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冴鬼奇譚  作者: 山田太朗
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序幕

 雨が降っていた。

 梅雨独特の、空気までもがまとわりつく(いや)な雨だ。とうに日は沈み、調布市有数の住宅街には人気がない。既に寝静まっている家が大半で、人工的な光が漏れている家屋は数えるほど。夜更けには時間があるというのに、住民が示し合わせたかのように厳かな気配が漂っていた。

 それを切り裂くかのように、一台の車が水たまりを跳ね上げつつ走っている。黒塗りのボディは雨露を弾いて街灯に照らされていた。後部座席ではでっぷりと太った男が搭載されている自動車電話に向かって何か怒鳴っていたが、その声は雨音にかき消され、空間を切り裂くかのようにエンジンが唸りを上げて住宅街を奥へと進む。

 住宅街を抜け、車は緩やかな傾斜を登り始めた。後部座席の男は然憮(ぶぜん)とした表情で左右を見回す。昼間であれば植林された綺麗な林を一望できたはずだったが、この周辺には街灯はないので、舗装されている道を照らすヘッドライト以外には何も見えない。

 坂を登り切ると、やがて大きな屋敷が見えた。男が目指す冴鬼(さえき)家である。

 門の前で車を停めると、運転席から細身のスーツを着た若い男が出て、純和風な建築に似つかわしくないインタフォンを押した。

 どれほど待ったであろうか。霧雨に整髪料が濡れ、整えた髪がだらしなく顔にかかっても、門の前に立つ男は無表情のまま身じろぎひとつしなかった。やがて、インタフォンの向こうから陰湿そうな声が聞こえる。「今、開く」とだけ吐き捨てるように言うと、男が何かを言う前にがちゃりと切れた。男は、そのまま頭を下げて扉が開かれるのを待った。

 数秒してから錆びたような音がし、扉は軋みながらゆっくりと開いてゆく。完全に開ききるのを確認して、男は運転席に戻った。

 門をくぐり、玉砂利の敷き詰められた道を確かめるように、ゆっくりと車を走らせる。広大な土地なので、更に数分進まねばならない。やがて玄関が見えた。そこには、熊のような大男が悠然と立っている。先ほど応答した男、冴鬼家の三男、敏夫(としお)である。

 エンジンを切り車を降りると、運転手の男は素早く後部座席のドアを開いた。それすらも待ちきれない様子で、でっぷりとした男は慌てて飛び出し、敏夫に頭を下げる。

「申し訳ありません、遅くなりました」

 男は、その短躯(たんく)を折りたたむように深々と頭を下げ、敏夫の言葉を待った。しかし、敏夫は何も言わず、丸みを帯びた顎で庭をしゃくっただけだった。

 昼間であれば、見るものを驚嘆させる美しい庭園が広がっている空間であったが、深い夜の中では、いくつか置かれている灯籠が蛍のように微かに方方を照らすのみ。敏夫に促され男が目を凝らすと、雨にけぶる庭の奥に薄ぼんやりとした灯りが見えた。離れである。

「まさか……」

「そのまさかだ。大お祖母様が先刻からお待ちになっている。急げ」

 地底から這い寄るかのような低い声でそう告げると敏夫は鼻をひとつすすった。

「はっ」

「二人で行け」

宮田(みやた)も……ですか?」

「二度と言わせるな」

 大男は、それで自分の役割は終わったとばかりに屋敷へと戻った。どうやらここからは二人でゆけということらしい。

 太った男は緊張と、そして興奮とで大きく身震いをした。

 まさか、自分が謁見(えっけん)できるとは!

 先ほどまでの卑屈な態度は忘れ、いつものように胸を張る。彼女に会うのはもちろん初めてだったが、敏夫の肝いりなので恐れることはない。

 歩き出してから暫くすると、雫が身体を濡らしていないことに気づいた。若い男――宮田がどこから取り出したのか、傘をさしているのだ。自然と二人は並んで歩くことになる。

 太った男は乾燥した唇をひとつ舐めて、隣の男に話しかけた。

「どう思うかね?」

「解せません」

「私もそう思う。今までは取り次ぎがあれば良い方、下手をしたら呼び出しておいて門前払いだったからな」

大石(おおいし)先生」

「構わん。ここまで来たら一緒だ。この会話は聞かれているに違いない。今更腹を探ったところでどうしようもないところまで来ているんだ」

「……ですが」

「君も小心者だな。まぁそこが気に入っているのだが」

 大石がくつくつと身体を震わせて笑い、それ以降会話はなかった。雨が傘を叩き、砂利を踏みしめる音だけがやけに大きく響く。


 やがて二人は足を止めた。目的の離れに着いたのだ。

 いくつもの灯籠(とうろう)が発する朧げな光に浮かび上がった離れは、神社のような作りをしていた。正面に朱色の両開き扉があり、採光のために用意されている小振りな窓が側面に見える。中は吹き抜けになっているのであろう、二階は存在しないはずなのだがやけに高い位置に瓦屋根があり、冴鬼家の守り神である鬼の面が左右対称に並んでいた。

 灯籠ひとつひとつの灯りは弱々しいが、離れを囲うようにして百八個並んでいるので、まるで昼間のように明るい。しかし、室内からは光が漏れていないようだ。そればかりか人のいる気配が全く届かない。

 しかし中に巫女がいるのは間違いなかった。細く、低い祝詞(のりと)の声が絶え間なく聞こえてくる。

 二人は無言のまま顔を見合わせた。意を決した大石が声を上げようとしたその瞬間、

「入りゃ」

 と中から声が聞こえた。

 感情のこもっていない、まるで昆虫のようなかさかさした声だった。

「失礼します」

 大石が先頭に立ち、両開きの扉に触れる。古い鉄扉はあちこちに()びが浮いていて、厭な匂いが鼻についた。顔を(しか)めながら力を入れると、思いの外あっさりと外側へと開く。しとしとと降り続く雨の音をかき消すかのように大きなきしみとともに、内部がぼんやりと浮かび上がった。

 ――厭な感じだ。

 名状しがたい感覚が宮田を支配した。それを表に出さないように務める。彼が視線を上げると、横にいた大石の身体がびくりと震えた。横から中を覗き込む。

 そこは、彼らが予想した通りの部屋だった。板張りの床に、高い天井。部屋の中央に蝋燭(ろうそく)が一本立てられており、その横に老婆が座っている。背中は曲がりきっていて、後ろ姿しか見えない。宮田は一瞬首がないとさえ錯覚したほどだ。

 よくよく目を凝らすと、薄闇の中にぼんやりとこちらを伺うかのような顔が浮かんでいる。鏡でも置いてあるのだろう、皺だらけで、顔のパーツがどこにあるのかも分からない、そんな不気味な顔。

 いや、違う!

 宮田は思わず叫びそうになった。手前にいた老婆がこちらを振り向いたのだ。それなのに、鏡の向こうの老婆も彼らを見詰める。全く同じ顔、同じ所作だったので宮田は鏡だと思い込んでいた。それは鏡などではなく、二人が向かい合って座っていただけなのだ。そう、全く同じ二人が。

 彼女が――いや、彼女たちこそが冴鬼家大御所の位に就いている、齢百五十を越えたと噂の魔女、(みどり)(ゆかり)姉妹だった。

「貴様が大石か?」

「貴様が宮田か?」

(ぞく)(まみ)れた顔をしておる」

「欲に()かれた顔をしておる」

「いつまで突っ立っているつもりかえ?」

「さっさと入りゃ」

「気が漏れてしまう」

「漏れたら大事じゃ」

「はよう」

「はよう」

 そこで老婆たちは言葉を区切り、きひゃひゃひゃと耳障りな笑いを立てた。口腔(こうこう)(うろ)かのように真っ暗だった。歯が全て抜け落ちているのだ。

 これには、常に国会で傍若無人に振る舞う大石も度肝を抜かれたようだった。大きく息を吐き出し、一歩前へと進む。宮田もそれに続く。

 老婆たちの前に立てられた蝋燭が不意に揺らめく。音すらも忘れ去られたかのような空間。沈黙が痛かった。

 二人が室内に入ると、計ったかのようなタイミングで扉が音もなく閉じた。先ほどはあれほど大きな音を立てていたのが嘘かのようだ。薄暗くなった室内に、いつの間にか座布団がふたつ置かれていた。大石は内心穏やかではないはずだが、それを何とか隠しつつ「失礼します」と座る。彼は、国家の外交を任されている男だ。海千山千の猛者に比べたら老婆二人くらいなんとする――そうやって自分に言い聞かせるようにひとつ咳払いをした。

 宮田は座る前に、周りを見渡した。大石の秘書と警護も兼ねる男である。これは彼の癖のようなものだ。

 なんてことはない板張りの間だった。外から見ただけでは気づかなかったが、六角形をしているようだ。六本の朱色に塗られた柱があり、それぞれに能面が掛けられていた。小面(こおもて)深井(ふかい)桧垣女(ひがきおんな)泥眼(でいがん)般若(はんにゃ)などが感情のない瞳を彼らに向けている。

 ――おや?

 老婆の背後(あるいは正面)にある柱に掛けられている面だけ、彼は見たことがなかった。

 安達女(あだちおんな)のように角があり、口が大きく開かれそこから牙らしきものが覗いている。恨みのこもった瞳が宮田を射すくめている。ぱっと見は鬼女なのだが、これは違う。鬼女というよりも……。

「あての背後の面が気になるのかえ?」

「あての正面の面が気になるのかえ?」

 大石だけではなく、老婆たちも宮田を見つめている。病気を(わずら)っているのか、その目は白く濁っていた。

「ああ、いえ。失礼致しました」

 宮田が座布団に座るのを待ってから老婆が口を開く。にちゃりと厭な音がした。

「さて、お堂に籠もり始めて幾日経ったかえ?」

「はて、お堂に籠もり始めて幾日経ったかのう?」

「さて大石」

「さて宮田」

「今日は何月何日になるかの?」

 最後は示し合わせたように同時に口し、それぞれが大石と宮田を見据える。

「本日は、照和(しょうわ)七十九年十月二十日にございます」この空気に吞まれたのか、震える声で大石が言う。

「きひゃひゃ、そうか、神無月(かんなづき)かや」

「きひゃひゃ、そうじゃ、神在月(かみありづき)じゃ」

「間もなくじゃのう」

「間もなく終わる」

「籠もりも間もなくじゃ」

「さてさて、召されるのはどちらかのう」

「きっと、縁さんじゃ」

「いやさ、緑さんじゃろう」

 きひゃひゃひゃ。

 老婆たちの会話の意味を理解していた大石と宮田は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 今も狂ったように笑い続ける老婆たちのどちらかが、近いうちに死ぬ。これは定められた運命なのだ。

 何故ならば、死神がそう言ったのだから。

 


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