ep25:のどかな温泉街
異世界で燻製作りを手伝った翌朝。
僕は目覚めると共に、身体の軋みと腹部の筋肉痛に顔をしかめた。
こちら側でのウォルクリスの記憶が流れ込んでくる。
彼は傘を振り回すとまた物を壊すと思ったらしく、腹筋をしていたらしい。
(腹が出てるのが気になった? オッサンはな、腹が出るのが普通なんだよ)
ウォルクリスが腹筋するに至ったもうひとつの理由は、僕のビール腹だ。
そういや、あいつの腹筋割れてたな。
なんで12歳の子供の腹がシックスパックなんだよ。
痛む腹をさすりつつ、僕は寝室を出た。
今日は温泉民宿初鹿へ移動する日だ。
荷造りは一昨日済ませている。
民宿初鹿は、鹿の湯温泉郷という山間部の温泉地にある。
鹿の湯温泉郷までは、電車で麓の駅まで行った後、路線バスに乗り込む。
(相変わらず、のどかな場所だなぁ)
終点のバス停「鹿の湯温泉」でバスを降りた僕は、スマホのナビを頼りに勤務先へ向かう。
この辺りは温泉街になっていて、ホテルや旅館がズラリと立ち並ぶ。
民宿初鹿は、そこから少し離れた山林の中にあった。
「こんにちは、警備の依頼を受けた鷹野です」
「まあ鷹野さん、電話をしてくれたら駅まで迎えに行けたのに」
民宿のフロントには、穏やかに年を重ねた感じの妙齢の女性がいた。
バス停から歩いてきた僕に、申し訳なさそうにしている。
「いえいえ、歩くことには慣れてますから平気ですよ」
僕は笑顔で応えた。
仕事柄、長時間歩くことは苦痛にならない。
ウォルクリスが全力疾走したり、傘を振り回して剣術の稽古をしたり、腹筋五百回とか無茶しない限り、筋肉痛にはならない身体だ。
「それならよいのだけど……」
女性がホッとした直後、小学生くらいの女の子が玄関から駆け込んでくる。
赤いランドセルを背負った女の子は、慌てた様子で女性に告げる。
「おばあちゃん、鹿! 鹿がおじいちゃんの木を食べてる!」
「まあ、困ったわね」
焦っている女の子とは対照的に、女性はノンビリした口調で言う。
女性はフロントの椅子から立ち上がり、玄関の外へ向かう。
僕も玄関から外へ出ると、1頭の大柄な鹿が庭木の葉を食べているのが見えた。
「こ、こらっ。あっちいけ!」
と言う女の子は逃げ腰で、迫力はイマイチだ。
鹿はちょっとビクッとはしたものの、変わらず葉っぱをむしって食べている。
女の子の祖母らしい女性が、スッと一歩踏み出した。
追い払おうとしているらしい。
しかし、その口調は、思ってたのと違った。
「こらぁ~、ダメよぉ~」
ゆっくり過ぎる女性の声に、背後にいた僕はズッコケそうになる。
なんだろう? この鼻から脳みそ出そうなユルさは。
「その木はね~、大事な木なのよ~」
女性は追い払おうと手を振るが、その動きも超スローである。
よく分からんけど、多分人生ゆっくり生きてきた人なんだろうな。
鹿は全く怯えた様子はなく、モグモグと葉を食べ続ける。
僕はキャリーケースを玄関前に置き、鹿の方へと歩き出した。
「……」
無言で近づく僕を、鹿が警戒した様子で横目で見る。
鹿が緊張し始めたところで、僕は両手をスッと上げると、勢いよく合わせて打ち鳴らした。
柏手を打つよりも大きなパンッ!という音に、鹿が驚いて飛び上がる。
ヤバイ相手だと察したのか、鹿は慌てて飛び跳ねながら逃げていった。




