第10話 働ける女は信用できる
悲鳴の方向へ、人垣が割れた。
見えたのは傾いだ荷車だった。車軸が折れたらしい。積み荷の樽が縄を千切って転がり落ち、緩い坂になった通路を人混みへ向かって跳ねていく。人々が左右へ散る。その割れた人波の真ん中に、たったひとつ、逃げ遅れた小さな影があった。
子供だ。四つか、五つ。尻餅をついたまま、転がってくる樽を見上げている。
考えるより先に、体が動いていた。
リディアは人垣の隙間を抜け、石畳を蹴り、子供を抱え込んで横へ転がった。頬のすぐ横を風と土埃が抜ける。樽が跳ねる重い音が背中のすぐ後ろで――止まった。
見上げると、レオンハルトが立っていた。
転がってきた樽を長靴の裏で踏んで止めていた。パン屋が粉袋でも押さえるような、なんでもない顔だった。続けて跳ねてきた二つ目は片手で受け止め、荷車の男たちへ無造作に放り返す。受け取った男たちが二人がかりでよろけた。
「――怪我人は」
低い声が市場の喧噪を割った。返事の代わりに、リディアの腕の中で子供が火のついたように泣き出し、荷車の陰から呻き声がした。
「とと! ととぉ!」
子供が指す先で、屋台の親父らしき男が崩れた樽の脇にうずくまっていた。倒れてくる荷を屋台から押し返そうとして、足を取られたらしい。駆け寄ったおかみが青くなって叫ぶ。
「あんた! 足、足が――誰か、医者!」
「拝見します」
気づけば、リディアは子供を抱いたまま男の傍らに膝をついていた。子供を母親に渡し、断ってから男の足首に触れる。指の腹で骨の線をなぞり、関節を支え、そっと角度を変えた。男が呻く。呻いたが絶叫はしなかった。
「……折れてはいません。挫いただけです。ですが挫きも侮ると長引きます。冷たい水と、清潔な布を。それから樽をひとつ、椅子の代わりに」
声は勝手に段取りを組んでいた。灰鷹館の台所で、薪割りで手首をやった下働きに、屋根から落ちた煙突掃除の少年に、何十回と組んだ段取りだった。おかみが弾かれたように水瓶へ走り、前掛けを裂いて布を作る。リディアは冷やした布を足首に巻き、上から固く縛った。
「三日は担ぎ仕事をしないこと。腫れが引かなければ、その時こそ医者に。……立てますか。立てても、歩かないでください」
「お、おう……。あんた、医者かい」
「いいえ」リディアは首を振った。「ただの、通りすがりです」
「通りすがりが樽の前に飛び込むかよ……」
男は樽の上に据えられながら、痛みと感謝の混ざった顔で笑った。その笑いが途中で凍りついた。視線の先には樽を片足で止めた領主が立っている。
「た、旦那あ!? うちの倅が――と、とんだところをお見せして」
「気にするな」レオンハルトは折れた車軸を一瞥した。「軸が古い。荷が重すぎる。……直させる。修理代は市場の互助から出せ。裁定は俺が書く」
それだけ言うと、彼は荷車の男たちの方へ行ってしまった。命じられた者たちが蜘蛛の子とは逆向きに、わっと集まって樽を転がし始める。
残されたのは片足の使えない親父と、青い顔のおかみと、泣きやまない子供と――そして、屋台だった。
リディアは見てしまった。
屋台の鍋が煮詰まりかけている。串肉が焦げる三歩手前まで来ている。そして屋台の前には昼時を告げる鐘とともに並び始めた人足や冒険者の列が成り行きを見守りながら、しかし律儀に、伸び続けている。
おかみは亭主と子供で手一杯だ。鍋の面倒を見る手がない。
「…………」
リディアは外套を脱いで畳み、袖を肘まで留めた。
「お借りします」
「え? ちょ、お客さん!?」
鍋の火から薪を一本抜き、火勢を落とす。玉杓子で底を返し、焦げつく寸前の芋を掬い上げる。串肉を一斉に裏へ返し、火から遠い列へ並べ替える。まな板の上の刻みかけの根菜を包丁の背で寄せて、刻む。とん、とん、とん、と一定の速さで、太さを揃えて。手は考えるより速かった。この手だけは十年、一度もリディアを裏切ったことがない。
「――次の方、お待たせしました。串は二本で銅貨一枚と伺いました。汁は椀をお持ちですか」
列の先頭の大男がぽかんと口を開けた。
「……お、おう。椀、ある」
「ではどうぞ。熱いのでお気をつけて」
列が動き出した。
動き出してしまえば、あとは戦場だった。厨房よりも狭く、竈よりも火の癖の強い屋台で、リディアは注ぎ、返し、刻み、受け取った銅貨を前掛けの物入れへ落としていった。おかみが途中から復帰して、二人の連係は三人目の客のあたりで完成した。
「嬢ちゃん、そっちの鍋頼んだ! あたしゃ串を焼く!」
「承知しました。……この汁、最後に香草を散らしても?」
「ある分は好きにしな!」
列の中から、誰かが感嘆の声を上げた。
「おいおい、なんだあのお嬢様。手際いいな!」
「旦那んとこの客人だとよ」
「へえ! 王都の令嬢様が屋台たあ、たまげた」
「いいねえ。働ける女は信用できるぜ!」
どっと沸いた声に、リディアの口はいつもの反射で動いた。
「……令嬢らしくない、だけです」
自嘲は鎧の芸のうちで一番古い。先に自分を刺しておけば、他人の刃は浅くなる。十八年、そうやって凌いできた。
けれど返ってきたのは頬に傷のある冒険者の、屈託のない笑い声だった。
「――ここじゃ褒め言葉だ」
「違いねえ!」
昼日中だというのに、どこかで杯が上がった。列の男たちが笑い、おかみが笑い、樽の上の親父まで笑っていた。
リディアは玉杓子を持ったまま、一瞬だけ、動けなかった。
令嬢らしくない。その言葉をリディアは値札として知っている。灰鷹館で、王都で、その札を貼られるたび、リディアの値は下がった。料理女。小間使い。侯爵家の恥。値札はいつも同じ場所に貼られ、剥がす権利はリディアにはなかった。
その同じ札がここでは逆さまに貼られている。
働ける。手際がいい。信用できる。――値札の文字は一字も変わっていないのに、この街の帳場ではそれは高い方の値になる。
「嬢ちゃん! 鍋!」
「……っ、はい!」
我に返って、リディアは火に戻った。目の奥が熱くなりかけたのは鍋の湯気のせいだ。そういうことに、しておいた。
◇
昼の波が引けた頃、屋台には妙な達成感と、樽の上の親父と、空になった鍋が残った。
「ほら、嬢ちゃん。座んな」
おかみが最後に取り分けてあった椀と、串を二本、リディアに押しつけた。慌てて銅貨を出そうとすると、逆に手の甲をはたかれた。
「働いた者は食う。ここじゃそれが決まりだ。……ほんとうに、ありがとうね。あんたがいなきゃ、うちは今日の稼ぎごと転がってたよ」
「いえ、私は――」
「もらっておけ」
いつの間にか戻ってきたレオンハルトがリディアの隣で、当然のように自分の椀を受け取っていた。領主が往来で、立ったまま屋台の汁物をすすっている。おかみも親父も、それを見慣れた図として見ている。
リディアは観念して椀を受け取った。立ったまま食事を摂るなど、母の作法書のどの頁にもない。ないが――湯気の向こうで、騒がしい市場がまた元の速さで回り始めるのを眺めながらすする汁は腹立たしいことに、美味かった。
汁を半分ほど空けたところで、往来の向こうが別の種類の騒がしさになった。
「あーっ、カイくんだ! カイくーん!」
声の方を見れば、見覚えのある黒髪が人混みをすり抜けてくるところだった。布屋の看板娘が手を振り、粉屋の姉妹が呼び止め、揚げ菓子の屋台のおかみが「ほら」と紙包みをひとつ、通りすがりの手に握らせている。カイは足を止めもせず、その全部に片手と軽口だけで応えて、こちらの屋台の前まで来た。
「よ。見回りついで。……なんだ、二人して立ち食いか。いい身分だな、レオン」
「お前の分はない」
「もらったからいい」
カイは戦利品の紙包みを掲げてみせた。もらいものの揚げ菓子を齧る横顔は悔しいが、絵になった。人垣の向こうでは娘たちがまだこちらを――正確にはカイの方を――ちらちらと見ている。当の本人だけがまるで気づいていない。リディアは胸の内の帳面に、この屋敷の若年組の市場価値について、短い注記を加えた。
「……アンタ今、俺の値段つけただろ」
「高値です。ご安心を」
「なんか安心できねえ言い方!」
「カイ。仕事に戻れ」
「へいへい。――あ、アンタ、その汁は当たりだぜ。おかわりしとけ」
言い残して、少年は雑踏に溶けた。溶けた先で、また二つ三つ、娘たちの声が上がって、沈んだ。
「ねえちゃん!」
足元に、あの子供が来ていた。泣きやんだ顔はまだ煤で汚れたままで、両手に何かを握りしめている。
「これ、やる!」
押しつけられたのは木彫りの獣だった。掌に収まるほどの、狼。彫りは素朴だが確かな手つきで、耳の先まで丁寧に仕上げてある。
「とうちゃんが彫った、黒狼様! 街の、まもりがみさま! すっげえ効くんだ!」
「……守り神」
リディアは隣の男を見た。眉間の皺が見たこともない角度で歪んでいた。街の守り神は自分が木彫りにされて流通している事実をどう受け止めていいのか分からないらしい。
「頂けません、とは――言わないことにします。ありがとう。大切にします」
しゃがんで目の高さを合わせると、子供は得意げに胸を張った。
「おれ、大きくなったら辺境騎士になるんだ! 黒狼様の騎士団!」
「こら、あんたはまず樽から逃げられるようになりな!」
おかみの声に、子供は舌を出して逃げていく。リディアは木彫りの狼をそっと外套の内側に仕舞った。財布と同じ、懐の内側に。スリへの献上品にするには惜しすぎる気がしたからだ。




