ep26:鹿と温泉と美味いメシ
「すごい、鹿が逃げてった」
「あら~、あの鹿が慌てて逃げるなんて初めて見たわ」
女の子と女性に感心されるけれど、僕は大したことはしていない。
動物は無言で目を見ながら近づく人間に圧を感じる。
緊張感が高まったところで破裂音がすれば、飛び上がるほど驚く。
僕は鹿に圧を感じさせた後、手を打ち合わせる音で驚かせただけだった。
「鷹野さんが来てくれて助かるわ~、あの鹿は、女だと怖がらないのよ」
って言う女性が、温泉民宿初鹿の女将さんだった。
女性だから怖がらないのではなく、女将さんがおっとりし過ぎて恐怖感ゼロなだけ……と言うのはやめておこう。
「この枝垂桜の木は、亡くなったおじいさんが大事にしていたものだから、食べられちゃうのはねぇ」
民宿の庭でひときわ目立つ枝垂桜。
鹿が食べていたのは、花が終わった後に芽吹く若葉だった。
「これからもあんな感じで追い払えばよいですか?」
「そうね、ああやって追い払ってもらえると助かるわ~」
僕の仕事のメインは、あの鹿との攻防になりそうだ。
異世界で鹿狩りや解体を見た後だから、随分と平和に思えてしまう。
「鷹野さんのお部屋はここだよ」
部屋へは、女将さんの孫の琴音ちゃんが案内してくれた。
30日間の住処となる部屋は、民宿1階の庭園が見える和室だ。
初日の夕食は、民宿スタッフたちと一緒に食べさせてもらった。
この民宿は、女将が花江さん、マネージャーが長女の菖蒲さん、料理長が菖蒲さんの夫の真人さん、次女の桔梗さんと三女の百合さんが部屋の清掃や食事の配膳を手伝うという、完全なる家族経営スタイルらしい。
「今日から住み込みの警備員・鷹野です。よろしくお願いします」
「初日から鹿を追い払ってくれたんだって? 頼りにしてるよ」
真人さんは穏やかそうな雰囲気のイケメンだ。
今までは、彼が鹿の追い払い係をしていたらしい。
僕が来たことで調理に専念できると喜んでいた。
(温泉はいいなぁ。ごはんも美味いし)
食後、民宿の露天風呂で星を眺めながら、僕は満ち足りた気分になっていた。
こうやって温泉で血行が良くなれば、朝の身体の軋みは減るかもしれない。
明日になれば、また異世界生活が始まるのだろうか。
そうそう、ウォルクリスには、鹿を傷つけずに追い払ってもらわないと。
鹿は狩るものと思ってる彼には、狩ったり食べたりしないように手紙でも残しておこう。
風呂からあがって部屋に入った僕は、ウォルクリス宛てに手紙を書いて目覚まし時計の横に置いた。
僕たちは互いに記憶の共有が出来ているけれど、たまには手紙もいいかもしれない。




