94話
「それは……あまりにも時間が経っております……」
なんとか言葉を振り絞る清。二人のやり取りに張り詰めた空気が流れる。
「そんなことはない。これまでの時間、儂はお館さまの元、我慢してきた。我慢……? そう……一人前になるために身を粉にするために……」
まるで、何かを取り繕うように言葉を吐き続ける。
「あのお雪婆に見てもらうために……」
しかし、言葉が見つからないのか詰まり始める。
「御前さん……落ち着いておくんなまし……それに清殿も……」
朱鷺は清を睨む。
「それは……」
清さえ不穏な空気を後悔しそうになった。
「清殿……そんなこと、うちのものも気付いております。でも縋ることができるものは信じることでございます。それを喪えば、これまで粉にしてきたことが無になってしまう恐れを抱いてるんです……ですから……」
清は言葉が口から出ず呑みこんだ。
「望みを奪う言葉はお止めくださいまし……」
唇を震わせる朱鷺。
「お朱鷺……もう良い。わかっとるんだ……儂が心に言い訳をし、拒んでいたことを……。一人前になることが孝行と考え、時間に限りがあることに蓋をした……」
「幸吉殿……お朱鷺殿……平にお許しくだされ。余計なことを口にしたことを……」
清は頭を垂れた。そして頭に反花の言葉が頭にちらつく。
──本当に私は滑稽だ……滑稽、滑稽──
顔を手で覆う。それは後悔している顔を見られることではなく、こんな状況下でも笑みが零れそうになったからだ。すべてが反花の、いやその陰にいる静の思惑に踊らされている自分の不甲斐なさに笑いしか出てこなかったからだ。
「すまぬ、清殿。清殿は全うなことを口に出しただけだ……少しばかり急ごう」
それ以降、幸吉の言葉数は減った。京から耶三淵まで二十五里と半。一番堪えたのは朱鷺だった。時折、顔色を悪くし身体を休ませる時間を費やした。特に休む間は根音と根子が朱鷺に寄り添っていた。朱鷺の浮腫んだ脚や凝り固まった肩を揉みほぐし、川のせせらぎから手拭いを湿らせてきて脚を拭いたりした。
「お朱鷺さま……身体は労りもうせ」
根子が朱鷺に声をかけると朱鷺は申し訳なさそうに「すまぬな、根子殿」と辛いながらも笑顔をみせた。
「申し訳ない、清殿。清殿もお子らも疲れておろうに……」
「かまいません……朱鷺さまは長旅に慣れてはいらっしゃらぬ」
「しかし、清殿も長旅は慣れておらぬだろうに……」
「いえ、田舎の生まれですので身についておるんでしょう」
清は幸吉の問いかけを誤魔化した。
そして、とうとう七日をかけ、幸吉の微かな記憶を宿した風景に辿り着いた。小さな峠を越えたその先に、懐かしき匂いが風に乗って届いた。陽はまだ頭上にあり、柔らかな光が里の端々にこぼれ落ちていた。道端に咲くのは、名も知らぬ草花。あぜ道に咲く草花も肩を寄せるように揺れている。足元には小さな石が転がり、かつて転んで膝をすりむいた坂の傾斜が、今も記憶のままに続いていた。遠くからは水車の回る音が、かすかな木霊のように聞こえる。
一歩、また一歩と足を進めれば、見慣れたはずの坂道に草が伸び、石垣はところどころ崩れ、苔むしている。それでも、変わらぬ空の青さが胸を刺した。
民家の藁葺きの屋根が照らされて光り、どこかで煮炊きの香りが漂ってくる。煤けた軒下には竹箒が立てかけられ、かつて誰かが手を振ってくれた場所も、今はひっそりとしていた。
「……帰ってきたのだな。故郷とは不思議なものよなぁ……永年離れていようと心に錠をした如く色褪せることはない」
思わず幸吉の洩れた呟きが、宙に溶けた。風が、どこか懐かしい調べを運びながら、胸の奥を撫でていった。
しかし──幸吉の花紋様は、はっきりと枯れ葉の如く、濁り色の痣が浮き出ていた。




