基点――冴鬼優作
サイドウインドウを叩く規則的な音に、冴鬼優作は目覚めた。無理な体勢で眠っていたせいか、身体の節々が痛む。倒しておいたシートを起こしながら、優作は身体をほぐし始めた。そうしてようやく窓の外に目を向けると、そこには村上公康の大きな顔が見えた。手で合図してからオートロックを外してやる。
「いやぁ濡れた濡れた」
ぼやきながら村上がその巨躯を折りたたむように助手席に滑りこんだ。セダンタイプの車ではあるのだが、平均よりも遥かに大きな身体を持つ村上は窮屈そうだった。窓の外を見ると、確かにかなり降っているようだ。アスファルトが黒く染まっている。
「いつからここに?」
天気予報を聞きたくてラジオにチャンネルを合わせる優作に、村上はのんきな声で聞いてきた。
「三日前」
とだけ優作はぶっきらぼうに言ってリモコンを操作してみたが、どうやら予報はどこもやっていないようだ。普段はやけにテンションの高いディスクジョッキーが、似つかわしくない声音で宮内庁病院の様子を告げていた。どうやら、あのお方はまた血圧が上がり昏睡状態に入ったらしい。こんなものを聞いていても気分が滅入るだけなので、乱暴にスイッチを切るとリモコンを投げる。こちらを伺っている村上の視線を感じ、なるべく普段通りの声で語りかけた。
「で、どうなんだそっちの様子は?」
「もう無理そうだね。てんてこ舞いってのはこのことだよ。誰も彼もが動いている。この状況を逃すまいと必死なのさ」
「なるほどね、今回ばかりは現人神の神通力はなしってことか」
「そっちこそどうなのさ。まさかこの車に爆弾が仕掛けられているとかないよね?」
村上はどこまで本気なのか、そう言って辺りをきょろきょろと伺い始める。
「大丈夫だ。死神が来たのは俺のところじゃない」
「じゃあ安心だ。ぼくこの間五十年ローンで家買ったばかりだからね。まだまだ死ねないよ。嫁さんもまだまだ若いし、いろいろと必要だしね」
きひひ、と下品な声で笑う。このままでは、この前捕まえたとか言う現役モデルの愛人自慢に発展しそうだったので、優作は書類を取り出して放った。
「こいつは?」
「今回は状況が状況なだけに、情報が錯綜している。やつが現れたと思われる家族のデータだ。恐らく兄貴あたりがそれを狙っているんだろうが、本家の者ですら情勢を掴めていない。そろそろ誰につくかをはっきりさせておいた方がいいぜ」
「ああ、大丈夫大丈夫。ほら、ぼくって愛らしいじゃない? 宮内庁の覚えもめでたいし、何よりも最強のバックがいるからね。おっと」
片手で書類をめくりながら、もう片手で口元を抑える。
――何がおっと、だ。
村上とはこういう男なのだ。どこまでが本気なのか、いろいろと口を滑らせる。もちろん意図的にやっているのだろうが、それが裏目に出て痛い思いをしたことだって山ほどあるはずなのに、懲りるということを知らない。
この男が状況を撹乱していると言っても過言ではないだろう。
優作は悪態が口をついて出てくるのを防ぐために最後の煙草に火を点けた。煙が喉にからみつく。顔をしかめ、ホルスターに置いてあるとっくに冷えた缶コーヒーを呷った。
空のパッケージを足元に置いてあるコンビニ袋に放る。そこにはいくつかのおにぎりや、サンドイッチの空袋、それに十を越す煙草の空パッケージ無造作に潰されて入っていた。
村上は話し続けながらもそれらを目ざとく見つける。ゴミというのは、人間を計る上で格好の情報になり得るのだ。どうやら優作が三日前からこの場にいるというのは本当のようだ、そう考え満足そうに頷く。無論、優作はこうなるであろうと予測はしていたので、最低限のゴミだけを遺している。
「で、結局照和は今年で終わりそうなのかい?」
「そこに書いてあるだろう」
「これじゃあ、絞りきれないよ。緑さん縁さんは分かるとしても、傍系の三沢まで候補に載っているじゃん。五歳の子供がどうやったら死ぬのさ。もし三沢あたりだとしたら株の暴落程度で済むかなぁ。でもなぁ。状況がなぁ」
「お前がさっき言ったろう。何も死因は病気だけじゃないさ。事故、自殺、殺人、いくらだって考えられる」
「本気で言ってる?」
村上の瞳が怪しく光った。
――これはマズイな。
煙草をもみ消して、新しいパッケージを開く。その間、村上は優作の所作を見逃すまいとしているようだ。なるべくゆっくりと煙草を取り出し、そして火を点け、煙を吐き出した。紫煙で車内の空気が濁る。いつもだったら非喫煙者である村上がうるさいのだが、今日は文句のひとつもこぼさなかった。
「……守護者のことを言っているのか?」
「ご明察」
「あのな、守護者だって人間だ。いくら複数人いるとはいえ、不測の事態をすべて防げるわけがないだろう」
「それはそうだけど、今までの歴史から言っても零に近いんじゃない?」
「確かにそうだ。今までのケースはほぼ病死。だが、なかったわけじゃない」
「最後のケースは大照震災の時の冴鬼健一郎さんだね。暴徒にやられてる」
「調べているんだったら話は早い。今回だってそのケースなのかも知れない。死神様が来たことを他言することは禁じられているんだからな」
「それは分からないでしょ」
「いいか、村上。ガキの頃からの付き合いだし、俺はお前を親友だと思っている。その親友からの忠告だ。これ以上は首を突っ込むな。その太い首が回らなくなっても知らんぞ」
「親友だからだよ。冴鬼家を由としない集団がどれだけあると思うの? そいつらがもし変な気を起こしたら? 冴鬼の能力だって万能じゃない――」
「そこまでだ。俺だって冴鬼家の人間なんだぜ。守護者がいるとは考えないのか?」
今のは本当の失言だったのだろう。村上がぽかんとした表情で唇を震わせている。「ともかく」とわざとらしい咳払いをして、いつもの表情に戻った。
「ともかく、ぼくは私欲のために動いているわけじゃない。もちろん欲がないことはないけど、それでも心配しているのは本当なんだ。君、三日どころか全然帰っていないんでしょ?」
舌打ちしたい気分だった。こいつに告げ口するのは春日しかいない。妹の能天気な笑顔を想い、今度は優作が唇を噛む。いつも以上に煙草が不味く感じるのに、また新しい一本にライターを近づける。舌先の感覚はとうになかった。乾いた唇にフィルターがこびりつく。舌で二、三度湿らせてから、優作は子供に言い聞かせるように辛抱強く言葉を選んだ。
「太平洋戦争が終わってから、まだ二度しか死神の野郎は起きていないんだ。下っ端の俺どころか、本家のそれこそ当主様すら理解できていないことが多すぎる。そんな不確定なものにリアリティーを感じろって方がおかしいぜ」
「我が国家では大東亜戦争、だよ」村上がいつもの調子で茶々を入れる。「さっきの守護者の話じゃないけど、どこで軍部の人間が目を光らせているか分からないんだから気をつけなよ」
「その陸軍総帥は我が親父さまなんだが」
「あの人は血縁に遠慮するほど甘くはないよ。それこそ死なない程度にいろいろとされるのは明白だ」
「まるで知っているかのような口ぶりだな」
「そうだよ。だってぼくのパトロンだもの」
優作はよほど間抜けな顔をしていたのだろう。村上が車内に響く大声で笑い出した。村上の声は、変声期を迎えていない子供のように甲高い。その上「きひひ」という勘に触る笑い方をするので、軍に在籍していた頃は「この男の前で冗談は言うな」という、それこそ冗談みたいな命令を上官から受けたほどだ。
「まぁ、いいや」
ひとしきり笑い転げたあとで、村上は急に真顔になり「ぼくはそろそろ行くよ。助かった、ありがとう」そう、機械音声も顔負けな棒読みっぷりで告げると、さっさと車を降りた。
「ああ、忘れないうちに」
そのまま立ち去るかと思わせて、優作を振り返る。雨足は徐々に強くなっていた。傘をさしていなかったが、彼の上等な背広は雨を弾いている。
「優作。君もいろいろと動いているみたいだけど、陽動は無駄だよ。冴鬼本家がここまで見逃していたのは、当主様が溺愛している君だからこそなんだ。さっき君が言ったように、ここから先は不確定要素が多すぎる。これ以上のいたずらは容認出来ないかも、だよ」
ニヤリ、と厭な笑みを浮かべたまま、村上はそう告げると雨の中傘もささずに歩いて行った。優作を振り返りもしない。村上の姿が雨にけぶる夜道に消えたあと、優作は震える手でハンドルを握りしめた。助手席には、優作がそれっぽくでっち上げた情報が記されているファイルが置き去られていた。やり場のない怒りがこみ上げてくる。
――やつは、俺がガセの情報を流すと知っていたのだ!
その上で釘を刺していった。おそらくは彼のパトロンである陸軍総帥、冴鬼優馬の指示で。
「ちくしょう」
優作は拳を作り思い切りハンドルに叩きつける。
クラクションの音が霧笛のように大きく響き、やがて消えた。
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