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第11話 闘技場の流儀

「寄る所がある」


 市場を出たレオンハルトは例によってそれだけ言って、東へ歩き出した。行き先の説明はない。リディアも、もう訊かなかった。この男の短い言葉に前置きと補足を期待するのは竈に雪を期待するのと同じである。


 行き先は音で分かった。


 地鳴りのような歓声だった。石を積んだ円形の建物が通りの先にうずくまっている。壁そのものが中の熱で震えているように見えた。


 ――闘技場。


 王都でその名を聞いたことはある。曰く、辺境の蛮習。曰く、血に飢えた者どもが殺し合いに銅貨を賭ける、野蛮の極み。夜会の壁際で扇の陰の淑女たちがまあ恐ろしい、と囁き合うための語彙だった。リディアは無意識に、外套の襟を握った。


「旦那! 直ってます! ちゃんと直してます!」


 入口で最初に飛んできたのはその野蛮の極みの住人の、裏返った声だった。


 見れば、大通りで道を空けたあの人相の悪い一団が桟敷席の板を張り替えている真っ最中だった。金槌を持ったまま直立し、全員で修理箇所を指差している。悪さの現場を親に見つかった子供の顔、再びである。


「……検分に来た」


「へい! 板は樫! 釘は倍! 前より頑丈です!」


 レオンハルトは張り替えられた桟敷をつぶさに睨み、板を一度踏み、頷いた。一団があからさまに胸を撫で下ろした。出入り禁止の危機は去ったらしい。


「本日の寄り道はこれですか」


「ついでだ。……見ていくものがある」


   ◇


 円形の建物の中は音の洪水だった。


 すり鉢状の観客席が砂の敷かれた円形の舞台を囲んでいる。席は七分の入りで、人足も、冒険者も、店じまいを早めたらしい商人も、子連れのおかみまでいる。そして舞台の上では――殺し合いではなく、模擬戦が行われていた。


 刃引きの剣。革の胴当て。審判が旗を持ち、隅には薬箱を抱えた医者が控えている。舞台の中央に立つのは岩のような体格の壮年の騎士。その正面に、革鎧もぶかぶかの、十五かそこらの少年が剣を構えて立っていた。


「入団試験だ」


 隣に座ったレオンハルトが言った。


「騎士団の古参に、志願者が挑む。勝つ必要はない。――どう負けるかを見る」


「……あの子供がですか」


「今年で二度目だ。去年は落ちた」


 舞台の上で、少年が打ちかかった。壮年の騎士は半歩も動かず、少年は弾かれ、砂の上を転がった。観客席から、どっと声が飛ぶ。嘲笑を予期して、リディアは身を硬くした。


「立て立て!」


「ほら、足はまだ生きてるぞ!」


「今のは腰が浮いてた! 次だ次!」


 嘲笑ではなかった。


 少年は立った。打ちかかり、また転がされ、また立った。そのたびに歓声は大きくなり、どこかで胴元らしき男が「五本立つかどうか、銅貨で受けるよ!」と声を張り上げていた。


「……賭けはしないのでは」


「騎士団は賭けん。街は勝手に賭ける」


「…………」


 領主の裁定はここでも娯楽の前には形なしらしかった。


 隣の席には毛糸の肩掛けを巻いた小柄な婆が座っていて、干した果物を齧りながら、玄人の目で舞台を睨んでいた。その視線がふと、リディアに流れた。


「見ない顔だね、嬢ちゃん。旦那の連れかい」


「……はい。その、客分として」


「ふうん。名前は」


 来た、と思った。


 名を告げれば、家名が続く。家名が出れば、あの家の噂が、母の噂が、続く。夜会で、店先で、教会の席ですら、何百回と繰り返された順路だった。リディアは背筋を伸ばし、鎧の留め金をすべて確かめてから、告げた。


「リディア・フォン・グレイヴァルド、と申します」


「知らんね!」


 婆はあっさりと言った。


「王都の家の名なんぞ、ここじゃ薪にもならないよ。――それより嬢ちゃん、あんた、昼に市場で樽から子供を拾ったろう」


「……なぜ、それを」


「うちの孫が汁売りの列にいた。手際のいい別嬪が屋台を回して、親父の足まで縛ったってさ。もう市場中の話だよ」


 婆は果物の袋をリディアに突き出した。取れ、ということらしい。リディアは呆然と、干した杏をひとつ受け取った。


 ――家名は薪にもならない。


 なのに、今日の行いは半日で街を一周している。


 舞台の上で、少年がまた転がされた。四本目。観客が数を数える。少年の膝が震えているのが桟敷からでも見えた。婆が舌打ちする。「ありゃもう足に来てる。無理だね」


 少年は立った。


 五本目が一瞬で終わり、六本目で少年は剣ごと吹き飛ばされ、砂に大の字になった。審判の旗が上がる。そこまで、だった。歓声と、拍手と、賭けの精算の怒号がすり鉢の中で渦を巻いた。


 リディアはその渦の中で、気づいてしまった。


 この場の誰も、少年の家を訊かなかった。転がされた回数だけを数えていた。干し杏の婆はリディアの家名を薪にもならないと切り捨て、樽と子供の話だけを覚えていた。市場の男たちは手際に杯を上げた。薬草屋は目を褒め、蛮族の商人は鼻を褒めた。


 そして――誰も、母を侮辱しない。


 誰も「罪の子」と呼ばない。誰も、母の噂を知らない。いや、知っていたとしても、たぶんこの街の帳場ではそれは値札にならないのだ。ここで値がつくのは血ではなく、今日、その手で何をしたか。それだけ。


 十八年、母の名はリディアの足枷だった。踏まれるたびに痛み、庇うたびに深くなる、抜けない鎖だと思っていた。その鎖がこの騒がしいすり鉢の中では――誰にも、見えていない。


 鎖ごと透明になったような、足元の覚束ない自由だった。怖い、と思った。そして、その怖さの手触りが灰鷹館で知っていたどの怖さとも違うことに、リディアは戸惑っていた。


「――行くぞ」


 レオンハルトが立ち上がっていた。向かう先は出口ではなく、舞台の脇だった。砂を吐きながら身を起こした少年が支えられて退場してくるところだった。少年はレオンハルトに気づくなり、跳ねるように直立した。


「か、閣下……!」


「何本立った」


「……ろ、六本、です」


「去年は三本だったな」


 少年の目が見開かれた。


 覚えている。去年落ちた志願者の、転がされた回数を。この男は覚えている。


「足りん。だが倍だ」レオンハルトはそれだけ言った。「鍛えて、来い」


 少年の顔がぐしゃりと崩れた。泣くのを堪えて崩れる顔のまま、少年は胸に拳を当て、声にならない返事をした。


 出口へ向かう広い背を追いながら、リディアはミレイユの言葉を思い出していた。


 ――あの人、書類は溜めるくせに、人を待つのだけは異様に上手いから。


 なるほど、とリディアは思った。あれは屋敷の中だけの話ではなかったのだ。この男は街ひとつ分の人間をああやって待っている。


   ◇


 帰り道は夕暮れだった。


 冬の早い日はもう市壁の向こうへ沈みかけ、通りには一つ、また一つと灯が入り始めていた。店じまいの声。荷車を引き上げる音。酒場の扉が開くたびに漏れる、湯気と笑い声。昼間とは別の騒がしさが別の色の灯りの下で、また始まろうとしていた。


 坂道を二人は黙って上った。歩幅は最初から半分に合わせられていた。


「――街はどうだった」


 声は唐突に降ってきた。


 リディアは危うく石畳につまずきかけた。質問だった。この男が疑問形を使った。半月分の会話を記憶から浚っても、この人の語尾に「か」がついた例は数えるほどしかない。それはたぶん、この男なりの、精一杯の椅子の引き方なのだった。


 だからこそ、リディアの鎧はいつも通りに応じてしまった。


「怖い街です」


 口が勝手に動いた。


「乱暴で、騒がしくて、品もありません。値切りは喧嘩と区別がつきませんし、領主の威光は闘技場の出入り証より軽く、婆は干し杏を突き出して寄越しますし、令嬢に往来で立ち食いをさせます」


「…………そうか」


 半歩前の背中がほんのわずかに、鈍った気がした。


 肩が落ちた、というほどではない。ただ、次の言葉を探して見つからなかった者の、あの沈黙の背中だった。リディアは頭の中で、自分の言葉を聞き返し――ああ、またやった、と思った。


 鎧は正しく作動した。正しく作動して、また、差し出されたものを弾いた。


「……ですが」


 リディアは言った。言うのに、坂道三歩分の勇気が要った。


「また、来たいと思います」


 背中が止まった。


 レオンハルトは振り返り、夕闇の中でリディアを見下ろした。眉間の皺は通常営業のままだった。ただその奥の目が確かめるように、リディアの顔の上を一度往復した。


「……好きに来い」


 それから彼は前へ向き直り、思い出したように付け加えた。


「雪が解けたら、東の通りに春の市が立つ。……今日より、騒がしい」


 説明は例によってそれだけだった。それが「また連れて来る」という意味であることを解読するのに、リディアは坂道五歩分を要した。解読を終えた顔を見られないで済んだのは日が暮れかけていたおかげである。


 市壁の門をくぐる手前で、リディアは一度だけ、振り返った。


 眼下に、街が広がっていた。


 灯りが点々と増えていく。酒場の窓の橙。鍛冶場の残り火の赤。闘技場のかがり火。どの灯りの下にも、あの騒がしい人間たちがいて、値切り、笑い、怒鳴り、杯を上げ、樽から子供を引っ張り上げて、今日という日を閉めようとしている。


 冷たい北の風が坂を吹き上がってきた。


 リディアは息を吸った。


 深く、吸えた。


 それで初めて、気づいた。自分がずっと、息を浅く吸って生きてきたことに。灰鷹館の廊下で、王都の夜会で、誰かの足音を数えながら、胸の半分までしか空気を入れない呼吸を十八年、続けてきたことに。


 ――この街は怖い。


 乱暴で、騒がしくて、品もない。


 でも、息ができる。


「どうした」


 先を行く声に、リディアは「いいえ」と答えて、坂を上った。外套の内側で、木彫りの狼が胸に軽く触れていた。


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