第14話 三日目の朝
待つ、ということをこの屋敷の人間はそれぞれのやり方でやった。
クラリスは仕事を増やした。
二日目の朝には医務室の棚卸しが三度目に入っていた。包帯の巻き直し、軟膏の壺の詰め替え、煮沸済みの布の数えなおし。リディアが手伝いを申し出ると、断られなかった。並んで布を数えながら、クラリスは一度だけ、手順にない言葉を口にした。
「……先々代の頃から、出撃は何十度もあったそうです。旦那様が戻られなかったことは一度もありません」
「そうですか」
「はい。一度も」
それはリディアに言ったというより、数を数える自分の声に紛れ込ませた言葉のようだった。三度目の棚卸しが何のためかをそれで察した。手を動かしている間だけ、この人も、胸のざわつきが湯気に紛れてくれるのだ。
ミレイユの軽口は半分のままだった。
半分になった分を取り返すように、洗濯場で毛布を叩く音がいつもより高く鳴った。ぱん、ぱん、と冬の空気を割る音を聞きながら、リディアは隣で敷布を干した。
「……リディア様さあ」
「なんですか」
「いや。なんでもないです」
なんでもない、を三度繰り返したあと、四度目にミレイユは言った。
「カイのやつ、ああ見えて、斥候なんですよ。一番先に危ないとこ覗きに行く役。……で、旦那様は一番危ないとこしか行かない人で」
「…………」
「あー、やだやだ。あたし、こういう時に限って口が回んないんですよね。変なの」
ぱん、と一際高く毛布が鳴った。リディアは何も言わず、敷布の皺を伸ばした。皺は伸ばしても伸ばしても、あるような気がした。
ノエルは普段通りだった。
普段通りに配膳をし、普段通りに編み物をし、普段通りの速さで廊下を歩いた。それがかえって、リディアには一番堪えた。二日目の夜、湯を運んできたノエルに、リディアはつい訊いてしまった。
「……あなたは平気そうですね」
「はい。平気なふりは得意ですから」
ノエルはにこにこと、いつもの顔で言った。
「リディア様も、なさってるでしょう? 今」
返す言葉がなかった。杯の中の蜂蜜入りの山羊乳が湯気を立てるだけ立てて、冷めていった。
◇
眠れなかった夜の明け方、リディアは肩掛けを羽織って中庭に出た。
霜の降りた庭で、先客が土を掘っていた。無精髭に、日焼けした顔。腰に提げた酒瓶。庭師のガスパルだった。顔と名前は知っていた。夜明けの鼻歌の主であり、屋敷の中で唯一、まだまともに言葉を交わしたことのない住人だった。
「おう、嬢ちゃん。早いな」
向こうは当然のように話しかけてきた。
「……何をなさっているのですか。こんな時間に」
「球根を埋めてる。春に咲くやつだ。冬の間に土の下で支度をさせとくと、雪解けと一緒に、一斉に出てくる」
ガスパルは手を止めず、続けた。
「嬢ちゃんは? 眠れんのか」
「……いいえ。いつも、この時間に起きるのです」
「そうかい。南の窓ばっかり見てる割には元気そうだ」
リディアは肩掛けの下で身を硬くした。見られていた。誰に? いつ? この庭師と目が合った記憶すら、ほとんどないのに。
「……別に、心配などしていません」
口がいつもの反射で動いた。
「あの方は王国最強で、騎士団も王国最強です。心配する理由がありません。それに、そもそも私は――心配する立場ではありませんから」
「立場ぁ?」
ガスパルは掘った穴に球根をひとつ落として、笑った。
「そりゃまた、豪儀な帳簿をつけてんな。心配に立場もへったくれもあるかよ。犬だってするぜ、心配ってのは。飼い主が戻らなきゃ、門の前で腹減らして待ってる。あれに資格が要ると思うか?」
「……私は犬では」
「例えが悪かったな。じゃあ、こうだ」
庭師は土を被せ、手の甲で叩いて均しながら、こともなげに言った。
「花に水をやるのに、花の許可は要らんだろう。心配ってのも同じでな。相手の許しも、立場も要らねえ。勝手にやるもんだ。……勝手にやっていいもんだ、ってこった」
リディアは霜の庭に立ったまま、動けなかった。
勝手にやっていい。その言い方はずるい、と思った。それなら帳簿につけなくていい。貸しにも借りにもならず、序列も要らず、末席かどうかを数えなくていい。そんな列が帳簿の外にあるなど、リディアは十八年、誰にも教わらなかった。
「……あなたは」ようやく出た声は少し掠れた。「いつも、そういうことを言うのですか」
「いんや。大体は酒の話と花の話だ。今のも聞き流していいぞ。なにせ俺は三回振られてる男だからな。信用すんな」
ガスパルはよっこらせ、と立ち上がり、腰の酒瓶を軽く振ってみせた。中身は朝の光の中で、たぷんと軽い音を立てた。
「ま、あれだ。旦那は戻るよ」
「……なぜ、言い切れるのです」
「あの人はな、嬢ちゃん。死なねえ理由が増えるたびに、強くなるタチなんだ。で――」
庭師は残りわずかになった穴の列を顎で示した。球根の埋まった、春を待つ土の列を。
「最近、また一個、増えたろ」
それだけ言って、ガスパルは道具を担ぎ、鼻歌まじりに庭の奥へ行ってしまった。いつもの、あの節だった。リディアは霜の上に立ち尽くして、頬が熱いのは朝の冷気のせいだと、誰にともなく言い訳をした。
◇
三日目の朝、リディアは厨房で芋の皮を剥いていた。
約束の煮込みである。カイが「三日で戻る」と言った、その三日目だった。約束は守られるものだ、この街では。約束を守る者が客で、約束を守る者が信用される。だから鍋を仕込む。これは祈りではなく、段取りだ。リディアはそう整理して、芋を剥き、豆を戻し、塩漬け肉の塩を抜いた。
「嬢ちゃん、量が多くねえか」
「騎士団の方々の分も、あるかと思いまして」
「そうかい」料理長はにやりともせず、大鍋をもうひとつ、竈に上げた。「なら、こっちでも同じのを炊こう。腹減らして帰ってくるからな、あいつらは」
昼を過ぎ、日が傾き始めた。
煮込みはいつでも火を入れられるところまで仕込んで、止めてある。リディアは南の窓のある廊下を用もなく三度往復した。四度目の往復の途中で、窓の外の街道に、白いものが動いた。
土煙だった。
一頭。全速。三日前の夜明けと同じ、坂を駆け上がってくる早馬。リディアの足は階段を降りきる前に、玄関広間のざわめきに追いつかれた。先触れの騎士が鐙も外さぬまま叫んでいた。
「――本隊、戻られます! 半刻後! 怪我人多数――」
騎士は一度息を継ぎ、広間を見回して、声を落とさずに続けた。
「医務の支度を! ――閣下も、負傷されています!」




