ep21:温泉民宿初鹿
「先方には、鷹野くんが出社する時刻を教えておいたから、そろそろいらっしゃる筈よ」
鈴村さんが言う通り。
フォーマルスーツに身を包んだ女性が、エントランスの自動ドアから入ってくる。
彼女は受付まで歩いてくると、穏やかで上品な笑顔で話しかけてきた。
「鷹野さんはじめまして。わたくし、温泉民宿初鹿のマネージャー・初鹿菖蒲と申します」
「はじめまして初鹿様、僕にお仕事の依頼とのことで、お間違いないですか?」
「はい」
「いらっしゃいませ初鹿様。御相談の場を設けておりますので、こちらへどうぞ」
初鹿さんと僕が挨拶を交わした後、鈴村さんが受付カウンターを離れて会議室へと誘導する。
温泉民宿と聞いて、僕の心に期待が満ちていたのは内緒だ。
「鷹野さんにお願いしたいのは、民宿の敷地内に侵入する野生の鹿を追い払うことです」
会議室で初鹿さんから聞いた依頼の内容は、敷地内のパトロールと野生鹿対応だった。
警備会社に依頼できる主な業務は、施設警備業務、交通誘導・雑踏警備業務、貴重品運搬警備業務、身辺警備業務の四つがある。
今回の依頼は、警備業法で定められた1号にあたる業務、施設警備に該当する。
「勤務先は山間部の温泉地にある民宿になります。通勤が不便なので、民宿に住み込みでお願いします」
「僕が勤務する期間を教えてもらえますか?」
業務内容は、常駐警備と呼ばれる業務で、民宿施設内の巡回と定点カメラのモニター監視だった。
宿泊地での住み込み業務は、単身者の僕ならいつでも気軽に引き受けられる。
「鹿は年間通して現れるので、鷹野さんの都合によって勤務開始日を決めて、ひとまず1ヶ月、30日間でいかがでしょうか」
「開始日を僕の都合で決めていいんですか?」
「はい。こちらは鷹野さんに業務をお任せしたいと思っておりますので、明日からでも来週からでも構いません」
「では明後日から開始でよいでしょうか」
「はい。よろしくお願いします」
面談を経て、あっさりと契約が決まった。
住み込み業務は久しぶりだ。
ウォルクリスとの入れ替わりがあったとしても、記憶は共有できるし、彼は野生動物の扱いに慣れているから問題無いだろう。
「住み込み期間中の光熱費は当方が負担します。食事はまかないを御用意します。民宿のお風呂も使って頂いて構いません」
「ありがとうございます」
温泉民宿の住み込みは素晴らしい。
光熱費や食費は本来ならうちの会社負担なのだけど。
温泉民宿初鹿は、気前のいいクライアントだった。




