第9話 悲鳴は市場の奥から
市場は大通りの喧噪を煮詰めて三倍にした場所だった。
石畳の広場に天幕と露店がひしめき、通路は人と荷車で埋まっている。そしてその品揃えが王都の市とは根本から違った。
肉、野菜、穀物、布地。そこまではいい。その隣の露店に、リディアの腕ほどの太さの牙が無造作に立てかけてある。その先には鈍い虹色に光る鱗が樽ごと。毛皮の山は熊のものかと思えば、頭の側に角が三本ついている。天幕の奥では拳大の黒い石が天鵞絨の上で脈打つように光っていた。
「……あれは」
「魔物の核だ。灯りと炉の燃料になる。……触るな。素手だと、質の悪いやつは咬む」
「か、咬む!?」
石が、である。リディアは伸ばしかけた手を引っ込めた。
露店の前では頬に古い傷のある革鎧の男が店主と何やら怒鳴り合っていた。掴み合いになる、とリディアが身構えた次の瞬間、二人は値札を挟んで固く握手を交わし、笑いながら銀貨と牙の束を交換した。あれで商談成立らしい。この街では商談と喧嘩は声量では区別できない。
「冒険者だ」レオンハルトがこれも簡潔に解説した。「魔境の外縁で素材を獲る。命がけの分、実入りはいい」
その冒険者の一団がすれ違いざまレオンハルトに気づいて、拳を軽く胸に当てた。敬礼のような、挨拶のような仕草。レオンハルトは顎を引いて返した。それだけの、短いやりとりだった。けれど男たちの目にはあの粘つきも、怯えもなかった。
リディアの足は薬草の匂いの前で止まった。
乾いた薬草の束が天幕の梁から幾重にも吊るされている。壺には軟膏、瓶には煎じ薬。灰鷹館の日々で、リディアが誰より世話になった品々だった。医者を呼んでもらえない屋敷ではこの匂いだけが薬箱だった。
「おっ、嬢ちゃん、目が留まったね! うちは品揃えなら市場一だよ!」
店主は日に焼けた陽気な中年男で、揉み手をしながら束をひとつ取った。
「これなんか今朝入ったばかりの熱冷ましだ。ほら、いい匂いだろ」
リディアは束を受け取り、匂いを嗅ぎ、軸を折り、断面を見た。手が勝手に動いた。十年の習い性だった。
「……今朝入ったのは本当でしょうね。ですが摘んだのは十日以上前です。断面の芯が白い。それと、下の方に去年の株が三本、束ね込んであります。葉の裏が黒ずんでいるのがそれです。効き目は半分。値は三分の二が妥当かと」
店主の揉み手が止まった。
しまった、とリディアは思った。またやった。令嬢のくせに。娘のくせに。買いもしないのにケチをつけて――浴びてきた言葉の型が束になって降ってくる。歯を食いしばって、身構えた。
「――おい、母ちゃん! 出てこい!」
店主は天幕の奥に向かって怒鳴った。
「この嬢ちゃん、うちの束の底に古株が混ざってんのを折っただけで見抜いたぞ!」
「はあ!? あんたまた古いのを上に乗せて誤魔化したのかい、この横着者!」
「誤魔化してねえ、在庫の回転だ!」
奥から出てきたおかみに頭をはたかれながら、店主はけろりと笑って、リディアに新しい束を差し出した。
「嬢ちゃん、いい目だ。薬師の弟子か何かかい?」
「……いえ。ただの、独学です」
「独学であれが分かりゃ大したもんだ! よし、詫びだ、こっちの束は嘘なしの今週物。言い値の三分の二でいい!」
リディアは束を受け取ったまま、瞬きをした。
怒られなかった。嘲られなかった。それどころか、値切りが成立した。……おかしい。何かがおかしい。この男はリディアがどこの家の娘か、訊きもしなかった。
王都の店なら、まず家名から始まる。家名が値札で、家名が信用で、家名のない者には椅子も出ない。ここでは誰も、リディアの家名を知らない。知ろうともしない。訊かれたのは目が利くかどうか。それだけだった。
――値踏みされている。けれど、量られているのは血ではなく、腕だ。
その天幕の隣に、それはあった。
毛皮を幾重にも重ねた装束。胸元に連なる、獣の骨を削った飾り。浅黒い肌に、見たことのない文様の刺青。長身の男が天幕の下に胡座をかき、毛皮と、見慣れない薬草の束を並べて、黙って座っていた。
リディアの足が竦んだ。
絵物語で、見たことがある。王都の子供部屋の書棚にあった、魔境の挿絵。魔物の隣に、必ず描かれていた。骨の飾りの野蛮人。人を攫い、生肉を食らう、と。
「ああ、辺境の民だ」
薬草屋の店主がリディアの視線を追って、こともなげに言った。
「魔境の際に住んでる連中でね。冬前になると、毛皮と山の薬草を売りに下りてくるんだ。あの人の毛皮は縫いがいいんで、毎年取り合いだよ」
「……怖くはないのですか。王都ではその」
「野蛮人、ってかい?」店主は笑った。「そりゃ王都の言い草だ。ここじゃあね、嬢ちゃん、客の条件はひとつだけさ。約束を守るかどうか。あの人らは十年前から、雪の前に来て、言い値で売って、黙って帰る。値も質も、一度も裏切ったことがない。なら客だろ?」
約束を守る奴なら、客。
リディアは改めて天幕の主を見た。男は客あしらいもせず、呼び込みもせず、ただ静かに座っている。その所作には物乞いの卑屈さも、野盗の剣呑さもなかった。強いて言えば――誇り、に見えた。
男の手元の薬草束から、風が匂いをひとつ運んできた。
リディアは思わず一歩近づいた。知っている匂いだった。苦く、少し甘い、焚くと煙の重くなる草。王都の下町の、あの薬師の婆の店の、奥の棚の匂い。なぜ、魔境の際の草からあの狭い店の匂いがするのか。
「……この草は」
問いかけて、名を知らないことに気づいた。婆はいつも、名を言わずにただ「これ」と呼んだ。リディアは束をひとつ取り、匂いを確かめ、それから男を見上げた。
「熱冷ましではありませんね。焚いて、使うものでは」
男が初めてリディアを見た。
黒曜石のような目が値踏みでも敵意でもなく、ただ静かにリディアを測った。長い沈黙のあと、男は低く、短く言った。
「……いい鼻だ」
それきり、男は目を伏せた。会話は終わりらしかった。けれどリディアの手の中にはいつの間にか薬草の束がひとつ、押しつけるでもなく、置かれるでもなく、渡されていた。
銀貨を出そうとすると、男は首を横に振った。困惑して振り返ると、レオンハルトが店主に何事か言って、毛皮を二枚と、薬草をまとめて買い上げているところだった。
「……よろしいのですか。あんなに」
「医務室の在庫が古い」
例によって、説明はそれだけだった。それだけ言って、レオンハルトは荷を店の配達に回し、さっさと歩き出す。リディアは手の中の束を見下ろした。頭の中で、帳面が勝手に開く。薬草の束、ひとつ。借り。また、借り――
開いた帳面に、ふと、風が吹いた気がした。
量られたのは血ではなく、腕だった。褒められたのは家名ではなく、鼻だった。借りは増えた。増えたのに、いつもの、あの胃の底の冷たさが今日は薄い。
理由を考える前に、市場の奥から、悲鳴と荷崩れの音がした。




