86話
故郷を離れてもう何年経つか? 指折り数えることもなくなった……。
幸吉は眠れなかった。幼きころ、両親は農作業から帰る途中、母者が崖の斜面にて濡れた草に足を滑らせた。父者はそれを咄嗟に助けようと手を伸ばしたが、その時運悪く父者も足を岩場に取られ、共に深い谷底に落ちた。そしてそのまま帰らぬ人になってしまった。年の頃で言えば十の時。悲しみに途方に暮れたが、時の村長、羽戸山宗稔の口利きで京の米問屋に奉公に出された。「身ひとつで出すのは忍びないがのう……。あの家の主人は人情深い方ゆえ、きっと大事にしてくださる」そう村長は送り出してくれた。
問屋の主人、新山兵之助は厳しかったが、義理人情に厚く、商売の基礎から親身に学ばせてくれた。読み書きもできぬ坊やを、我が子のように育ててくれた。
丁稚の頃は一番下っ端の身分として、掃除、使い走り、帳簿運び、商品の陳列など、雑用が中心で手代や番頭からこっぴどくしごかれた。しかし、幸吉は文句も言わず、精を出した。兵之助は陰から見守り、「よう働く坊やや」と可愛がり始め、手代を任せ、成人した頃には若くして番頭まで任せた。気立てもよかったので京の中でも特に評判が良かった。
幸吉は感謝していた。もちろん、早くに旅立った両親にもだが、兵之助にも義理を感じていた。しかし、幸吉はいつも心の中で思っていたことがあった。
──おとうやおっかさんは毎日、野良仕事で朝夕と畑にいた。忙しゅうて、なかなか相手にしてくれなんだが、その代わり、あの人は厳しくおとうやおっかさんに替わり厳しく仕付けてくれた。でもほんに優しかったなぁ……今頃、元気にしとるだろうか? もうお婆になったじゃろ……元気にしとるだろうか?──
幸吉には忘れられない、育ての親と言うべき、女がいた。腹減ったと向かえば、「しょうがないねぇ」と言って団子をこさえてくれたし、無茶して膝を打った時には、優しくさすってくれた。愚痴も言わず頑張れるように育ててくれたのは間違いなくあの女だと思った。村中の幼子の母として慕われていた。
今でも覚えておる。
──また来るからなぁ──
自分が言った言葉なのに、その約束を未だに果たせないでいた。それが今も気掛かりで、ここまで来た。
「お雪婆……元気だろうか? 今でも村のおっかさんとして慕われているだろうか?」
格子の隙間から覗く月明かりに照らされ、心の育ての親を遠い京の地から思い慕っていた。
「おまえさん、どうしたんだい?」
隣で寝ていた嫁の朱鷺がむくりと起きて声をかけた。朱鷺は兵之助の一人娘。兵之助は幸吉を養子として向かい入れ、今では新山の若主人として身を成していた。
「なんでもねぇ。ちょっと寝れなくてなぁ。心配かけてすまねぇなぁ」
幸吉は布団をかぶって眠りにつく振りをした。
──お雪婆に今の姿見てもらいてぇなぁ──




