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冴鬼奇譚  作者: 山田太朗
3/12

交点――三島公威

「うーん。ちょっと古めかしいんだよなぁ」

 眼鏡を直しながら、古賀栄次(こがえいじ)は数枚のファイルをテーブルに置いた。何事かを唸りながら無精髭の生えた顎を撫で回す。

 徹夜明けなのだろう。瞳は赤くなっていて、その下には黒々とした隈が見えた。よれよれのシャツにゆるく巻きつけただけ、とでも形容するのが似合いそうなネクタイが、それを象徴するように力なくぶら下がっている。

 昼時に入ったファミレスだったが、客はあらかた引いたようだ。あれほど慌ただしく走り回っていた店員も、のんびりと空いたテーブルを片付けている。

「……はぁ」

 古賀の向かいに座った三島公威(みしまきみたけ)がうなだれて肩を落としている。がっちりとした身体つきをしていて、古賀よりも二回りは大きく見える三島だったが、なで肩で童顔、更には年中泣きそうな顔をしているというのもあって、迫力はかけらもなかった。そればかりか、その様子を盗み見た店員が思わず笑ってしまうおかしさがある。

「とりあえず、これはこれとして別のものを考えてみましょう。ちょっとこれから他の打ち合わせが入っているからこれで失礼するよ」

 古賀は時計を見ながら立ち上がった。傍らに置いてあったジャケットと一緒に伝票を掴む。三島が何かを言う間もなく、手で制してからそのまま会計を済ませて出て行った。いつもながら慌ただしい男だ。そうでないと出版社の編集部長は務まらないのだろうが。

 三島は、古賀が置いていったファイルを手に取り、大きくため息を落とした。

 ――また駄目だったか。

 A4サイズの紙には、ワープロで出力された文字がびっしりと並んでいる。三島はしばらく文字に目を走らせた。我が子を慈しむかのような優しい瞳だった。やがて読み終わると、一気に破いた。なるべく細かく破り、紙片を空の灰皿に放る。煙草をくわえ、マッチをで火を点すとそのまま灰皿に投げ入れた。火が紙に燃え移り、厭な匂いが立ち込める。

 店内にいた全員が三島を見たが、非難の声を上げる人間は誰もいなかった。三島の体躯に尻込みしたのもあるだろうが、その背中と表情が言葉にできないような哀愁を持っていたからだ。火が消えるのを見届けると、三島は我に返り、いたたまれない気持ちになって逃げるかのように外に出る。


 高く昇った太陽が瞳を突き刺した。十月も間も無く終わりだというのに、上着を着ていると汗ばむ陽気だった。

 うつむいて歩く三島の横を、下着が見えそうなほど短くしたスカートを翻しながら高校生が通り過ぎる。最新型のスマートフォンにつけたいくつものストラップが、彼女が歩く度にじゃらじゃらと揺れていた。あんなにうるさいのに、耳に当てて通話が出来ているのが、時代に取り残された三島には不思議だった。やがて少女は信号待ちをしていた派手な髪型をした男に手を振る。どうやら彼氏のようだ。流行なのか、タイツのように細いズボンに底の厚いブーツを履いている。昭和中期のロック・ミュージシャンのようないでたちだ。リバイバルとかいうやつなのだろう。

 思わず、三島は自分の着ている服を見てしまう。洗いすぎて白に近くなったブルージーンズに、肘のあたりが光沢を放つようになったジャケット。足元の鈍く光る革靴だけが彼が唯一持つブランド品だったが、それも今日の格好にあっているとは思えない。流行とはほど遠い自分がひどく惨めに思えてきてまた嘆息する。服なんて十年近く買っていなかった。そんな暇があれば、阿佐ヶ谷の自宅でワープロに向かっている。

 彼は、小説家だった。十五年前、高校生のときにとある文芸賞を最年少で受賞して華々しいデビューを飾ったのだが、時代が悪かった。世はネットワーク全盛期で、若者たちは携帯電話で読める軽い文章を好む傾向にある。古めかしく、固い文体が災いして三島はその流れに乗り遅れた。それでもしばらくは肩書で何とか食えていたのだが、ここ数年は本を出版すら出来ていない。

 先ほどの会談も、仕事の一環だった。

 古賀は三島がデビューした当初から目をかけていてくれた編集者で、今でも仕事がほぼなくなった彼を気にかけてくれる。いつだったか、酒を飲んだときに「初めての担当だったし、弟のようなものだからな」と真っ赤な顔をして話してくれたものだ。しかし、仕事は仕事だ。古賀は有能だったし、情に流されるほど愚かでもない。恐らくチャンスは後二度あるかどうか――いや、ひょっとしたら次が最後かも知れない。

 三島が文壇に固執している理由は、それ以外に暮らしの(かて)を知らないからである。作家に限らず、早熟な才能にありがちなことだった。社会経験を積まずに十数年やってきたし、何よりも体格に似合わず極度の人見知りであったので、必要最低限の人付き合いしかしなくてよいというのは、彼にとって天職であったのだ。

 幼い頃に他界した両親が遺してくれた自宅があるので、寝る場所には困らないだろうが、それでも職を無くすことは死に直結していると、悲観的な三島は考える。繊細なのだ。その神経の細さが作家としては武器たり得たのだが、今はそれすらも重りになりつつある。


 まるで、世界中の不幸を一身に背負ったかのような表情で、三島はのろのろとファミレスのあった大久保から新宿方面へと足を伸ばした。路地を縫い、裏道を抜けて小さな公園にたどり着く。打ち合わせでよく利用するファミレスからほど近い場所にあるここは、三島が煮詰まったときなど気分転換に利用する憩いの場だ。

 公園とは名ばかりの小さな緑地、申し訳程度に設置されたブランコが小さく揺れている。もとは色鮮やかだったのだろうが、あちこちに錆びが浮き、木製の椅子は幾度も風雨にさらされ腐りかけていた。誰も利用しているのを見たことがない忘れ去られた場所。三島は自身をこの公園に重ねていたのかも知れない。

 それともうひとつ、彼がここを気に入っている理由は、公園の隅にある小さな四阿(あずまや)だった。屋根がついており、コの形に配置されたベンチは、彼の大きな身体をもってしてもなお余りある。静かであるし、風雨もある程度はしのげるというのが気に入っていた。

 この場所に来るまでに買っておいた缶コーヒーのプルタブを開き、ゆっくりと飲み干すとようやく考える余裕が湧いてくる。

 その時。

 高い太陽が映しだした三島の影に、もうひとつのものが重なる。確かにここは公共の場所だ。何もない場所とはいえ、誰かが偶然迷い込むこともあるだろう。ひょっとしたら三島と似た思考を持った人間が、この場を宿木(やどりぎ)として使っているのかも知れない。

 しかし、精神状態のよろしくない三島は何故かその影に恐怖を感じ、両腕で身体を抱きしめ、俯いたまま(なにがし)かが去るのを待った。

 だが影はいつまで経っても動く気配がない。そればかりか、ずっと三島の様子を伺っているようでもあった。五分ほどそうしていただろうか。さすがに三島が不審に思い顔を上げると、影が動き、微かな声が聞こえた。

 女だった。

 しかも、高校生程度の年齢にしか見えない少女だ。先ほど見た派手な子とは違い、グレーのワンピースに、濃いグリーンのカーディガンを羽織っている。ひざ下まで伸びたワンピースから、病的に白く細い足が覗いていた。胸元まである髪は黒く艷やかで、太陽の光をまばゆく反射している。

 伏し目がちで、マッチ棒が軽々と乗せれそうなほど長い睫毛が不安げに揺れているが、漆黒の瞳は三島を見つめている。

「……あの、平岡先生ですよね?」

 病的な白い肌に似つかわしくないクリムズンレッドの紅を引いた薄い唇が、意を決したように開かれる。細い声だった。

「はい、そうですが……」

 平岡(ひらおか)由紀夫(ゆきお)とは三島のペンネームである。その名前は、今では古典に並べられるほどになった照和中期の文豪である三島由紀夫が元となっている。両親が傾倒していた作家でもあったので、たまさか同じ姓だったのをいいことに彼の名を貰ったそうだ。ペンネームは、その話を聞いた初代担当――つまりは古賀が面白半分でつけたものだった。期待も込めてあったに違いない。

 名は、体を表すという。三島公威こと平岡由紀夫はその名に恥じぬ活躍を最初の五年はしていた。皮肉を効かせ、重厚ながらもどこかコミカルな人間を描いた作風は、三島由紀夫よりも川端康成に近く、国内だけでなく海外でも上々の売上を見せ史上最年少でのノーベル文学賞受賞すら手に届く勢いだったのだ。

 しかし、それはある本を出版するまでの短い夢だった。

 照和四十四年の安田講堂事件を描いた問題作を出版すると、その評価は地に落ちてしまう。彼が独自の解釈を交えたのが問題だった、そういう向きもあるが、本当は触れてはいけないタブーを覗いてしまったからだ。順調に積み上げたキャリアは崩れ去り、どこの出版社も手のひらを返したかのように、三島から離れていった。メディアや評論家はその後も酷評を続け、本を出すことすら難しくなってきている。


「……あの、もしかして人違いでしょうか?」

 少女の声で、思考の底なし沼から覚醒した。

「ああ、失礼。ちょっと考え事をしていました。間違いなく平岡はぼくの筆名です。ところで何か御用でしょうか?」

「良かった! 私、先生のファンなんです。宜しければサインをいただけないでしょうか」

 そう言うと、少女は胸の前で手を合わせ口の端を持ち上げる。どうやら笑っているつもりのようだ。漆黒の瞳はどこか冷たさを残したままだったので、その笑い方はどこか三島を不安にさせた。きっと笑顔に慣れていないのだろう。少女の様子は、恐怖に近い感情を三島に抱かせるにはじゅうぶんだった。それを隠し、三島も苦手な笑みを浮かべる。

 彼にこうやってサインをねだってくる人間は久しぶりだった。数少ないファンは大事にしないといけない。少女が手に提げた鞄を漁っている間も、三島は笑顔を浮かべ続けた。

 やがて三島の前にサインペンと一冊のハードカバーが差し出される。幾度も読み返したのだろうその本には表紙はついておらず、ぼろぼろに擦り切れていた。

「これは……」

 三島が驚いて目を見開く。表紙がなくても分かった。それは、彼が現在の地位に甘んじるきっかけになった例の本だ。

「私、この本が大好きなんです。題材は過激なのにどこか物悲しいところとか」

 本を受け取りながら更に驚く。彼女の台詞こそが、三島がこの物語に込めたそのままの意味だったからだ。

 ぱらぱらとめくり、奥付を見る。どうやら初版本のようだ。その隣の余白にサインを始めるが、久しく書いていなかったからか、どこかいびつになってしまった。サインの形が自分の現在を表しているかのようで、思わず苦笑してしまう。

「名前はどうしますか?」

 本当に嬉しいのか、それすらも掴めない無表情の少女を見ると、指を頬にあてて思案していたが、やがて「では、お願いします」と声だけは弾ませた。どこまでも空々しい――いや、現実感が希薄な少女だと三島は思う。

「名をお伺いしても?」

「幽――冴鬼(かすか)とお願いします」



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