性へと視線を戻した。
「あなたのお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「申し遅れました、あなたの夫となるエリック・フルニエです」
ほんの少し逡巡して、リュシエンヌは覚悟が決まったところで口を開いた。
「私のことはオデットではなく、リュシエンヌとお呼びください」
これだけは、どうしてもリュシエンヌには譲れない。
リュシエンヌの「とっておきの秘密」につながることで、今はまだ譲ってはいけないからだ。
「……なるほど、そうなんだ」
そう答えたエリックの顔が、わずかに曇ったのをリュシエンヌは見逃さなかった。
どうしてもという場面で、リュシエンヌであると頑なに主張することから、巷でオデットは「気狂い姫」と呼ばれているらしい。
「あなたもバカね。あきらめてオデットとして生きればいのに」
お茶会から戻った義母が笑いながら、わざわざ部屋にきてまで教えてくれたからリュシエンヌは知っている。
それでも、たとえ二人の関係が悪くなっても、リュシエンヌは嘘をつくわけにはいかない理由があった。
確証がつかめるまでは、まだ。
どんな反応を示すのか。
リュシエンヌは黙って様子を見ていたけれど、意外にもエリックはすぐに呑み込んだらしい。
「わかった、リュシエンヌだね。よろしく」
あっさりとした答えに、むしろリュシエンヌが驚いた。
「え、いいのですか?」
「どんな名で呼ぼうが人の本質は変わらない。君は、君にしかなれない。仕切り直しましょう、まずは出会ったばかりの友人として挨拶からはじめましょう」
エリックが手を差し出したので、リュシエンヌは手を握り返した。
軽い口調とは裏腹に、彼の手は緊張のためか冷えていた。
同じだ、緊張しているのはわたしも同じ。
リュシエンヌの口元がふっとゆるんだ。
二人の関係は緊張してぎこちなく、かと思うと妙に淡々としていて、まるで商談相手みたいだとリュシエンヌは苦笑いを浮かべる。
政略結婚だもの、これが普通なのかもしれない。
少なくともこちらを受け入れてくれる気があることがわかって、リュシエンヌはほっと息を吐く。気づかないうちに、リュシエンヌの口調が柔らかくなっていた。
「エリック様、その話し方に慣れていらっしゃらないようですね。二人のときは敬語はいりません。名前も呼び捨てでかまいませんよ、わたしのほうが歳下ですし」
すると彼は、あきらかにほっとしたような顔をする。
「うん、ありがとう。どうにも堅苦しいのは苦手でね」
「意外ですね、商家の方はこういう場面に慣れているものと思っていましたから」
「それはわたしが出来の悪いほうの長男で、放蕩息子だからだよ。家から半分くらい除籍されかかっている」
冗談にしては硬い口調で、言葉の重さにリュシエンヌは息を呑んだ。
視線を下げた彼の表情はリュシエンヌには見慣れたもの。
周囲に理解してもらうことをあきらめた、そんな顔だ。
本人にここまで言わせるなんて、家ではどんな扱いを受けてきたのだろう。
自分に重なるものがあって、リュシエンヌの胸になんとも言えない痛みが広がった。気持ちを切り替えるように小さく息を吐いて、エリックはリュシエンヌと視線を合わせる。
「侍女のことや馬車のこと、君の態度を見てなんとなく理解したよ。君も家にとっていらない人間らしいね」
「はい、そのとおりです」
「しかも家を追い出す直前になってようやく結婚相手を教えたところも同じ。つまりお互いに本人の意思とは関係なく結ばれた婚姻ということだね。ならばお互いに、この状況を利用しようじゃないか」
エリックはテーブルに片肘をついてニヤリと笑った。
唐突で、想定もしていなかった展開にリュシエンヌは目を丸くする。
ただ、思っていたよりもその言い方に嫌な感じがしなかった。
あり得ない状況に慣れすぎて、リュシエンヌ自身の感覚もすでにまともではないのかもしれない。
「君はわたしの悪い噂を聞いているかい?」
「はい、家を出るときに聞きました。その、言いにくいですが、いろいろと」
「浮気者で、女性がいないと生きていけないとかかな。相変わらずひどい言われようだ。最初に言っておくけれど浮気だなんて、そんな事実はないからね!」
エリックは不愉快とばかりに眉をひそめる。
なぜなかったのか、彼とリュシエンヌの状況はたぶん少し違う。
リュシエンヌの場合は彼との結婚を嫌がって逃げ出さないようにするためだろう。追い出せば、行き場のないリュシエンヌはとりあえず言われた住所に行くだろうと考えた。
とはいえ、直前まで結婚している事実を知らなかったという彼も、まさか気狂い姫が結婚相手だとは思いもしなかっただろう。
どっちもどっちだと知って、リュシエンヌはエリックに同情した。
エリックは指を曲げて、数を数える。
「一つ、結婚式はなし。二つ、披露宴もなし。つまり世間に我々の結婚を公表する気はないみたいだ。ただ両家の利益のためだけに、書類上で厄介者同士をくっつけた。本当に趣味がいいよね」
あきれたようなエリックの台詞は完全に嫌味だ。
でも今のリュシエンヌに、彼の気持ちはよくわかる。
「とにかくこうなったら仕方がない。周囲の熱が冷めるまで、わたしはしばらくここで暮らそうと思う。それで、君はどうする?」
「わたしも身の振り方が決まるまで、できればこちらで暮らしたいです」
「お互い利害が一致したね、ではしばらく一緒に暮らそう」
「ですが……わたしには持参金がなくて。政略結婚で、貴族の娘なのに」
リュシエンヌは恥じたように下を向いた。
オベール家のお金の流れはリュシエンヌがすべて把握している。その中に、間違いなく持参金の項目はなかった。
あの父が、自分の個人資産から払ってくれたとも思えない。払っていないと考えるほうが自然だ。
けれどエリックは、リュシエンヌを安心させるようにポンと自分の胸を叩いた。
「安心して、生活費とか金銭面はわたしが負担するから。仕事を持っているからね」
「どんなお仕事をされているのですか?」
「女性服をデザインしている」
誇らしげに胸を張って、エリックは微笑んだ。
床に置いた彼の荷物に視線を向けたリュシエンヌは納得した。
色とりどりの布、床に置かれた鉛筆の線が走る紙。あの床に散らばる荷物には彼の商売に必要なものが詰まっている。
けれど次の瞬間、エリックは表情を曇らせる。
「けれどこの国の人は我々女性服をデザインする男性を浮気者で、女性がいないと生きていけないと中傷するんだ。女性と接する機会が多いという印象だけで、ひどいと思わないか⁉︎」
グランドヴァローム王国では女性服をデザインするのは女性と決まっている。決まっているというよりも、男性が女性の服に興味を持つことを忌避する風潮があった。
だから女性服をデザインする男性は、女性にだらしのない浮気者という不名誉な烙印を押されて、淘汰される。
結果、王国には女性のデザイナーしかいなくなった。
「あなたの悪評はそういう理由だったのですね」
「そうなんだ、迷惑な話だよ。だから今は別の国に住んでいる。そこでは性別に関係なく皆、デザイナーとして真摯に働いているのにね」
「なぜ女性服の分野を選んだのですか?」
「種類も多いし、変化に富んでいて面白い。男性服もデザインするけれど女性もののほうが好きだな」
オデットがお茶会や夜会のために特注の高価なドレスや小物を身につけているから、リュシエンヌも服を創造する人がいて、さまざまな作品を作りあげていることは承知していた。
でも自分には一生縁のない人々で、遠い世界の話だと思っている。それが、まさか結婚相手にそういう仕事をしている人が選ばれるなんて思いもしなかった。
わたしの夫になった人は女性服のデザイナーなのか。
いまさらだけれどリュシエンヌは結婚のことだけでなく、結婚相手のことを何も知らされてないことに気がついた。
一体、どんな人なのだろう?
興味を引かれて、リュシエンヌの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
「噂は単なる偏見なのでしょう、積極的に否定されないのはなぜですか?」
「正直なところ噂を否定するほうが面倒なんだ。噂なんて無責任で無限に湧いてくるものだろう? 否定するのは後ろぐらいことがあるからだと逆効果だった。それに女性との付き合いを制限されると仕事に差し障る。わたしにとって彼女達は新しい発想を生み出す泉、地上に愛と調和をもたらす女神達だ」
「泉、女神?」
エリックの言っている意味がさっぱりだ。
唖然とした顔のリュシエンヌにエリックは肩をすくめる。
「とにかく女性は重要な顧客でもあり、商売の取引相手でもある。噂は嘘でも、女性がいないと仕事にならない。それは真実だと認めるよ」
女性服のデザイナーだからね。
リュシエンヌと視線を合わせて、彼は真剣な表情を浮かべる。
「自ら面倒な道を選んだのは、他人の価値観に合わせて生きることが正しいと思えなかったからだ。誰を不幸にするわけでもないのに、どうして自分の生き方を他人に合わせて変えなくてはならないのかわからなくなった」
エリック様の言葉にリュシエンヌはハッとして顔を上げた。
「大切にしない人間には罰を。わたしの目に狂いがなければ君とは共闘できそうだ。どうだい、手を組まないか?」
長かったので切りました。次話に続きます。




