リュシエンヌ・オベールの事情2
長いので切った残り半分です。引き続き、お楽しみいただけるとうれしいです。
咲き乱れる花の隙間で、オデットの笑い声が弾ける。
姿は見えなくても、音ばかりは遮断できない。
父の指示でカーテンを閉めた部屋の中にいるリュシエンヌは、昼間なのにランプの灯りを頼りにして執務をこなしながら深々と息を吐いた。
オベールの黄金を奪った日を境に、オデットはリュシエンヌ•オベールとして社交の場へと積極的に参加するようになった。
今回の件は何年もかけて周到に計画を立てていたようで、公爵家にふさわしい教養とマナーをオデットはすでに学んでいたらしい。今までの問題行動が嘘のように、一切問題を起こすことなくリュシエンヌを演じている。
その結果、今では誰もがオデットをリュシエンヌだと信じきっていた。
中身が違っても、髪色がオベールの黄金であれば誰でもいいのね。
嫌でも現実を思い知らされたリュシエンヌは、静かに追い詰められていく。
「面倒だ、これもやっておけ」
「国に提出するものです、よろしいのですか?」
「わかっている。だから監査や調査が入るようなヘマは許さない。完璧に仕上げておけ。それからいつものように署名欄は空けておくのだ、いいな?」
無造作に提出様式を書類箱へと放り込んで、父はあわただしく部屋を出て行った。後には冷たい部屋の空気と、一向に片付かない決裁待ちの書類だけが残される。
「ずいぶんとあわただしいわね」
どこに行くのかなんて無駄なことを聞く余裕も時間も、今のリュシエンヌには残されていなかった。昔と違い、今はただ黙って手だけを動かしている。
最近の父は領地のことだけでなく、対外的なものでも表に出ない地道な仕事はリュシエンヌに丸投げするようになっていた。
本来ならメラニーの仕事となるはずの家内の差配も彼女ができないから代わりを務め、負担は増すばかりだ。
そのうえ、いなくなった執事長と侍女長の代わりに父と義母が雇った人物というのが、また怠け者でまったく役に立たない。
メラニーの友人だと言う二人は、今、どこで何をしているのだろう。
疲れた頭ではこれ以上考えるのも面倒になり、リュシエンヌが追われるように雑事をこなしていく。
そして最後に奪われたのは最愛の婚約者だった。
後で思えばこうなるのは時間の問題だったと思うけれど、当時は余裕がなくてそんな未来を思い描きもしなかった。
ーーーー
その日、リュシエンヌは出入りの商人と交渉して、ようやく今までどおりに食材や生活物資を納品することを約束させたところだった。
ほっと息を吐いて、疲れた体を引きずるように部屋へと戻る。
当主となった父は、短い期間で驚くほど資産を食い潰した。
公爵夫人となったメラニーとオデットの身の回りの品を新調するためだとしても、物には限度というものがある。収支が合わなくなり始めたことで、リュシエンヌは金策に走り回るようになった。
そして厳しい台所事情は商人が一番先に気がつく。
取引を止められそうになったところを、売掛ではなく現金で都度精算することにしてようやく契約してもらったのだ。
部屋に戻る途中、リュシエンヌは庭から響く笑い声でようやく気がついた。
「誰と誰のお茶会かしら?」
リュシエンヌが庭に回ると、庭の陽当たりの良い場所でお茶会が開かれている。オデットの笑い声が聞こえて、相手は誰だろうと思い、遠くからのぞいたところで顔色が真っ青になった。
「もしかして、セレスタン様?」
一人はオデットが成りすましたリュシエンヌ。
そしてこちらに背中を向けて座るのはリュシエンヌの最愛の人……婚約者であるセレスタン第二王子殿下だった。
容姿端麗、頭も良くて、誰にでも優しい皆の憧れる生粋の王子様。
生まれたときに決められた婚約者だったけれど、そんなことは関係なしにリュシエンヌは彼を愛していた。
向かいに座るオデットの瞳はうるみ、頬は恋する乙女のように染まっている。
リュシエンヌは、まるでかつての自分の姿を見せつけられているようだった。
……ちょっと待って、なぜセレスタン様がここにいるの?
たしかに、そろそろ婚約者の義務であるお茶会の時期だ。セレスタンの予定が合わないということで先送りになっていたものが、どうして時期が早まったのだろう。
呆然と立ちすくむリュシエンヌとオデットの視線が交わった。
オデットはリュシエンヌに見せつけるようにして笑みを深める。
「無理を申し上げましたのに、予定を合わせてくださってありがとうございます」
「リュシエンヌからどうしても会いたいと言われたのは初めてだ、うれしいよ。そんなふうに言われたら、無理してでも会いに来るに決まっている」
「うふふ、そうなのです。どうしてもお会いしたかったのですわ」
無邪気に笑ったオデットにセレスタンの表情がゆるんだ。
「私の黄金姫、愛している」
セレスタンは微笑みながら、金の髪に口づけを落とした。
――――もう、限界だ。
人目があることや、礼儀を完全に忘れてお茶会の場にリュシエンヌは走り出た。
「やめて、リュシエンヌはわたしよ!」
悲痛な面持ちで、目元が潤んでいる。涙で視界が歪んでいるのがわかった。
ボロボロの侍女服を着て、寝不足のせいで目の下は黒くくぼみ、肌は荒れて髪も艶を失っている。お世辞にも美しいとは言えない容姿、それでもかまわなかった。
オデットは、さも今気がついたように目を丸くする。
「まあ、オデットじゃないの」
「この娘が、あの」
オデットの名を聞いた途端に、普段は寛容と評されるセレスタンが眉を顰める。
あわててリュシエンヌは首を振った。
「違うのです、セレスタン様。それはわたしではないの、わたしがリュシエンヌなのよ。だからお願い、オデットを愛さないで!」
お願い、わたしを愛さないで。
突然、訳のわからないことを言いながらお茶会の席に乱入してきたリュシエンヌに、セレスタンは冷えた眼差しを向ける。
セレスタンには見えない角度で口元を歪めたオデットに、リュシエンヌは嵌められたことに気がついた。
「オデット嬢、招待されていないお茶会に押しかけるのはマナー違反だよ」
「も、申し訳ありません。ですがそこにいるのはオデットで、わたしがリュシエンヌなのです!」
繰り返しリュシエンヌは真実を告げただけだ、それなのに。
セレスタンは一層冷えた眼差しで、苦笑いを浮かべる。
周囲の使用人達も思わずという様子で失笑した。
「オデット、君が義理の姉であるリュシエンヌに憧れる気持ちはわかるよ。たしかに彼女は美しく聡明で優しい。正当なオベールの血を引く公爵令嬢で、皆の憧れる淑女の鑑だ」
「ほめていただいてうれしいですわ、セレスタン様」
「でもね君はリュシエンヌじゃない、オデットだ。愚かすぎて、現実と夢との区別もつかなくなったのかな?」
セレスタンと視線を合わせて、オデットははにかむように笑って見せた。
途端にセレスタンの頬が赤くなり口元に甘い微笑みが浮かぶ。
仕草だけでなく、表情も。わたしを真似ている!
どこまでも狡猾なオデットにリュシエンヌの顔色は真っ青になった。
子供が嫌々をするように激しく頭を左右に振るリュシエンヌの頬に忌々しい赤茶の髪が触れる。
極めつけとばかりに、セレスタンは憐れむような眼差しをリュシエンヌに向ける。
「君の髪はくすんだ赤茶色ではないか。オベールの黄金ではないよね」
「だからそれは髪色を」
するとリュシエンヌの台詞に被せるようにしてオデットが鋭く叫んだ。
「ヨハン、それからヘレン。これ以上は当家の恥になります、今すぐオデットを下がらせなさい!」
「はい、リュシエンヌ様。さあオデット様、それ以上のおいたはいけませんよ」
すぐさま侍女長であるヘレンが、リュシエンヌの腕を引き、口元をもう片方の手で覆った。そして執事長であるヨハン――――以前に当主の部屋でリュシエンヌを突き飛ばした乱暴な使用人だ、彼はリュシエンヌを引きずるようにして庭から連れ出した。
激しく抵抗するリュシエンヌの背後で、セレスタンの呆れたような声がする。
「本当だ、噂に聞いていた以上にマナーがなっていないね」
「申し訳ありません、普段からよく言って聞かせているのですが」
「君が謝ることはないよ。せっかく公爵家で学ぶ機会を与えられているというのに、勉強だけでなくマナーの練習もさぼっていると公爵から聞いている。すべて自業自得、オデット嬢の責任だ。自業自得だよ」
手荒く引きずられながらリュシエンヌは歯噛みした。
何の話だ、さぼっているとは。彼らが学ぶ機会を奪ったというのに!
「あなたの義母となったメラニー様は聡明な方であるのに、実の娘があれではかわいそうだな」
「ええそうなのです。実の娘とはいえ、母親には似ても似つかない愚かさにはお母様もずいぶんと心を痛めておりますの」
底辺を這うオデットの評判とは対照的に、公爵夫人となったメラニーの評判はむしろ良かった。身分が低く礼儀には疎いからと後方に控えて、常に次期当主となるリュシエンヌを立てている姿が、好意的に受け入れられたらしい。
「一時はどうかと思ったが、分別のある聡明で謙虚な女性ではないか」
「義理の娘でありながら次期当主であるリュシエンヌ嬢を献身的に支える賢妻だ」
リュシエンヌにすれば何の茶番かと思うだけだ。
そもそも前提が違う、メラニーが支えるのは今も昔も実の娘だ。
それなのに誰も信じてくれないのだ。仲の良かった友人も、学校の教師も、親戚もオデットがリュシエンヌが会いに行けば追い返されるし、手紙は読んでくれているかどうかもわからない。
「父と義母、義妹にいじめられている」
そう訴えても、誰も信じてくれないのだ。
彼らは皆、リュシエンヌの皮をかぶった偽物のオデットをリュシエンヌだと信じている。
それどころか、今ではオデットの色をまとう本物のリュシエンヌを憎み、頭のおかしい娘だと吹聴している。
部屋に閉じ込められ、鍵のかかる音を聞いて、リュシエンヌは床に崩れ落ちた。
どうして私はこんなにも無力なのだろう。
崩れ落ちたリュシエンヌの背後で扉の向こうから、ドンと強く扉を叩く音がした。
「この身の程知らず。生かしてもらえるだけありがたいと思うんだな!」
ヨハンではない別の使用人の声だ。
あの口ぶりからして、使用人達も本気でリュシエンヌをオデットだと思っているらしい。短い間だけれど、リュシエンヌとして接した時期もあったというのに。
それでも気づかないものなのね。
絶望したリュシエンヌの脳裏にはセレスタンの言葉とともに、冷ややかな眼差しがよみがえる。
――――すべて自業自得だ。
「お母様、申し訳ありません。男爵令嬢の娘が簡単に成り代われるほど、わたしに公爵令嬢としての価値はないようです」
天を仰いで、リュシエンヌは天国にいる母に謝罪した。
母の愛したオベール家を守りたい、その気持ちだけでここまで耐えてきたのに。
完全に張り詰めた気持ちが切れて、リュシエンヌの涙は止まらなかった。そうして泣くだけ泣いたリュシエンヌは立ち上がると、勢いよく締め切ったカーテンを開ける。窓を開ければ、風とともに夜の香りが室内を満たした。
大きく吸い込んで、息を吐く。
久しぶり見上げた夜空のあまりの美しさに、なぜかリュシエンヌは泣きそうになった。涙があふれて、ふたたびまつ毛を濡らす。
「変わることなく、こんなにもきれいだったのね」
あなたは光よ、リュシエンヌという名は光という意味なの。
母の言葉とともに二人で見上げた夜空は、変わることなくそこにあったというのに。時間に追われ、そんな大事なことも忘れていたみたいだ。
冷静になった頭で、自分に問いかける。
「お母様は、わたしが命を削ってまで家に尽くすことを強要する人だったかしら?」
誰よりも、リュシエンヌのしあわせを願ってくれる人だった。
「光を与える価値が、今のオベール家にある?」
リュシエンヌから光を奪うばかりのこの家に、価値が残されているか。
繰り返し、自分に問いかけて。
リュシエンヌは覚悟を決める。
「お母様、ごめんなさい。この家は守るべき価値を失ってしまったみたい」
わたしはいつか、オベール家を出ていく。
けれど、その前に。
リュシエンヌには、とっておきの秘密がある。
限られた人しか知らない極上の秘密が、切り札になるだろう。
「父、義母、オデットも、わたしに勝った気でいる。そこに隙ができるの」
そうと決めたリュシエンヌは、沈黙することを選択した。
オデットと名を呼ばれることのないように立ち回り、書面にオデットの名は決して残さない。
父に、義母に、オデットに。愚かと笑われても、嫌がらせをされてもそれがリュシエンヌにとって唯一できる抵抗だった。
時期が来るまで、じっと耐えてきたのだ。
ーーーー
そこから数年、リュシエンヌは閉じ込められたまま死んだように生きた。
表向きの身分は公爵令嬢だけれど、オベール家での扱いは平民以下だった。
常にうつむきがちで、感情の欠落した顔は使用人にも気味が悪いと言われている。生きるために最低限の食事しか出してもらえないので、痩せ細ってかつての面影はまったく残っていなかった。
支給された侍女服を着て、家事と領地経営をこなす毎日。
貴族の娘なら、誰もが通うはずの貴族学校にも通わせてもらえなかったのに、誰も疑問に思わないほど、評判は地に落ちている。
親しい友人ができることもなく、ほんの一握りの古くからの母の知り合いを除けば、影のような自分を気遣う人はいなかった。
そして、オベール家は。
見た目は煌びやかでも内側の経済状況は厳しいままだった。理由はメラニーとオデットの散財。現状維持が精一杯で、資産を増やすなど夢のよう。
このままでは領地で災害が起きても対処できない。
病に侵食されながらも領民のために尽力して母は亡くなった。だからせめて、母の誇りである領地だけでも。
リュシエンヌが奮闘し疲弊する一方で、オデットは順風満帆だった。セレスタン様との仲も良好で二人は学園を卒業したら結婚するそうだ。
幸せいっぱいのオデット、搾り取られた残り滓のようなリュシエンヌ。
これだけ表情が違えば、たとえ隣にいてもオデットとリュシエンヌの顔立ちがよく似ていることに誰も気がつかないだろう。
そして十八歳の冬のこと。
同い年のオデットがリュシエンヌに成り代わったまま、まもなく学園を卒業するという寒い時期のことだった。
廊下ですれ違いざまに目も合わせず父からこう告げられた。
「エリック・フルニエに嫁げ」
「いつでしょうか」
「もう婚姻届は提出してある、今すぐにだ」
理不尽とも思える扱いをされても、もはやリュシエンヌは驚きもしない。
どうやら本人が知らないうちに結婚していたらしい。
書類上のリュシエンヌは、「オデット・フルニエ」になった。




