第12話 出せない手紙と、拾いもの
屋敷の玄関では伏兵が待ち構えていた。
「おっかえりなさーいませ! で、どうでした!?」
「ミレイユ。まず外套をお預かりするのが先です」
「お帰りなさいませぇ。……あ。リディア様、いいお顔で帰ってらした」
「ノエル、それも外套の後です」
クラリスに叱られながら、三人がかりで外套と手袋を剥がれ、暖炉の前へ連行される。廊下の奥からカイがひょいと顔を出し、リディアの顔を一瞥して、にっと笑った。
「な。野暮だったろ?」
「……何の話か、分かりかねます」
「はいはい」
◇
夕食の席はいつも通り騒がしかった。市場の樽の一件はなぜかもう屋敷中に知れ渡っており(セバスティアンの情報網は市場の婆に匹敵するらしい)、ミレイユが「屋台を回した」の一部始終を再現しろとせがみ、クラリスが「挫きの処置の手順」を帳面付きで質問し、ノエルが「旦那様、樽を足でお止めになったんですって?」と主座に流し目を送り、主座は「……止めただけだ」と眉間の皺を深くした。
◇
その夜、リディアは文机に向かった。
便箋。インク壺。そして、相変わらず空の文箱。出せない手紙の下書きはもう何枚目になるか分からない。
――エミリア。姉さんは今日、街に出ました。
怖い街です。乱暴で、騒がしくて、品もありません。値切りと喧嘩の区別がつかなくて、干し杏の婆がいて、樽が転がってきて、屋台の汁は塩が強いのです。あなたが歩いたら、きっと三歩ごとに目を回すでしょう。
でもね、エミリア。
この街では誰も母様の話をしません。誰も、私たちの家の名を知りません。家の名前は薪にもならないのだと、婆が言いました。ここで数えられるのは今日、その手で何をしたかだけ。おかしな街でしょう。姉さんは今日、樽から子供をひとつ拾って、串を四十本焼きました。それだけで、知らない人たちが杯を上げてくれるのです。
いつか、あなたにも。
ペンがそこで止まった。いつもの場所だった。ここから先はいつも書けなかった。
リディアは息を深く吸った。坂の上の、あの呼吸を思い出しながら。
――いつか、あなたにも、この街を見せてあげたい。
書けた。
初めて、その一文が最後まで書けた。リディアはペンを置き、乾くのを待って、便箋を文箱の上にそっと重ねた。出せない手紙がまた一枚増えただけだ。それでも、昨日までの一枚とは終わり方が違った。
枕元には母の作法書がある。表紙の擦り切れた、リディアの唯一の師。その隣に、リディアは外套から取り出した木彫りの狼を並べて置いた。
王都の母の形見と、辺境の守り神が枕元で隣り合った。
妙な取り合わせだと、自分でも思う。けれど不思議と、収まりは悪くなかった。
灯りを消して、上掛け三枚の下に潜り込む。屋敷はもう静かで、遠くで夜番の靴音だけがする。眠りに落ちる間際、リディアは口の中で、誰にともなく言った。
「……悪くない街、でした」
鎧の外に出た小さな声は暗い部屋の、誰も値踏みをしない空気の中に、ゆっくりと溶けて消えた。
◆断章 拾いもの
七年前の冬、カイは裏路地で、変な子供を見つけた。
三日、同じ場所にいた。酒場街の裏路地に子供が座り込んでいるのは珍しくもない。泣いている子なら、なお珍しくない。泣いている子は放っておけた。ああいうのは大抵、夕方には親だの姉だのが迎えに来るか、泣き疲れて自分で帰る。
その子供は泣いていなかった。
薄汚れた包みを一つ抱えて、膝を揃えて座って、平気な顔をしていた。三日目も、平気な顔だった。それが目についた。カイは平気な顔というものを信用していなかった。母ちゃんがそういう顔で死んだからだ。平気だよ、平気平気、と笑って、働いて、働いて、ある朝、平気な顔のまま、起きてこなかった。その三月後の路地である。
だから、気づいたら、目の前に立っていた。
「飯、食う?」
我ながら、他に言い方があっただろうと思う。だが子供はこくり、と頷いた。頷いてから、思い出したように「……平気、ですけど」と言った。平気なやつが三日も路地にいるかよ、とは言わなかった。訊かないのがこっちの流儀だった。何があったかなんて、腹の足しにならない。
それがノエルだった。
◇
あいつはすぐに役に立った。
妙な目を持っていた。人の嘘が見えるのだ。義賊団の縄張りにはいろんな大人が出入りする。恵んでくれる大人、使おうとする大人、もっと悪いことを考えている大人。ノエルはそれを入り口で嗅ぎ分けた。「あの人、笑ってるだけですよぉ」と言われて追い返した男が後で隣の区画の子供を攫おうとして騎士団に挙げられたのが二度。三度目からは誰もあいつの目を疑わなくなった。
納屋の見張りに、灯りを絶やさない決まりを作ったのも、その頃だ。
誰が言い出したのでもない。ただ、あいつが灯りのそばでしか眠らないのをみんな、なんとなく知っていた。だから見張りの火は消さない。理由は訊かない。訊かないのが流儀だから――というのは半分で、残りの半分はたぶん、全員に一つずつ、そういう「訊かれたくない決まり」があったからだ。孤児の群れというのはそういう決まりの束でできている。
よく笑う子だった。よく毒を吐く子だった。カイが無茶をするたび、のんびりした声で急所だけ刺してくる。生意気だと思っていた。今も思っている。
――で。
五年前、俺は喧嘩に負けた。
仲間の一人が質の悪い取り立て屋を殴って、騎士団に突き出されかけた。頭に血が上って、割って入って、出てきた黒ずくめの若いのに掴みかかって、次の瞬間、空が見えた。人生で初めて見る負け方だった。悔しくて三度挑んで、三度、空を見た。四度目に行ったら、飯が出た。腹が減ってると、人の話は余計に信じられんものだ、とかなんとか言われて、食い終わったら「屋敷に来い。人手が足りん」ときた。
仲間も一緒じゃなきゃ行かねえ、と、駄々をこねた。
こねた、と思っていたのは俺だけで、今思えば、あれも拾われ方の一つだった。あの男は最初から、俺一人を拾う気なんかなかったのだ。ノエルたち行き場のない組はまとめて屋敷へ。腕の立つ組は騎士団の口利きで詰所へ。……親父の話を聞かされたのはその後だ。その話は今日は仕舞っておく。あれは一晩の分量じゃない。
とにかく、七年だ。
七年、あいつは俺の隣で毒を吐いてきた。俺はその間に背が伸びて、剣を覚えて、屋根の上を走るようになった。あいつは相変わらず、のんびり笑って、洗濯物を干して、俺を三日にいっぺん、言い負かす。それでいいと思っていた。それが屋敷の日常の音というやつで、日常の音に、いちいち耳を澄ます馬鹿はいない。




