第13話 黒狼、出撃
その音を聞いたとき、リディアはいつものように夜明け前の暗がりで目を覚ましたところだった。
馬蹄だった。
一頭。全速。石畳を割るような蹄の音が坂を駆け上がり、屋敷の門前で止まった。誰何の声。短いやりとり。門の閂が外れる重い音。――この半月あまり、夜明け前の屋敷の音ならすべて覚えた。井戸の滑車、朝駆けの掛け声、庭師の鼻歌。今の音はそのどれでもなかった。
廊下を足音が走った。
走ってはいけない、と教えられるのが使用人だ。その足音が走っていた。しかも乱れていない。まっすぐに主翼の階段を上がり、主人の部屋の方角へ向かい、扉を叩く音が三度。低い応答。それきり、屋敷は一瞬だけ、底の方まで静まり返った。
次の瞬間、屋敷全体が目を覚ました。
リディアは部屋着の上に肩掛けを羽織り、廊下へ出た。出て、立ち尽くした。
屋敷が別の生き物になっていた。
廊下という廊下に灯が入り、人が行き交っている。だが騒がしくない。あの賑やかな屋敷の音がひとつもしない。ミレイユが両腕に革帯の束を抱えて走り抜け、すれ違うノエルに「医務箱、東の三番!」とだけ言い、ノエルが「はぁい」と返す。その「はぁい」の声色だけがいつも通りで、足の速さは倍だった。階下の広間ではクラリスが帳面も見ずに指示を飛ばしていた。「糧食は三日分を騎馬用に。水袋は倍。松明は要りません、月齢を確認なさい」
誰も、慌てていなかった。
誰も、説明もしていなかった。全員が自分の持ち場と手順を体で覚えていた。これは訓練された動きだ、とリディアは理解した。理解して、背筋が冷えた。この屋敷はこの動きを何度もやったことがあるのだ。
「――リディア様。お目覚めでしたか」
背後から、セバスティアンの声がした。老執事は普段と寸分違わぬ姿勢で、しかし袖には既に留め具が嵌まっていた。
「何があったのですか」
「魔境の外縁に、魔物の群れが出ました。急使によれば、群れの動きに異常があるとのこと。旦那様が騎士団を率いて出られます」
「……異常、とは」
「本来、深部から出ぬはずのものが外に出ている。――それ以上は私にも」
セバスティアンは短く答え、一礼して、広間の指揮へ戻っていった。その背中にも、無駄がなかった。
リディアは廊下の壁際に立っていた。
行き交う人の流れの、どこにも自分の持ち場がなかった。手伝います、と二度言いかけて、二度呑み込んだ。この精密な機構の中で、手順を知らない人間が動くことが何を意味するかは厨房で覚えた。邪魔にだけはなりたくなかった。
それでも足は勝手に厨房へ向かった。
厨房はいつもの戦場の三倍の速さで回っていた。竈の火は全開で、料理長が固パンと干し肉を革袋に詰めさせ、下働きの少年が水袋を数えている。リディアは戸口で袖を留めた。
「――何をすれば」
「嬢ちゃんか! 湯だ! 革袋を煮沸する、鍋の番を頼む!」
持ち場は三秒でもらえた。
湯を沸かし、袋を煮て、干した薬草を束ね直す。手を動かしている間だけは胸の奥のざわつきが湯気に紛れてくれた。騎馬用の糧食三日分。三日。三日で済む規模の話なのか、それすらリディアには分からないのだった。
◇
夜が明けきる頃、中庭に騎士団が集結した。
リディアは糧食の袋を届ける列に混ざって、初めてそれを見た。黒い胸甲を並べた騎馬の列。槍と弩と、盾の列。街で見た顔もある。闘技場で少年を転がしていた、あの岩のような壮年の騎士が隊列の先頭で馬を宥めていた。誰も軽口を叩いていなかった。フォートセバーンの人間が誰も、軽口を叩いていなかった。
糧食の袋を荷駄係に渡したとき、風向きの加減で、年かさの騎士二人の低い声が届いた。
「……群れが割れて、外縁に出たそうだ。深場の骨鎧まで混ざってたと」
「骨鎧が? 冬前に群れを割って出るなんぞ――おい、俺は好かんぞ。十五年前のアレの、少し前にも、こんなことがあった」
「よせ。縁起でもない」
「だから言うんだ。あの時も、みんなが縁起でもないと言って――」
「――整列!」
号令が声を断ち切った。
リディアの胸の中に、その断ち切られた言葉の先だけが棘のように残った。十五年前。その数字をリディアはどこかで知っている気がした。思い出す前に、中庭の空気が変わった。
主玄関から、レオンハルトが出てきた。
リディアは一瞬、それが誰か分からなかった。
黒い甲冑だった。飾りのない、傷の入った、実用だけの黒。歩き方がいつもと違った。屋敷の廊下を歩くあの大股ではなく、重心の見えない、静かな運びだった。眉間の皺は同じ場所にあったがその奥の目が違った。食卓で「美味い」と言った目でも、坂道で歩幅を半分にした目でもなかった。温度のない、測る目だった。ああ、とリディアは思った。王都の噂はこの目を見た人間が持ち帰ったのだ。
腰には二本の剣があった。
使い込まれた実戦の剣と、あの黒鞘。黒鞘は今日も、装飾のように静かに、そこにあった。
「閣下!」
騎士団が一斉に胸甲を打った。カイが馬を引いてくる。軽装に双短剣、いつもの軽い足取り――に見えて、目だけが騎士たちと同じ温度になっていた。初めての夕食の席で一瞬だけ見えた、あの目が今日は出しっぱなしになっていた。
レオンハルトは馬上で短く指示を出した。行軍の順、斥候の割り、合流の刻限。リディアには半分も分からない言葉が無駄なく並んだ。それが終わると、彼は馬首を巡らせ――ふと、糧食の列の端にいるリディアを見つけた。
視線が合った。
レオンハルトは何か言いかけ、例によって言葉の渋滞を起こした。甲冑の男が馬上で言い淀む姿はひどく不釣り合いで、その不釣り合いの分だけ、いつもの彼だった。結局、出てきたのは短いひと言だった。
「……行ってくる」
リディアは口を開いた。
言うべき言葉なら、作法書にいくらでもあった。武運長久をお祈りいたします。ご武運を。お帰りをお待ち申し上げております。どれも型で、どれも嘘ではなく、そしてどれも、胸の中で騒ぐものとは別の場所から出てくる言葉だった。
「……お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
出てきたのは結局、一番硬い型だった。
レオンハルトは頷いた。頷いて、馬首を返した。カイがすれ違いざま、リディアに向かって片手を挙げた。
「アンタ、留守番な。……ま、三日で戻る。飯でも作って待ってろって」
「……作って、おきます。芋の煮込みを」
「お、いいね。約束な」
軽く言って、カイは馬腹を蹴った。
門が開き、騎馬の列が坂を下っていく。蹄の音が遠ざかり、やがて市壁の門の方角で一度膨らんで、消えた。門が閉まる。閂が落ちる。
屋敷に、音が戻ってきた。
メイドたちの声。片付けの音。日常の音量に、少しずつ戻っていく。けれどリディアは知っていた。戻ったのは音量だけだ。ミレイユの軽口は数が半分になっていたし、クラリスの指示はいつもより一語ずつ長かったし、ノエルの「はぁい」は語尾がのんびりしすぎていた。
自分の部屋に戻り、リディアは窓辺の椅子に座った。南向きの窓から、街道が魔境の方角へ延びているのが見えた。黒い騎馬の列はもう豆粒ほどになっていた。
――大丈夫。
リディアは頭の中の帳簿を開いて、事実だけを並べた。
あの人は王国最強の辺境伯で、率いているのは王国最強の騎士団で、魔物との実戦経験は王都の騎士団とは比べものにならず、三日分の糧食は私が煮沸した革袋に入っている。だから、大丈夫。心配する理由がない。
そもそも、と帳簿の余白に、リディアは付け加えた。
――私が心配する立場ではないのだし。
婚約者とは名ばかりの、家の都合で送られてきた客分だ。あの人の無事を願う権利なら屋敷の全員が持っていて、リディアの分はその末席にあるかないかだろう。心配というのはもっと、こう、長く一緒にいた者がするものだ。序列というものがある。帳簿には貸し借りの列はあっても、祈りの列はない。
ないはず、だった。
なのに、その日一日、リディアの目は仕事の合間のふとした拍子に、勝手に南の窓へ戻った。街道は白く乾いて、豆粒はもう、どこにもいなかった。




