8 風邪を引く前に、信じてください
切り立った岩肌を背にどうどうと飛沫が散る。水煙に紛れて滝つぼの奥に潜んでいた靄は、ビクリと震えた。手に入れたばかりの依代は脆弱で使い勝手が悪い。
――いったい『何』と比べて劣るのか、それすらも曖昧だったけれど。
靄は、水音とは次元の異なる音の連なりに耳をそばだてた。侵入者だ。朗々と唱える声は若い女のもの。詠唱が終わると、キン、と辺りの空気が張り詰める。
見上げると白銀の光がドーム状に降りてきた。この周囲だけが世界から隔絶されたのを知る。
忌々しい気配ではあるが、靄は安堵した。今の自分には、たとえ不完全でも人間としての殻がある。目障りな光は魔物だけに作用するのだ。昨日のように。
(せっかく振りまいたのに。養分を得るための魔力の緒がぜんぶ断ち切られたからな)
やれやれと溜め息をつき、靄は立ち上がった。
――ヒト型の黒い影。
この山で偶然見つけた、変わった魔力の持ち主は丸ごと吸収してもこの程度にしかならなかった。
本当は、側にもうひとつ似た命があった。『あれ』も根こそぎ吸い上げようとしたのに。
生意気なことに、依代とした男はそれを阻んだ。繋げた緒を強引に断たれ、靄は中途半端なヒト型にならざるを得なかった。とんでもなく不格好だ。これではまだ王を名乗れない。
靄は忸怩たる思いで侵入者たちの前に進み出る。水面がゆらりと動いた。
まずは、手近な位置の剣士から葬るべく手を伸ばした。
滝つぼの淵に片膝をつく若い剣士は、その剣を逆手に水面を刺していた。
◆◇◆
「サラさん!? 出た! 何か!!」
「ありがと、ディエル。媒介にした剣はそのままね。『来たれ、破魔の矢』」
口の中で短く詠唱したサラはすみやかに右足を引き、半身の構えで相手に対峙する。流れるような所作で魔法の短弓を引き、滝つぼの奥から現れたヒト型の靄を的に見立てた。
短弓は、引き絞られた弦すら真っ白な光でできている。放たれた矢は濃縮した白銀の光輝となり、まっすぐに靄へと吸い込まれた。否、突き刺さった。
「グ……、ガァアッ!!!!」
内側から破魔の力を注ぎ込まれ、靄は絶叫した。しゅうしゅうと音をたてて消えてゆく。
一瞬あと、ぎょっと目を剥いたディエルは手にした剣を岸辺に放り出し、躊躇なく水に飛び込んだ。「あ」と、サラが一音もらす間にだ。呆気にとられたサラも、ざぶざぶと水をかき分けて進むディエルの向こうを確認して、慌てて叫ぶ。
「えっ、そんなことある……!? 急いでディエル!」
「わかってるって!!」
負けじと返したディエルは、恩人への態度をかなぐり捨てて素だった。
幸い、靄が水深の深い奥ではなく、手前まで近づいていたことが奏功した。ヒト型の影が消えた場所で霧散した闇と光の欠片が混じり合い、かき合わさるように何かが凝る。
それが。
「ほぁあ! おぎゃ! っぶく、ぎゃ……」
「あああッ!? 待て、頼む、沈むなぁ!!!」
みずからも胸あたりまで水に浸かり、目の前で溺れることもできずに沈んだ赤子を捕まえる。
(……!!)
へなへなと脱力し、岸辺でへたり込んだサラは両手で口を押さえた。
無事。
無事だ。生きてる。
もちろん、そうあれと願い、矢を射ったけれど。
「サラさん。この、赤ん坊……?」
いちはやく動き、奇跡を守り通した。立役者でもある若者が戸惑いながら滝つぼから出てくる。
腕のなかには、まるで生まれたばかりのように真っ赤な顔で泣く嬰児がいた。
サラは、ハッと我に返って急いでマントの留め金を外し、自分の上着を脱いだ。それでびしょびしよの赤子を包んで受け取る。
――冷やしてはいけない。せっかく助かった命なのだから。
「公算はあったわ。おそらく、魔物を討てば何割かの『時間』は戻ってくるって」
「つまり、そいつは『エリオット』?」
「たぶん。魔物の気配はないもの。てっきり、いくらか若返ったエリオットさんが戻るとばかり思ったんだけど」
「へ……う……、ッくしょっ!」
岸に上がり、脱いだブーツを逆さにして水を出したり、革手袋を外してうへぇ、と辟易していたディエルが盛大なくしゃみをする。
サラは「まぁ大変」と、地面に落ちていた自分のマントを片手で拾い、ディエルの肩にかけた。片手には赤子をしっかり抱えて。
泣き止んだ赤子の髪はやわらかな藁色。
――――サラが経験から得た理論上、魔物の影響を完全に払拭した証だった。
◆◇◆
「ただいま戻りました、村長殿」
「ぼ、冒険者様! お聞きください。ウィルが……あの幼子が!」
最速で山を下りたサラとディエルを、村長のアズリオは食い気味に迎えた。昼前の村長宅は村人たちが集まり、ちょっとした騒ぎになっている。
アズリオの後ろには、十をいくらか過ぎた少年が佇んでいた。痩せぎすだが服は明らかにちいさく、それは今朝、幼いウィルが着ていたものと同じだった。
なるほど、熟れた小麦畑の色の髪が伸びてふわふわと面を飾っている。
サラは頷き、腕の位置を注意深くずらした。すやすやと眠る赤子の顔がわかるよう。
「おかえりなさい、ウィルさん。それに――エリオットさん」
「!!」
「エリオットですと!? まさか、そんな」
青みを増した水色の瞳をこぼさんばかりにみひらく少年と、腰を抜かしそうな老齢の村長。
隣でぶるぶると震える気の毒なディエルのためにも、サラはしっかりと告げた。
「お認めください。彼らは、この村で行方不明とされたターナー兄弟です。原因となった魔物は先ほど我々が滝つぼで討ちました。人間が生きた『時間』を奪う、稀少種だったのです」




