78話
「な、何を馬鹿な……私はまだ、つつがなく過ごしております。まだそのようなことは……それに左手の甲にそのような痣などありません」
清の言葉に動揺を隠せない秋架は左手の甲を清に見せた。しかし見せた途端、思い出した。
──左手の甲の違和感が……それがもしかして……──
「花紋様の痣は花仕舞師である私とこの根音や根子のような花護人にしか見えぬのです。誠に申し上げにくいのですが……」
「いい加減にしてください……私には何も見えない、何も感じない。それに信じた人を待つため……待つ!?」
──私は何を言っている? 何も約束などしていないのに……私は心のどこかであの方を待っているの……!?──
清の言葉に動揺したことで片隅に仕舞った想いが溢れだした。
「私は……私は……」
呼吸を乱し、声は裏返り、秋歌の高貴な立ち振舞いは一気に崩れ、そこにはただ一途に思ふ者を待つことが出来ない恐れへと変わっていく。そしてそれ以上に信じることをよしとしてきた者が、怨みの膜に包まれていく。心の奥で静かに滲んでいた怨みが、ついに姿を現し始めた。
──私は信じると言う言葉を言い訳に裏切られることを恐れていた。信じれば信じるほど、それが本当は怨みを育てていた。父、文綱もそう、この高杜村も、そして……信じた蒼真殿も……信じたのに蒼真殿は裏切りこの村を出て行った。私は……何を信じた? それともどこかで怨んでいた?──
「私は……蒼真殿を怨んでいる……」
秋架の唇から静かに言葉が滑る。
「秋架殿……! それは違います。実は私は道中、蒼真殿とお会いしました。急がれていた故、長くは言葉を交わすことが出来ませんでしたが、ただ一つ願いを秋架殿に伝えてくれと懇願されました」
清の言葉が秋架の乱れた心を包む。いや、無理やり引き戻させた。
「蒼真殿と……?」
「待っていてくれと、信じていてくれと……決して蒼真殿の真意は裏切りなどではございません。何か意図があるはずです……ですから……」
その時──
ガッガッガッ──ガタン──
立て付けの悪い戸板が乱暴に開いた。あの清たちに冷たい罵声を浴びせた鉄だ。
「秋架さま……大変だぁ……あの旗印は確か西嶺ノ国。その西嶺軍が常陰さまの屋敷に押し寄せて……それは、ただならぬ雰囲気で……」
鉄の焦りに正気に戻る秋架。
「なんですと!? 清殿申し訳けぬ。事情が事情な故、ごめんください」
秋架は鉄と庵を飛び出そうとするが、振り向く。
「清殿たちは早くお逃げください。それに……私はまだつつがなく存じております……」
そう言い残すと常陰の屋敷に走り出した。屋敷の方には黒煙が上がり、ざわめきが恐ろしいほど響いている。清は秋架を見送る他なかった。しかし──
その時、清ははっきりと見ていた。秋架の花紋様はくっきりと枯れた色に変わっていたのを……まるで冬枯れの花のように色を失っていったのを……。
そして、庵の陰から清と秋架、二人の会話を聞いていた影が二つ。
「清よ……どうする? 秋架殿の『信』、しかし、もう一つの裏の『怨』が顔を出したぞっ……」
「まっこと、どうするか見物でありんす……」
「我らもいくぞ……花化従」
「はい、承知でありんす……静さま……」




