74話
蒼真は、夜明け前に村を出ようとした。荷物を纏め、破れた絹綾きぬあやの袋をしっかりと懐に仕舞い込んだ。足音を立てずに、その正面にある玄関の扉に手をかける。年月を重ねた杉板製の引き戸。節目の浮いた板にはところどころ染みが浮かびあがり、雨に打たれた跡が斑に残っている。丁寧に塗り重ねられた黒塗りは、もはやところどころ剥げ、地の木目が覗いている。金具はかつて真鍮だったのだろうが、今はくすんで黒ずみ、触れるとわずかに冷たい。だが、それでも扉はきちんと拭かれ、敷居には小さな箒の跡が見える。
「最後となると普段目の行かぬ所まで見てしまうものだな」
蒼真はゆっくりと引戸を引いた。
「えっ!? 何ゆえ……ここに……?」
「きっと蒼真殿のこと、夜が明ける前に黙ってこの村を出ていかれると思いまして……」
待っていたのは秋架だった。
「しかし……」
「蒼真殿はわかりやすうございます……ほんに誠実なお方ね」
秋架は寂しく微笑んだ。
「明け方の風は冷とうございます。早く帰りなされ」
蒼真は帰るよう促した。
「少しだけお話がしとうございまして……」
「何を? これ以上、疑わしき余所者と刻を重ねるのは秋架殿にとってもよろしくありません。ごめん……」
蒼真は笠を目深くかぶり、村を出ようとした。
「お待ちください……蒼真さま……篠原蒼真しのはらそうまさま」
蒼真はぎょっとし、秋架に振り向いた。
「なぜ、私の真名を……」
秋架はそっと、懐から小袋を出した。
「それは……その小袋は、我のものと、いやそれは殿の『信』を許した者にしか与えられぬ鷹司家の加護の証を仕舞う絹綾の御守袋、なぜ秋架殿が……それを……」
「私の真名は鷹司秋架、私の父上は鷹司文綱たかつかさふみつな、しかしながら端女はしための子。よく日陰に生まれし姫君と、人に戯れ言にて申されておりました」
「そ、それは……私は知らない……」
初めて聞く。文綱に端女の子がいたことに驚いた。夜明け前の冷たい風が沸き上がる何かを揺るがす。
「表立つことはなく使用人として従事しておりましたから……」
「しかし、なぜここに? なぜこんな辺境に……おられるのですか?」
蒼真は村を出ていくことをしばし忘れ、秋架に問い詰めるように言葉を重ねた。ここに文綱の血を受け継ぐ者がいたことに血が滾る思いがした。
「蒼真殿もご存知の通り殿は慈悲深きお人。陰ながらでは御座いますが、私のような者まで愛情を注いでくれました。しかし、先の西嶺ノ国との戦で、殿は私のような者の身を案じ、この中立の地、高杜に身を預けたのです。それゆえ、私も蒼真殿と同じここでは余所者なのです」
だが、たとえ端女の子とて文綱の血潮がそうさせるのか。蒼真は片膝を付き秋架に頭を伏せた。
「頭をあげてくださいませ……蒼真殿。私に頭を下げる義理はございません」
秋架は着物が汚れることもいとわず、膝をつき頭を深々と下げる蒼真に寄り添った。
「私は信じております。蒼真殿……蒼真殿が無実だということを……」
信じることを疑わない慈悲深い秋架に蒼真の心は持たなかった。
「ごめんつかまつる……」
蒼真は立ち上がり、想いを振り切るように走り去った。茜色の空が、まだ灰色に眠る高杜を包む頃、彼の姿は谷の霧に紛れて、静かに消えていった。姿を見送る秋架。
──守ることは、信じてもらうこととは違う……──
その言葉が、風に乗って届いたような気がした。きっと彼は、自らを差し出すことで、この村の『信』を守ろうとしたのだ。秋架は、門の外に続く山道を見つめる。何も言えなかった。何もできなかった。
──あの人は、きっと真っすぐなまま、自分の道を行くのだろう──
秋架はなぜだか胸が温かくなり、寂しさが込み上げていた。




