暗転――冴鬼優作
降りしきる雨が車内に入り込むのが厭で、薄く開けていたのが失敗だった。紫煙と、それに溜め息で充満した狭い箱から逃れるように、優作は車のドアを開き外に出た。
思ったよりも小降りになってきているようだ。これならば、後部座席に投げ出された傘はいらないだろう。皺だらけになってしまったジャケットから煙草を取り出しライターで火を点けた。まとわりつくかのような湿気の中大きく煙を吐き出したが、気分は晴れるどころか滅入る一方だった。
住宅街の片隅にあるコインパーキングには、優作のものである国産セダン以外にも数台の車が停まっている。恐らく月極で契約しているものもあるのだろう。だからこそ、優作はこの場所を選んだのだ。
煙草を足元に落とすと、もみ消すまでもなく火は消えた。優作はその間もある一点から視線を外さない。
コーポハイツ北坂。
大久保の一角にある二階建てアパートは、太平洋戦争で空襲を逃れた長屋を改装した歴史が長いだけのくたびれた建物だ。東京二十三区内にあるのに家賃が月に四万円。もちろん風呂やトイレがついているわけもなく、六畳一間の和室は隣人の声が常に聞こえる非常にオープンな作りになっている。六十年代後半のヒッピーあたりが好みそうな場所だ。
ひとフロアに四室、上下合わせて八室の窓は南向きで日当たりだけは良いのだが、そのせいで畳が変色している部屋が多い。こんなところに住む人間はそんなことを気にはしないのだろうが。
優作は腕時計に視線を落とした。人差し指で軽く触れると、デジタルの文字盤が時刻を映し出す。
午前二時半。
二階、階段側の端の部屋はこんな時間だというのにカーテンの隙間から灯りが漏れていた。他にも灯りのついている部屋はもうひとつあったが、その他は真っ暗だった。
このアパートに空室はなかったはず。となると、時間も早いしまだ帰ってきていないだけか。
優作はそうあたりをつけ、新しく煙草を咥えた。
このコーポハイツ北坂に入居しているのは、表向きは全員日本人になっているが、実際は密入国をしてきた、あるいはビザの切れた不法滞在者の韓国人だ。
バブル経済は崩壊して久しいが、未だ続いている米ソ冷戦の煽りを受け、アジアの経済は混迷をきたしている。お互いの関係は緊張を保ったまま膠着状態が続いていたが、ベトナム戦争にアメリカが介入したことによって、大きくバランスが崩れだした。公にはなっていないが、東南アジアの一角がソヴィエトのライフラインであることは誰もが知っていることだ。世界のリーダーを自負するアメリカは自ずから武力を行使するわけにはいかない。ベトナム内部に諜報部の人間がいたであろうとはいえ、かの地からの要請は渡りに船だった。こうしてアメリカは大義を持ったまま戦争に介在し、武力では劣るものの、豊富な資源と外交力、そして資金に物を言わせ、兵糧攻めを始めたのだ。
ソヴィエト側も当然黙ってはいない。先ずはアメリカの資金を絶つために、これも公然の秘密である子飼いの中国を中心に、通貨を大量に流通した。これに巻き込まれたアジア諸国はたまったものではない。すさまじいインフレが起き、カンボジアやスリランカなどの独自の資源を持たない国は、十パーセント以上の失業者を生み出し、ベトナム戦争以上の餓死者が出たそうだ。
泥沼と化した冷戦は欧州を巻き込み、今にも第三次世界大戦が起こりうる状況に差し掛かっている。そんなアジア人たちが楽園を求めるのは必至だった。
その楽園こそがアメリカと対等に付き合いがあり、ソヴィエトの影響を受けない唯一の――そして、世界的にも強くなった円を所有する大日本帝国だというわけだ。
密入国するアジア人は山ほどいる。そんな彼らの隠れ家は、今や帝国に掃いて捨てるほどあった。ここ、コーポハイツ北坂もその一角だ。歌舞伎町にほど近い大久保付近は、帝国領であることを忘れさせるほどに韓国人の街と化している。
そして、この街の韓国人たちは夜を好む。日が沈む頃に起きだし、朝日を迎える頃に眠りにつく。非合法な仕事が絡むのはその時刻なので、当然といえば当然だったが、昼間に働く人間がいないわけではない。それなのに、皆夜になると活動的になるのだ。
韓国人の民族性もあるのだろうが、ここが彼らにとって異国であるということが多分に作用しているのだろう。日本はあくまで仮宿なのだ。そして夜には日本人の大半が眠っている。仮宿から抜けだした同胞が多くなる。そうすることによって、異国の地を故郷に見立てている――優作は、そう考えていた。人間とは孤独を厭い、集団を好む性質だというのを知っているからだ。彼らの心理がよく分かるのは、きっと彼もまた同じだからだ。裏社会に属してはいるが、やはり優作は異物なのだ。いずれは冴鬼に戻り、この国を動かすことになるのだろう。
優作はひとつ身震いして車のドアを開く。湿気と水分で重くなったジャケットは助手席に放り、後部座席から寝巻き代わりにしているトレーナーを取り出す。肌寒い夜だったが、暖房はつけられない。そんなことをしたら、監視をしていますよと教えているようなものだ。
助手席に置いてあったファイルを手に取る。そこには今回の仕事内容と、対象の職場に住所、写真などが細々と書かれていた。ファイルは幾度と無く読み返したのでほとんど記憶してある。このまま身一つで視界に入る公衆電話に向かい、対象の部屋にピザを注文することだって可能だ。
煙草を吸いたかったが、カーテンに人影が映っているので我慢した。ライターの灯りは意外と馬鹿にできないのだ。代わりにポケットから取り出したガムを一枚噛みながら写真を手に取る。
デジタルカメラで隠し撮りしたものを加工、拡大したものだろう。かなり映りが粗いものの、人相が判別出来ないほどではない。そこでは真っ赤なドレスを着た痩せぎすな女が無邪気に笑っていた。ドレスの胸元は広く開いていたが、いかんせん体格が体格なので、セックスアピールが足りないように見える。しかしそれは、真っ暗で音もない車の座席だから思うことで、薄暗く、スロウな音楽がかかり、酒の入った場所ではまた別の見え方があるのかも知れない。あるいは、ただ優作の好みがもう少し肉感的なおんなだったからだとも言えただろう。いずれにせよ、この女が美しいかどうかは別問題なのだ。優作は、ただ与えられた仕事をこなすだけ。女の行動を監視し、どういう行動をとるのかを調査するのだ。
そう、仕事。
冴鬼優作の仕事は探偵だ。ただ探偵と言っても、推理小説に登場するようなものでも、一般的な犬猫探しだの、浮気調査だのといったものでもない。
彼の仕事は、表に出せない死体の処理、表に出せないネタでの恐喝、表に出せない物の輸送など、いわゆる裏社会の何でも屋であった。
――まさに探偵の仕事だな。
普段は窃盗品の横流しや、マネーロンダリングの仲介、麻薬の取引などのものに比べると遥かに探偵をしている。腕力に自信のない優作だったので、荒事が絡まないのはありがたかった。
ある意味ではこの国を牛耳る冴鬼という家に対する反発から始めた仕事であったが、それらの気持ちは遠い昔に忘れ去った。ただ、今の優作にとっては日常と化している。犯罪に手を染めているとはいえ、これによって生活している優作にとっては大事な仕事。それ以上でも以下でもない。
とはいえ、やはりもともとの性格もあり何度か辞めようとしたことはあった。その度に、優作の仲介業者である自称中国籍のチンという男は「ユサク、お前が辞めたら誰がやるか。こんな仕事できるのユサクだけよ」と怪しい日本語で諭してくるのだ。もちろんこの男だって犯罪者なのだろうが、長い付き合いというのもあって、どこか憎めない。折れるのはいつも優作だった。
いつまでもこんな仕事をやってはいられないだろう。そういう思いもある。だが、半ば以上泥沼に身体を突っ込んでいるのは優作も認めるところだった。冴鬼優作としてではなく、便利屋の優作としていつかどこかの路地に転がっているはずだ。自嘲気味にそう考える。むしろ、それが望みだった。
そんなことは冴鬼という家の特殊性から認められるわけがない。
結局、遅めの反抗期が未だ続いているということだろう。
いつものようにそう結論付けると、さらに気分が悪くなった。この思考に陥ると、いつもこうなる。
舌打ちをして、足元に転がっているビニール袋からぬるくなった缶コーヒーを一本取り出し、乱暴にプルタブを開く。静かな車内に思いのほか大きな音が響き、優作は肩をすくめた。
雨は上がっているようで、窓の外からは何の音もしない。
もう一度、映りの悪い写真を手に取る。大丈夫だ。問題はなにひとつない。
「奴らは俺を舐めている。一度だけだったら出し抜けるはずだ」
確認するかのように声に出してみると、不思議と心が落ち着いた。この計画が成功したときの奴らの顔が楽しみだ。そう考えると、幾分気が楽になった。
――しばらく動きはないだろう。
例の部屋から灯りが消える気配はなさそうだった。
長年の勘から、優作はそう考えて運転席のシートを倒した。後部座席から枕と毛布をつかみ、ミノムシさながらにくるまる。念のため、三十分刻みで腕時計のアラームをセットすると同時に眠りに落ちた。
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