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冴鬼奇譚  作者: 山田太朗
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流転――三島公威

 三島は高鳴る鼓動を落ち着けるために大きく息を吸い、吐き出して、腕時計を見詰める。アナログ時計の長針がひと目盛りも動いていないことに落胆して、あたりを見回した。待ち人の姿がまだ見えないことにどこか安堵し、彼女の顔を思い出すとまた鼓動が早くなったので、大きく息を吸う。

 三十分ほど前から彼はこの場所に立ち、一連の動作を幾度も繰り返していた。ただでさえ目立つ三島の体格である。彼の挙動に最初は不審そうな目を向けていただけの人たちも、やがて距離をとり始め、今や三島の半径三メートルの範囲には誰もいない。平日とはいえ、昼間の新宿でこれは異様なことだったが、当の三島本人はそんなことにも気づかない様子で、ただ時計を睨んでいる。

 三島は基本的には小心なのだが、初めて文学賞に応募したときも、その受賞が決まったときも、そればかりか数百人の前で講演を行ったときでもこれだけ緊張はしなかった。

 もし彼を観察していた人間がいたら、一時間ほど前から始めた同じ行動が百回を超えたことに何らかの感慨を覚えたであろう頃、三島の顔が緊張に強ばり、次いで引きつったような笑みを浮かべた。彼の視線の先には、信号待ちをしている人々がいる。その先頭に小柄な少女がいた。

 初めて出会った日と同じように、長い黒髪だった。美しい少女なのだが、どこか特徴が掴みづらい。それを分かっているのか、青白い肌に目立つよう、真っ赤な紅がひかれている。長い睫毛が不安げに揺れていたが、三島と視線がぶつかると冷たい表情のまま、真っ赤な唇を持ち上げた。

 やがて信号が青に変わると、少女は悠然と三島のもとへと歩いてきた。

「おまたせしました、平岡先生」

「いえ、ぼくも今来たところですから」

 三島は頬を赤らめ、視線を足元に落とす。視線の先にある革靴はぴかぴかに磨き上げられていた。もちろん、その他のものだって彼女と出会った日のものとは比べるまでもなく着飾っている。なけなしの貯金をはたいて、数少ない友人の一人に聞いた店で店員に言われるがままに買ったものたちだった。

 対照的に、少女のいでたちはあの日と変化が乏しい。

 薄いデニムのワンピースに、ざっくりとしたクリーム色のセーター。今日は少し冷えるからか、黒のタイツをはいている。ファッションに疎い三島でも、かれこれ一時間以上通行人の服装を見てきたので、それが流行のものではないと分かった。

 だが、それが彼女らしい自然な姿であると思い、三島は素直に「服、とても似合っています」と口に出した。相手が相手だと激怒されかねない台詞だったが、少女は素直に微笑んだ。

「ありがとうございます。これ、妹が選んでくれたものなんですよ。私、あまりお洋服のこと分からないので」

「仲が良いんですね」

「ええ、私と違って活発なので、そういうのは全部妹任せなんです」

 少女は口元だけ微笑む。瞳はまるで笑っていない。そればかりか、まるで三島を射抜くかのように見上げている。

 これも、二人が出会ったあの日と同じだった。そう、あの日。


「ありがとうございます」

 感情のこもっていない声で冴鬼幽と名乗った少女は本を受け取る。余白のサインを見つめ、満足そうに頷いた。

 そのままたっぷり一分ほど。

 少女はサインを見つめ、三島はそんな少女を見詰めていた。

 ちらちらと三島を伺っている。おそらく三島に作品のことなどを聞きたいのだろう。しかし自分から他人の時間を奪って良いものなのか思案している――といったところか。三島も久しく他人と会話をする機会を持っていないので問題はなかった。だが彼はその見た目に似つかわしくないほどの繊細な男だ。会話の水を向けるなんてことは、ここ数年ほどした記憶がない。

 どこか空虚な時間が流れる。それを破ったのは、「……あの」という言葉だった。三島、そして少女から同時に漏れた声。

 直後、二人は声を上げて笑っていた。三島は体躯にあった大声で。片や少女は微かな声で。

「なんでしょう?」

 笑ったおかげで緊張のほぐれた三島は、自然な笑みでそう語りかける。

「先生がお忙しいのは分かっているのですが、よろしければお話を聞かせていただけないでしょうか?」

「見ての通り暇なもので、どうぞ」

 わずかに腰を浮かし、ベンチを指し示す。少女は頭を下げて三島の隣に腰かけた。ふわりと石鹸の匂いが三島の鼻腔(びこう)を刺激した。

 それから数時間、三島は自分でも驚くほど饒舌に自作について、近年の文学について語り続けた。少女は物珍しさであろう、そんな三島の話を実に興味深そうにただ聞いていてくれた。だからこそ三島もこれだけの長い間話を続けれたのだろう。


「――申し訳ない」

 三島が時の流れに気がついたのは、影が長くなりどこからか夕餉(ゆうげ)の匂いが風に流れてきたころであった。

「いえ、大変興味深かったです」

「そう言っていただけると助かります」

 苦笑いを浮かべ、こめかみを小突きながら三島は笑う。

 相変わらず口元だけに笑みをたたえた少女は、何度もうなずいていた。手には手帳と鉛筆が握られている。どうやら人と話すときにメモを取るのが癖になっているようだ。ちらと盗み見ると三島が話した内容がとても丁寧な字で書かれている。

「さて、そろそろ帰らないといけませんね。駅まで送ります」

 後ろ髪をひかれる思いで三島は立ち上がった。二度と会うことがないであろう少女だったからこそ三島はこれだけ雄弁になれたのだろうが、心のどこかに引っ掛かりがある。

 思えば、このときから既に三島公威はこの薄幸の少女に魅せられていたのだろう。三島は今までまともな恋愛というものを経験していない。それなりの数の女性と付き合ってきたものの、恋というものとはどこか違うと感じていた。

「あの、平岡先生……」

 自覚がなかったからこそ、彼はこの少女の言葉に舞い上がらんばかりに喜んだ。

「……もしよろしければ、またお話を聞かせていただきませんか?」

 三島はどう返したのかすら憶えていない。ただ再会の約束をとりつけ、その時を首を長くして待ち続けた。


「平岡先生?」

 少女が三島を見上げている。

「す……すみません、ぼんやりしてしまって」

「大丈夫ですか? もしかして体調が優れないとか?」

「いえ、大丈夫。仕事柄あまり外に出ないもので、太陽にあてられてしまったようです」

「それは大変。どこかで休みませんと」

「それなんですが。友人にいいお店を教えてもらったのでそこに行きませんか? 珍しく、硬派なジャズ喫茶なんです」

 三島の言葉で少女は明らかに顔色が変わった。彼女がジャズに興味があるというのは、公園で聞いていたのだ。

「憶えていてくれたんですね」

「ええ」

 笑顔の少女。この時に三島は違和感を覚えていたのだが、気にも留めなかった。

 それをのちに文字通りの意味で死ぬほどに後悔することになるのだが、この時彼の瞳に映った美しい少女にそれはかき消されてしまう。



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